ダンテとテンプル騎士団

 先日、テンプル騎士団とフリーメイソンの関係が創作だという記事を書きました。そしたら岡和田君がエーコの『フーコーの振り子』がテンプル騎士団ネタだったことに言及してくれたので、同書をもう20年近くも前に途中で放り出したままだったことを思い出したのでした。

 映画しか知らなかった『薔薇の名前』原作がおもしろかったんで、続けて『振り子』も読み始めたんですが。上巻63頁(単行本)の「恐れ入り谷の鬼子母神」でずっこけて、瀬田貞二訳『ナルニア国物語』で育った人間でもこれはきついわー、とパラパラめくってたら「鬼に金棒」に遭遇して心が折れました。テンプル騎士団の話題が出てくる前に挫折したわけです。
 その後、エーコの小説はだいたい読んで、特に『バウドリーノ』と『プラハの墓地』はとても好きですが、2016年に亡くなられた後も『フーコーの振り子』に再挑戦しようという気は起きなかったんですね。しかしテンプル騎士団ネタだったことを思い出したお蔭で、テンプル騎士団についての未解明の謎を解く手掛かりが得られるんじゃないか、と思い至ったのでした。

「未解明の謎」というのは、私にとっての、という意味で、テンプル騎士団とフリーメイソンの関係については解明できましたが、テンプル騎士団の「名誉回復」はいつから始まったのか、という謎は未解明なままだったのですよ。
 衒学者の代名詞たるエーコなら、テンプル騎士団に関する怒涛の蘊蓄を詰め込んでいるはず。というわけで「恐れ入り谷の鬼子母神」やそれ以上の訳に出くわしても挫けない覚悟を決めて、上下巻に再挑戦。

 幸いにして、「恐れ入り谷の鬼子母神」を上回る、あるいは匹敵する「超訳」はなく、「鬼に金棒」級も数えるほどでした。別に数えてませんが。
 しかし、ある意味「恐れ入り谷の鬼子母神」以上に動揺させられたのは、前回気づかなかった「珪素峡谷」という訳語。
 コンピュータについての会話場面なので、「シリコンバレー」のことで間違いない……この邦訳が出た1993年て、まだ日本じゃ周知されてなかったっけ?

 4半世紀以上も昔のこととて思い出せず、国会図書館の図書検索で1993年以前刊行のキーワード「シリコンバレー」の書籍を探したところ、15件ありました。一番古いのは1981年の『米国半導体産業:シリコンバレーの光と影』(瀬見洋・著 日本経済新聞社)で、Nikkei neo booksという叢書の体裁からして、まあまあ一般向けのようです。少なくとも産業界の報告書とかほど専門的ではない。翌82年にはさらに一般向けと思われる『シリコン・バレー:リアル・タイム小説』(マイケル・ロジャース著 祥伝社)なる本が、83年には『シリコン・バレー逆おとり作戦』(落合信彦・著 集英社)が出ています。
 仮に訳者の藤村昌昭氏がシリコンバレーを知らなかったとしても、編集や校正の人がチェック入れたでしょ……? いや、そう言えばこの2年ほどで、「三銃士」の「銃士」を「マスケット銃兵」と訳してる本に2度も遭遇してるよな……(それぞれ「三人のマスケット銃兵」「アレクサンドル・デュマのマスケット銃兵」でした)
 イタリア語でもシリコンバレーはsilicon valleyですが、エーコが執筆中だった1980年代後半ではイタリア語訳(la valle del silicioとか)も使われてて原書でもこの語句だったとか、だからわざわざ「珪素峡谷」と訳したとか……?

 とグルグル考えてしまったので、その数行後に再会した「恐れ入り谷の鬼子母神」にも動揺しなかったどころか、著しく集中を欠いたまま読み進んでいると、今度は「猟奇魔」という訳語に遭遇。
 文脈からすると、どうやらただのオカルトマニアのことらしい。原文ではどんな語なのか見当もつきませんが、「オカルト」は普通に使ってるのに、なんで「猟奇魔」? しかも1回だけだった「珪素峡谷」と違って何度も出てくるし。

 こうなると「珪素峡谷」も「猟奇魔」もなんらかの意図があって、わざわざこんな訳語を当てたように思え、しかもその「意図」がどんなものかまったく見当がつかず、不可解さに恐怖すら覚える。
 たとえるなら、衒学的で難解な用語だらけだけど内容は興味深い講演を聞いていたら、突然「珪素峡谷」とか「猟奇魔」とか、普通に「シリコンバレー」「オカルトマニア」と言えばいいものを、なんの説明もなしにそんな奇怪な造語(?)が飛び出し、そのまま講演が進んでいくような。まったく理解不能な話よりも、理解できる話の中に所々そういう理解不能の「穴」が黒々と開いてるほうが、かえって不気味じゃないですか?

 そういうわけで結局、『フーコーの振り子』上下巻合わせて1000頁余りの印象はすべて、この不気味さに塗り潰されてしまった感がありますが、当初の目的であるテンプル騎士団の謎についてはどうだったかと言いますと。
 まず上巻130頁で、テンプル騎士団の「生き残り」についての伝説に言及されています。フランス王フィリップ4世による捕縛(1307年)を逃れてスコットランドに渡った騎士たちがいた、という伝説で、史実では壊滅させられたのはテンプル騎士団フランス支部だけで、他の国々のテンプル騎士たちは後日、別の騎士団に受け入れられたので「生き残り」は大勢いるんですが、伝説ではスコットランドに落ち延びたという騎士たちだけが注目されている。
 で、この場面では、騎士たちの逮捕時に伝説が生まれた、と述べるだけで、この伝説についての最も古い記録は誰某によるもの、等の役に立つ情報は無し。ぐぬぬ。
 この伝説の成立は、テンプル騎士団の「名誉回復」問題と関わりがあります。聖杯等のキリストの遺物と結びつけられているんで、彼らが「殺人と食人と男色(当時の価値観です)に耽る悪魔崇拝者」と信じられていたとしたら、そんな連中を聖杯と結びつけるはずがない。

 続いて同じく上巻167頁。「それから多くの人間がモレー(1314年に火刑に処されたテンプル騎士団総長)のことを殉教者として回顧することになり、ダンテはテンプル騎士団の迫害に義憤を感じていた大衆の声を反響させることになるのである」
 ダンテの生没年は1265-1321だから同時代人です。『神曲』が完成したのは1320年頃。

 結局、得られた情報はこれだけでしたが、とにもかくにも「ダンテ」「テンプル騎士」のキーワードでまず日本語検索。「ダンテは『神曲』でテンプル騎士団に言及している」「ダンテはテンプル騎士団を壊滅させたフィリップ4世を非難している」程度の情報しか出てこない。使える情報、つまり『神曲』のどの箇所(○○篇の第○歌)かといった情報は見つからない。「神曲」「テンプル騎士」の組合せでも同じ結果。
『神曲』の邦訳を全巻(複数の版がありますが、どれも全3巻)再読して探す気はないので、英語に切り替えて検索。すると、煉獄篇第20歌の「(フィリップ4世は)無法にもその強欲の帆を掲げ、かの神殿に乗り込みすらした」(英訳からの意訳)の箇所が、テンプル(神殿)騎士団壊滅の件で彼を非難している、と解釈されているらしい、ということが判りました。

 どうもダンテがテンプル騎士団に言及しているのは、この間接的な表現一ヵ所のみのようです。地獄篇第19歌でも言及している、という記事もありましたが(引用はなし)、確認したところ、フィリップ4世には言及しているもののテンプル騎士団の名前は挙げていないし、間接的な言及をしているようにも読めない。
 なんだか曖昧ですが、この検索で、上記の「それから多くの人間がモレーのことを殉教者として回顧することになり」についても、少なくとも1人はそういう人がいたことが判明しました。ジョヴァンニ・ヴィッラーニという人物で、日本でもかなり有名らしくWikiに記事があります。それによると、ダンテの元同僚で銀行家、政治家にして『新年代記』(邦訳なし)の作者。ただしこのWiki記事も含め、ヴィッラーニとテンプル騎士団との関わりに言及した日本語記事はないようです。
 複数の英語記事によると、この『新年代記』の中で、火刑に処されたテンプル騎士たちに同情して「殉教者」と呼んでいるそうです。

 ここまで判れば、当初の目的は充分果たせました。逮捕・処刑当時からテンプル騎士団に同情的な意見が少なくなかったのであれば、「名誉回復」はすでに始まっていたことになる。動揺しながらも1000頁読破した甲斐があったというものです。

 ところで、この話にはおまけがあります。『神曲』におけるテンプル騎士団への言及が、本当に上記の曖昧な表現だけなのか、英語検索だけでは判らなかったので、イタリア語検索もしてみたわけです。
 イタリア語はねー……英語・フランス語・ドイツ語・スペイン語はラテン語(あるいはラテン語経由のギリシア語)由来の単語が多く、つまり仏語・独語・仏語をちょっと齧っただけの私でも、英語に綴りが似た単語を手掛かりに、文章をざっと流し読みすれば、何について書いてあるかくらいは推測できる場合が多かったりするのです(単語の組合せ次第では全然推測できなかったりもするけど)。イタリア語も英単語と語源を同じくする単語が多いんですが、仏・独・西語に比べて英語のそれと綴りの違いが大きいものが少なくない。
 たとえばsecretはラテン語secretusが語源で、仏語secret、独語sekret、西語secretoなのに、イタリア語はsegreto。英語でカ行発音のcはドイツ語の綴りではほぼ必ずkなので解りやすいですが、イタリア語では必ずgになるわけではないのでややこしい。ロシア語はキリル文字ですが、ラテン文字に置き換えれば綴りが近い単語は、むしろイタリア語より多いかもしれません。secretだったらсекρет(sekret)だし。
 仏・独・西語もちゃんと読むなら辞書と文法書に首っ引きになるとはいえ、初見の流し読みで内容がおぼろげにでも推測できるかできないかは大きい。

 そういうわけで、より難易度の高いイタリア語検索もやってみたんですが、判ったのはやはり『神曲』におけるテンプル騎士団への言及は煉獄篇第20歌の曖昧な表現だけらしい、ということだけでした。それもキーワードが「ダンテ」「テンプル騎士」の組合せでは情報がまったく出てこず、「神曲」「テンプル騎士」の組合せでもようやく5番目に出てくる。
 じゃあ「テンプル騎士」と「ダンテ」あるいは「神曲」の組合せで出てくる情報はどんなものかというと、「ダンテはテンプル騎士だった」「隠れテンプル騎士、ダンテ」みたいなタイトルの記事ばっか。それも大量に。なんだこれ。

 実は日本語で「ダンテ」「テンプル騎士」で検索すると一番上に出てくる記事に、その答えがありました(最初に日本語検索した時点では、探してる情報とは無関係だからとスルーしてた)。
 2012年で更新が止まっている個人のブログなのでリンクは張らないでおきますが、この記事および同ブログ中の関連記事によりますと、ウジェーヌ・アルーEugène Aroux(1793-1859)という人が、ダンテはFrater templarinus(ラテン語「テンプル騎士団の兄弟」)というテンプル騎士団の在俗会(在俗のまま特定の修道会規則に準じた信仰生活を送る人々の会)の長だったとか(テンプル騎士団は修道会でもある)、『神曲』天国篇第31歌で導き手として聖ベルナルドゥスを登場させたのは彼がテンプル騎士団の規則を作った人だからだとか、ダンテの思想はフリーメイソンのそれに通ずる、といった説を提唱したんだそうです。

 アルーについてはWikiではフランス語記事しかなく、そこでは思想家とかではなく政治家とされていて、ダンテ研究についても言及されていませんが、Wiki以外の記事(主にフランス語)では、ダンテとテンプル騎士団の関係を論じた著書の作者として紹介されています。
 で、イタリアの「ダンテ=テンプル騎士」説は、明らかにアルーが挙げた「テンプル騎士団の兄弟」会や天国篇第31歌の聖ベルナルドゥスのネタを根拠としています。しかし大半の記事がアルーの名は挙げていない。上記の日本語ブログによれば、アルーはダンテが「テンプル騎士だった」「フリーメイソンだった」とは言ってませんからね。ダンテがメイソンだったとするイタリア語記事もそれなりにあるようですが、アルーに依拠しているかは不明。まあテンプル騎士団だったということであれば、オカルト・陰謀論好きは自動的にメイソンに結び付けるでしょう。
 それに天国篇第30歌のベアトリーチェが「白いストール(肩掛け)の修道士たちに囲まれ、守られている」とある「白いストールの修道士たち」とは実はテンプル騎士団のことだ、なぜなら「白いストール」とはテンプル騎士団の制服である背中に赤い十字架が描かれた白マントのことだからだ、という強引すぎるこじつけは、さすがにアルーとは無関係なんじゃないかと。

 ダンテの『神曲』といえばルネサンスの嚆矢であり、名前くらいなら日本の中学生でも知っている、文字どおりの世界的偉人の世界的文学遺産です。それが「ダンテ」(あるいは「神曲」)と「テンプル騎士」の組合せでイタリア語検索すると、「ダンテはフィリップ4世がテンプル騎士団を壊滅させたことを『神曲』煉獄篇第20歌で非難している」という学術的な記事ではなく、「ダンテはテンプル騎士だった」「隠れテンプル騎士、ダンテ」ネタがわんさか出てくるって……ええんかイタリア人。

 このネタは『フーコーの振り子』では取り上げられていません。エーコの博覧強記がサブカルチャーにも及んでいることは、『フーコーの振り子』という作品自体が証明しているので、1980年代後半当時のイタリアでは、このネタは全然知られていなかったか、無視されるほどマイナーだったのでしょう。
 何がきっかけで、この現状に至ったのか。ダン・ブラウンの『インフェルノ』(未読)が『神曲』を小道具にしてるそうで、ダンテ=テンプル騎士団/フリーメイソン説は出てこないようだけど、きっかけにはなったかもしれない。というわけで『インフェルノ』の原書とイタリア語訳の出た2013年より前に、「ダンテ」(あるいは「神曲」)と「テンプル騎士」に関するイタリア語記事がどれくらいあったか、ググってみました。
 2012年以前ですでに結構な数があるんで、『インフェルノ』がきっかけではないですね。明らかに2013年以降、さらに増えてますが。

 これ以上調べるのは私の語学力では無理ですが、ひょっとしたら『フーコーの振り子』がダンテのテンプル騎士団擁護に言及したことがきっかけで、イタリアのオカルトマニアによるウジェーヌ・アルーの「発見」に至ったのかもしれない。実際にそうだったとしても巡り巡っての結果でしょうけど、「嘘(フィクション)から出た真(現実)」という『フーコーの振り子』そのままの展開だったことになりますね。

先日の記事「テンプル騎士団とフリーメイソンの謎」

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著作(エッセイなど)、インタビューほか 2018~

一番上が最新です(下に行くほど古い)。

エッセイなど

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『トーキングヘッズ叢書』№83「音楽、なんてストレンジな!」(2020年7月29日発売)

 もう3ヵ月も前になりますが、エッセイ「禁断の快楽、あるいは悪魔の技――イスラムにおける音楽」を寄稿しております。

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 3ヵ月も告知が遅れた理由と、内容の補足(こぼれ話的なもの)はこちら

 

 

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『トーキングヘッズ叢書』№82「ものやみのヴィジョン」
2020年4月30日発売

 エッセイ「アポローの贈り物――梅毒をめぐる幾つかの逸話と謎」を寄稿させていただきました。
 梅毒については、いつかSFのネタにしたくていろいろ調べていたので。

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 告知が半年も遅れた言い訳と、内容の補足(こぼれ話的なもの)はこちら

 

 

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『SFが読みたい! 2020年版』(2020年2月6日) (Amazonへのリンク)

「2020年の私」にコメントを書かせていただきました。
後ろ向きのコメントが続いていた「20××年の私」、ようやく前向きなコメントが書けましたよ。

 

 

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『TH(トーキングヘッズ叢書)』№81「野生のミラクル」
2020年1月29日㈬発売

 エッセイ「密林のパラダイスーー管理された野生」を寄稿させていただきました。
 今回のテーマの「野生」はレヴィ・ストロースの『野生の思考』から、ということなので、そのレヴィ・ストロースが文化人類学の道へと進んだ最初の一歩が『悲しき熱帯』、というわけで『伊藤計劃トリビュート』(Amazonへのリンク)収録の拙作「にんげんのくに」で描いたアマゾナス先住民についていろいろ書きました。
「にんげんのくに」の「人間」族のモデルはヤノマミ族ですが、他のアマゾナス先住民についてもたくさん調べたので、これを機会に総浚い。「にんげんのくに」後記で述べた「アマゾナス先住民の伝統文化と言われるものは、実は大して伝統がない」説を、より詳しく論じました。具体的には『アギーレ 神の怒り』とか『アナバシス』とか「異国風景」とか「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」とか。
「にんげんのくに」をお読みになった方も、そうでない方も、御興味を持たれましたら是非。「野生」はもちろんアマゾナスに限ったことではないので、他の執筆者の方々が論じる多彩な「野生」を、私も一読者として楽しみにしています。

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TH(トーキングヘッズ叢書) 』№79「人形たちの哀歌」
2019年7月31日発売予定

「幕屋の偶像(アイドル)――物そのもの(フェティッシュ)への眼差し」というエッセイを書かせていただきました。
 まず「人形愛」を定義したうえで、サーデグ・ヘダーヤトの短篇「幕屋の人形」を取り上げ、人を含む動物の具象表現が禁止されている(とされる)ムスリムであるヘダーヤトが、なぜかくも「正しく」人形愛を描くことができたのか。その謎を解くべく、イスラムにおける偶像観を考察します。
  ヘダーヤトの別の短篇「最後の微笑」も取り上げます。
 ヘダーヤトの評論は、これで二度目になります。前回は『早稲田文学』2015年秋号(Amazonへのリンク)のアンナ・カヴァン特集で、まあつまりカヴァンとヘダーヤトを一緒に論じたわけで、ごく一部で「空気読まない」と好評(笑)をいただきましたが、今回は原稿の段階で何人かの方々に読んでいただいたところ、「イスラムについて知らなくても解りやすい/おもしろい」と好評(笑、でない)をいただいております。
 自分が興味を持っていることが、どう興味深いのか他人に伝えることができるのは、物書き冥利につきます。
『TH』№76と77では、規定枚数に収めるのに少々苦労したので、今回は「できれば少し増やしていただきたいのですが」とお願いしたところ、なんと2頁も増量していただけました(3頁→5頁)。書きたいことを書きたいだけ書けて、たいへん楽しかったです。
 もう一つ、今回は是非とも「イランの対“バービーとケン”人形、“サラとダラ”」の画像を使いたかったのですが、あいにく自分では実物も画像も所持しておらず、編集の方々に無理を言って画像を探していただきました。この場を借りて、改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。
 バービーを「欧米からの文化侵略」と見做すイラン政府が2002年に製造販売を開始した、「イスラム的に正しいお人形」サラ(宗教指導者のお墨付き)。なかなか味のあるデザインですので、是非周知させたいと。

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内容に関する補足の記事はこちら

 

 

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『SFが読みたい! 2019年版』(2019/2) (Amazonへのリンク)

 今年も特別企画「2019年のわたし」に書かせていただきました。
 毎年、「201○年のわたし」の原稿を書く時期に当たる1月上旬は、寒さによる不調で思考も後ろ向きになります。精一杯前向きなことを書いたつもりでも、後日、『SFが読みたい!』で読み返すと、「ああ、なんて後ろ向きな……!」と頭を抱える羽目になるので、今年は開き直りました。どうもすみません。

 

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『TH(トーキングヘッズ叢書)』№77「夢魔~闇の世界からの呼び声」
2019年1月30日発売

「ノイズから物語を紡ぐ~脳科学の見地から夢を解く」というエッセイを寄稿させていただきました。

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「ノイズから物語を紡ぐ」こぼれ話的なもの(今回は1回だけです)

 

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『TH(トーキングヘッズ叢書)№76「天使/堕天使~閉塞したこの世界の救済者」』
2018年10月30日発売

「イスラムの堕天使たち」というエッセイを寄稿させていただきました。

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補足あれこれ
「ヤズィーディーの信仰について Ⅰ」(長いので何回かに分けました)

 

 

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『SFが読みたい! 2018年版』(2018年2月10日発売)
 SF作家たちによるエッセイ「2018年のわたし」に書かせていただいております。
 体調が悪い時に書いたので、少々気弱な内容です。すみません。補足と近況報告はこちら

 

 

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「禁断の快楽、あるいは悪魔の技」補足

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『トーキングヘッズ叢書』№83「音楽、なんてストレンジな!」(2020年7月29日発売)

 もう3ヵ月も前になりますが、エッセイ「禁断の快楽、あるいは悪魔の技――イスラムにおける音楽」を寄稿しております。

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『TH』№82の発売直前の4月下旬からストレスで心身の不調に陥り、それでも何もしないとさらにストレスが溜まるので、№83にも参加させていただき、お蔭でだいぶ持ち直すことができました。ただ、気分は内向きのままでブログで告知をするには至らず(単に気分が乗らなかっただけ)。
 そうこうする内に9月に入ってすぐ、今度は夏バテで体調崩してしまいました。自律神経がやられてるんでメンタルへのダメージが直にフィジカルにも来るんですが、この時は完全にフィジカルのみの不調です。以前は夏が来るたびにゾンビになってたのが、細心の注意で健康維持に努めるようになった甲斐あって、一昨年と昨年は無事に夏を乗り切れていたのですが、今年はなんぼなんでも暑すぎました。何しろ3年前からベランダで育てていたミントが死滅してしまったくらいです。毎年夏は元気がなくなっても秋には回復してたのに。除草剤でも枯れないと言われる、あのミントが。エスニック料理(本格的なのじゃなくて、なんちゃってですが)に使えて便利なので、また種を買います。

「イスラムにおける音楽」ということで、割と多くの人が「イスラムは音楽を禁忌とする」という言説を聞いたり読んだりしたことがあると思います。しかし一方で、ベリーダンスの伴奏などの「アラブ風の音楽」をイメージすることのできる人も多いと思います。まあベリーダンスは元来、イスラム世界における異教徒やムスリムでも被差別階級だった芸人が踊るものでしたが、とにかくベリーダンスの伴奏に限らずイスラム世界には音楽の伝統がちゃんとある。
 あるいはタリバンが音楽を禁止したというニュースを憶えている人もいるでしょう。ではイスラムで音楽を禁止するのは原理主義者なのかといえば、もっと最近ではISの処刑動画のBGM、「ナシード」が有名になりました。このように一見矛盾した状況は、どう説明できるのか?

 あまりテーマを広げると散漫になってしまうので、拙稿ではイスラムにおける音楽を「音文化」の観点に絞って論じました。
 アラブの人々は伝統的に、言葉(アラビア語)を非常に重視してきました。アラビア語が押韻しやすい構造なのもあって、詩とその朗詠が非常に好まれました。そのため歌もシンプルな旋律と伴奏のものが好まれ、歌詞の聴き取りを妨げる凝った旋律や伴奏は発達しませんでした。歌詞のない器楽曲は言うまでもありません。
 一方でアラブにとって「意味のある言葉」が中心でない音楽、つまり歌詞よりも旋律を重視した音楽、歌詞のない器楽曲、異国語の歌は危険なものでした。それらは人を熱狂させ、時には死に至らしめさえするものでした。つまりアラブの人々はかつて、「言葉」に対しても「音楽」そのものに対しても、非常に感受性が強かったと言えるでしょう。神の言葉であるクルアーンも韻を踏んだリズミカルな文体であり、詩と同じく朗詠されました。

 しかしイスラム世界の拡大とともに異国の音楽が大量に流入し、それらはアラブの人々を熱狂させると同時に恐れさせました。あまりにも魅力的で、到底理性を保てない。それは「神から心が逸れている」ことではないか、と。またクルアーンを、言葉が聞き取れないほどメロディアスに「歌う」ことも流行し、これもまた信心深い人々を危惧させました。

 というのが、「音文化」の観点から見た「イスラムにおける音楽」です。前イスラム時代と初期イスラム時代におけるアラビア語と音楽に対するアラブの人々の感性が、イスラムにおける音楽の位置付けを決定したのは間違いないでしょう。しかしそれ以降の、9世紀後半頃からの音楽の位置付けには、イデオロギーも大きく関わっています。
 つまりイスラムの多様化に不安を覚えた保守的な人々が、「本来のイスラム」に回帰しようとし、その一環として音楽を「非アラブ」「非イスラム」として排除しようとしたということです。そうした人々の多くは、かつてのアラブのようなアラビア語や音楽への鋭い感受性はもはや持っておらず、ただただ「異質なもの」を憎んだのでしょう。

 具象芸術の排斥が強まるのも同じ時期・同じ理由からです。前イスラム時代から初期イスラム時代のアラブの人々は、音楽の場合と同じく、自分たちの手で具象芸術を作ろうとはしないのに、異国人の手による絵画や彫像は非常に好みました。クルアーンは偶像崇拝は禁じていますが、装飾品としての偶像は禁じておらず、むしろ推奨するような下りすらあります。にもかかわらず後世のムスリムは、具象芸術はすべて非アラブ/非イスラムだとして排除しようとしたわけです。

 ところで初期イスラム時代以前のアラブの嗜好について、音楽の場合はアラビア語と音楽に対する感受性で説明がつきますが、具象芸術の場合は説明がつきません。確かにかつてのアラブの人々は自分で作る場合は絵画や彫刻よりカリグラフィーを好みましたが、「アラビア語の偏重」を理由にするには当時の識字率が低すぎる。
 ただ、無文字ではないが識字率の低い社会では往々にして、文字そのもの、書かれた言葉、書物といったものが魔力を持つという信仰が生じるので、識字率が低くてもカリグラフィーが好まれる説明にはなる。だから当時はおそらくアラビア語の書物は1冊も存在せず、ムハンマド自身もおそらく文盲であったにもかかわらず、神の言葉はクルアーン(アラビア語で「読誦されるもの」)というかたちで下されたわけです。天にはクルアーンの「原型」である1冊の書物があるんだそうで。
 しかしそれでも、アラブが自ら具象芸術を作らなかった理由は不明のままになる……まあここまでくると、補足ではなく余談ですが。

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「アポローの贈り物」補足 Ⅱ

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『トーキングヘッズ叢書』№82「もの闇のヴィジョン」(2020年4月30日発売)

 もう半年近くも経ってしまいましたが、エッセイ「アポローの贈り物――梅毒をめぐる幾つかの逸話と謎」を寄稿しております。

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 拙稿の補足(こぼれ話的なもの)Ⅰおよび半年も告知が遅れた言い訳はこちら

 さて、補足の続きです(今回で終わります)。
「天才が破滅的に生きるなら、自分も破滅的に生きれば天才になれる」と勘違いした人は大勢いたかもしれませんが、「あの天才やあの天才(ニーチェ、ベートーヴェンその他)が梅毒なら、自分も梅毒に罹れば天才になれる」と勘違いした人は、史上一人もいなかったと思います。これを想像上で実行したのがトーマス・マンの『ファウストス博士』(岩波文庫)とトーマス・M・ディッシュの『キャンプ・コンセントレーション』(サンリオSF文庫)です。
 私が知る限り、「梅毒性天才」という幻想を題材にしたフィクションはこの2作品だけですが、「梅毒幻想」という切り口で両作品が並べて論じられることは少ないようですね。『キャンプ・コンセントレーション』はトーマス・マンに献辞を捧げていますが、『ファウストス博士』よりも『魔の山』との関連で論じられているっぽいです。

 私は『キャンプ』も『ファウストス博士』も「梅毒幻想」小説として読んだのもあって、『キャンプ』が『魔の山』のオマージュだとか言われても、あまりピンと来ないんですが、何より大きいのは『魔の山』を「モラトリアム小説」として読んだからでしょうね。
『魔の山』を読んだのは、デビュー作『グアルディア』の執筆を始めた頃かその直前の2002年夏で、パワハラで退職に追い込まれた挙句に感情が完全にフラットになってしまった私を見かねたのか、父が「まあしばらく好きなことをしてろ」と猶予をくれた、紛うかたなきモラトリアム状態にあった時でしたから、あれこれ言い訳を重ねて下界に降りない主人公の心情・言動がいちいち刺さり、それだけに彼の最期は衝撃的だったんですが(と反応できるまでには回復できていたわけです)、『キャンプ』のほうはまったくモラトリアムではありませんからね。それでも前半はまだ主人公は傍観者でしたが、後半はその余地すらなくなる。

「梅毒幻想」小説として括ったとはいえ、『キャンプ・コンセントレーション』を読んだのは『ファウストス博士』の数年後でしたから、今回(半年以上も前ですが)続けて再読して、両作品の刊行が21年しか隔たっていないことに、改めて驚かされました。今から21年前だと1999年ですよ。文学史的には全然最近だ。いくら『ファウストス博士』が意図的に古めかしいスタイルで書かれたのに対して『キャンプ』は前衛中の前衛だったとはいえ、この落差はちょっとすごい。

 拙稿でも触れましたが、『キャンプ・コンセントレーション』が刊行された1968年は、タスキギー大学による史上最悪の梅毒実験が進行中でした(あくまで「最悪」であって、規模は劣るものの梅毒の人体実験は過去にも行われていた)。この事件の最もおぞましい点は、40年にもわたって数百人の被験者を対象に公然と行われていた(医学雑誌に論文が掲載されていた)にもかかわらず、止めようとする人がほぼ皆無だったことです。まあ皆無ではなかったお蔭で、1972年に中止されるのですが。
 ディッシュが執筆時に実験について知っていたかどうかは不明です。しかし日本語で「タスキギー梅毒実験」「キャンプ・コンセントレーション」でググっても1件もヒットせず、英語でも数件。それらの記事でも単に同時代性を指摘するか、「想像だけど、知っていたのではないか」「実験が明るみに出たのは1972年だから、知らなかったはず」(実際には情報は公開されていたわけだが)等の憶測だけで、たとえばディッシュが実験について言及した記録がある/ない、といった確実性のあるデータはないようです。

 個人的には、ディッシュが何かしら知っていた可能性はあるとはいえ、せいぜいが「過去にそういう実験が行われていたらしい」程度だったろうと思います。『キャンプ・コンセントレーション』では梅毒実験の犠牲者たちの中心的人物に黒人が据えられており、あたかもタスキギーの実験を告発しているかのようですが、進行中の実験だと知っていたら、もっと明確に告発しているでしょう。

 ディッシュが知っていた/知らなかった、よりも重要なのは、そしてほぼ確実に知らなかったであろう実験を告発するかのような小説を書いたことよりも重要なのは、作中の、つまり虚構の「犠牲者たち」が世界に死と破壊と混沌をもたらす結末です。現実ではその4年後にタスキギー実験は中止されたけれど、数百人に及ぶ犠牲者たちが救済されたとは到底言えない。ディッシュはあたかもその「現実」を予見して、犠牲者たちに代わって虚構の中で世界に「復讐」を果たしたかのようです。
 拙稿では紙幅が限られていることもあって、充分な説明なしに「復讐」とか「報復」といった強い言葉を使うと誤解を招きかねなかったので「救済」と表現しましたが、誰かが代わって報復してくれるのは、ある種の救済ではあります。
 もちろん虚構は虚構でしかないのですが、その現実も含めて、それがディッシュという作家の本質ではないかと思います。

 最後に、拙稿の締めでも触れた梅毒の起源をめぐる論争について。
 新大陸起源説に、オリエンタリズム(この場合はすべての「非西洋」への蔑視)がないか問うのは意義のあることですが、最近の資料で梅毒の起源に言及したものがいずれも(といっても2、3点読んだだけですが)、新大陸起源説を偏見と断じ、コロンブス以前から存在していた可能性が高い非梅毒のトレポネーマ感染症や、90年代に発見された新大陸の古人骨に見られる梅毒の痕跡といった事実を無視しているのが気になります。政治が科学を抑圧するのは、政治が科学を悪用するのと同じくらい有害ですよ。

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「アポローの贈り物」補足 Ⅰ

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『トーキングヘッズ叢書』№82「もの闇のヴィジョン」(2020年4月30日発売)

 もう半年近くも経ってしまいましたが、エッセイ「アポローの贈り物――梅毒をめぐる幾つかの逸話と謎」を寄稿しております。

アトリエサードさんの公式ページ
Amazonのページ

 発売当時は告知する気力がなかったんですが、やっと諸々回復してまいりましたので。「先の予測がつかない」という状態が続くのは、拷問のマニュアルにもあるくらい人間にストレスを与えるものだそうで、まあとにかく半年前は、自分の活動を宣伝する気力が湧かないくらい気持ちが内向きになっておったのですよ。

『TH』の企画テーマは毎回、何ヵ月も前に決められるものであり、コロナ禍と重なってしまったのはまったくの偶然です。というわけで、内容もセンセーションを狙ったものではありません。
 私が選んだ「梅毒」は、いつかSFのネタにしようと思って調べていたものです。「アポローの贈り物」というタイトルは、梅毒の洋語名「シフィリス syphilis」の由来である16世紀のラテン語の長詩「シフィリスあるいはフランス病」から。

 この詩は邦訳されておらず、内容についてはスティーヴン・ジェイ・グールドの『ぼくは上陸している』(早川書房)の第11章を参照いたしました。詩の作者はジロラーモ・フラカストロというイタリア人医師です。この人については、資料によって「梅毒の新大陸起源説を否定した」「新大陸起源説を支持した」、「梅毒の治療薬として水銀を推奨した」「グアイヤック(西インド諸島産の木)を推奨した」とまちまちなんですが、『ぼくは上陸している』によると、「シフィリスあるいはフランス病」の第1部と第2部では梅毒の新大陸起源説を否定して水銀療法を推奨し、第3部では新大陸起源説を支持してグアイヤック療法を推奨しているそうです。

 どういうことかといいますと、フラカストロは1510年代初めに「シフィリス」の第1部と第2部を書き上げたのですが、出版前にグアイヤックという「特効薬」が登場した。そこで10年以上をかけて第3部を書き上げ、第1・2部と第3部の内容の食い違いはそのままに1530年に出版したのでした。
 では、なぜ食い違いをそのままにしたのか。実はこのグアイヤックの販売と施療には、フラカストロが支持する神聖ローマ帝国カール5世の利権が絡んでおり、なぜカール5世を支持したのかというとフランス王シャルル8世のライバルだからで、フラカストロは1494年にイタリアに侵攻したシャルル8世とフランスを憎悪していたのでした。
 そもそもヨーロッパにおける梅毒の最初の大流行は1495年にナポリにいたシャルル8世の陣中で発生したとされていて、フラカストロをはじめとするイタリア人は梅毒はフランス人が原因だと信じていたのでした(だから「シフィリスあるいはフランス病」)。

 つまりフラカストロが第3部を書いたのは、まったくの政治的な動機からで、医師としてはおそらくグアイヤックよりも水銀のほうを支持していたし、フランス憎しとしては梅毒の起源は新大陸ではなくフランスだと信じていたけれど、グアイヤックは西インド諸島でしか採れないので新大陸起源説を支持せざるを得なかった、といったところでしょう。でも本音では水銀推奨、新大陸起源説否定派なので、第1・2部もそのまま出版したのではないかと。
 ちなみにフラカストロの詩「シフィリスあるいはフランス病」で西インド諸島の住民が「アトランティスの末裔」とされているのは、スペインの歴史家フランシスコ・ロペス・デ・ゴマラ(1566?没)が提唱した説に基づいています。

 恐ろしい疫病(梅毒)をもたらしたのが第2部でも第3部でもアポロー(ラテン語なので「アポロン」ではない)なのは、彼が太陽だけでなく病も司るから。ギリシア・ローマ神話に限らず、古代の医神は疫神でもありました。病を癒す力を持つ者は病をもたらす力も持つと信じられていたのです。たとえば黒死病がユダヤ人のせいにされたの原因の一つは、彼らの罹患率が低かったことにあります(実際にはキリスト教徒より清潔だったからですが)。
「アポローの贈り物」という拙稿のタイトルは、「梅毒が創造性を高める」という俗説とアポローが芸術神でもあることに因みます。「アポロン(アポロー)的」芸術といえば、「ディオニュソス的」芸術と対立する理知的なもの、ということになり、一方、梅毒がもたらすとされた創造性は退廃、狂気、死と結びついたディオニュソス的芸術のほうが相応しい、ということになるんでしょうが、まあ古代ギリシアでも理性が重んじられたのはかなり後の時代で、アポロンも古い神話ではデーモニッシュな側面が強いですからね(疫神であることからも明らかなように)。ギリシアで理性が重んじられるようになり、かつアポロンが「理想のギリシア人」の典型とされた結果、外来の神であるディオニュソスが狂気を担うようになったと言える。まあそもそも「アポロン的」「ディオニュソス的」という対立概念自体、近代のものですけど。

 梅毒によってもたらされる創造性、という俗説の成立過程は、C・ケテルの『梅毒の歴史』(藤原書店)を参照しています。しかしこの本、いろいろ参考にはなったんですが、凝った言い回し、婉曲表現、反語が多く、何より読者が知識を有しているという前提でまともに解説してない事柄が少なくない。たとえば「遺伝梅毒」という謬説についてかなりの紙幅を割いてるんですが、大前提となる「梅毒は遺伝しない」という事実について本文中で一切言及していない。口絵のキャプションに「遺伝梅毒という神話」という表現があるのが唯一の言及。いや、わりと専門的な本なんで、梅毒が遺伝しないことを知らずにこの本を読もうという気を起こす人はいないかもしれないにしても。
 これだからフランス人の書く文章は苦手というか、これでも相当マシなほうというか。

 拙稿で言及している、遺伝梅毒説と優生学の結びつきは『比較「優生学」史』(現代書館)で指摘されています。この本はドイツ、フランス、ブラジル、ロシアの優生学について、それぞれ別の著者が論じているわけですが、遺伝梅毒説がフランス優生学の土壌から生まれた、という指摘があるのは、同書のフランス篇ではなくブラジル篇のほうです。ブラジルの優生学はフランスから導入したものだそうで。

 で、『梅毒の歴史』によると「梅毒性天才」(便宜上、こう呼びます)という概念を「創作」したのは、フランスの作家レオン・ドーデ(1867-1942)。「最後の授業」で知られるアルフォンス・ドーデ(1897没)の息子です。拙稿に引用したレオンの「梅毒讃歌」は『梅毒の歴史』から。
『梅毒の歴史』の訳者である寺田光徳氏は著書『梅毒の文学史』(平凡社)の中で、レオンがこの概念を創作したのは、父アルフォンスの死を不名誉なものとしたくなかったからだろうと推測しています。まあそれも確かに動機の一つではあるでしょうけれど、それ以上に大きかったのは、レオン自身の「遺伝梅毒」への恐怖だったのではないでしょうか。
 梅毒は潜伏期間が長いせいもあって最終段階が狂気(進行性麻痺)であることは長いこと認識されておらず、19世紀後半にアルフレッド・フルニエによって初めて明らかにされます。そこまではよかったんだけど、このフルニエ、「遺伝梅毒」説(提唱されたのは18世紀末)を優生学と結びつけた張本人でもある。優生学の言うところの「人類の退化」の一因が遺伝梅毒かもしれない、と。

 この見解を普及させたのが息子のエドモン・フルニエで、お蔭で遺伝梅毒は人類の退化の一因「かもしれない」ではなく、一因に確定されます。で、エドモンの友人だったのがレオン・ドーデというわけです。レオンは元は医者志望で、エドモンと知り合ったのも医大在学中。正規の医学教育を受けているので、当時の「正統科学」だった優生学を把握しているし、その優生学に沿った遺伝梅毒説も同様。
 父親の梅毒感染後に生まれたレオンは、遺伝梅毒だということになる。遺伝梅毒患者は、知的・精神的・肉体的に劣っているとされていました。遺伝梅毒説そのものを否定する代わりに、レオンは「梅毒性天才」という概念を創造することで実に鮮やかにパラダイムシフトを起こしたわけです。自分を天才だと宣言したのも同然で、しかも世間に認められたわけだから、鮮やかと言うほかない。

 もちろんレオンとしては、自分が惨めな劣等者である可能性を否定したかったのでしょうけれど、それとはまた別に、大作家の息子として自分の才能の「裏付け」が欲しかったのではないでしょうか。たとえその裏付けが梅毒という忌まわしい病気であっても。
 そして自らの才能の保証を梅毒に求める以上は、父親の「天才」も梅毒によるものだとせざるを得なかった。実の父親であろうとなかろうと、他人の才能の源泉を外挿的なもの、それも梅毒(現代よりさらにイメージが悪かった)だとするのは、その人の擁護どころか侮辱以外の何ものでもない、と私は思いますけどね。「フランス、アルザス、フランス、アルザス」が「天才」か? という疑問はさておき。

 何はともあれ、晩年のアルフォンス・ドーデが自らの闘病生活を書き綴った日記やメモが、死後30年余りして未亡人によって編集され、刊行されたのは、「梅毒性天才」論が普及したお蔭でしょう。出版を意図したものではないこともああってか、なかなかの傑作だそうで、ジュリアン・バーンズ(『イングランド・イングランド』とか)が自ら英訳して『In the Land of Pain』のタイトルで出版しています。

 レオン・ドーデが「梅毒性天才」論を捻り出すにあたって、ロンブローゾ(1835-1907)の天才論、俗に言う「天才と狂人は紙一重」を念頭に置いていたのは間違いないでしょう。そして一時はロンブローゾの天才論と同じくらい人口に膾炙します。
「天才と狂人は紙一重」論の天才は、ロマン主義的な破滅型天才、「ディオニュソス的」天才になりますが、この考えが受けたのは、「天才が破滅的に生きるなら、自分も破滅的に生きれば天才になれる(に違いない)」という勘違いを生む余地があったからですが、世の中、そんな人ばかりではない。より広範で根源的で潜在的な理由としては、天才を「狂人と紙一重」と貶めることができるから、じゃないですかね。

 そして「梅毒性天才」論は、「天才と狂人は紙一重」論以上に天才を貶めるものです。梅毒治療法が確立された現代ではこの俗説/謬説も忘れられつつありますが、完全に過去のものとなるのはまだ先でしょう。
『性病の世界史』という本があって、原書はドイツ語で2001年刊、2003年に草思社から邦訳が出て、16年に文庫化されています。拙稿を書くに当たって、参考になるかと梅毒についての記述(大半を占める)だけ読んだんですが、いや、これがひどい。著者のビルギット・アダムは医学や科学を学んだことはなく、梅毒の蔓延でドイツの温泉文化が廃れた等、そこそこ専門的なネタもありますが、まあこれも諸説ありますし、ドイツ人だから他国の人よりはハードルの高いネタではないだろうし。全体的にはミソもクソも一緒というか、現在は(おそらく刊行当時も)はっきり否定されているか極めて疑わしいとされている著名な学者や芸術家たちの梅毒説(後天性あるいは先天性)を「事実」として列挙している。
「梅毒性天才」論がどれだけ人気があったかを知るには役に立つ本ですが、まだ売れてるわけですからね。鵜呑みにする読者もいるのでしょう。

 長くなったので続きます。

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テンプル騎士団とフリーメイソンの謎

 テンプル騎士団について少々知りたかったんで、『テンプル騎士団の謎』(レジーヌ・ベルヌー著 池上俊一・監修 南條郁子・訳 創元社)を読んだのでした。まあテンプル騎士団自体については『魔女狩りの社会史』(ノーマン・コーン 山本通・訳 岩波書店)で充分で、知りたかったのは騎士団についての「伝説」だったから、『テンプル騎士団の謎』は最終章と巻末の「資料編」しか読まなかったんですが。
 とにかくそれで初めて、「フリーメイソンはテンプル騎士団の末裔」という「伝説」を知ったわけです。陰謀論やオカルトは、それを生む背景はともかく、それ自体には興味がないんで。
『テンプル騎士団の謎』資料編には、この「伝説」の「作者」についての記述がありました。「歓迎の辞」というものの中で、初めてその説を唱えたらしいです。引用もあって、十字軍におけるテンプル騎士団の目的は、エルサレムに神殿を再建することだけではなく天国に神殿を築くことだとか、そういう主旨のことを述べたそうです。
「神殿」というのはテンプル騎士団の「テンプル」のことなんでしょうが、ベルヌーの記述がどうにも不明瞭なので、まず日本語でググりました。で、このフリーメイソン=テンプル騎士団伝説の「作者」の名がアンドリュー・マイケル・ラムジーだということまでは判りました。そっから英語に切り替えて、Andrew Michael Ramsay はスコットランド人で生没年は1686-1743だということが判りました。

 整理すると、フリーメイソン(自由な石工)はまず英国で広まり、それをヨーロッパ大陸に伝えたのはジャコバイト。ジャコバイトというのは1688年のいわゆる名誉革命で追放されたジェームズ2世のスチュアート朝復興を目指す勢力で、何度も失敗してはフランスに亡命することを繰り返した。その中にはメイソンも大勢いて、彼らがフランスにその思想を伝えたわけです。1725年、パリにヨーロッパ大陸初のロッジ(支部)が設立。
 ラムジーはフランスに亡命したジャコバイト兼メイソンの1人で、パリのロッジの有力者でした。ベルヌーの言う「歓迎の辞」は1737年に新規会員の歓迎会で行われた講演のことです。フランス語で行われ、Discours de Ramsay「ラムジーのディスクール」として知られるようになります。「ディスクール」discoursは英語のdiscourseと同じで「講演」です。

 英語Wikiのラムジーの記事中のこの講演についての解説によると、
「しばしば誤って繰り返されるのは、ラムジーが彼の講演の中で、テンプル騎士団に言及した、ということである。実際には彼はその騎士団にはまったく言及していないにもかかわらず――彼はホスピタル騎士団に言及したのである。しかし察しのよい聴衆は、彼の十字軍騎士団への言及はテンプル騎士団への間接的な言及であろうと理解した」

 え、そうなん? 

 とりあえずここでテンプル騎士団、ついでにホスピタル騎士団の説明をしておきます。どちらも十字軍に関連して設立された修道騎士団です。団員は修道士でもあるので修道騎士団。戦うお坊さんです。
 第1回十字軍(1095ー1099)は聖地エルサレムの奪取が目的でしたが、それ以前からヨーロッパのキリスト教徒は自由にエルサレムへ巡礼することができていました。しかし旅は大変なので、到着する頃にはボロボロの状態でした。そこで1023年、エルサレムに病院が建てられます。病院の場所は聖ヨハネ教会の跡地だったので、「聖ヨハネ病院(ホスピタル)」と呼ばれるようになります。ちなみにこの聖ヨハネは福音書記者ではなくて、洗礼者のほうです。
 第1回十字軍は1099年のエルサレム奪取という大勝利で幕を閉じます。それでヨーロッパのキリスト教徒がエルサレムへ巡礼に押しかけますが、当然ながら途中でイスラム勢力に襲われます。そこで彼らを守るために「聖ヨハネ修道騎士団」が設立されます。彼らは拠点である聖ヨハネ病院(教会も併設されていた)に因んで「ホスピタル騎士団」とも呼ばれました。
 リドリー・スコットの『キングダム・オブ・ヘブン』にデヴィッド・シューリス演じる戦う修道士が出てきますが、あれの役名は「ザ・ホスピタラー」、つまりホスピタル騎士ですね。

 この聖ヨハネ(ホスピタル)騎士団に倣って1118年頃設立された修道騎士団が、テンプル騎士団です。彼らはかつてエルサレム神殿が建っていたとされる「神殿の丘」近くに拠点を置くことを認められたので、「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」と名乗りました。「ソロモン神殿」とはエルサレム神殿のことです(ソロモン王が建てたとされるから)。で、そのうち略されて「テンプル(神殿)騎士団」と呼ばれるようになりました。日本語だと神殿騎士団とか聖堂騎士団とも訳されますね。
 このテンプル騎士団と聖ヨハネ(ホスピタル)騎士団、そしてやや遅れて設立されたドイツ騎士団が、三大修道騎士団です。どの騎士団も中東での戦闘を支えるため、ヨーロッパ各地で寄進による資産の経営にも力を入れました。最も財力と権力を増したのがテンプル騎士団で、そのことが最終的に命取りになりました。
 1291年にエルサレム王国が滅びると、聖ヨハネ(ホスピタル)騎士団は地中海に拠点を移し、ロードス騎士団、さらにはマルタ騎士団と改称します。ドイツ騎士団は東方植民事業に携わることになります。テンプル騎士団だけが、聖地守護に替わる義務を見つけることなく、ますますヨーロッパにおける経済活動に専念していきます。そして聖俗双方から恨みを買うことになるのです。

 当時のフランス王フィリップ4世は、深刻な財政難と巨大な宗教的野心を抱えていました。後者は、新たな十字軍の総司令官になりエルサレムを奪還してその王になる、という誇大妄想的野心です。財政難解決と野心達成の第一歩として1307年、テンプル騎士団を悪魔崇拝の容疑で壊滅させ、その莫大な富を奪いました。
 悪魔崇拝の容疑というのは一つのステレオタイプを成していて、その儀式では近親相姦や男性同性愛を含む乱交、幼児の生贄と食人がセットで行われるとされています。容疑者はそれらを行ったと認めるまで拷問されるのです。

 さて、『魔女狩りの社会史』でも『テンプル騎士団の謎』でも、この「テンプル騎士団事件」が冤罪であるといつ明らかになったかは記されていません。
 日本語Wikiの「テンプル騎士団」の記事では、彼らにかけられた容疑はその後ずっと「無批判に受け入れられていた。しかし1813年にフランスのレイヌアールが初めてこれに疑義を呈した」とあります。なお典拠は提示されていません。
 この一文はフランソワ・ジュスト・マリ・レイヌアールFrançois Just Marie Raynouard(1761-1836)の1813年の著作、「テンプル騎士たちの有罪判決と彼らの騎士団の冤罪についての歴史的モニュメント」Monuments historiques relatifs à la condamnation des Chevaliers du Temple et à l'abolition de leur Ordre を指していると思われます。普通にネット書店で買えて、その解説(フランス語)によると中身はタイトルどおりの歴史書です。しかし邦訳はもちろん英訳もなく、上記のWiki記事以外、この著作がそんなに大きな影響を与えたという見解は、日本語でも英語でも見つかりません。フランスではどう評価されているのかググるのは、私の能力を超えています。

 このレイヌアールという人は日本ではほとんど知られていないようですね。英語圏ではWikiに記事があるくらい知られていますが、その記事でもフランス語Wikiの記事でも、テンプル騎士団についての研究には触れられていません。そもそもこの人は歴史研究者ではありますが、専門は中世フランス語です(吟遊詩人の研究とかしてる)。そして劇作家でもある(作品には歴史ものが多い)。
 そういう人がテンプル騎士団についての「定説」を覆すパラダイムシフトを起こすことができたのか、という疑問はさて措き、彼は上の歴史書の8年前の1805年、「テンプル騎士団」という悲劇を初演して好評を博してるんですね。これは早くも1809年には英訳されていて、最新版のペーパーバックは2014年刊です。その解説によると、「悲劇」というのはやはりテンプル騎士団への迫害を指しています。
 政治犯とかならまだしも、悪魔崇拝者で幼児殺しでカニバリストで男色家(当時の価値観です)と信じられていた連中を、いきなり悲劇の主人公にして受け入れられるはずがない。それにいくらなんでも19世紀にもなって、500年余り前の悪魔崇拝容疑がまったく疑われていなかったというのもおかしな話です。少なくとも歴史家の間では冤罪だったというのが常識になっていて、専門外の知識人にもある程度は知られていたのではないでしょうか。

 ググるだけでここまで判るのですから、便利な世の中になったものですね(大学の書庫を這いずり回り続けた思い出のある元史学科生)。しかし、では冤罪であるという事実はいつ明らかになったのか、彼らの「名誉回復」はいつから始まったかについては、日本語では上記Wiki記事の引き写ししか出てこないし、英語およびフランス語ではそれらしい情報はまったく出てきません。まあこれは私の語学力の問題。

 フリーメイソンに話を戻すと、私は陰謀論には興味ないんで、メイソンが「自由」「平等」「友愛」「寛容」「人道」を掲げる友愛団体だという主張を疑う理由はまったく持ち合わせません。まあ「真実」がなんであれ、そのような理念を掲げ、会員も社会的地位のある人ばかりという18世紀の団体が、悪魔崇拝者で幼児殺しでカニバリストの男色家(当時の価値観です)と信じられていた連中の後継者だと公言しますかね?

 では結局のところ、ラムジーは「ディスクール」でフリーメイソンの起源についてどんなことを述べているのか?
 前述のとおり、英語Wikiのラムジーの記事によれば、「しばしば誤って繰り返されるのは、ラムジーが彼の講演の中で、テンプル騎士団に言及した、というものである。実際には彼はその騎士団にはまったく言及していないにもかかわらず――彼はホスピタル騎士団に言及したのである。しかし察しのよい聴衆は、彼の十字軍騎士団への言及はテンプル騎士団への間接的な言及であろうと理解した」

 これはホスピタル騎士団が起源だと言ったってこと? でも言及referenceしただけだっていうしな。この記事は典拠を挙げているが、ディスクールそのものではなく二次資料。フランス語Wikiではラムジーの記事でも彼のディスクールの記事でも、テンプル騎士団には一切言及していません。前者では彼がフリーメーソンを十字軍時代の騎士団の後継者とした、としか述べていない。後者ではもう少し詳しく、「この騎士団(メイソン)の伝説的な歴史は、彼(ラムジー)がエルサレムの聖ヨハネ騎士団と特に関連付けた十字軍とともに始まった」としています。

 とにかく二次・三次資料に頼るのはもはや限界なので、「ラムジーのディスクール」原典に当たることにする。邦訳も英訳もありません(ネット公開も刊行もされてない)が、フランス語原文は刊行されてるしネットで無料公開もされています。フランス・メイソンの公式サイト(?)にも掲載されてますが、アクセスしやすい(敷居の低い)Wikisourseへのリンクを貼っておきます(これらの無料公開の「ディスクール」同士には相違がありますが、少なくとも私が読んだ範囲では助詞等の些細でわずかな違いだけです)。

 https://fr.wikisource.org/wiki/Discours_de_Ramsay

 フランス語は独学で初歩を齧っただけなので、歯が立たないようだったら尻尾を巻いて退散します!(なお機械翻訳はどうせ不正確なので、ハナから頼りません) 以下、フランス語の知識があって、原文を読んでみようという気になった人がいたら、その参考になるかもしれないのでフランス語についても説明しますが、興味のない人はその部分は飛ばしてください。

 相当な長さがあります。とてもレジーヌの言う歓迎の「辞」なんてもんじゃない(訳の問題か?)。なのでまず「テンプル騎士団」(Templiersまたはordre de temple)で全文検索してみました。確かにこの名は一度も挙げられていません。次に「神殿」templeと「十字軍 」croisesで検索すると幾つか引っ掛かったので、その周辺だけ読むことにする。
 どうやら求める情報は、「第二部 SECONDE PARTIE この騎士団(=フリーメイソン)の起源と歴史 ORIGINE ET HISTOIRE DE L’ORDRE」の2番目の章(各章の番号はない)「この騎士団の十字軍からの創設 INSTITUTION DE L’ORDRE PAR LES CROISÉS」にあるようです。
 最初の章「起源と歴史 LA LÉGENDE ET L’HISTOIR」は前置きで、ざっと目を通してみたところ、「メイソンの起源を聖書の時代に求める人々もいるが、私はここで真実の歴史について駆け足で語ることにする」というようなことを述べています。この「真実の歴史」は、彼が英国で収集したものだそうです。

 で、次の「この騎士団の十字軍からの創設」の章で、いきなり十字軍の話が始まります。冒頭の一文は、やたら長くて重複もあるので要約すると、「パレスチナにおける聖なる戦いの時代から、諸王、諸侯、そして民衆が協会(Société ソシエテ=メイソン)に入り、聖地にキリスト教の神殿(複数)を再建するという誓いを立て」たそうです。
 少々長い文章が続きますが、メイソン(Société「協会」またはOrdre オルドル「騎士団」)の語は出てこないので飛ばします。で、最後のほうで「我が騎士団(メイソン)はエルサレムの聖ヨハネ(ホスピタル)騎士団と親密に結びついた。それ以来、我々の支部(ロッジ)はその地全域で聖ヨハネのロッジという名だった。この同盟は一方で鏝とモルタルを扱い、他方で剣と盾を帯びている間、第二神殿を再建した時の古代イスラエルの民を手本にしていた」と述べて、後はヨーロッパでの話に移ります。

 これまでに私が読んできたフランス人の文章(もちろん邦訳)は全般的に、エスプリなのか知りませんが、やたら凝った言い回し、婉曲表現や仄めかし、反語が多く、フィクションならそれがおもしろい場合もありますが(おもしろくない場合もある)、ノンフィクションでもそうなので苛々させられます。
 しかしスコットランド人ラムジーの「ディスクール」は、少なくとも私が読んだ部分にはそのような表現はありません。文法も簡単で、辞書を引くのに時間がかかるだけで、私でも読めます。古い欧文の例に漏れず、一文がやたら長くて冗長ですけどね。動詞活用表に載ってない活用形が2回出てきますが、何しろ300年近くも昔の文章なので、現在は使われていない形だと思われます。ググってみたら、一番上に出て来るのがこの「ディスクール」だし。いずれにせよ、文脈から適当に訳せます。

 問題は辞書を引くのに時間がかかりすぎることで、フランス語は英語と綴りと意味がほぼ同じ単語がたくさんあって、大まかな意味を把握するのにはいいんですが、微妙に意味が違うことも多いので正確さを期すにはいちいち辞書を引かないといけない。だからこれ以上読む気はありません。
 というレベルのフランス語力ですが、読解はさほど不正確ではないと思います。で、確かにテンプル騎士団には一切言及していない。その後の文章も一応目を通してみましたが、「騎士団」のヨーロッパにおける「壊滅」にもまったく触れていません。
 日本語Wikiの「テンプル騎士団」の記事で述べられているように、「名誉回復」が1813年にようやく開始したのだとしたら、ラムジーも他のメイソンたちもテンプル騎士団の罪状を鵜呑みにしていることになり、自分たちに結び付けるはずがない。

 しかし前述のWiki英語記事は、「しかし察しのよい聴衆は、彼(ラムジー)の十字軍騎士団への言及はテンプル騎士団への間接的な言及であろうと理解した」に続けて、「フランスにおける彼ら(テンプル騎士団)の評価は異論があ」った、と述べています。つまりメイソンの間では冤罪だと知られていたが、世間では悪魔崇拝者だと信じる人たちもまだまだいた、ということでしょう。典拠は示してませんが。
 フランス以外の国だと悪魔崇拝者だと信じる人はいなかった、と述べているようにも読めます。まあ「いなかった」かどうかはともかく、フランス以外の国、特に新教国ではテンプル騎士団の「名誉回復」は比較的早かったでしょうね。何しろテンプル騎士団に悪魔崇拝容疑をかけて壊滅させたのは、フランス国王とフランス出身の教皇だから。

 上記の英語Wiki記事は、この後さらに続けて、「(ラムジーの「ディスクール」が、メイソンの起源をテンプル騎士団だとした、と了解されたことが)一年後にこの団体(フリーメイソン)への教皇の非難へと至ったのであろう」と述べています。
 これはクレメンス12世による、カトリック教徒がフリーメイソンに加わるこを禁じる1738年の勅書のことでしょう。教皇庁によるフリーメイソンへの初の禁令ですが、禁止の理由はメイソンが「信仰の自由」を掲げていたことだというのが定説です。確かに教皇庁によるテンプル騎士団の公式の「名誉回復」は2007年ですが、どのみち1738年の勅書ではテンプル騎士団には一切言及していません。

「ディスクール」から2、30年後の18世紀後半、「テンプル厳修派」(英語でthe templar strict observance)というメイソンの一会派がドイツのカール・ゴットヘルフ・フォン・フント男爵によって設立されます。その経緯についての『テンプル騎士団の謎』の記述がどうにも不明瞭で、これに関係する日本語Wikiと英語Wikiのそれぞれ複数の記事がまたちょっとずつ食い違ってるという有様なんですが、まあとにかくこの会派が名前のとおり、メイソンの起源をテンプル騎士団だとしていたのは確かです。
 だからフォン・フント男爵の時代にはすでに、「テンプル騎士団は潔白」というのが少なくとも知識人の間では常識となっていたんでしょう。ラムジーの時代には、まだそこまで一般的ではなく、しかしメイソンの間では知られていたとしたら、「ディスクール」は「テンプル騎士団への間接的な言及」だったということになる。
 ではどの辺が間接的な言及かというと、「聖地にキリスト教の神殿(複数)を再建するという誓いを立て」たSociété「協会」の下りですかね。

 しかしこの「聖地にキリスト教の神殿(複数)を再建する」ってのが、どういう意味か解らない。テンプル(神殿)騎士団の名称の由来である「ソロモン(エルサレム)神殿」というのは、ソロモン時代に建てられたとされるエルサレムのユダヤ教神殿のことです。アッシリアによって破壊されたので、「第一神殿」と呼ばれるようになります。で、アッシリアの重圧から解放された後に再建されたのが、ラムジーも言及している「第二神殿」。これが1世紀のユダヤ人大反乱の後、ローマ帝国によって破壊されてからは、エルサレムにユダヤ教神殿は再建されていません。またキリスト教徒もエルサレムに教会は建てても神殿(聖堂)は建てていないので、エルサレムに「再建」されるような「キリスト教神殿(複数)」なんてないわけです。
 まあキリスト教徒はユダヤ教の正典を「旧約聖書」という失礼な名前でキリスト教の正典の一つにしているくらいだから、キリスト生誕以前のユダヤ教神殿はキリスト教神殿だということになるのかもしれません(おまえのものは俺のもの)。それなら「キリスト教神殿(複数)」はユダヤ教の「第一神殿」と「第二神殿」のことになる。

 そうなると次の問題は、ラムジーの時代に「テンプル騎士団の目的は神殿の再建」という見解があったかどうかですね。実際には「テンプル騎士団」の名は、単に「神殿」跡地近くに本拠地を置いたことに由来するんですが、ラムジーの時代には「神殿を再建するために設立されたからテンプル騎士団」という見解があったのかもしれない。あったのだとしたら、このSociété「協会」はテンプル騎士団にほかならないことになる。そうだとしたら、スコットランド人ラムジーも「婉曲な仄めかし」をしたことになりますが。ま、テンプル騎士団への18世紀前半当時の評価も不明なのに、こんな微妙なことはなおさら判りません。
 聖ヨハネ(ホスピタル)騎士団については、この文言でメイソンの起源(の一つ)だとしているんですかね。よく解りません。

 フォン・フント男爵の「テンプル厳修派」のその後の沿革(英語)はさらに錯綜していて、もはや追えませんが、とりあえず現在、メイソンには「テンプル騎士団」を名乗る会派があって、正式名称は英語でThe United Religious, Military and Masonic Orders of the Temple and of St John of Jerusalem, Palestine, Rhodes and Maltaというそうです。
 単語の並び的に訳しにくいですが、「エルサレム、パレスチナ、ロードスとマルタの聖ヨハネ、および神殿の宗教的・軍事的メイソン騎士団の同盟」といったところでしょうか。ラムジーの「ディスクール」にある「我が騎士団」をテンプル騎士団と解釈し、それと聖ヨハネ騎士団との「同盟」というラムジーのでっち上げをそのまま名称にしてるわけですね。

 ちなみに史実のテンプル騎士団と聖ヨハネ(ホスピタル)騎士団は、めちゃめちゃ仲が悪くて、そもそもテンプル騎士団壊滅の直接の原因は、フィリップ4世がテンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団をまとめて支配するために統合しようとしたのを、テンプル騎士団が断固として拒絶し妨害したから、だったりします。
 テンプル騎士団の滅亡は、聖ヨハネ騎士団にとってはライバルが消えた上に、テンプル騎士団の莫大な不動産の一部までフィリップ4世から貰うという余得付きでした。テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団の「同盟」がメイソンの起源とか、あり得ないあり得ない。

 ところで今回のブログ記事のタイトルは「テンプル騎士団とフリーメイソンの謎」ですが、何が「謎」なのかというと、ラムジーの「ディスクール」は機密文書でもなければ難解な古文書でもないのに、「ラムジーはテンプル騎士団には一切言及していない」という事実は、なぜこんなに知られていないんですか? 仄めかしだと言えるのも「神殿の再建」だけだし。
 上述のようにフランス語Wikiの該当記事は「ラムジーはテンプル騎士団には一切言及していない」とは明言しておらず、じゃあフランスではこのことが「常識」なのかというと、冒頭で見たように、フランス人がフランス語で書いた『テンプル騎士団の謎』は、ラムジーがメイソンをテンプル騎士団に結び付けたと明言している上に、「ディスクール」の「引用」まで原典と大きく食い違っている。

 私は趣味でフランス語その他の外国語を齧っていますが(英語と第二外語だった中国語を除いて今のところ12か国語)、興味があるのは言語同士の関係でしかないんで各言語を極めるつもりはまったくないし、そもそも語学の才能がまったくない。英語ですら大まかに意味を摑むのではなく正確な理解を期すなら辞書が手放せないレベルで、未邦訳の資料を読む必要がないか機械翻訳がもっと頼りになるなら、そのレベルにも達してないのは確実です。
 その程度の語学力しかなく、フランス史が専門でもない人間が片手間に調べたことでしかありませんが、誰かの参考になることもあるかもしれないので、こうして記事にしました。

余談「ダンテとテンプル騎士団」

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ヴードゥー教、ワルド派、そしてスタージョン

『ヴードゥー教の世界』(立野淳也・著)という本を読んでいたら、「ヴードゥー」の語の由来をキリスト教異端のヴォードワ(ワルド)派と類似のものとする説明がなされることもあった、というようなことが書かれていた。

 どういうこと? 「ヴォードワ」ってワルド派の別名ってこと?? どういう由来でそんな別名が???

 全然説明がないため、だいぶ苦労して自力でこの謎を解くことになるのだが、先に結論を述べると、まず「ヴードゥー」Voodooの語源は西アフリカの言語で神々や精霊を意味する「ヴォドゥン」vodunあるいは「ヴォードー」voudouで、フランス語では「ヴォードゥー」Vaudouとなって、英語形より原語に近い(英語も綴りを見るに当初は原語の忠実な音写だったのが、発音と綴りの関係が不規則なせいで今の発音に変わったんだろう)。
 で、「ヴォードワ」とは「ワルド派」(英語でWaldenses)のフランス語形である(だから「ヴォードワ派」だと「ワルド派派」になってしまう)。発音が似てるだけで関係のない事物同士が関係づけられてしまうのは、シンクレティズムや陰謀論ではよくあることだ。

 問題は、なぜフランス語ではワルド派を「ヴォードワ」と呼ぶのか? である。

 まずワルド派とは何かというと、12世紀にリヨンの商人ピエール・ワルドを創始者とするキリスト教の一派で、その教義は一言で言うと、早すぎた宗教改革である。教会の承認を得られず異端の烙印を押され、二元論で悪魔崇拝のカルトという事実無根の中傷と過酷な弾圧を受ける。生き残りは山岳地帯に隠れ住み、16世紀に宗教改革が始まると、プロテスタント諸派に合流した。

 なぜ「ワルド派」Waldensesが「ヴォードワ」Vaudoisになるのか、日本語でググっても英語でググっても全然わからず、最後の手段「フランス語でググる」に頼らざるを得なくなる。フランス語は独学で初歩を齧っただけなんで、ほんとに「最後の手段」なのである(なお機械翻訳はどうせ不正確なので、ハナから頼りません)。
 苦労した経緯は省略して整理すると、まずワルド派の開祖の姓「ワルド」Waldoは英語形であって、フランス語で正しくは「ヴァルド」Valdoである。じゃあ「ワルド」はどっから出してきたのかというと、「ヴァルド」Valdoの語源は古ゲルマン語のWald「森」なのである。フランス語は原則としてwを使わないからValdoになる。英語の綴りのほうが原形に近いわけだ。古ゲルマン語なのでwaldの発音はわからないが、ドイツ語では今でもwald「ヴァルト」は「森」である。
 だからピエール・ワルドはより正しくはピエール・「ヴァルド」Valdoである。そして「ヴァルド」Valdoはよりフランス的な綴り・発音もあって、それが「ヴォード」Vaudes。現在のスイスのヴォー Vaud州も同じ語源でwald→vald→vaudと変化している。というわけでワルド派のフランス語形「ヴォードワ」Vaudoisは、「ピエール・ワルド(=ヴァルド=ヴォード Vaudes)の宗派」という意味なのである(そして「ヴォー州の人」も「ヴォードワ」Vaudoisになるのでややこしい)。

 ここまで調べるのはかなり大変だったので、もし同じ疑問を持った人がいたら同じ苦労をせずに済むよう、こうして記事にしました。まあ今、「ヴードゥー」「ワルド派」をフランス語(Vaudou Vaoudois)でググっても、「昔そういう説があった」くらいの言及しか見つからないんですけどね(英語 Voodoo Waldensesも同様で、当然ながら数はもっと少ない)。

 ワルド派ついでに、以前読んだシオドア・スタージョンの本の巻末解説で、スタージョンの実父の姓はウォルドーで、これはワルド派の末裔だからだ、というようなことが述べられていて、そのことはメモを取ったんですが、どの本だったかはメモし忘れたということがありまして。スタージョンの元の姓が Waldoだというのは日本語Wikiでも確認できますが、ワルド派の末裔だという情報は日本語でも英語でも全然見つかりませんな。末裔説が本当だとしても、ワルド派への弾圧はとにかく洒落にならんかったので、ワルド姓を名乗ったのはプロテスタントに吸収されてからなのは確実でしょうな。でなきゃ自殺志願も同然だ。

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著作(小説) 2014~

上が最新です(下に行くほど古い)。
記事の最後に2013年以前の著作(小説)リストやエッセイ、インタビュー等のリストへのリンクがあります。

 

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『2010年代SF傑作選』⑴ (早川書房 文庫 2020/2/6) (Amazonへのリンク)

『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』(Amazonへのリンク)所収の表題作「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」を採録していただきました。

2010年代以前にデビューした10作家の作品が収録されています。私以外の方々の作品は以下のとおりです(50音順)。

  • 上田早夕里 「滑車の地」
  • 円城塔   「文字禍」
  • 小川一水  「アリスマ王の愛した魔物」
  • 神林長平  「鮮やかな賭け」
  • 北野勇作  「大卒ポンプ」
  • 田中啓文  「怪獣惑星キンゴジ」
  • 津原泰水  「テルミン嬢」
  • 飛浩隆   「海の指」長谷敏司  「allo, toi, toi」

なお編者の伴名練氏による著者紹介でも触れられていますが、SFマガジン読者賞受賞の「はじまりと終わりの世界樹」(『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』収録)も採録候補に挙げていただいたものの、長すぎて(「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」より400字詰め換算で30枚ほど多い)落選(?)となったそうです。「はじまりと終わり」が長すぎるという理由でアンソロジーに選んでもらえなかったのは、『年間日本SF傑作選』に続いて2度目!

〈HISTORIA〉シリーズ: 本作を含む連作の解説記事

 

同日発売の『2010年代SF傑作選』⑵(Amazonへのリンク)も紹介いたします。こちらは2010年代デビューの10作家を収録。

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「ガーヤト・アルハキーム」(『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」掲載。2019/8/30) (Amazonへのリンク)

商業媒体では初のファンタジーになります。
ほかに書いたことのあるファンタジーは、デビュー前の「鴉の右目の物語」(当ブログの「お蔵出し」で読めます)だけなんで、実は非常に稀少です。

「ガーヤト・アルハキーム」とはラテン語の魔術書『ピカトリクス』の原典タイトル、と言えば、解る人は解るかもしれません。もっとも扱っているのは魔術書そのものではなく、そこに掲載されている魔術の一つです。
 異世界ファンタジーに見せかけたオルタネイト・ヒストリー。魔法が「実在」する世界を舞台とした、もう一つの歴史です。ジャンルとしては「マジック・パンク」になるんだろうか……私としては「ロジカル・ファンタジー」のほうが、しっくりきますが。いずれにせよ、SF寄りのファンタジーというか、SF脳の人間が書いたファンタジーです。
 400字詰めで40枚強と短めですが、中身は濃いです。御期待ください。

「ガーヤト・アルハキーム」解説記事

 

 

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『屍者たちの帝国』(河出書房新社 文庫 2015/10) (Amazonへのリンク)

伊藤計劃氏/円城塔氏の『屍者の帝国』(Amazonへのリンク)のシェアワールド・アンソロジー。
私の収録作「神の御名は黙して唱えよ」は、1854年秋、ロシア帝国南西部が舞台です。生者の屍者化計画とイスラム神秘主義。

 

 

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『伊藤計劃トリビュート』 (早川書房 文庫 2015/8) (Amazonへのリンク)

タイトルどおり、伊藤計劃氏へのトリビュート・アンソロジー。
私の収録作「にんげんのくに」は、HISTORIAシリーズの一篇でもあります。

〈HISTORIA〉シリーズ: 本作を含む連作の解説記事

また、このアンソロジー刊行に際して、『SFマガジン』2015年10月号(Amazonへのリンク)の「伊藤計劃特集」において、長谷敏司氏と藤井太洋氏と鼎談を行いました。

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『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』 (早川書房 単行本 2014/4) (Amazonへのリンク)

『SFマガジン』に掲載された中篇3本+書きおろし中短篇各1本。
『SFが読みたい』ベストSF2014国内篇5位。
表題作は『2010年代SF傑作選』⑴(Amazonへのリンク)に収録されています。

〈HISTORIA〉シリーズ: 本作を含む連作の解説記事

 

著作(小説) 2004~
著作(小説) 2007~
著作(小説) 2009~
著作(小説) 2012~

著作(エッセイなど)、インタビューほか 2004~2014
著作(エッセイなど)、インタビューほか 2015~2017
著作(エッセイなど)、インタビューほか 2018~

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著作(エッセイなど)、インタビューほか 2015~2017

刊行順(下に行くほど新しい)。

エッセイなど

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『トーキングヘッズ叢書』№61「レトロ未来派~21世紀の歯車時代」(2015/8) (Amazonへのリンク)

 一冊丸ごとスチームパンクの特集です。企画の一つ「エッジのきいたスチームパンク・ガイド」で映画レビューを五本担当しました。

 

 

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『SFマガジン』2015年4月号 (Amazonへのリンク)

2000番到達記念特集 ハヤカワSF文庫総解説PART1[1~500]で、ポール・アンダースン&ゴートン・R・ディクスンの〈ホーカ・シリーズ〉(『地球人のお荷物』『くたばれスネイクス!』『がんばれチャーリー』の解説を担当しました。

 

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『SFマガジン』2015年6月号 (Amazonへのリンク)

ハヤカワSF文庫総解説PART2[501~1000]で、ソムトウ・スチャリトクルの『スターシップと俳句』、小川隆/山岸真・編の『80年代SF傑作選』(上下巻)の解説を担当しました。

 

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『SFマガジン』2015年8月号 (Amazonへのリンク)

ハヤカワSF文庫総解説PART3[1001~2000]で、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『星ぼしの荒野から』の解説を担当しました。

 

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『早稲田文学』2015秋号 (amazonへのリンク)  公式ページ(内容の詳細はこちら) 

小特集「昏い部屋の女たち」で、アンナ・カヴァン(およびイランの作家サーデグ・ヘダーヤト)について書いています。

 

 

 

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『ハヤカワ文庫SF総解説2000』(2015/11) (Amazonへのリンク)

『SFマガジン』2015年4月号、6月号、8月号の連載企画が1冊の本になりました。文字どおりハヤカワ文庫SF2000冊分の総解説。100人以上のSF作家・評論家が各作品を解説しています。
 私は〈ホーカ〉シリーズ(『地球人のお荷物』『くたばれスネイクス!』『がんばれチャーリー』)、『スターシップと俳句』『80年代SF傑作選』上下巻、『星ぼしの荒野から』の4点を担当しています。

 

 

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『SFが読みたい! 2017年版』 (2017/2) (Amazonへのリンク)

 カテゴリー「日常」では御報告しましたが、こちらの「活動」カテゴリーに上げるのを忘れていました。特別企画「2017年のわたし」にコメントを掲載していただきました。
 また、もう一つの特別企画「2010年代前期ベストSF30」では、国内篇30位にランクインさせていただきました。投票してくださった皆様、ありがとうございました。

 

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インタビュー

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『SFマガジン』2015年10月号 (Amazonへのリンク)

 インタビューじゃなくて、長谷敏司氏と藤井太洋氏との鼎談ですが。伊藤計劃氏と『伊藤計劃トリビュート』(Amazonへのリンク)について。

 

 

 

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著作(エッセイなど)、インタビューほか 2004~2014

2014年までのインタビュー、エッセイなどです。刊行/発表順(下に行くほど新しい)。

エッセイなど

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『SFマガジン』2007年6月号 (Amazonへのリンク)

「MY FAVORITE SF」に、大原まり子氏の『一人で歩いていった猫』について書きました。

 

 

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『SFマガジン』2009年10月号 (Amazonへのリンク)

神林長平氏のデビュー30周年記念特集の特別エッセイとして、『完璧な涙』のレビューを書きました。

 

 

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『早稲田文学』2014年秋号 (Amazonへのリンク)

特集「若い作家が読むガルシア=マルケス」で、『コレラの時代の愛』について書きました。

 

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インタビュー

日刊紙『SANKEI EXPRESS』2014年6月8日(日)付に『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』の紹介記事掲載(インタビューに基づく)
産経新聞のこちらのページに全文アップされています。


ウェブマガジン「アニマソラリス」2005年3月
 

『SFマガジン』2004年10月号
 同日(8/25)刊行の『グアルディア』で小説家デビューしたので、そのインタビューです。
 ガンダム(ファースト)の話をして結構受けたんですが、記事ではばっさりカットされてしまいました(当たり前や)。
 なのでその話は後日、ブログに書きました。脳内ガンダム
 ちなみになぜガンダムの話になったのかというと、『グアルディア』は主人公の1人であるホアキン少年に焦点を絞ると、「パワードスーツの使用者となった少年兵が壊れていく話」だからです。

 

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