ベイビーガール

 2024年公開。監督のハリナ・ラインはオランダ人で、女優として『ブラックブック』(2006)にロニーという役で出演している。役名だけでは思い出せなかったが、ちょっとググったら思い出した。ドイツ将校の愛人で、戦後はその前歴をきっちり隠して幸せな後半生を送る強かな女、というある意味象徴的な役どころだ。
 そのハリナ・ラインが監督業に転じて3作目。ニコール・キッドマン演じる大企業のCEOという地位と幸せな家庭(および生まれながらの美貌)を手にする女性ロミーが、新卒インターンのサミュエル(ハリス・ディッキンソン)によって、押し隠してきたマゾヒズムを暴かれる……

 男以上に「弱さ」を見せることが許されない「男以上に成功したキャリアウーマン」の秘めたる欲望、がテーマと来て、「エロティック・スリラー」に分類(米国でも日本でも)されてると来ると、なんかすっごいドロドロしたやつを予想してしまう。主人公が最後に破滅するオム・ファタルものだな。
 が、本作はそういう話ではない。オム(ファム)・ファタルに入れ込んだ主人公のよくある末路は、「道を踏み外したことによる天罰」と見ることができる。観客が破滅願望を持ってるなら、それを満たすファンタジーにもなり得るけど。
 以下、一応ネタバレ注意。

 本作のヒロインは、かなり危ういところまで足を踏み入れるが、ギリギリで持ち直す。インタビューによると監督は、明確に女性向けの性的ファンタジーとして作っているそうで、確かにヒロインに随分と都合がいい展開だ。
 しかし、「支配的な地位にある女性の被支配願望」というテーマは非常に興味深いものだし、その描き方も巧い。「男女を問わず支配的地位にある人物の弱さ」は、特に米国では許されざるものらしい。その観点からすると、被支配願望は「弱さ」以外の何ものでもない。
 これが男性なら、相手が誰であろうと「支配される関係」になっても、あくまで「そういうプレイ」になるだけであり、世間に知られたらスキャンダルにはなるが、再起不能の打撃にはなるまい。本気で支配されたい、相手に屈服したい、と願っているわけではない、と弁明すれば、受け入れてもらえるだろう。
 しかし女性の場合、世間からは「本気で支配されたい、相手に屈服したい、と願っている」と思われる可能性が高い。相手が男性なら膂力の差から「本当に屈服している」ことになってしまうし、相手が女性でも見た目からしてよほど弱々しくない限り、「本当に屈服している」と思われてしまうだろう。何より、「女には被支配願望がある」と思いたがっている男が多い。

 という面から評価すると、本作は85~90点くらいですかね。マイナス分は主に、性的ファンタジーにしても、サミュエルのキャラクターがあまりにも都合がよすぎて鼻白んでまうから、です。男性による男性向け性的ファンタジーの都合のいい女にも鼻白むことはあるけど、本作の場合、それに加えて気まずさまであるのは、同性だからなんかな。5点の振れ幅は、思い返した時の気分で許容度が振れるからです。
 ニコール・キッドマンの演技は素晴らしいし、「完璧な女性」として申し分ない美しさではあるけれど、サミュエルの若さには気後れしてしまうという容姿の説得力も強い。ロミーの夫で舞台演出家のジェイコブ役はアントニオ・バンデラスも、こんなに演技力高かったんだな、とちょっと失礼な感心の仕方をしてしまった。しかし昔は「セックスシンボル」だったバンデラスが、「おとなしすぎるセックス」で妻に不満を持たれる役を演じるようになるとは。
 ロミーの長女役エスター・マクレガーはユアン・マクレガーの娘だそうで、そうと知ってから見てみると、確かに似てるな。
 サミュエルもキャラクター造形はともかく、ディッキンソンの演技は悪くない。前半のキッドマンとの駆け引きは見応えがありました。

 しかし85~90点という評価は、ある要素を除いたものでして。習慣的に映画を観るようになって30余年、本作で初めて気づいたのですが、私は「ラブソングの流れる濡れ場」がものすごく苦手だ……! いや、英語を含め外国語の歌詞を聞き取れるほどのヒアリング力はないので、正確には「ラブソング調のヴォーカル曲」ですけど。濡れ場にそういう曲が流れると……その……バカみてえだな、としか思えなくて……
 ラブソングというジャンル自体は、別に嫌いではないです。例えばビートルズだったら、ラブソングに分類される曲とそうでない曲だったら、前者のほうが好きな曲が多いくらいで。しかしたとえ好きなラブソングでも濡れ場のBGMにされると、クソダサく聴こえてしまう……

 いや50年以上生きてきて、恋愛要素のある映画が苦手な理由が、他人(実在でも架空でも)の色恋沙汰に興味がない、というほかにもあることに初めて気づきました。特に洋画だと、恋愛要素があると濡れ場もある確率が高く、そのBGMがラブソングだとどうしても「バカみてえだな」思ってしまうからだったとは……! ラブソング以外ならまだ耐えられるんですけどねー。
『チーム★アメリカ/ワールドポリス』(2004)の「『パールハーバー』はクソだ」がこんなに好きなのは、そういう理由からだったのか……
 本作の「そういうシーン」は二回だけでしたが、どちらもかなり長くて本当に苦痛でした。アマプラで観てたけど、途中何度飛ばそうと思ったか。この苦痛に加えてエンドロールの曲(これもラブソング調)のダサさも加えると、本作の評価は65~70点になります。

 前述のとおりテーマやその表現は85~90点、サミュエルというキャラクター造形の許容度によってはさらに高評価になり得るので、「濡れ場で流れるラブソング」が平気な人にはお勧めです。

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アルゼンチンの〝民衆聖人〟サン・ウェシート

 アルゼンチンの作家M・エンリケスの『秘儀』(宮崎真紀・訳 新潮社)を読んだ。ジャンルとしてはホラーとかダーク・ファンタジーになるんかな。
 訳者解説にもあるようにスティーヴン・キングからの多大な影響が感じられるが、キングが「恐怖」を歴史的な因縁と絡めることが少ない(不得手というより、そもそも歴史にあまり関心がないように思われる)のに対し、本作はアルゼンチンの先住民の文化・信仰とヨーロッパからの移民が持ち込んだ文化・信仰の融合に、軍事政権による独裁と民政移管という現代史を絡めた、重厚な
(上下二分冊)「闇の歴史」の物語であり、少なくとも「歴史の扱い」に関しては、こっちのほうが好み。

 で、作品そのものの話からは外れるが、本作でしばしば言及されるのが、アルゼンチンの民衆(フォーク)カトリシズムだ。本当に「言及」程度で、頻度の割に説明はほとんどなく、物語のバックグラウンドというか彩り程度の役割である。まあアルゼンチンで現在に至るまで実際に信仰し続けられているものであり、軽々しくネタにはできないのだろうが、それでも充分に興味深いものだった。
 中南米の民衆カトリシズムについては、『グアルディア』(2004)の時にだいぶ、『ラ・イストリア』(2007)と『伊藤計劃トリビュート』(2015)所収の「にんげんのくに」の時にもそこそこ調べたんだが、いわゆる民衆聖人(folk saint)、つまり教皇庁で列聖されていない聖人については、日本語文献をほとんど見つけられなかった(中南米に限らず、調べたいことに対して日本語文献があまりにも少ないため、嫌々ながら苦手な英文にも手を出すのは、もっと後になってからである)。

『秘儀』では、幾人かの民衆聖人の名も挙げられる。上述のとおり、ほとんど説明はないが。一番回数が多いのがサン・ラ・ムエルテ(San La Muerte)で、sanは英語のSaint、la muerteはthe death。Wiki英語版に記事がある。https://en.wikipedia.org/wiki/San_La_Muerte
 アルゼンチン北東部のコリエンテス州(『秘儀』の主な舞台)からブラジル、パラグアイに至る広い地域で信仰されており、大鎌を持った骸骨の姿で表される。聖人と言っても、特定の「人」(実在にせよ伝説上にせよ)が崇敬を受けるようになったのではなく起源不明で、上記Wikiによれば18世紀後半にはすでに先住民の間で信仰が広まっていたという。聖人というのはたいがい御利益の「守備範囲」が決まっているが、そういうものもなさそうで、幅広く願いを叶えてくれるようだ。

 上巻p.112では、2名の民衆聖人が言及されている。上巻の主人公フアンは1981年、6歳の息子とコリエンテス州を車で移動中、小さな祠を見かける。祀られているのは聖ガウチートかと思うが、すぐに違うと気づく。
 聖ガウチートは、まず間違いなくSan Gauchito Gilのことだろう。こちらも英語Wikiに記事がある。https://en.wikipedia.org/wiki/Gauchito_Gil
 19世紀後半、奇跡を起こしたというコリエンテス出身の伝説的な(つまり実在が確認されていない)ガウチョ、Antonio Mamerto Gil Núñez(アントニオ・マメルト・ヒル・ヌニェス)がガウチョの守護者とされたもので(「ガウチート」は「ガウチョ」の愛称形)、どんな奇跡を起こしたのかは諸説ある。「
守備範囲」が狭そうな割には、ボリビア、チリ、パラグアイ、ウルグアイ、さらにはスペインにまで信仰が広まっているそうな。

 まあ聖ガウチートはこのp.112で名前を挙げられているだけだ。フアンがこの聖人と見間違えたのは、聖グエシートである。フアンは幼い息子に説明する。グエシートは10歳くらいで「酔っぱらい連中に殺された」「貧しいストリートチルドレンだったんだ。いや、本当のことを言えば、住んでいたのはストリートではなく、高速道路に近い、このあたりのジャングルだ」
 そして内心で、独白する。本当のことは、とても息子には言えない。「やつらはグエシートを殺すまえにレイプしたのだ。犯人は何人だったか? はっきりとは覚えていないが、五人と聞いたこともあれば、十人と言っていた者もいた。体は切り刻まれ、頭部は儀式に使われた。失血死した子供の首なし死体が高速道路の路肩で発見されたのは、二十年以上前のことだ。グエシートはゴヤの墓地に埋葬され、その墓は、少年が生きているうちには見たことさえなかったようなおもちゃであふれた」(ゴヤはコリエンテスの地名)

 この「縁起」に私は驚いた。何か奇跡を起こしたとか徳が高かったとかではない、ただただ「陰惨な暴力の無力な被害者」以外の何ものでもない子供が聖人として祀られることがあるのか、という疑問を抱いたのだが、疑問を抱いただけでなく驚いた理由は後述する。
 いやー苦労しました。何しろスペイン語は『グアルディア』と『ラ・イストリア』の時に初歩を勉強したきりで、辞書等なしだと内容がうっすら解る程度、
自動翻訳の日本語は気持ち悪いから嫌い。まず聖グエシート、スペイン語表記はSan Güesitoだと当たりを付ける(gueだと読みが「ゲ」になる)。"San Güesito"でググっても、『秘儀』のスペイン語レビューばっかり出てくる。
 いや、でも少なくともモデルはいるんじゃないか、とまあ勘というか期待というかからググってググって、見つけました、ペドリート・サンウェソPedrito SanhusoもしくはサングエソSangüeso。1963年に6歳で殺され、聖人として祀られるようになったアルゼンチン北東部サルタ州の少年です。
 姓がどちらかはっきりしない理由は見つけられませんでしたが、1956-63年のアルゼンチン社会は安定していたとは言い難い上に、母親はアンデス高原の貧しい羊飼いでおそらく文盲、ペドリートの父親とは結婚していなかったので……

 聖人名はSan Huesito(サン・ウェシート)もしくはSan Guesito(サン・ゲシート)で、前者のほうが一般的です。後者がSan Güesito(サン・グエシート)でない理由は解りません。「生前」の名前を併記している場合でも、ペドリート・サングエソPedrito Sangüesoと、ちゃんとüと表記しているのに聖人名のほうはなぜかuにしている。
 いずれにせよ聖人名の由来の解説も見つけられませんでしたが、
ペドリートという名前は上記のガウチョ→ガウチートと同じくペドロPedroの愛称形で、スペイン語圏ではものすごくありふれているのと、姓に偶々「聖」Sanの語がついてたんで、huesoもしくはgüesoを愛称形にしたのではないかと。

 ペドリート本人については、このニュースサイトの記事を参照しました。https://www.clarin.com/ultimo-momento/pedrito-sanhueso-chico-asesinado-hace-44-anos-venerado-estudiantes-saltenos_0_HyollKgyAKx.html
 ちゃんと辞書使って読みましたよ。基礎的な文法や単語は思いのほか憶えてた、というか読んでるうちに思い出したので、そんなにひどい誤読はしてないとは思いますが、ある程度以上スペイン語が読める方(大学の第二外国語でスペイン語選択だったら、私よりはよっぽど読めるはずです)は、気になるようでしたら直接御確認ください。

 それによると、1956年6月26日、サルタ州の貧しい羊飼いアンヘラ・サンウェソは、自宅である泥づくりの小屋で13歳の長男デメトリオの手助けで双子の男の子を産んだ。同月29日が聖ペドロと聖パブロの日だったのでペドロとパブロと名付けたが、パブロのほうはすぐに死んでしまった。
 双子の父親はフリアン・バルボーサといい、サルタの警察署長か何かだったようです(アルゼンチンの、それも1950年代の警察制度についてスペイン語で調べるのは、私の手には余ります)。デメトリオの父親ではないようです(ほぼ確実に)。
 バルボーサは出産時ですら母子を放っておいたのに、ペドリートが4歳になると、なぜかアンヘラから取り上げ、サルタの州都に住む「義理の姉」プリシマ・コーパに預けます。プリシマの息子パブロがペドリートの従兄だということですから、彼女はバルボーサの兄弟の妻なのでしょう(南米の女性は結婚後も自分の姓を残します)。プリシマの夫についての言及はありません。

 2年後の63年5月19日、7歳の誕生日まで1ヵ月と少しだったペドリートは、当時20歳のパブロに殴られ、強姦される。失神したペドリートを殺してしまった思い込んだパブロは、幼い従弟を貯水槽に投げ捨てる。意識を取り戻した少年が叫び始めると、棒を使って水に沈め、溺死させた……
 パブロと母親(証拠隠滅容疑)は逮捕されますが、3年後、証拠不十分で釈放されたそうです。彼らについての情報はそれだけです。殺されるまでの2年間、ペドリートが彼らにどんな扱いを受けていたのかは誰も知らないそうで、つまり取り調べ等の記録は残ってないし、彼らに取材した者もいないし、現在は消息不明、ってとこですかね。
 この記事の記者は兄のデメトリオを探し出して取材したそうで、ペドリートの4歳までの情報はデメトリオから得たもののようです。ほかの家族のその後についても言及はありません。

 2007年現在に至るまで、ペドリートの墓には参拝客が途切れないそうです。彼らが墓前に供えるのは、玩具のほかにテスト用紙、大学の卒業証明書などだそうで、この「学生の守護者」としてのペドリートの聖人化がいつから、どのように始まったのかとか、具体的な御利益のエピソード等、記事では一切触れられてないし、ほかでも見つけられませんでした。
 サルタ州のカトリック教会は、ペドリートは聖人ではない、と公式に否定していますが、崇敬自体は禁止していません。民衆カトリシズムに対する、教会のごく一般的なスタンスですね。

 さて、聖ウェシートもしくは聖ゲシートは、『秘儀』で言及される聖グエシートのモデルなのか? サン・ラ・ムエルテも聖ガウチートも実際に信仰されている民衆聖人で、せいぜい名前が挙げられるだけなのに、「聖グエシート」だけは実在したペドリートの聖人名とほぼ同じ聖人名の上に、ペドリートのそれを「盛った」ような来歴が事細かに語られる。
 その割に他の(「実在」の)聖人と同じく、物語への関わりは一切ない。フアンは幼い息子がカルト教団の「犠牲」にされることを恐れているので、かつてカルト教団の犠牲となった「聖人」を出した、というだけでしょう。
 実際、作者のエンリケスはインタビューで、サン・ラ・ムエルテと並べてサン・ウェシートの名前を挙げていますが、作品の背景的に使った、というようなことを言っているだけで、聖グエシートとの関係については一切言及していません。https://www.pagina12.com.ar/233663-mariana-enriquez-presenta-nuestra-parte-de-noche/
 盛らなくてもペドリートの事件は充分すぎるほど陰惨なんですけどね。彼の最後の2年間がどんなものだったのか、想像もしたくない。

 上述のとおり、聖グエシートSan Güesitoでググると『秘儀』のスペイン語レビューしか出て来ないんですが、その数は多いというほどではないが、少なくもない(なので1つくらいは私が見落としただけで、『秘儀』とは無関係なSan Güesitoもあるかもしれません)ので、たったこれだけの言及でも、読者に強い印象を与えたことが窺えます。
 しかし、これらの読者のうち、サン・ウェシート/ペドリートに言及している人はほとんどいません。私が見つけられたのは1人だけでした。そもそも、サルタ州の住民以外にはほとんど知られていない御当地聖人なんじゃないでしょうかね。

 ……長々と論じてきましたが、実は聖グエシートと聖ウェシートとの関係はどうでもよくて、私が前者について、後者を発見してからは後者について半ば意地になって調べ続けたのは、「犯され殺された幼い犠牲者の聖人化」がアレハンドロ・ホドロフスキーの『サンタ・サングレ』(1989)を思い起こさせるからなのでした。
 この映画を観たのはデビュー前の2000年代初頭で、中南米の民衆カトリシズムを含むシンクレティスモやメキシコ神話には、関心はあったがあまり知識はありませんでした。それで、何か奇跡を起こしたとか徳が高かったとかではない、ただただ「陰惨な暴力の無力な被害者」以外の何ものでもない少女が聖女として祀られることがあるのか、という疑問を抱きました。
『グアルディア』執筆の際にメキシコ神話の知識を仕込み、この殺された少女と主人公の母親が、アステカの太陽神ウィツィロポチトリの母神コアトリクエに擬せられている可能性に思い至ります。これに加えて上述のとおり民衆聖人についての知識は大して増えなかったことから、聖女「サンタ・サングレ」への信仰は、実際の中南米の民衆カトリシズムを反映していないのではないか、という疑いが強まったのでした。

 だから『秘儀』の聖グエシートについての記述に驚いたわけです。
「サンタ・サングレ」信仰自体は本当に創作のようですが、ひょっとしたらホドロフスキーは聖ウェシート信仰を知っていたのかもしれませんね。チリ出身で(故郷を離れてすでに長かったとはいえ)、サルタ州はチリと国境を接してますし。いずれにせよ、「リアリティがない」とか思っててすみませんでした。

『サンタ・サングレ』感想

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ウルフ・オブ・ウォールストリート

 2013年公開。ネタバレも何もない映画だとは思うが、一応御注意。

 バカ鑑賞映画。バカがバカをやる映画というのはたくさんあるんだけど、まあだいたいがバカゆえに貧乏か、中流が酒等でハメを外してバカをやるとかなので、金をかけたバカはやらない。
 先日観た『マージン・コール』(2011)では、同じく「ウォールストリートもの」(というジャンルがあるのかは知らんが)でも、少なくとも緊急事態に陥るまでは顧客にもちゃんと儲けさせていたが(緊急事態に陥ったのは杜撰さのせいなのでクズではあるが)、本作は投資詐欺で1998年に逮捕されたジョーダン・ベルフォートの伝記映画。

 レオナルド・ディカプリオ演じるベルフォートは頭の回転はそこそこ速く、バカを訓練して投資詐欺をやらせてボロ儲けするが、ヤク中になって配下のバカどもと同レベルに堕ち、金をかけたバカの限りを尽くす。
 かけた金の大半はクスリ代のようだが、とにかく稼いでいるので、豪邸に高級ホテル、アルマーニのスーツ、フェラーリやらランボルギーニやらの高級車の数々、イエローダイヤモンドの指輪、豪華ヨット、高級娼婦の群、と画面が非常に煌びやかで目に楽しい。そして100人規模の乱交パーティーが繰り広げられ、ランボルギーニはボコボコになり、豪華ヨットは転覆し、プライベート機は爆発する。バカのスケールが違う。たいへんに景気がよろしく、3時間もあるがダレない。

 また大半のバカ映画でバカを演じるのは、見苦しい、あるいは冴えない容姿の男だ。イケメン枠の俳優がいる場合もあるが、服装や髪形をダサくしている。女優も同様。そういう映画の笑いどころは「しょぼい奴が度を越したバカをやる」に設定されていると思われるので、まあ妥当ではあるんだが、そいつらが置かれた環境と相俟って、画面が終始しょぼい。
 一方、レオナルド・ディカプリオはイケメンなのかどうか私には正直判らないのだけれど、ゴージャスな環境に置かれて映える役者なのは間違いない。それにしてもディカプリオは、やはり童顔を活かした「大人に成り切れない男」の役が似合っている(それしか活用法がないとも言える)。

 後妻役のマーゴット・ロビーも撮影当時22歳かそこらだというのに、とてもゴージャス。先妻役のクリスティン・ミリオティも可愛いんだけど、歌手が本業なのであまり映画には出ていない。残念。
 ディカプリオの父親役が、映画監督のロブ・ライナー(『スタンド・バイ・ミー』しか観たことないけど)。人となりは知らないんだが、好々爺っぽい見た目で口汚く喚き散らすのが楽しい。

 1987年のブラックマンデーで株式仲買人の職を失った主人公が、どうにか見つけたのがクズ株を専門に扱う会社。その社長が、特に目立つわけでもないチョイ役なのに印象に残ると思ったら、『マルコヴィッチの穴』(1999)のスパイク・ジョーンズ監督だった。役者としては同年の『スリー・キングス』に出演しているそうだが、そっちは全然思い出せん。
 最初の勤め先の上司で、短い出番ながら主人公に感銘を与えるマーク・ハンナがマシュー・マコノヒー。本作は90年代末に投資詐欺で逮捕された、ストラットン・オークモント社創業者ジョーダン・ベルフォートの伝記なので、マーク・ハンナのモデルもいるのか調べたら、やはりその後、ベルフォートと関りはなかったようだが、2004年(ベルフォートは服役中)に証券詐欺で捕まっている。弟子が弟子なら師も師。
 ところでベルフォート以外の登場人物は基本、名前を変えているのに、マーク・ハンナは実名なのはなぜだろう(逮捕されていない人々はもちろん、ベルフォートと一緒に逮捕された副社長も名前を変えられているのに)。

 なお本作は事実にかなり忠実らしい。結末で、出所したベルフォード(ディカプリオ)はニュージーランドで開催されたセミナーに登壇する。後で知ったことだが、その司会がベルフォード本人。わずかな出番とはいえ、こなれたアナウンスなので普通に役者だと思ってた。元気そうで何より。

『マージン・コール』感想

ディカプリオ出演映画感想
『ジャンゴ 繋がれざる者』
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』
『レボリューショナリー・ロード』
『J・エドガー』
『ワールト・オブ・ライズ』
『ブラッド・ダイヤモンド』

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TITANE/チタン

 2021年公開。幼い少女アレクシアが、父の運転する車の後部座席でエンジン音を口真似していると、父は苛ついて音楽を大音量で流す。アレクシアも腹を立て、父のシートを蹴ったりシートベルトを外して動き回ったりする。それに気を取られた父が事故を起こし、アレクシアは重傷を負って側頭部にチタンを埋め込む手術を受ける。退院した彼女は、駐車場に停めてある父の車(破損はないが、事故を起こしたのと同じ車のようだ)に身を摺り寄せ、口づけする。
 32歳になったアレクシアは、モーターショーで踊るダンサーになっている。多くのファンがいる彼女だが、衝動的に人を殺すシリアルキラーでもある。犯行を始めたのは数ヵ月前のようだが、そのきっかけ等については一切触れられない。ある夜、しつこいファンの一人を殺した彼女は、職場の車の一台に「誘われ」、性交する。
 アレクシアは両親と同居している。腹痛を訴える彼女に母親は、父に診察してもらうよう言い、父親は彼女を触診する。ということは内科医か? とにかく家は立派で裕福そうだ。

 同僚の女性の家を訪れた彼女は、妊娠に気づく。トイレに籠り、殺人に使っている長い金属製のヘアピンを膣に突き立てるが、ひどい痛みを味わっただけで終わる。ヘアピンをトイレットペーパーで拭うと、黒いオイル状の液体がつく。トイレを出た彼女は同僚を殺すが、同居人が次々に出てくるので、いちいち殺す羽目になり、挙句に一人逃がしてしまう。

 アレクシアは自宅に放火し、両親を寝室に閉じ込めると、ヒッチハイクで逃亡する。しかしすでに指名手配されており、逃げ場をなくした彼女は、何年も前に失踪した少年アドリアンの捜索願に目を止め、彼に成りすますことを思い付く。
 迎えに来た父親のヴァンサンは、一目見るなり彼女がアドリアンだと断言し、DNA検査すら拒んで彼女を連れ帰る。

 成人後の彼女が、車に特別な感情を持ってるようには全然見えないんだよね。モーターショーで一回、ヴァンサンの息子に成りすましてから一回、車上で踊るシーンがあるんだが、本当に単に車上で踊ってるだけで、車体に身を絡ませるような動きがあるわけでもない。それどころか、車をじっと眺めたりするようなシーンすらない。
 そもそも本作全体を通して、車のフェティッシュな描写が、冒頭1分くらいの映像しかない。件の「カーセックス」(文字どおり)ですら、車をフェティッシュに撮ってはいない。クローネンバーグの『クラッシュ』(1996)は車をフェティッシュに描写しようとして失敗した感じだが、本作は端からその気がないように思える。単に「妊娠によって金属と融合していく女性」を描きたいだけで、カーアクシデントもカーセックスも、その理由づけとして持ち込んだだけじゃあるまいか。

 クローネンバーグはしばしば「人体と機械の融合」というか「生物と機械の境界の消失」を表現したがっているが、どれもあんまり巧くいっていない(ように私には思える)。『ヴィデオドローム』(1983)は未見だが、『ザ・フライ』(1986)のラストくらい? 成功してると言えるのは。
 それに比べると本作は、「妊娠による女体の変容」と「女体と金属の融合」を巧みに組み合わせ、表現することに成功している。「変容による苦痛」の表現も凄まじいしな。同じくクローネンバーグの『戦慄の絆』(1988)では(「機械」は出てこない)、婦人科系の病気をエロ扱いするんじゃねえよ、××が××してしまえ、と思ったものだが。
 それだけになおのこと、「カーセックス」が木に竹を接いだようでチグハグなんよ。

 その問題は措くにしても、前半のシリアルキラーっぷりと、後半のヴァンサンに絆される過程の丁寧な描写がまたチグハグ。
 ……いやもう、そういうのいいから。「シリアルキラー主人公の孤独に寄り添う」とか、「既存の価値観や体制への反逆者としてシリアルキラー主人公を祀り上げる」とか、そういうのはそろそろ卒業しようよ。シェアハウスで鏖殺をやる羽目になったのは、おもしろかったけどさ。

 一方、ヴァンサンの狂気は、息子を失った悲しみに加え、老いへの恐怖や男らしさという呪縛に根差した現実的なものだ。それでいて、アレクシアの薄っぺらな狂気を呑み込み、彼女を本当に「息子」にしてしまう。実は非常に斬新なキャラクターだ。 だからヴァンサンを主人公にして、アレクシアは「主人公その二」(男性主人公の相手役、という意味での「ヒロイン」ではなく)くらいの立ち位置がよかったんじゃないかと思う。
 以下、「こうだったらよかったのに」という空想。ネタバレ注意

 たとえば、冒頭は変えずにアレクシアの事故から成人後のモーターショーまで、その後はヴァンサンの日常と底流の静かな狂気に移る。息子を名乗る人物が現れたという連絡を受け、警察署まで行く。見るからに怪しい若者(フードを被っているので頭部は見えない)を自宅に連れ帰る。子供部屋で一人になった自称アドリアンは、フードを脱いで側頭部の傷痕を露わにする。シャツを脱ぎ、乳房を押さえつけていたテープを外していく。カメラが下がり、テープを巻いていたのは胸だけではないことが明らかになる。妊娠数ヵ月の腹部が現れる。
 警察に追われるアレクシアが、アドリアンの捜索願に目を止め、鼻を潰してまで男装する回想が差し挟まれる。ヴァンサンとの暮らしが始まる。アレクシアを腫物のように扱う実の両親、妊娠の自覚、股間から滲み出す黒い液体、シェアハウスでの虐殺等の回想が小出しに挿入される。

 さらにその合間に、アレクシアの車への執着が、現在軸および回想で描写される。実際の作中では少女時代も含め、アレクシアが車を「どのように」性的に見ていたかが一切描写されないんだが、「妊娠させられた」ということは、車に男性性を見出していたということなんだろう。
 ヴァンサンも、あくまで健全の範疇だが、車に男性性を見出しているということにしてもよかったかもしれない。素朴に、「男らしさ/力強さ」の象徴と見做して、消防車や自分の車(ごつい四輪駆動とか)を大事にしている、という程度で。
 そんでアレクシアがそれらの車をねっとりと洗車したりワックスをかけるのを見て、部下たちは気味悪がるが、ヴァンサンは単純に喜ぶ、とか。
 さらにプロットが進み、アレクシアとヴァンサンが互いを受け容れていくのと並行して、彼の部下は怪しみ始め、また臨月が近づくにつれ「金属との融合」も進行する。回想で、カーセックスおよび両親の焼殺が明らかにされる。

 ……とかだったらよかったのにな。

 上記のとおり、監督自身はおそらく車にフェティシズムを見出していないので、本作における車の「性別」を考察するのもたぶん無意味なんだが、本作はベルギーのフランス語映画で、仏語では一般的に自動車をvoitureまたはautomibileと言い、どちらも女性名詞ですね。英語圏でもスティーヴン・キングの『クリスティーン』とかあるしなあ(映画のほうは未見)。
 それに洋の東西を問わず、「内部に空洞があるもの」は空洞=子宮ということで、女性に喩えられやすいんだよな。そこからすると、車は女性ということになる。なんかそういうネットミームもあるしね……

 神話学的には、「子宮に見立てられる空洞」の代表は「洞窟」だが、洞窟はその形状(長細い)から「蛇」にも見立てられる。そして蛇は、その形状からペニスにも見立てられる。つまり蛇は、両性具有ということになるんですね、神話学的には(『ラ・イストリア』を書いた時に仕入れた知識)。
 自動車も、その外見は男性的だと言えるから、同じく両性具有だと見ることもできる。モーターショーにセクシーなコンパニオンを添えるのは(普通は本作みたいに踊らないが)、自動車を男性的にも女性的にも見ていると言える。
 だから自動車をフェティッシュに表現するなら、その両性具有性にも注目すべきで、だからたとえばアレクシアの「出産」は車内で行われるべきだった。B級エロホラーのテンプレートをメタファーやアレゴリーに援用するなら、せめてそれくらいは捻ってほしかった。

(両性具有と言えば、例のネットミームからは「ドラゴン娘」のヴァージョンも派生してるんですね。外国人と日本人、どっちの発想なのか気になりましたが、「……やっぱこれ以上知りたくない」と思いとどまったのでした)

 まあそんな感じで粗はありますが、それでもなかなかに印象的な作品ではありました。しかし同じ「B級エロホラーのテンプレを援用した芸術映画」なのに、なぜ日本では(マスコミにも一般観客にも)本作が絶賛されて、『触手』(2016)は黙殺されたのか。確かに後者のほうが低予算だし、低予算なりに見応えのある映像もある、というわけでもないけど、制作者の言いたいことは『触手』のほうが解りやすくて破綻もないのに。やっぱり触手自体が悪いんか。

『触手』感想

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オデュッセイア

 2026年公開。クリストファー・ノーランにはだいぶ見切りを付けかけていて、「でも『ダンケルク』はよかったから……!」との思いで本作の公開を待っていた。公開の2ヵ月くらい前だったか、「ヘレネは黒人」という情報を目にして、期待と危惧の割合がいっそう後者に傾く。実際に公開を迎えると、評判はたいそうよろしく、ヘレネも「出番はほとんどないから気にならない」とのことだったので、映画館まで足を運ぶ。
 以下、ホメロスの原典を御存知の方にはネタバレになりませんが、御存知ない方にはネタバレになるかもしれないので、一応御注意。

 たいへん素晴らしゅうございました。ノーラン作品における私が嫌悪する要素筆頭「無駄に複雑な構成で観客に負担を強いる」が一切なかった。それに、意外なほど原典に忠実。父の帰りを待つテレマコスと、カリュプソーの島に留め置かれているオデュッセウスの二つの視点で話が進み、過去の出来事はテレマコスが父を探しに出た先で聞く話と、オデュッセウスの回想とで明らかにされる、という構成は原典どおり。
 現代的解釈は施されており、かつ複数の出来事や人物が一つに統合されてたり、省略もあったりするが、人物(および怪物)も出来事もおおむね原典どおり。こういう古典における主人公側の「英雄的行為」のうち、現代の価値観では悪行となるものは、なかったことにされたり、進んでやったのではないことにされたりしがちだが、本作ではそういう「悪い意味での現代的解釈」はせず、ちゃんと原典どおり積極的に略奪もする。

 ただまあ、原典からして「冒険譚」ではなく苦難の物語なので、どの島でもひどい目に遭って逃げ出すのだが、なぜ原典では普通に出て来られた冥界からも命からがら逃げ出すことにしたんだか。
 この意図不明な天丼によって中盤はやや単調であるものの、前半はトロイア攻略やキュクロプスとの遭遇は緊迫感たっぷりだし、後半もオデュッセウスの帰還から、ペネロペーへの求婚者たち相手の無双と一気呵成に進む(無双といっても一対数十だから、追い込まれたりもして手に汗握る)。三時間弱が長くない。

 ……で、公開前の懸念材料の一つだった「黒人のヘレネ」はどうだったかというと、彼女だけじゃなく、メインキャラクター以外では黒人や東アジア系のキャストがチラホラいるんだよね。なんでやねんと思って観ていると明らかになっていくのだが、本作はあくまで神話世界が舞台だとはいえ、史実でギリシアがトロイアと衝突を繰り返していた時代を踏まえている。
 すなわち「ギリシア世界」の中心であるペロポネソス半島に栄えたが、前1200年頃滅亡したミュケナイ文明の時代である。作中では「海の民」の襲来が繰り返し噂されるが、これはミュケナイ文明および多くの地中海沿岸国家が滅んだ原因(少なくとものその一つ)とされる謎の集団である。

 とはいえ、衣装やら小物やらに、実際に発掘されているミュケナイ文明の遺物の意匠が取り入れられている様子は特にない。古典期(前5~前4世紀)のギリシアっぽさ、帝政ローマっぽさ、どこのものともつかないイメージがごった煮になった「ファンタジー古代」である。
 それでも武具はすべて青銅製という設定で、物語の終盤にはペネロペーによる「私たちの青銅器時代が終わる」というメタな台詞まである。
 この台詞を引き出したのはオデュッセウスである。彼は言う、客人は必ず歓待しなければならないという「ゼウスの掟」を悪用して傍若無人に振る舞う求婚者たちと、「神への捧げもの」と偽って木馬をトロイアの城壁内に運び込ませた自分たちは、等しく秩序の破壊者である。我々こそが「海の民」なのだ、と。

 オデュッセウスは、失われていく古き世界を「交易で結ばれた平和な世界」と定義する。本作におけるトロイア戦争は、交易路の独占を望むアガメムノンが、弟の妻が奪われたのを口実に仕掛けたものである。
 実際のところ、ミュケナイ文明時代のペロポネソス半島に、地中海で繋がった北アフリカの黒人が来ていた可能性は充分高い。が、東アジア人が来ていた可能性は絶対にない。失われようとしている「黄金時代」の表象が、「多民族共生」なのであろう。知らんけど。

 東アジア人は措くにしても、本作のメインキャラクターを演じたマット・デイモン、アン・ハサウェイ、トム・ホランドは三人ともゲルマン系(アングロサクソンを含む)のルーツを持つが、ミュケナイ文明時代、ゲルマン系は遙か彼方の北欧にいた。当時のペロポネソス半島にゲルマン系が来ていた可能性は、北アフリカの黒人よりも遙かに低い。
 ちなみに『トロイ』(2004)のブラッド・ピット、エリック・バナ、ダイアン・クルーガーもゲルマン系にルーツがある(オーランド・ブルームは母方がアイルランド系、つまりケルト系だってことしか判らんが、アングロサクソン系の先祖はいるだろう。なお、ケルト系はミュケナイ文明時代、中欧にいた)。

 本作は神の血を引く人間(キルケーやヘレネ)、怪物、下位の神(カリュプソー)は登場するが、ゼウスをはじめとする上位の神々は登場しない。例外的にアテネは登場するが、彼女はオデュッセウスにしか見えないことが明示されている。
 アテネ役のゼンデイヤは華やかな美人だが、本作ではメイクや衣装のせいか「地味な小娘」にしか見えない。神話のアテネは「身をやつす」ことが多いとはいえ……と思ってたら、終盤、その「正体」が明かされる。あー、なるほどねー。

 そもそも開幕、A TIME OF APPARENT MAGIC…というテロップが出る。apparentは「明白な」と「一見それらしい」という、ほぼ正反対な二つの意味がある。正確な字幕は忘れたが、後者の意味だった。つまり登場する怪物や魔女は、魔法のように見えてそうではなかった、ということだ。
 それらの怪異は、オデュッセウスを待つテレマコスらのパートには登場しない。メネラオスがテレマコスに語り聞かせるトロイア攻略にも、魔法の要素はない。オデュッセウスが帰還してからもだ。ロートスという一種の麻薬によって記憶を失っていた彼が、徐々に記憶を取り戻す過程でカリュプソーに語る物語の中にしか登場しない。
 なお、この「ロートス」は原典では謎の植物の実だが、英語に入って「蓮」を指すようになった。本作では解りやすさのためか、蓮の実ではなく花になってるのが御愛嬌。しかも青い斑入りの白い花弁で、それをオデュッセウスが貪るように食べるのがシュールだった。

 まあとにかく、記憶喪失にさせる薬の影響が抜け切っていない状態だったのだから、記憶が相当歪んでいた可能性は高い。20年も帰国できなかった「本当の理由」は、後に彼自身がペネロペーに語ったように、トロイアに滅亡をもたらしてしまったPTSDだった「かもしれない」。
(ノーラン自身は「明白な」のつもりだった、ということはまずないだろうが、ダブルミーニングのつもりだった可能性はあるな。だとしても、「オデュッセウスが遭遇した怪異はすべて彼の妄想だった」解釈が可能なのは変わらんが)

 このように「現実的」な解釈が可能だし、「後期青銅器時代の崩壊」という史実を踏まえているし、ちゃんと青銅器使ってるし、でも一方で、諸々の意匠はファンタジー古代だし、非現実的な「多民族共生」だし、しかも何百年も後に成立した「原典」に忠実に、ミュケナイ文明時代には存在しなかったスパルタが存在するし、ヒッタイト文化圏のはずのトロイアではオデュッセウスらと同じ言語が話されていてアテネ神殿があるし、そこで祀られているのはギリシアのアルカイック期と古典期の中間のような様式のアテネ像だし……と、異なる世界観が何層にも重なっている世界なのでややこしい。でもまあ破綻はしておらず、その重なりがそのまま全体の世界観の厚みと奥行きとなっている。どこまでが計算なのかは知らんけど。

 最後に、ヘレネ役のルピタ・ニョンゴについてだが、「古代ギリシアの黒人王妃はあり得るか」という問題も「個々人の好み」という問題も措いて、美人なのは異論のないところであろう。が、「絶世の」という形容がつくほどではないこともまた、異論のないところであろう。
 そんな彼女を、作中の現在において、トロイア陥落の際に負ったと思われる「スカーフェイス」としたのは、なかなか興味深い試みだ。ヘレネの双子の姉妹クリュタイムネストラをニョンゴの二役にしたのも、その一環だろう。
 彼女たちの母親は白鳥に化けたゼウスとの交わりによって卵を産んだとされるが、姉妹が同じ卵から産まれたのか別々の卵からなのかは神話によって異なる。いずれにせよ、「絶世の美女」はヘレネだけである。傷無しヴァージョンのニョンゴに「ヘレネほどは美しくない」クリュタイムネストラを演じさせることで、ヘレネは「傷が無ければ、クリュタイムネストラよりずっと美しいはず」という想像の余地が生まれるのだ。知らんけど。

『インソムニア』 
『ダークナイト』
『インプション』 
『ダンケルク』
『オッペンハイマー』

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マージン・コール

 2011年公開。リーマン・ショックをモデルにした金融もの(というジャンルがあるのか知らんが)。リーマン・ブラザーズをモデルにした投資銀行の社員たちの群像劇なので、まあ金融業界ってクズの巣窟だね、というだけの話なのだが、ケヴィン・スペイシー(一応主役)にポール・ベタニー、ジェレミー・アイアンズにスタンリー・トゥッチにデミ・ムーアと豪華なキャストたちの演技合戦が非常に楽しゅうございました。デミ・ムーアって演技巧かったんだなあ。
 特に社長役のジェレミー・アイアンズは、これまで「繊細なクズ」は嵌まり役だが(ハンバート・ハンバートとか)、それ以外はいまいちか、せいぜい可もなく不可もなくという感じだったんだが、今回の傲岸で「繊細じゃないクズ」の演技は素晴らしかった。

 ただ序盤、危機が明らかになるまでが、少々テンポが悪い。そして終盤が駆け足すぎるので、ペース配分が逆だったらよかったのに。
 後はケヴィン・スペイシー演じるサムの上司役で彼より15歳も若いという設定のサイモン・ベイカー(本人同士は10歳差)が、ふてぶてしくてよかったんだが、本作の前も後もあんまりいい役は貰えてないのね。出演作は幾つも観てるのに、全然見覚えがなかった。

 ラスト、矜持を捨て、愛犬にも死なれた(病死。死ぬシーンも死体も出てこないよ)サムが深夜、庭に埋葬のための穴を掘る。別れた妻の家の庭であること、サム自身もかつてはこの家に住んでいて、そこで飼っていた犬だけ連れて出て行ったということを、直接的な説明は一切なしに表現しているのがよかった。

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グエムル‐漢江の怪物

 2006年公開。監督は『パラサイト 半地下の家族』(2019)のポン・ジュノ、主演は同じくソン・ガンホ。公開時、だいぶ話題になったなあ。

 怪物(グエムル)は割とすぐにその全貌を露わにするのだが、00年代半ばの水準からしてもあまりにしょぼいCGで、「これで2時間はちょっと……」となる。でもドラマがいいかもしれないし、と観ていると、徐々に改善していって、中盤までには問題ないレベルに落ち着く(こっちの目が慣れたとかではなく)。ほぼそのクオリティを最後まで保つので(たまーに少々怪しくなるが)、序盤だけなんだったんだ、あれは。
 怪物が生まれた原因が、在韓米軍が漢江に不法投棄した大量のホルムアルデヒドなんだが、鑑賞後にあれは実際に劇中と同じ2000年に起きた事件だと知る。道理で作品全体を通して米国に批判的なわけだ。一応、韓国市民を守ろうと徒手空拳で立ち向かうも、敢え無く返り討ちされてしまう善良で勇敢な米軍人も登場するが。

 怪物は捕獲した人間をすぐに食べるだけでなく、生死構わずストックしておく習性があるらしい。食われたと思われていた中学生の娘が、携帯電話で助けを求めてきたので(携帯は元々壊れかけていたので、すぐに不通になってしまう)、彼女を救うべく父親、祖父、叔父叔母が奮闘する。
 奮闘できてしまうのは、公的機関がまともじゃないからである。少女が生きているという家族の訴えに取り合わないし、セキュリティが杜撰なので簡単に出し抜かれるし、賄賂も利く。御都合主義なのではなく、当時の(あくまで「当時の」だと思いたい)韓国社会に対する風刺だと察せられる。英国のブロック(貧困層向け公共団地)でエイリアンの群と不良少年たちが戦う『アタック・ザ・ブロック』(2011)も、公的機関に顧みられない人々と場所だからこそ成立したプロットだったな。軽装備の個人でもどうにか戦えるモンスター、という点も同じだ。

『パラサイト』と同じく、登場人物たちは間抜けさと抜け目なさを併せ持ち(本作のほうがだいぶ間抜けの度合いが大きいが)、間抜けさは喜劇だけでなく、時に悲劇ももたらす。罵り合いはするが、家族の絆は固い。
 しかし一家の男三人が三人とも、ボンクラでも銃はちゃんと使えるのね、兵役があるから。そんで大卒ニートの次男(叔父)が火炎瓶の扱いに長けているのは、デモ参加の経験からか。

 韓国語は全然知らないので「グエムル」なのか「グエルム」なのか「グムエル」なのか、なかなか憶えられなかったんだが、「怪物」の韓国語発音なので、日本の呉音「怪(け)」「物(もつ)」に近いと理解したら憶えられました。

『パラサイト 半地下の家族』感想
『アタック・ザ・ブロック』感想

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フィツカラルド

 1982年公開。本作と『アギーレ/神の怒り』(1972)は、ヴェルナー・ヘルツォーク+クラウス・キンスキー+アマゾン奥地の組み合わせがとにかくヤバいということで、20代の頃からいつかは観たいと思っていた。さらに『伊藤計劃トリビュート』所収 の「にんげんのくに」(2015)の下調べをしていた時に、どちらも史実を基にしていることと、ロケがとにかくガチだということを知る。
 その後、『アギーレ』を先に観て、『トーキングヘッズ叢書№81 野生のミラクル』掲載の「密林の〝パラダイス〟――管理された野生」を書く(なのでブログに感想は上げません)。

 本作の主人公のモデルとなったカルロス・フィツカラルドについては、Wikiに日本語の記事がある。が、プエルト・マルドナド市を設立したなどと述べていて信用できない(複数の英語記事を参照したところによると、市の発展に貢献した一人だということである)。
 英語版によれば1862年、ペルー生まれ。父親はアイルランド系アメリカ人で母親はペルー人。映画でも名乗っているとおり、元の姓はフィッツジェラルド。
 若くしてゴム成金となる。ゴムの樹が大量に生育しているが大型船が通過できる川がないため手つかずになっていた土地から、独創的な方法で大量のゴムを運搬してさらに財を成す。その方法というのが、難所の手前でいったん船を陸に揚げて解体し、狭い地峡(フィツカラルド地峡と名付けられた)を越えて別の川に出てから再び船を組み立てる、というものであった。お蔭で「天然ゴムの王」と呼ばれるまでになったが、1897年に船の事故により35歳の若さで死去。

 ヘルツォーク監督は船を解体せず、そのまま山越えさせた。そしてそんなことをやってのける男として、フィツカラルドを中年の夢追い人に設定した。彼の夢とは、辺境の町イキトスにオペラハウスを建てることである。
 実在のフィツカラルドのほうは、別段オペラを愛好していたわけではなかったようだ。ヘルツォーク監督が「夢」としてオペラを選んだ理由は不明だが、ブラジルの都市マナウスのオペラハウス「アマゾナス劇場」は、19世紀末から20世紀初頭のゴム・ブームの象徴として(その後のゴム・ブーム終焉による凋落も含めて)、南米近現代史では結構有名だ。それに廃墟となっていたアマゾナス劇場が大改修により復活したのが1970年のことだというから、『アギーレ』の撮影時にでも知ったんじゃないかな。
 で、そのアマゾナス劇場のこけら落としが1897年で、史実のフィツカラルドが死んだ年だから、時代を少しずらして20世紀初頭にした、と。

 当時のマナウスの繁栄の象徴として、オペラハウスと並んで語られるのが、「ゴム成金たちは衣類を大西洋の反対側のパリやポルトガルまで運んで洗濯させていた」というエピソード。本作でも言及されていて、その理由を「アマゾンの水は汚いから」としていた。
 まあそれも理由の一つではあるんだろうけど、私が読んだ本(タイトル忘れてしまいました)によれば、「現地に高級衣類を洗濯する技術がないから」ということだった。メスティソ(白人と先住民の混血)や黒人の貧しい洗濯女たちは、どれだけ高価な衣類だろうと、アマゾンの水に浸して岩の上に広げ、石でガンガン叩く、という洗い方しか知らなかったそうで、絹のシャツなんか繊維状にまで分解される。

 本作の冒頭、件のアマゾナス劇場でヴェルディの『エルナーニ』が上演される。ステージ近くの壁に主役二人の名前が掲示されている。実在の高名な歌手エンリコ・カルーソーと……サラ・ベルナール!?
 いや、ベルナールはオペラ歌手じゃないよ? あ、だから口パクなのか(オーケストラピットでふくよかな若い女性が歌っている)。史実でもそんなことあったの……?と混乱していると、カメラがステージ上のベルナールに近づいていく……これ、男だ。
 つまりヨーロッパ製の高価な衣服を取り寄せることはできても洗濯すらできないのと同様、その服を着て、ヨーロッパから取り寄せた資材と呼び寄せた建築家や職人で建設した絢爛豪華なオペラハウスに行っても、サラ・ベルナールが偽者だと気づけない、成金の都ということなのである。
 というか、20世紀初頭だと彼女はすでに60歳前後である(まだまだ現役ではあったが)。マナウスの成金たちは彼女について、「なんか名前聞いたことある」程度で、オペラ歌手だと言われて鵜呑みにしたのであろう。にしても偽者をわざわざ男にしたのは、少々やりすぎの感があるが。

 とにかくサラ・ベルナールが真っ赤な偽者となれば、カルーソーも偽者である可能性は極めて高い。が、自称カルーソーも偽ベルナールの吹き替え歌手もオーケストラも、レベルはなかなかに高く、完全に黒とも言い難い。
 まあ観てるこっちとしても下手くそなオペラなんて聴きたくないので、その辺のリアリティはどうでもいい。少なくともカルーソーのレコードを長年聴き込んでいたフィツカラルドが本物と信じ込む程度には、技巧も声も「そっくりさん」だということであろう。
 なお、カルーソーの顔も写真で知っていたかもしれないが、黒人の案内係の温情で遠目にこっそり観劇させてもらったので、別人だとしても気づけなかったということなのだろう。サラ・ベルナールのことは、成金たち同様、よく知らなかったようである。

 実のところ、『アギーレ』にはかなり失望していた。同作が史実に基づくと知ってから割とすぐの時点で、史実にあまり忠実ではないようだとは気づいていた。16世紀当時、アマゾン下流域は幾つもの部族国家が栄える人口稠密地域だったのだが、幾つか読んだ『アギーレ』のレビューでそのことに言及したものはなかったのだ。そもそもアギーレ率いる遠征隊は、先発の探検隊が持ち帰った、黄金郷はこれらの国家群の一つ、という情報(実はただの思い込み)に基づいて派遣されたというのに。
 実際観てみると案の定、大きな家が建ち並ぶ豊かな村々と色とりどりの鳥の羽で身を飾り美しい陶器を作る人々は存在せず、掘っ立て小屋に住むみすぼらしい裸の未開人が、凶暴な野生動物の群の如く遠征隊を襲い来るのである。
 とはいえアマゾン下流域の部族国家群については、割と最近まで専門家の間でも眉唾扱いされていたので、ヘルツォーク監督一人が悪いわけではない。だがそれを抜きにしても、全篇を覆う陰鬱な狂気には、かなり滅入らされた。

 だから本作にも期待していなかったのだが、スクリーンに満ち満ちていたのは、透き通るように明るい狂気だった。未来に光を見出した(幻想だが)フィツカラルドの笑顔は少年のようで、クラウディア・カルディナーレ演じる娼館女将も惚れるだろうという説得力がある。カメラが回っていないところでは、アギーレの如き振る舞いだったそうだが。
 クラウディア・カルディナーレはドイツ語も喋れるのかと思ったら、吹き替えだった。現地のキャストも吹き替えだな。モブはスペイン語のまま。
 以下、一応ネタバレ注意。

 先住民の扱いも、たった十年余りで隔世の感がある。フィツカラルドが蒸気船で向かう土地には、訪れた文明人を惨殺するとされる未開のヒバロ族が住んでいる。だが彼らは、なぜか無償で協力を申し出る。彼らの言葉が解る料理人から、「白い神」の信仰について聞いていたフィツカラルドは、自分がそう思われたのだろうと遠慮なく受け入れる。
 よくある「蛮族もの」ホラーだと、文明人たちは最後に生贄にされる。フィツカラルドたちも、うっすらと疑ってはいるので、時折緊張感が漲る。
 ところがヒバロ族は、「白い神」に船が通れない難所の「呪い」を解いてもらうつもりだったのである。斯くして彼らの協力で船の「山越え」を果たしたフィツカラルドは、お返しとして「解呪」をさせられることとなり、どうにか生還はできたものの、計画はおじゃんになる。
斯様に「先住民」を「白人に都合のいい存在」にも「ホラー展開に都合のいい存在」にもせず、独立した意思を持つ人々として描いているのである。

 一文無しになったフィツカラルドだが、船は元の持ち主に買い戻してもらったので、その金でマナウスからオペラの一座を呼び寄せ、船上オペラを上演する。大河の上を響き渡る歌声は美しく、フィツカラルドは晴れやかに破顔する。

 なおフィツカラルド地峡一帯はヒバロ族の版図ではなく、史実のカルロス・フィツカラルドが雇用したのは別の部族だそうだ。まあペルーのアマゾン上流域に住む先住民では一番有名だろうからな、ヒバロ族(この名称は蔑視含みの他称で、自称は「シュアール」族)。
 かつてはブラジル北部のヤノマミ族(「にんげんのくに」の「人間」族のモデル)と並ぶ「獰猛な部族」として知られていたそうで、日本でも「干し首」で有名だった。アマプラの字幕じゃ「ミイラ首」になってたけど、もう知らない人のほうが多いのかな(ググるのはお勧めしません)。
 本作のロケ地はペルーのアマゾン上流域だが、さすがに本物のフィツカラルド地峡ではなく別の場所。「ヒバロ族」役も現地で伝統的生活を営む先住民だが、アグアルナという別の部族だとのこと。

「中南米蛮族もの」感想
『アポカリプト』(2006)
『ミッション』(1986)

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CLOSE/クロース

 2022年公開。ネタバレ注意。
 ベルギーの片田舎。親友同士のレオとレミは、中学入学早々、その親密さを同級生たちに揶揄われる。女子は「付き合ってるの?」と尋ね、男子は「オトコオンナ」と呼ぶ。
 アメリカが舞台だったら陰惨ないじめが始まるところだが、ベルギーの中学生たちはお行儀がよく、行為がエスカレートすることはない。厳重に監視していない限り見逃してしまうくらいの小さな摩擦であり、そのことで学校側を責めるのは間違いだ。子供たちも、社会全体の価値観をなぞっているだけに過ぎない。

 実際、レミは大して気に留めない。というか、面と向かって言われると多少困惑するものの、もっと間接的な、たとえば好奇の目を向けられる程度では気づきもしないようだ。しかしレオはひどく気に病み、レミと距離を置くようになる。そしてアイスホッケーをやっている男子に接近し、自分もクラブに入会する。
 レオは農家の息子で力仕事に慣れているお蔭か、ホッケーの練習にもすぐについていけるようになり、最初に彼を揶揄ってきた「ちょっと荒っぽい男子たち」とも打ち解けて一緒に遊ぶようになる。
 レミは親友の変化に戸惑い、問い質そうとするが、レオは誤魔化すばかりでまともに答えない。巧く言語化できないのもあるんだろうけど、問題と向き合うのを避けたがっているようだ。

 亀裂は決定的になり、互いに口も利かなくなる。とはいえレミは孤立したわけではなく、レオとは別のグループの子たちと仲良くやっているように見えた、その矢先に彼は自殺してしまう。
 冬の初め頃だから、9月の入学から3ヵ月も経っていない。学校は生徒たちへの影響を心配してグループカウンセリングを行うが、皆、レミの思い出などほとんど持っていないので、「明るい子だった」「レオと仲が良かった」等、表面的なことしか言えない。レオは彼らに苛立つが、彼自身、レミについて何も語れない。
 レミの母親はレオに、「何かあの子から聞いていない?」と尋ねる。両親ですら、自殺の原因が解らないのだ。中学生、それも男子じゃなあ……親に悩みは相談せんわな……レオも、おねしょをするほど心身に不調を来しているのに、誰にも胸の内を打ち明けようとしない。せいぜい、兄にいくらか甘えるだけだ。

 冬が過ぎ、春が過ぎ、夏になる。レオはホッケーの試合で腕を骨折し、治療を受けながら泣き出す。レミが死んで、初めて流した涙だったかもしれない。夏休みが始まり、レオはバスに乗ってレミの母親の職場を訪ねる。彼女は産婦人科医で、新生児を抱きながらレオの前に現れる。
 車で家まで送ってもらう途中で、レオはついに「僕のせいだ」と告白する。動揺した彼女に車から降りるよう言われ、レオは森の中に逃げ込む。すぐに後悔した彼女はレオを追いかける。彼女が見つけた時、少年は怯え切って木の棒を手にしていた。罰せられると思ったようだ。棒を振り上げるレオを、息子を失った母親は抱き締める。
 腕の怪我が治ったレオは、レミの家を訪ねる。レミの両親は引っ越した後で、窓から見渡せる家の中は空っぽだった。

 レオ役の新人、エデン・ダンブリンの容姿で4割もっている映画。4割が多く見積もりすぎだとしても、3割は切ってない。演技力も込みだと、彼一人で7割もってる。レミ役で同じく新人のグスタフ・ドゥ・ワールやレミの母親役のエミリー・ドゥケンヌ(『ジェヴォーダンの獣』のヒロイン。25年3月に癌で死去)も貢献はしてるんだが、替えは効く。レオ役だけは、ほかの誰がやっても違う作品になってしまっていただろう。
 ルーカス・ドン監督はゲイだと公表しているが、少年二人の関係が同性愛かどうか明確にしないのはよかった。なんでも名前を付けて分類すればいいというものではない。そもそも12、3歳の性的指向なんて、まだ曖昧なものだ。

 親密すぎるために同性愛を疑われる青少年の関係を描いた作品といえば、ピーター・ジャクソン監督の『乙女の祈り』(1994)がある。彼女たちの場合はあまりにも二人だけの世界に閉じ籠りすぎ、親が心配するのも解らんでもないが(基になった現実の事件ではどうだったか知らん。あくまで映画だけの話)、レオとレミは二人だけの世界に閉じ籠っていたわけではない。ここまで親密になったのは、どうやら近所に同年代の子供がほかにいないのが大きかったようで、二人とも社会性は普通にある。
 だから本作で思い出したある個人的な出来事を、『乙女の祈り』では思い出さなかったのだろう。以下、まったくの余談。

 子供の頃、近所に一学年上の友人(女子。とりあえずAとする)がいて、一緒に登下校していた。五年生(Aは六年生)の秋だから1983年のある日、下校途中の私とAは、仕事帰りのAの母親と行き会った。私たちが住んでいた地区は市街地から遠く、Aの母も普段は車で通勤しているのだが、この日は偶々徒歩だったのである(ちなみに小学校までは大人の足でも40分くらいはかかった)。
 長野の秋は寒い。私とAが腕を組んで歩いていたのは、寒かったからという以上の理由はない。ところがAの母と並んで歩き始めて10分も経たないうちに、彼女はなんの前置きもなく言った。「女同士でベタベタして気持ち悪い。やめな」

 大人が子供にそんなこと言う!?というのが、最初に思ったことであった。「気持ち悪い」というのはつまり、レズビアンみたいだから、というのは理解できた。ちなみに当時の私はまだ「レズ」という略称は知らなかったし、Aの母はおそらくレズビアンという言葉自体知らず、「おなべ」みたいだと言いたかったと思われる。
 いずれにせよ当時、日本のどこに行っても小学生が同性同士で腕や肩を組んだりする程度の身体接触で、同性愛を疑って咎めるような風潮は皆無だった。もっと年齢の高い子供同士でも、少なくとも1回だけではそんなことにならなかったはずだ。
 しかもAと私は学年が違うこともあって、お互い他の友人より特別仲がいいわけでもなく、家が近所だから一緒に登下校して、偶に互いの家に遊びに行っていただけである。そうしてAの家で一緒に遊んでいても特別親密な様子などなかったはずだが、偶々(寒いから)腕を組んでいただけでこの言われようである。

 つまりAの母は「変な大人」の一人なのだな、と私は理解し、口答えすることもなく従ったが、そういう人を母親に持つAのことが気の毒だとは思った。
 その後、Aとは二度と「腕を組む」レベルの身体接触をすることはなかったが、それ以外はまったく以前どおりの関係だった。私もAもAの母親も、あの件について蒸し返すことは一度もなく、またAが私に抱いていてくれた好意が、私がAに抱いていた好意と同じ種類の同じ程度のもので「なかった」と示唆されることも一度もなかった。

 だからこのとおり忘れることこそなかったものの、無数のどうでもいい些細な出来事の一つに過ぎず、だから『乙女の祈り』を観た際に思い出すことはなかったんだが、後もう少しでもAと仲が良かったら、結構なトラウマになってた可能性がある、と本作を観て初めて気づいた。「腕を組む」という行為だけでなく、Aに対する感情まで咎められたと思っただろうからな。
 そうはならなかったので、今改めて思い返してみても腹は立たないが、Aのことはやはり気の毒だと思う。

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WANDA/ワンダ

 1970年公開。脚本・監督・主演のバーバラ・ローデンのことは全然知らなかった。本作は彼女の最初で最後の監督作品で、ヴェネツィア国際映画祭で外国語映画賞を受賞するも、アメリカ本国では永らく忘れ去られていた。ローデンはその後、主に舞台劇の監督として活動したが、80年に48歳の若さで病没。本人の業績より「エリア・カザンの妻」として知られていたが、近年ようやく再評価されつつあるという。

 映像そのものに視線が釘付けになってしまう映画というものはあって、たとえば『ブルータリスト』(2024)は計算され尽くした構図の美しさゆえなんだけど、本作の映像に美しさはない。うらぶれた風景とうらぶれた人々しか映っていない、かつ如何にも即興的な映像で、実際の撮影も即興的で、出演者も主演二人以外は素人ばかりだったそうである。
 プロットも、貧しく無気力な女が状況に流されていくだけで、「劇的」な展開も場面も皆無である。それなのに終始、目が離せなかった。いやもちろん、『ブルータリスト』のように「圧倒される」映像ではまったくなかったんだけどね。どう表現したらいいのかわからん。

 本作は米国におけるインディペンデント映画の草分けとされているそうだが、まあインディペンデント映画に限らず、「劇的」でない映画というのは、多かれ少なかれ「忍耐」を要するものが少なくない。退屈だったり、わけがわからなかったりするのを、「我慢」して観ているうちにおもしろくなってきて、最終的には「辛抱した甲斐があった」となる作品もあれば、その甲斐がなかった作品もある。後者でも、何年も後に機会があって再鑑賞すると良さが解るものもあるけど。機会がなければそのままだし、再鑑賞してもやっぱり……のこともある。
 そういう経験からしても、本作のような作品は珍しい。

 BGMが一切ないことも、没入感を高めている。映像作品(および舞台劇)のBGMというのは、おしなべて没入感を高めるために用いられる。しかし少なくとも私は、BGMのせいで没入感を削がれてしまうことが、まあまあ少なくない。一番多いのは、制作者の意図(感動させたい、興奮させたい、怖がらせたい、悲しませたい、笑わせたい等々)が露骨すぎて白けてしまう音楽や効果音。
 さあ感動しろ、興奮しろ、怖がれ、悲しめ、笑え等々、あまりにも「それっぽく」て辟易するだけでなく、制作者の意図はそうやって視聴者の感情を操作したいんだろうけど、なんかチグハグだとか、もっとシンプルに音がうるせえとか、曲がクソダサいとかで気が散ることもある。意外に割合が多いのが、せっかく過不足なく場面に合致した曲で、制作者の目論見どおり気分が乗ってたのに、いきなりブチっと切れて我に返らされるケース。
 本作は、劇中の誰かによってレコードが掛けられたり演奏されたりする音楽以外、劇中の「現実」に存在しない音は聞こえない。それが、登場人物たちを実際に目の当たりにしているような効果を生んでいる。

 まあとにかく、不思議な映画でしたよ。

(一応リンクを貼っておきます)『ブルータリスト』感想

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