「乱反射するサタニズム」補足 Ⅲ

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「トーキングヘッズ叢書」№84「悪の方程式~善を疑え!」(2020年10月28日発売)

 エッセイ「乱反射する悪魔主義(サタニズム)」を寄稿させていただきました。「悪魔崇拝」を宗教・信仰ではなく「妄想」と定義し、そのような妄想がどのように成立し発展したかを考察しました。

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 今回は少々多めに書かせていただきました。3部構成で、第1・2部では「悪魔崇拝という妄想」について、第3部では欧米キリスト教徒によるこの妄想が、クルディスタンのヤズィーディーにもたらした惨禍について書きました。

補足記事Ⅰ
補足記事Ⅱ

 というわけで続きです。
 西洋キリスト教(カトリックとプロテスタント)における「悪魔」像がどのように形成されたかについては、ジェフリー・バートン・ラッセルの『悪魔の系譜』(青土社 原書は1988年刊)とジョルジュ・ミノワの『悪魔の文化史』(白水社 原書は2000年刊)を参照しました。
 ただし両書の見解に依拠したというよりは、それらを基にいろいろ調べた結果といいますか。

 ミノワの『悪魔の文化史』は、実体のある宗教・信仰としての「悪魔崇拝(サタニズム)」は存在しなかった、という立場を取っています。ラッセルは初期の著作(未読)では、少なくとも古代においては実体があったと論じているらしいですが、『悪魔の系譜』においてはそのような見解は見られませんでした。
『悪魔の文化史』には参考文献としてラッセルの「5部作」が挙げられています。悪魔についての5冊の論考で、すべて邦訳が出ています。でもなぜか最初の4冊は邦訳があることが邦題とともに付記されてるのに、最後の『悪魔の系譜』については『悪魔の文化史』の邦訳が出た2002年より12年も前に邦訳が出てるのに未邦訳扱いになってます。

 ラッセルの著作は『悪魔の系譜』しか読んでいないのですが、ミノワがだいぶ依拠しているのが判ります。依拠を通り越して、そのまま引き写してるような部分も散見されます……たとえば、プラトンが「悪の非在」論なるものを唱えたとした上で「チーズの穴」に喩えた「非在」の説明など、まんま『悪魔の系譜』の引き写しですが、この箇所でラッセルの名やその著書は挙げられていません。まあ「チーズの穴」の喩えはラッセルのオリジナルじゃないかもしれませんけどね。
 ほかにも『悪魔の文化史』が非キリスト教の神話に見られる「対立する善と悪」の例として、「エジプト神話の兄弟神セトとホルスの闘い」を挙げているのも『悪魔の系譜』に拠っていますね。
 ホルスはセトの甥だとしか私は知らなかったし、訳者の平野隆文氏もわざわざ註を設けて、ミノワの勘違いだろうと述べちゃってますが、ググってみたところ、初期には確かに兄弟神だとされていたそうです。後にオシリス神話に組み込まれたことで、セトがオシリスを殺し、オシリスの息子ホルスが仇討ちをしたことになったと。セトと兄弟だった古いヴァージョンのホルスは、「大ホルス」(英語はHorus the elder)と呼んで区別するそうです。
 いずれにせよ英語圏でもマイナーな神話なのは変わらないようですが、ラッセルが『悪魔の系譜』でメジャーな神話であるかのように述べているんで、たぶんミノワもそのまま……

 そうかと思えば、ミノワは西洋では9世紀までは悪魔を醜く描くことはなかったと主張しているんですが、これだけ依拠している『悪魔の系譜』にはそれよりも古い時代に描かれた醜い悪魔の絵が2点掲載されている。
 ただしうち1点は、同書のキャプチャには世紀初頭のシュトゥットガルドの福音書」の挿絵とありますが、英語とドイツ語でググった限りでは、シュトゥットガルトには確かにその挿絵が描かれた9世紀初頭の聖書写本があるものの、福音書ではなく「詩編」だそうです……どっちもどっちと言いましょうか。

 両書とも最初から最後まで、そういう「ん?」と引っ掛かる箇所がボロボロ出てくるんで、興味を惹かれた「西洋キリスト教における悪魔像の形成過程」論も、どこまで信用していいんだか判らない。
 幸いにして両書とも、典拠とする聖書(ユダヤ教およびキリスト教)の記述については、「創世記」とか「マタイによる福音書」といった書名、章、節までおおむね付記してくれているので、原文が確認できました。ユダヤ教聖書(いわゆる「旧約聖書」)古典ヘブライ語原文と七十人訳(古典ギリシア語)原文とウルガタ訳(ラテン語)原文と、ついでに英語の欽定訳(1611年版)と近現代の訳いろいろが。

 それらの原文を無料公開している英語の聖書研究サイトが幾つもあるんですよ。書名と第○章第○節とを英語で検索すると、その箇所の英訳が欽定訳から近現代版までまとめて出てくるし、「ヘブライ語」/「七十人訳 ギリシア語」/「ウルガタ訳 ラテン語」と付け加えれば各ヴァージョンが出てくる。『悪魔の系譜』や『悪魔の文化史』に書名等が明記されていない聖書の記述でも、適切なキーワード(英語)さえ選択できれば、割と簡単に見つかる。
 古典ヘブライ語、古典ギリシア語、ラテン語は初歩を独学で齧っただけですが、正典のヘブライ語版とギリシア語版は英語の注釈付きで、そうでないものも英訳が見つけられたのでだいぶ参考になり、後は辞書と文法書でなんとかなりました(各言語の辞書も手持ちの初級者向けよりも、英語のオンライン辞書が遥かに詳しくて役に立ちました)。
 いや、すごいですね。居ながらにしてこれだけのことが調べられるって。それだけ欧米では聖書研究が盛ん、かつこうした情報への需要が大きいということでしょう。その割には、キリスト教文化で育ったのに日本のオタクより聖書の知識がない欧米人は多いようですが。

 その結果、やはり両書とも細かい「ん?」が幾つも見つかりました。特に正典はともかく、外典・偽典については「いや、それは違うだろう」という記述が多い。なお偽典は英訳か英語による要約しか見つけられませんでした。まあどのみちゲエズ語やアラム語だったら、まったく解りませんが。
 そういうのはとりあえずさて措き、最も大きな問題は「デーモン/悪霊」でした。

『悪魔の系譜』でも、それに大いに依拠している『悪魔の文化史』でも、「西洋キリスト教における悪魔像の形成過程」を論ずるのに、「デーモン/悪霊」というものを全然重視していません。しかし両書とも全体を通して、この語を多用している。にもかかわらず、そもそも「デーモン」「悪霊」(と邦訳されている語)の定義を行っていない。
「悪霊」と訳されている語は原文(『悪魔の系譜』なら英語、『悪魔の文化史』なら仏語)ではどう書かれているか解りませんが、両書ともまともに使い分けていない。
 そういうわけで聖書原典ではどうなんだろうと気になって調べた結果が、拙稿の第1部なのでした。「西洋キリスト教における悪魔像の形成過程」の調査として、「デーモン」「悪霊」「神の使い(天使)」「神の息子たち」「サタン」といった用語が、古典ヘブライ語、古典ギリシア語、ラテン語、英語(欽定訳および近現代版)の各聖書の原文ではどうなっているかを片っ端から調べるという方法に行き着くことができたのは、『悪魔の系譜』と『悪魔の文化史』のお蔭ですけどね。資料として他人様にお勧めは、まあできませんね。

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「乱反射するサタニズム」補足 Ⅱ

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「トーキングヘッズ叢書」№84「悪の方程式~善を疑え!」(2020年10月28日発売)

 エッセイ「乱反射する悪魔主義(サタニズム)」を寄稿させていただきました。「悪魔崇拝」を宗教・信仰ではなく「妄想」と定義し、そのような妄想がどのように成立し発展したかを考察しました。

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 今回は少々多めに書かせていただきました。3部構成で、第1・2部では「悪魔崇拝という妄想」について、第3部では欧米キリスト教徒によるこの妄想が、クルディスタンのヤズィーディーにもたらした惨禍について書きました。
 先にこの第3部についての補足記事を上げております。

 というわけで主に第1・2部についての補足です。
 悪魔崇拝(サタニズム)が実体のある宗教・信仰ではなく妄想である、と私が断じる理由は二つあって、まず古代から現代に至るまで、悪魔崇拝者と名指された個人や集団が実行しているとされた「教」や「儀式」が判で押したように同じ、すなわち人身供犠(主に幼児を捧げる)、その犠牲者を食すカニバリズム、近親相姦や男性同性愛を含む乱交、そして秩序壊乱の陰謀の4本立てだからです。
「悪魔崇拝者」はすべてこの4本立てを実行している(とされる)、だから彼らは一つの組織なのだ、という理屈になりますが、もちろん事実は逆で、「敵=悪」の根源は一つであってほしい、という願望と、「他者」の多様性を許さない不寛容とが根底にあります。
 この4本立ての「妄想」については、ノーマン・コーンの『魔女狩りの社会史』(岩波書店)に依拠しています。

 ところで今回の拙稿では「魔女狩り」には一切言及しませんでした。魔女狩りについての文献の多くは、「魔女狩りと異端審問の違い」を強調しています。確かに両者は時代もシステムは異なりますが、「魔女」と「異端者」と目された人々に掛けられた嫌疑は、「秩序壊乱を目論み、殺人と食人と乱交の宴に耽る悪魔崇拝者」ということで共通しています。なので論旨を簡潔にするためにも、両者の違いには触れませんでした。
 まあ私も、「中世の魔女狩り」とか言われたらイラッとしますけどね。

「秩序壊乱を目論み、殺人と食人と乱交の宴に耽る邪悪なカルト」という紋切型は、前2世紀初めのローマで流行したバックス(バッカス)教にかけられた嫌疑にまで遡ります。同じ紋切型がユダヤ教、次いでキリスト教に適応され、その後、キリスト教がマジョリティになると、今度は彼らが「異教徒」や「異端者」に対して同じことをするわけでです。
 したがってキリスト教徒はローマの異教徒たちの妄想を直接継承したと言えますが、似たような妄想は多くの文化に存在してきました。

 たとえばユダヤ教では「モロク」(モレク)が有名です。ユダヤ教聖書(いわゆる旧約聖書)では人身供犠が行われる異教の神とされますが、この名はヘブライ語で「王」を意味する「マリク」を侮蔑の意図で母音を変えた語で、特定の神を指すのではなく異教の神々(の主神)全般を貶める呼称です。
 古代の中東~地中海世界で人身供犠を行う宗教は一応ありましたが(たとえばずっと後代のキリスト教徒が「モロク」と同一視することになるフェニキアの主神)、イスラエル周辺の非ユダヤ人がそのような神を信じていたという証拠はありません。ユダヤ教聖書には「モロク」のほかにも、異教の神に人身供犠が行われているという記述が散見されますが、すべて事実無根の中傷だという可能性もあるわけです。
 また「男性同性愛や近親相姦を含む乱交」すなわち性的逸脱についてはソドムとゴモラにその罪が着せられています。ソドムの住民たちは天使(ヘブライ語では男性形)をレイプしようとし、ロトの娘たちはソドム育ちだったせいか、ロトを酔わせて近親姦を行いました。生まれた2人の息子はそれぞれイスラエル人と敵対する民族の祖になった、とされています。

 東アジアの事例だと、キリスト教の聖餐を曲解して食人儀礼だと中傷したりとか。また特定の宗派が性的逸脱の廉で非難・迫害されることは、中国や日本でもありました。道教の房中術とか密教のタントラといった根拠にし得るものがあるんで、まったくの冤罪との見極めが困難ですが。
 日本で「淫祠邪教」が「秩序壊乱を目論み、乱交の宴に耽る邪悪なカルト」を指すようになったのは、江戸時代の真言立川流からですかね。「淫祠邪教」の「淫」は元来、「邪」と同じような意味です。

 ゾロアスター教では、5世紀末に現れた宗教改革者マズダクとその信徒が、財産ならびに女性の共有を行っている、と記録されています。
 マズダク教を迫害した側からの記録であるにもかかわらず、現在でも多くの研究者がなんの疑問もなく「財産ならびに女性の共有」がマズダク教の教義だったと述べています。しかし歴史を鑑みるに、「財産の共有」はともかく「女性の共有」は例の紋切型であったかもしれません。

 イスラムはこのゾロアスター教によるマズダク教像を受け継ぎ、これがイスラムにとっての異教徒・異端者像の典型となりました。拙稿のイスラムにおける異教徒・異端者像の紋切型の紹介は、主に『統治の書』(岩波書店)に拠っています。
 この書はタイトルどおり理想の統治者の在り方を説くもので、セルジューク朝の宰相ニザーム・アルムルク(1092没)によって書かれました。ただし第44章以降は彼が異教・異端と見做した人々への憎悪に満ちた陰謀論が展開されています。

 まず第44章でマズダク教を取り上げていますが、マズダクとその信徒たちを騙し討ちで殲滅した王子ホスロー(後のホスロー1世。在位539-571。もちろんゾロアスター教徒)を称讃し、また彼に協力したゾロアスター教大神官は占星術によって「アラブ人の預言者」(つまりムハンマド)の出現を予測したと述べています。
 セルジューク朝の支配者はトルコ系ですが、領土は中央アジアからペルシア東部で、当時の住民はほぼペルシア系で公用語もペルシア語。『統治の書』もペルシア語で書かれ、ニザーム自身もペルシア系です。ペルシア人はイスラム化以後も、ホスロー1世を理想の帝王として尊敬していたので、彼の信仰を全面否定するわけにもいかず、上記のように「まだムハンマドが生まれる前だったから、間違った宗教を信じていたのも仕方がないのだ」というように弁明していたのでした。

 続いて第45章では、マズダクの妻ホッラムがペルシア東部に逃亡し、そこでマズダク教を広めたことが述べられます。以後、マズダク教はホッラム教と呼ばれるようになったそうです。
 ホッラムという女性が実在したかもわかりません。敵勢力(宗教とか国家とか)の創立などへの女性の貢献の大きさを強調するのは、古典的な誹謗の一例です。

 そして初期イスラム時代から著者ニザームの時代までに出現した異端宗派(主にシーア派系だが無関係な宗派もある)および異端とは無関係な反乱は、すべてホッラム教から派生したことにされています。マズダク教を誅した「正しい」ゾロアスター教ですら、いつの間にかホッラム(=マズダク)教と同一視されています。イスラム成立以前のゾロアスター教徒なら擁護のしようがあるが、イスラム以後のゾロアスター教にはない、ということなのでしょう。

 ニザームによれば、「バーティン派(シーア派の分派イスマイール派のさらに過激な一派のことだが、著者は異教・異端全般の呼称として使う)の者たちは、叛乱を起こすごとにいろいろな呼び名や通称で呼ばれた。それゆえ町や地域によって彼らを違う名で呼ぶのだが、その実態はすべて同一である。(……)彼らすべての目的は、どうにかしてイスラームを転覆させ、人々に道を踏み外させ迷わせようとすることなのである」だそうです。そしてもちろん彼らは、飲酒や偶像崇拝、近親相姦を含む乱交といった悪行に耽るのでした。
 多種多様に見える「敵」は裏ですべて繋がっている、根本は一つである、というのは典型的な陰謀論です。しかし『統治の書』の訳者解説は本書をホッラム教に関する「貴重な情報源」と呼び、大量の誤情報もごく一部を註で曖昧に訂正しているだけです。

『統治の書』は当初、まっとうな部分(理想の統治者の在り方)だけが世に出され、終盤の陰謀論の部分はその数年後に書かれたのですが、発表される(写本として出回る)前に、ニザームは「バーティン派」によって暗殺されてしまいます。この「バーティン派」は本来の意味のバーティン派で、過激イスマイール派であるニザール派、いわゆるアサシン教団です。
 異端を憎むニザーム・アルムルクは、正統イスラム(いわゆるスンナ派)を広めるため、宰相の権限で各地にイスラム教育機関を設立しました。こうした文化事業と著作(陰謀論の垂れ流し)以外に、具体的な異教・異端の弾圧を行ったのかは、ちょっとわかりません。暗殺は政敵の差し金だったという説もありますが、いずれにせよ彼は自らの命をもって異端者が危険な存在であることを世に知らしめることになったわけで、なんとも皮肉な話です。

 前近代のムスリムによる異教・異端観は、ごく一部の例外を除いて、まあだいたいこんなものです。ただ普通は単に無関心から来る無知で異教・異端を区別していないだけで、この『統治の書』のように憎悪に満ちた陰謀論はやはり特殊ですが。
 フィクションだと『千夜一夜』では、ゾロアスター教徒はムスリムの美青年を生贄にしようと常に付け狙っていて、キリスト教徒は偶像崇拝者で食糞儀礼を行うとされてたりします。まあ中世・近世のキリスト教徒によるムスリム像もひどいものなので、この点はどっちもどっちですね。

 長くなったので、「悪魔崇拝(サタニズム)が実体のある宗教・信仰ではなく妄想であると断じる理由」その2は次回

前回の記事

 

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著作(エッセイなど)、インタビューほか 2020~

一番上が最新です(下に行くほど古い)。

エッセイなど

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『トーキングヘッズ叢書』№84「悪の方程式~善を疑え!!」(2020年10月28日発売予定)

 エッセイ「乱反射する悪魔崇拝(サタニズム)」を寄稿いたしました。

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 いつもより多めに書かせていただきましたが、それでも入りきらなくて已む無く没にしたネタを記事にして先日上げました。『TH』掲載分のネタのほうがもちろんおもしろいですが、没にしたネタも充分変です。

没ネタ①:「ヴードゥー教、ワルド派、そしてスタージョン」
没ネタ②:「テンプル騎士団とフリーメイソンの謎」

没ネタ②のおまけ:「ダンテとテンプル騎士団」
 ②で未解明だった謎を解こうとしたら変なモノを見つけてしまった話。

 掲載エッセイについての補足記事はこちら

 

 

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『トーキングヘッズ叢書』№83「音楽、なんてストレンジな!」(2020年7月29日発売)

 もう3ヵ月も前になりますが、エッセイ「禁断の快楽、あるいは悪魔の技――イスラムにおける音楽」を寄稿しております。

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 3ヵ月も告知が遅れた理由と、内容の補足(こぼれ話的なもの)はこちら

 

 

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『トーキングヘッズ叢書』№82「ものやみのヴィジョン」
2020年4月30日発売

 エッセイ「アポローの贈り物――梅毒をめぐる幾つかの逸話と謎」を寄稿させていただきました。
 梅毒については、いつかSFのネタにしたくていろいろ調べていたので。

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 告知が半年も遅れた言い訳と、内容の補足(こぼれ話的なもの)はこちら

 

 

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『SFが読みたい! 2020年版』(2020年2月6日) (Amazonへのリンク)

「2020年の私」にコメントを書かせていただきました。
後ろ向きのコメントが続いていた「20××年の私」、ようやく前向きなコメントが書けましたよ。

 

 

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『TH(トーキングヘッズ叢書)』№81「野生のミラクル」
2020年1月29日㈬発売

 エッセイ「密林のパラダイスーー管理された野生」を寄稿させていただきました。
 今回のテーマの「野生」はレヴィ・ストロースの『野生の思考』から、ということなので、そのレヴィ・ストロースが文化人類学の道へと進んだ最初の一歩が『悲しき熱帯』、というわけで『伊藤計劃トリビュート』(Amazonへのリンク)収録の拙作「にんげんのくに」で描いたアマゾナス先住民についていろいろ書きました。
「にんげんのくに」の「人間」族のモデルはヤノマミ族ですが、他のアマゾナス先住民についてもたくさん調べたので、これを機会に総浚い。「にんげんのくに」後記で述べた「アマゾナス先住民の伝統文化と言われるものは、実は大して伝統がない」説を、より詳しく論じました。具体的には『アギーレ 神の怒り』とか『アナバシス』とか「異国風景」とか「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」とか。
「にんげんのくに」をお読みになった方も、そうでない方も、御興味を持たれましたら是非。「野生」はもちろんアマゾナスに限ったことではないので、他の執筆者の方々が論じる多彩な「野生」を、私も一読者として楽しみにしています。

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「乱反射するサタニズム」補足 Ⅰ

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「トーキングヘッズ叢書」№84「悪の方程式~善を疑え!」(2020年10月28日発売)

 エッセイ「乱反射する悪魔主義(サタニズム)」を寄稿させていただきました。「悪魔崇拝」を宗教・信仰ではなく「妄想」と定義し、そのような妄想がどのように成立し発展したかを考察しました。

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 今回は少々多めに書かせていただきました。3部構成で、第1・2部では「悪魔崇拝という妄想」について、第3部では欧米キリスト教徒によるこの妄想が、クルディスタンのヤズィーディーにもたらした惨禍について書きました。

 ISによる迫害で知られることになってしまったヤズィーディーについては、一昨年刊行の『トーキングヘッズ叢書』№76「天使/堕天使~閉塞したこの世界の救済者」に寄稿させていただいたエッセイ「イスラムの堕天使たち」で取り上げております。

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 この企画でヤズィーディーを取り上げたのは、彼らが崇拝対象が、イスラムの堕天使イブリースが悔悛して神に赦されて再び天使となった「孔雀天使」だからです。
 その後、ヤズィーディーの信仰についてのより詳しい解説を、このブログに上げました。

「ヤズィーディーの信仰について」(全2回)

 またヤズィーディーの信仰とイスラム神秘主義の関係についても記事を書きました)
「ハッラージュとヤズィーディー」(全2回)

 さらに、イスラムは伝統的にキリスト教におけるような「悪魔崇拝」の概念を持たないのに、なぜヤズィーディーは「悪魔崇拝者」として迫害を受けることになったのか? という疑問についても記事を書きました。
「なぜ彼らは悪魔崇拝者と呼ばれるのか」(全2回)

 この考察の結論は、「ISが持つ悪魔崇拝という概念は、欧米キリスト教徒から移植されたものなのかもしれない」という「憶測」でした。「憶測」止まりだったのは、ヤズィーディーを悪魔崇拝者として描く欧米キリスト教圏の初期(20世紀初め)のフィクションのうち、現在でもかろうじて知られているのは、上の記事「なぜ彼らは悪魔崇拝者と呼ばれるのか」で取り上げた3点のみらしいということ。2009年刊行の『ジェネシス・シークレット』は世界的ベストセラーとなったものの、最近すぎる上に、この1作品からの影響だけでISがあれだけの蛮行を引き起こすとは考えにくいからです。

 その後さらに調べた結果、「憶測」ではなく「推測」と言っていいくらいの傍証が得られたので、今回の『TH』で形にさせていただいた次第です。
 というわけで、『TH』拙稿でも控えめに「憶測」としましたが、ほんとは「推測」くらいは根拠があるんだよ、という補足です。

 まず、①イスラムでは悪魔崇拝という概念は発達しなかった、②1840年以来、欧米人はヤズィーディーを悪魔崇拝者と決めつけてきた、③クルディスタンのムスリムとヤズィーディーは長年にわたり共存してきた。
 ヤズィーディーと隣人のムスリムたちは、同じ職場で働き、休日には一緒にピクニックに出掛けていたそうです。「悪魔崇拝者」と見做す相手とそんなことをするムスリムがいるでしょうか。
 ジェラード・ラッセルの『失われた宗教を生きる人々』(原著は2014)によると、著者が取材で出会ったクルディスタンのムスリムは、こう言ったそうです。
「俺はヤズィード教徒の食べ物は食べません。昔はムスリムも彼らの食べ物を食べていたそうですがね。今は違います。だって、彼らの崇拝するマラク・ターウースは悪魔ですから」

 この発言はISが攻めてくる前のものですが、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」像は「比較的最近」「外部から」もたらされたものだという印象を受けます。

 イスラム原理主義者によるヤズィーディーへの最初のテロは2007年ですが、これはヤズィーディーからイスラムへ改宗してムスリムと結婚した少女が元のコミュニティから殺されたへの報復です。「悪魔崇拝者」と認識されていたかは不明。そもそも異教徒というだけで、原理主義者のテロの対象になるには充分なのです。
 拙稿でも取り上げている小説『ジェネシス・シークレット』(原著は2009)は、彼らが「ムスリムから悪魔崇拝者として長年迫害されてきた」としています。著者のノックスはジャーナリストだそうで、同書に登場する場所は2か所を除いてすべて現地取材し、また宗教、歴史、考古学に関する記述は「ほとんどが事実だ」と豪語しているそうです。

 つまり「一部はフィクション」ということで、ヤズィーディーが「ムスリムから悪魔崇拝者として長年迫害されてきた」という記述がフィクションなのか事実なのかは不明です。しかしこの「宗教、歴史、考古学に関する記述」全般が事実だとか事実じゃないとかいう以前に、何を言ってるんだか理解できない、というレベルだったりするんですが。
 まあそれについては以前の記事でいろいろ突っ込みましたが、一つだけ、その後明らかになったことを付け加えると。 
 昨年、「ガーヤト・アルハキーム」を書いた際、ノックスが取材に行ったという某遺跡についての別の人物によるレポート(英語)を読む機会がありました。で、ふと思い立って『ジェネシス・シークレット』におけるその遺跡の場面を読み返してみたら、遺跡までの道程や周囲の風景の描写がスカスカで、あ、これは……
 皮肉なことに、このレポートの記者は『ジェネシス・シークレット』の愛読者だそうです。

 しかしいくら『ジェネシス・シークレット』が二十数ヵ国で翻訳されたベストセラーだとはいえ、欧米人および世界中のイスラム原理主義者が「ムスリムから長年迫害されてきた悪魔崇拝者ヤズィーディー」という謬説を信じてしまうほど影響力があったとは思えない。(著者がでっち上げたのではなく)すでに同書の執筆時にはこの謬説が出来上がっていて、著者はそれを利用しただけでしょう。

 というわけで、yazidi(ヤズィーディー) devil worshipper(悪魔崇拝者)で検索。
 英語による検索は、似た意味の別の語句も引っ掛かるので、devil worshipper(デヴィル・ワーシッパー)でdevil worship(デヴィル・ワーシップ「悪魔崇拝」)もdemon(デーモン)/satan(サタン) worship(崇拝)/worshipper(崇拝者)もsatanism(サタニズム「サタン崇拝」)もsatanist(サタニスト「サタン崇拝者」)も全部引っ掛かります。
 またyazidiの表記揺れであるyezidi(イェズィーディー)もヒットします。

 まず1999年12月31日以前の記事を検索します。すでに消されてしまった記事も多いはずですし、わずかとはいえ指定期間外(この場合は2000年以降)の記事も交じってるし、何よりネット使用人口が少ないですが、指標にはなります。ヒット数はたったの数十件で、すべての記事をチェックしたわけではなく主に検索結果に表示される記事タイトルとキーワード前後の文章からの判断ですが、ほとんどは両者の関係を否定する記事のようです。
 次に2000年1月1日から同年12月31日まで。なぜか引っ掛かっているヤズィーディーとは無関係な記事を除くと、わずか数件。

 ところが翌2001年1月の1ヶ月間で、いきなり80件以上増えます。1999年以前の記事全部より多いです。残りの11ヶ月間では30件ほどしか増えませんが、翌年から2006年まで毎年数十件ずつ増えていきます。そして最初のテロがあった2007年以降は毎年100件以上の増加となります。
 2001年1月に画期となる何かがあったことになりますが、それを突き止めるのは私の能力(英語力)を越えているので御容赦ください。

 20世紀末においても英語圏でヤズィーディーが少しは知られていたのは、おそらく「サタン教会」のアントン・ラヴェイの責任でしょう(敢えて「責任」と言います)。
 今回の拙稿で論じていますが、「悪魔崇拝(サタニズム)」という概念はキリスト教の枠組みの中だけで有効な妄想です。そもそも「悪魔」という概念自体、キリスト教内部にしか存在しません。西洋中世の人々は、自分の気に入らない相手を「悪魔崇拝者」と呼びました。実際には「悪魔崇拝」というものを信じているのは彼ら自身であり、その「妄想」を気に入らない相手=「他者」に投射したのです。真の悪魔崇拝者は彼ら自身だと言えるでしょう。
 近代以降、「悪」に憧れるロマン主義的(言い換えれば中二病的)な人々が「悪魔崇拝者」を自称するようになりましたが、どのみち「宗教」としての「悪魔崇拝」の実態がないことには変わりありません。

 アントン・ラヴェイが1966年に設立した「サタン教会」が掲げる「悪魔崇拝(サタニズム)」は、こうした「近代的悪魔崇拝」に分類されます。60年代70年代にはカウンターカルチャーとして持て囃されましたが、80年代になると米国社会が保守化し、上記の「中世的悪魔崇拝」が復活します。
 現代の「中世的悪魔崇拝者」にとってカウンターカルチャーは悪魔崇拝者の所業であり、「サタン教会」の存在はその動かぬ証拠でした。「悪魔崇拝者たちが子供たちを生贄に捧げ、社会を転覆させようと暗躍している」というフェイクニュースが全米に広まってパニックが起き、サタン教会も攻撃に晒されます。

 アントン・ラヴェイが掲げた「哲学」がどれほど高邁なものであろうと、「悪魔」という概念自体がキリスト教内部のものでしかないことを無視していることに変わりはありません。ヤズィーディーを「古来の悪魔崇拝の伝統の担い手」として繰り返し紹介したのは、彼らを評価しているつもりだったのでしょうが、その評価の基盤が誤っているので見当違いで滑稽かつ無責任なものでしかありません。
 そうしてアントン・ラヴェイとその著作が60-70年代には「近代的悪魔崇拝者」たちに、80-90年代には「中世的悪魔崇拝者」たちに知れ渡ったお蔭で、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」の名も人々の記憶に残ることになってしまったのでしょう。
 それでも20世紀の最末期の時点では、かろうじて忘れられていないという程度だったのが、2001年1月に何かがきっかけで大いに知れ渡ってしまった。そして2007年のテロを経て、『ジェネシス・シークレット』(2009)の執筆時までには「ムスリムに長年迫害されてきた悪魔崇拝者ヤズィーディー」という謬説が出来上がっており、そして『失われた宗教を生きる人々』(2014)の取材時までには、隣人たちのうち原理主義傾向を持つ者からは悪魔崇拝者と呼ばれるようになっていた……

 というわけで、「憶測」ではなく「推測」と言っていいくらいの確実性はあるのではないかと。

 ちなみにサタン教会は現在も活動していますが、ヤズィーディーについての公式発言(かもしれないもの)は、ツイッターの公式アカウント(本物だとしたら)での「サタン教会は、自分たちは悪魔崇拝者ではないというヤズィーディーの主張を尊重します」というツイートしか見つかりませんでしたよ。

 拙稿第1・2章についての補足は次回

 今回寄稿したエッセイの没ネタはこちら↓

「ヴードゥー教、ワルド派、そしてスタージョン」
 今回の拙稿で述べている「ヤズィーディーが悪魔崇拝者であることを否定する英語記事の多さは、ヤズィーディーが悪魔崇拝者だと信じる人がそれだけ多い証左」という見解の裏付けとして、「ヴードゥー教の起源は中世異端のワルド派」という昔の俗説が現在では誰も信じておらず、英語やフランス語で「ヴードゥー、ワルド派」と検索しても「昔そう信じられていた」と言及する記事くらいしか出てこないことが挙げられます。
「テンプル騎士団とフリーメイソンの謎」

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著作(エッセイなど)、インタビューほか 2018~

一番上が最新です(下に行くほど古い)。

エッセイなど

 

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TH(トーキングヘッズ叢書) 』№79「人形たちの哀歌」
2019年7月31日発売予定

「幕屋の偶像(アイドル)――物そのもの(フェティッシュ)への眼差し」というエッセイを書かせていただきました。
 まず「人形愛」を定義したうえで、サーデグ・ヘダーヤトの短篇「幕屋の人形」を取り上げ、人を含む動物の具象表現が禁止されている(とされる)ムスリムであるヘダーヤトが、なぜかくも「正しく」人形愛を描くことができたのか。その謎を解くべく、イスラムにおける偶像観を考察します。
  ヘダーヤトの別の短篇「最後の微笑」も取り上げます。
 ヘダーヤトの評論は、これで二度目になります。前回は『早稲田文学』2015年秋号(Amazonへのリンク)のアンナ・カヴァン特集で、まあつまりカヴァンとヘダーヤトを一緒に論じたわけで、ごく一部で「空気読まない」と好評(笑)をいただきましたが、今回は原稿の段階で何人かの方々に読んでいただいたところ、「イスラムについて知らなくても解りやすい/おもしろい」と好評(笑、でない)をいただいております。
 自分が興味を持っていることが、どう興味深いのか他人に伝えることができるのは、物書き冥利につきます。
『TH』№76と77では、規定枚数に収めるのに少々苦労したので、今回は「できれば少し増やしていただきたいのですが」とお願いしたところ、なんと2頁も増量していただけました(3頁→5頁)。書きたいことを書きたいだけ書けて、たいへん楽しかったです。
 もう一つ、今回は是非とも「イランの対“バービーとケン”人形、“サラとダラ”」の画像を使いたかったのですが、あいにく自分では実物も画像も所持しておらず、編集の方々に無理を言って画像を探していただきました。この場を借りて、改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。
 バービーを「欧米からの文化侵略」と見做すイラン政府が2002年に製造販売を開始した、「イスラム的に正しいお人形」サラ(宗教指導者のお墨付き)。なかなか味のあるデザインですので、是非周知させたいと。

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内容に関する補足の記事はこちら

 

 

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『SFが読みたい! 2019年版』(2019/2) (Amazonへのリンク)

 今年も特別企画「2019年のわたし」に書かせていただきました。
 毎年、「201○年のわたし」の原稿を書く時期に当たる1月上旬は、寒さによる不調で思考も後ろ向きになります。精一杯前向きなことを書いたつもりでも、後日、『SFが読みたい!』で読み返すと、「ああ、なんて後ろ向きな……!」と頭を抱える羽目になるので、今年は開き直りました。どうもすみません。

 

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『TH(トーキングヘッズ叢書)』№77「夢魔~闇の世界からの呼び声」
2019年1月30日発売

「ノイズから物語を紡ぐ~脳科学の見地から夢を解く」というエッセイを寄稿させていただきました。

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「ノイズから物語を紡ぐ」こぼれ話的なもの(今回は1回だけです)

 

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『TH(トーキングヘッズ叢書)№76「天使/堕天使~閉塞したこの世界の救済者」』
2018年10月30日発売

「イスラムの堕天使たち」というエッセイを寄稿させていただきました。

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補足あれこれ
「ヤズィーディーの信仰について Ⅰ」(長いので何回かに分けました)

 

 

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『SFが読みたい! 2018年版』(2018年2月10日発売)
 SF作家たちによるエッセイ「2018年のわたし」に書かせていただいております。
 体調が悪い時に書いたので、少々気弱な内容です。すみません。補足と近況報告はこちら

 

 

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ダンテとテンプル騎士団

 先日、テンプル騎士団とフリーメイソンの関係が創作だという記事を書きました。そしたら岡和田君がエーコの『フーコーの振り子』がテンプル騎士団ネタだったことに言及してくれたので、同書をもう20年近くも前に途中で放り出したままだったことを思い出したのでした。

 映画しか知らなかった『薔薇の名前』原作がおもしろかったんで、続けて『振り子』も読み始めたんですが。上巻63頁(単行本)の「恐れ入り谷の鬼子母神」でずっこけて、瀬田貞二訳『ナルニア国物語』で育った人間でもこれはきついわー、とパラパラめくってたら「鬼に金棒」に遭遇して心が折れました。テンプル騎士団の話題が出てくる前に挫折したわけです。
 その後、エーコの小説はだいたい読んで、特に『バウドリーノ』と『プラハの墓地』はとても好きですが、2016年に亡くなられた後も『フーコーの振り子』に再挑戦しようという気は起きなかったんですね。しかしテンプル騎士団ネタだったことを思い出したお蔭で、テンプル騎士団についての未解明の謎を解く手掛かりが得られるんじゃないか、と思い至ったのでした。

「未解明の謎」というのは、私にとっての、という意味で、テンプル騎士団とフリーメイソンの関係については解明できましたが、テンプル騎士団の「名誉回復」はいつから始まったのか、という謎は未解明なままだったのですよ。
 衒学者の代名詞たるエーコなら、テンプル騎士団に関する怒涛の蘊蓄を詰め込んでいるはず。というわけで「恐れ入り谷の鬼子母神」やそれ以上の訳に出くわしても挫けない覚悟を決めて、上下巻に再挑戦。

 幸いにして、「恐れ入り谷の鬼子母神」を上回る、あるいは匹敵する「超訳」はなく、「鬼に金棒」級も数えるほどでした。別に数えてませんが。
 しかし、ある意味「恐れ入り谷の鬼子母神」以上に動揺させられたのは、前回気づかなかった「珪素峡谷」という訳語。
 コンピュータについての会話場面なので、「シリコンバレー」のことで間違いない……この邦訳が出た1993年て、まだ日本じゃ周知されてなかったっけ?

 4半世紀以上も昔のこととて思い出せず、国会図書館の図書検索で1993年以前刊行のキーワード「シリコンバレー」の書籍を探したところ、15件ありました。一番古いのは1981年の『米国半導体産業:シリコンバレーの光と影』(瀬見洋・著 日本経済新聞社)で、Nikkei neo booksという叢書の体裁からして、まあまあ一般向けのようです。少なくとも産業界の報告書とかほど専門的ではない。翌82年にはさらに一般向けと思われる『シリコン・バレー:リアル・タイム小説』(マイケル・ロジャース著 祥伝社)なる本が、83年には『シリコン・バレー逆おとり作戦』(落合信彦・著 集英社)が出ています。
 仮に訳者の藤村昌昭氏がシリコンバレーを知らなかったとしても、編集や校正の人がチェック入れたでしょ……? いや、そう言えばこの2年ほどで、「三銃士」の「銃士」を「マスケット銃兵」と訳してる本に2度も遭遇してるよな……(それぞれ「三人のマスケット銃兵」「アレクサンドル・デュマのマスケット銃兵」でした)
 イタリア語でもシリコンバレーはsilicon valleyですが、エーコが執筆中だった1980年代後半ではイタリア語訳(la valle del silicioとか)も使われてて原書でもこの語句だったとか、だからわざわざ「珪素峡谷」と訳したとか……?

 とグルグル考えてしまったので、その数行後に再会した「恐れ入り谷の鬼子母神」にも動揺しなかったどころか、著しく集中を欠いたまま読み進んでいると、今度は「猟奇魔」という訳語に遭遇。
 文脈からすると、どうやらただのオカルトマニアのことらしい。原文ではどんな語なのか見当もつきませんが、「オカルト」は普通に使ってるのに、なんで「猟奇魔」? しかも1回だけだった「珪素峡谷」と違って何度も出てくるし。

 こうなると「珪素峡谷」も「猟奇魔」もなんらかの意図があって、わざわざこんな訳語を当てたように思え、しかもその「意図」がどんなものかまったく見当がつかず、不可解さに恐怖すら覚える。
 たとえるなら、衒学的で難解な用語だらけだけど内容は興味深い講演を聞いていたら、突然「珪素峡谷」とか「猟奇魔」とか、普通に「シリコンバレー」「オカルトマニア」と言えばいいものを、なんの説明もなしにそんな奇怪な造語(?)が飛び出し、そのまま講演が進んでいくような。まったく理解不能な話よりも、理解できる話の中に所々そういう理解不能の「穴」が黒々と開いてるほうが、かえって不気味じゃないですか?

 そういうわけで結局、『フーコーの振り子』上下巻合わせて1000頁余りの印象はすべて、この不気味さに塗り潰されてしまった感がありますが、当初の目的であるテンプル騎士団の謎についてはどうだったかと言いますと。
 まず上巻130頁で、テンプル騎士団の「生き残り」についての伝説に言及されています。フランス王フィリップ4世による捕縛(1307年)を逃れてスコットランドに渡った騎士たちがいた、という伝説で、史実では壊滅させられたのはテンプル騎士団フランス支部だけで、他の国々のテンプル騎士たちは後日、別の騎士団に受け入れられたので「生き残り」は大勢いるんですが、伝説ではスコットランドに落ち延びたという騎士たちだけが注目されている。
 で、この場面では、騎士たちの逮捕時に伝説が生まれた、と述べるだけで、この伝説についての最も古い記録は誰某によるもの、等の役に立つ情報は無し。ぐぬぬ。
 この伝説の成立は、テンプル騎士団の「名誉回復」問題と関わりがあります。聖杯等のキリストの遺物と結びつけられているんで、彼らが「殺人と食人と男色(当時の価値観です)に耽る悪魔崇拝者」と信じられていたとしたら、そんな連中を聖杯と結びつけるはずがない。

 続いて同じく上巻167頁。「それから多くの人間がモレー(1314年に火刑に処されたテンプル騎士団総長)のことを殉教者として回顧することになり、ダンテはテンプル騎士団の迫害に義憤を感じていた大衆の声を反響させることになるのである」
 ダンテの生没年は1265-1321だから同時代人です。『神曲』が完成したのは1320年頃。

 結局、得られた情報はこれだけでしたが、とにもかくにも「ダンテ」「テンプル騎士」のキーワードでまず日本語検索。「ダンテは『神曲』でテンプル騎士団に言及している」「ダンテはテンプル騎士団を壊滅させたフィリップ4世を非難している」程度の情報しか出てこない。使える情報、つまり『神曲』のどの箇所(○○篇の第○歌)かといった情報は見つからない。「神曲」「テンプル騎士」の組合せでも同じ結果。
『神曲』の邦訳を全巻(複数の版がありますが、どれも全3巻)再読して探す気はないので、英語に切り替えて検索。すると、煉獄篇第20歌の「(フィリップ4世は)無法にもその強欲の帆を掲げ、かの神殿に乗り込みすらした」(英訳からの意訳)の箇所が、テンプル(神殿)騎士団壊滅の件で彼を非難している、と解釈されているらしい、ということが判りました。

 どうもダンテがテンプル騎士団に言及しているのは、この間接的な表現一ヵ所のみのようです。地獄篇第19歌でも言及している、という記事もありましたが(引用はなし)、確認したところ、フィリップ4世には言及しているもののテンプル騎士団の名前は挙げていないし、間接的な言及をしているようにも読めない。
 なんだか曖昧ですが、この検索で、上記の「それから多くの人間がモレーのことを殉教者として回顧することになり」についても、少なくとも1人はそういう人がいたことが判明しました。ジョヴァンニ・ヴィッラーニという人物で、日本でもかなり有名らしくWikiに記事があります。それによると、ダンテの元同僚で銀行家、政治家にして『新年代記』(邦訳なし)の作者。ただしこのWiki記事も含め、ヴィッラーニとテンプル騎士団との関わりに言及した日本語記事はないようです。
 複数の英語記事によると、この『新年代記』の中で、火刑に処されたテンプル騎士たちに同情して「殉教者」と呼んでいるそうです。

 ここまで判れば、当初の目的は充分果たせました。逮捕・処刑当時からテンプル騎士団に同情的な意見が少なくなかったのであれば、「名誉回復」はすでに始まっていたことになる。動揺しながらも1000頁読破した甲斐があったというものです。

 ところで、この話にはおまけがあります。『神曲』におけるテンプル騎士団への言及が、本当に上記の曖昧な表現だけなのか、英語検索だけでは判らなかったので、イタリア語検索もしてみたわけです。
 イタリア語はねー……英語・フランス語・ドイツ語・スペイン語はラテン語(あるいはラテン語経由のギリシア語)由来の単語が多く、つまり仏語・独語・仏語をちょっと齧っただけの私でも、英語に綴りが似た単語を手掛かりに、文章をざっと流し読みすれば、何について書いてあるかくらいは推測できる場合が多かったりするのです(単語の組合せ次第では全然推測できなかったりもするけど)。イタリア語も英単語と語源を同じくする単語が多いんですが、仏・独・西語に比べて英語のそれと綴りの違いが大きいものが少なくない。
 たとえばsecretはラテン語secretusが語源で、仏語secret、独語sekret、西語secretoなのに、イタリア語はsegreto。英語でカ行発音のcはドイツ語の綴りではほぼ必ずkなので解りやすいですが、イタリア語では必ずgになるわけではないのでややこしい。ロシア語はキリル文字ですが、ラテン文字に置き換えれば綴りが近い単語は、むしろイタリア語より多いかもしれません。secretだったらсекρет(sekret)だし。
 仏・独・西語もちゃんと読むなら辞書と文法書に首っ引きになるとはいえ、初見の流し読みで内容がおぼろげにでも推測できるかできないかは大きい。

 そういうわけで、より難易度の高いイタリア語検索もやってみたんですが、判ったのはやはり『神曲』におけるテンプル騎士団への言及は煉獄篇第20歌の曖昧な表現だけらしい、ということだけでした。それもキーワードが「ダンテ」「テンプル騎士」の組合せでは情報がまったく出てこず、「神曲」「テンプル騎士」の組合せでもようやく5番目に出てくる。
 じゃあ「テンプル騎士」と「ダンテ」あるいは「神曲」の組合せで出てくる情報はどんなものかというと、「ダンテはテンプル騎士だった」「隠れテンプル騎士、ダンテ」みたいなタイトルの記事ばっか。それも大量に。なんだこれ。

 実は日本語で「ダンテ」「テンプル騎士」で検索すると一番上に出てくる記事に、その答えがありました(最初に日本語検索した時点では、探してる情報とは無関係だからとスルーしてた)。
 2012年で更新が止まっている個人のブログなのでリンクは張らないでおきますが、この記事および同ブログ中の関連記事によりますと、ウジェーヌ・アルーEugène Aroux(1793-1859)という人が、ダンテはFrater templarinus(ラテン語「テンプル騎士団の兄弟」)というテンプル騎士団の在俗会(在俗のまま特定の修道会規則に準じた信仰生活を送る人々の会)の長だったとか(テンプル騎士団は修道会でもある)、『神曲』天国篇第31歌で導き手として聖ベルナルドゥスを登場させたのは彼がテンプル騎士団の規則を作った人だからだとか、ダンテの思想はフリーメイソンのそれに通ずる、といった説を提唱したんだそうです。

 アルーについてはWikiではフランス語記事しかなく、そこでは思想家とかではなく政治家とされていて、ダンテ研究についても言及されていませんが、Wiki以外の記事(主にフランス語)では、ダンテとテンプル騎士団の関係を論じた著書の作者として紹介されています(政治家のEugène Arouxと著述家のEugène Arouxは生没年が同じなので同一人物です)。
 で、イタリアの「ダンテ=テンプル騎士」説は、明らかにアルーが挙げた「テンプル騎士団の兄弟」会や天国篇第31歌の聖ベルナルドゥスのネタを根拠としています。しかし大半の記事がアルーの名は挙げていない。上記の日本語ブログによれば、アルーはダンテが「テンプル騎士だった」「フリーメイソンだった」とは言ってませんからね。ダンテがメイソンだったとするイタリア語記事もそれなりにあるようですが、アルーに依拠しているかは不明。まあテンプル騎士団だったということであれば、オカルト・陰謀論好きは自動的にメイソンに結び付けるでしょう。
 それに天国篇第30歌のベアトリーチェが「白いストール(肩掛け)の修道士たちに囲まれ、守られている」とある「白いストールの修道士たち」とは実はテンプル騎士団のことだ、なぜなら「白いストール」とはテンプル騎士団の制服である背中に赤い十字架が描かれた白マントのことだからだ、という強引すぎるこじつけは、さすがにアルーとは無関係なんじゃないかと。

 ダンテの『神曲』といえばルネサンスの嚆矢であり、名前くらいなら日本の中学生でも知っている、文字どおりの世界的偉人の世界的文学遺産です。それが「ダンテ」(あるいは「神曲」)と「テンプル騎士」の組合せでイタリア語検索すると、「ダンテはフィリップ4世がテンプル騎士団を壊滅させたことを『神曲』煉獄篇第20歌で非難している」という学術的な記事ではなく、「ダンテはテンプル騎士だった」「隠れテンプル騎士、ダンテ」ネタがわんさか出てくるって……ええんかイタリア人。

 このネタは『フーコーの振り子』では取り上げられていません。エーコの博覧強記がサブカルチャーにも及んでいることは、『フーコーの振り子』という作品自体が証明しているので、1980年代後半当時のイタリアでは、このネタは全然知られていなかったか、無視されるほどマイナーだったのでしょう。
 何がきっかけで、この現状に至ったのか。ダン・ブラウンの『インフェルノ』(未読)が『神曲』を小道具にしてるそうで、ダンテ=テンプル騎士団/フリーメイソン説は出てこないようだけど、きっかけにはなったかもしれない。というわけで『インフェルノ』の原書とイタリア語訳の出た2013年より前に、「ダンテ」(あるいは「神曲」)と「テンプル騎士」に関するイタリア語記事がどれくらいあったか、ググってみました。
 2012年以前ですでに結構な数があるんで、『インフェルノ』がきっかけではないですね。明らかに2013年以降、さらに増えてますが。

 これ以上調べるのは私の語学力では無理ですが、ひょっとしたら『フーコーの振り子』がダンテのテンプル騎士団擁護に言及したことがきっかけで、イタリアのオカルトマニアによるウジェーヌ・アルーの「発見」に至ったのかもしれない。実際にそうだったとしても巡り巡っての結果でしょうけど、「嘘(フィクション)から出た真(現実)」という『フーコーの振り子』そのままの展開だったことになりますね。

先日の記事「テンプル騎士団とフリーメイソンの謎」

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「禁断の快楽、あるいは悪魔の技」補足

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『トーキングヘッズ叢書』№83「音楽、なんてストレンジな!」(2020年7月29日発売)

 もう3ヵ月も前になりますが、エッセイ「禁断の快楽、あるいは悪魔の技――イスラムにおける音楽」を寄稿しております。

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『TH』№82の発売直前の4月下旬からストレスで心身の不調に陥り、それでも何もしないとさらにストレスが溜まるので、№83にも参加させていただき、お蔭でだいぶ持ち直すことができました。ただ、気分は内向きのままでブログで告知をするには至らず(単に気分が乗らなかっただけ)。
 そうこうする内に9月に入ってすぐ、今度は夏バテで体調崩してしまいました。自律神経がやられてるんでメンタルへのダメージが直にフィジカルにも来るんですが、この時は完全にフィジカルのみの不調です。以前は夏が来るたびにゾンビになってたのが、細心の注意で健康維持に努めるようになった甲斐あって、一昨年と昨年は無事に夏を乗り切れていたのですが、今年はなんぼなんでも暑すぎました。何しろ3年前からベランダで育てていたミントが死滅してしまったくらいです。毎年夏は元気がなくなっても秋には回復してたのに。除草剤でも枯れないと言われる、あのミントが。エスニック料理(本格的なのじゃなくて、なんちゃってですが)に使えて便利なので、また種を買います。

「イスラムにおける音楽」ということで、割と多くの人が「イスラムは音楽を禁忌とする」という言説を聞いたり読んだりしたことがあると思います。しかし一方で、ベリーダンスの伴奏などの「アラブ風の音楽」をイメージすることのできる人も多いと思います。まあベリーダンスは元来、イスラム世界における異教徒やムスリムでも被差別階級だった芸人が踊るものでしたが、とにかくベリーダンスの伴奏に限らずイスラム世界には音楽の伝統がちゃんとある。
 あるいはタリバンが音楽を禁止したというニュースを憶えている人もいるでしょう。ではイスラムで音楽を禁止するのは原理主義者なのかといえば、もっと最近ではISの処刑動画のBGM、「ナシード」が有名になりました。このように一見矛盾した状況は、どう説明できるのか?

 あまりテーマを広げると散漫になってしまうので、拙稿ではイスラムにおける音楽を「音文化」の観点に絞って論じました。
 アラブの人々は伝統的に、言葉(アラビア語)を非常に重視してきました。アラビア語が押韻しやすい構造なのもあって、詩とその朗詠が非常に好まれました。そのため歌もシンプルな旋律と伴奏のものが好まれ、歌詞の聴き取りを妨げる凝った旋律や伴奏は発達しませんでした。歌詞のない器楽曲は言うまでもありません。
 一方でアラブにとって「意味のある言葉」が中心でない音楽、つまり歌詞よりも旋律を重視した音楽、歌詞のない器楽曲、異国語の歌は危険なものでした。それらは人を熱狂させ、時には死に至らしめさえするものでした。つまりアラブの人々はかつて、「言葉」に対しても「音楽」そのものに対しても、非常に感受性が強かったと言えるでしょう。神の言葉であるクルアーンも韻を踏んだリズミカルな文体であり、詩と同じく朗詠されました。

 しかしイスラム世界の拡大とともに異国の音楽が大量に流入し、それらはアラブの人々を熱狂させると同時に恐れさせました。あまりにも魅力的で、到底理性を保てない。それは「神から心が逸れている」ことではないか、と。またクルアーンを、言葉が聞き取れないほどメロディアスに「歌う」ことも流行し、これもまた信心深い人々を危惧させました。

 というのが、「音文化」の観点から見た「イスラムにおける音楽」です。前イスラム時代と初期イスラム時代におけるアラビア語と音楽に対するアラブの人々の感性が、イスラムにおける音楽の位置付けを決定したのは間違いないでしょう。しかしそれ以降の、9世紀後半頃からの音楽の位置付けには、イデオロギーも大きく関わっています。
 つまりイスラムの多様化に不安を覚えた保守的な人々が、「本来のイスラム」に回帰しようとし、その一環として音楽を「非アラブ」「非イスラム」として排除しようとしたということです。そうした人々の多くは、かつてのアラブのようなアラビア語や音楽への鋭い感受性はもはや持っておらず、ただただ「異質なもの」を憎んだのでしょう。

 具象芸術の排斥が強まるのも同じ時期・同じ理由からです。前イスラム時代から初期イスラム時代のアラブの人々は、音楽の場合と同じく、自分たちの手で具象芸術を作ろうとはしないのに、異国人の手による絵画や彫像は非常に好みました。クルアーンは偶像崇拝は禁じていますが、装飾品としての偶像は禁じておらず、むしろ推奨するような下りすらあります。にもかかわらず後世のムスリムは、具象芸術はすべて非アラブ/非イスラムだとして排除しようとしたわけです。

 ところで初期イスラム時代以前のアラブの嗜好について、音楽の場合はアラビア語と音楽に対する感受性で説明がつきますが、具象芸術の場合は説明がつきません。確かにかつてのアラブの人々は自分で作る場合は絵画や彫刻よりカリグラフィーを好みましたが、「アラビア語の偏重」を理由にするには当時の識字率が低すぎる。
 ただ、無文字ではないが識字率の低い社会では往々にして、文字そのもの、書かれた言葉、書物といったものが魔力を持つという信仰が生じるので、識字率が低くてもカリグラフィーが好まれる説明にはなる。だから当時はおそらくアラビア語の書物は1冊も存在せず、ムハンマド自身もおそらく文盲であったにもかかわらず、神の言葉はクルアーン(アラビア語で「読誦されるもの」)というかたちで下されたわけです。天にはクルアーンの「原型」である1冊の書物があるんだそうで。
 しかしそれでも、アラブが自ら具象芸術を作らなかった理由は不明のままになる……まあここまでくると、補足ではなく余談ですが。

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「アポローの贈り物」補足 Ⅱ

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『トーキングヘッズ叢書』№82「もの闇のヴィジョン」(2020年4月30日発売)

 もう半年近くも経ってしまいましたが、エッセイ「アポローの贈り物――梅毒をめぐる幾つかの逸話と謎」を寄稿しております。

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 拙稿の補足(こぼれ話的なもの)Ⅰおよび半年も告知が遅れた言い訳はこちら

 さて、補足の続きです(今回で終わります)。
「天才が破滅的に生きるなら、自分も破滅的に生きれば天才になれる」と勘違いした人は大勢いたかもしれませんが、「あの天才やあの天才(ニーチェ、ベートーヴェンその他)が梅毒なら、自分も梅毒に罹れば天才になれる」と勘違いした人は、史上一人もいなかったと思います。これを想像上で実行したのがトーマス・マンの『ファウストス博士』(岩波文庫)とトーマス・M・ディッシュの『キャンプ・コンセントレーション』(サンリオSF文庫)です。
 私が知る限り、「梅毒性天才」という幻想を題材にしたフィクションはこの2作品だけですが、「梅毒幻想」という切り口で両作品が並べて論じられることは少ないようですね。『キャンプ・コンセントレーション』はトーマス・マンに献辞を捧げていますが、『ファウストス博士』よりも『魔の山』との関連で論じられているっぽいです。

 私は『キャンプ』も『ファウストス博士』も「梅毒幻想」小説として読んだのもあって、『キャンプ』が『魔の山』のオマージュだとか言われても、あまりピンと来ないんですが、何より大きいのは『魔の山』を「モラトリアム小説」として読んだからでしょうね。
『魔の山』を読んだのは、デビュー作『グアルディア』の執筆を始めた頃かその直前の2002年夏で、パワハラで退職に追い込まれた挙句に感情が完全にフラットになってしまった私を見かねたのか、父が「まあしばらく好きなことをしてろ」と猶予をくれた、紛うかたなきモラトリアム状態にあった時でしたから、あれこれ言い訳を重ねて下界に降りない主人公の心情・言動がいちいち刺さり、それだけに彼の最期は衝撃的だったんですが(と反応できるまでには回復できていたわけです)、『キャンプ』のほうはまったくモラトリアムではありませんからね。それでも前半はまだ主人公は傍観者でしたが、後半はその余地すらなくなる。

「梅毒幻想」小説として括ったとはいえ、『キャンプ・コンセントレーション』を読んだのは『ファウストス博士』の数年後でしたから、今回(半年以上も前ですが)続けて再読して、両作品の刊行が21年しか隔たっていないことに、改めて驚かされました。今から21年前だと1999年ですよ。文学史的には全然最近だ。いくら『ファウストス博士』が意図的に古めかしいスタイルで書かれたのに対して『キャンプ』は前衛中の前衛だったとはいえ、この落差はちょっとすごい。

 拙稿でも触れましたが、『キャンプ・コンセントレーション』が刊行された1968年は、タスキギー大学による史上最悪の梅毒実験が進行中でした(あくまで「最悪」であって、規模は劣るものの梅毒の人体実験は過去にも行われていた)。この事件の最もおぞましい点は、40年にもわたって数百人の被験者を対象に公然と行われていた(医学雑誌に論文が掲載されていた)にもかかわらず、止めようとする人がほぼ皆無だったことです。まあ皆無ではなかったお蔭で、1972年に中止されるのですが。
 ディッシュが執筆時に実験について知っていたかどうかは不明です。しかし日本語で「タスキギー梅毒実験」「キャンプ・コンセントレーション」でググっても1件もヒットせず、英語でも数件。それらの記事でも単に同時代性を指摘するか、「想像だけど、知っていたのではないか」「実験が明るみに出たのは1972年だから、知らなかったはず」(実際には情報は公開されていたわけだが)等の憶測だけで、たとえばディッシュが実験について言及した記録がある/ない、といった確実性のあるデータはないようです。

 個人的には、ディッシュが何かしら知っていた可能性はあるとはいえ、せいぜいが「過去にそういう実験が行われていたらしい」程度だったろうと思います。『キャンプ・コンセントレーション』では梅毒実験の犠牲者たちの中心的人物に黒人が据えられており、あたかもタスキギーの実験を告発しているかのようですが、進行中の実験だと知っていたら、もっと明確に告発しているでしょう。

 ディッシュが知っていた/知らなかった、よりも重要なのは、そしてほぼ確実に知らなかったであろう実験を告発するかのような小説を書いたことよりも重要なのは、作中の、つまり虚構の「犠牲者たち」が世界に死と破壊と混沌をもたらす結末です。現実ではその4年後にタスキギー実験は中止されたけれど、数百人に及ぶ犠牲者たちが救済されたとは到底言えない。ディッシュはあたかもその「現実」を予見して、犠牲者たちに代わって虚構の中で世界に「復讐」を果たしたかのようです。
 拙稿では紙幅が限られていることもあって、充分な説明なしに「復讐」とか「報復」といった強い言葉を使うと誤解を招きかねなかったので「救済」と表現しましたが、誰かが代わって報復してくれるのは、ある種の救済ではあります。
 もちろん虚構は虚構でしかないのですが、その現実も含めて、それがディッシュという作家の本質ではないかと思います。

 最後に、拙稿の締めでも触れた梅毒の起源をめぐる論争について。
 新大陸起源説に、オリエンタリズム(この場合はすべての「非西洋」への蔑視)がないか問うのは意義のあることですが、最近の資料で梅毒の起源に言及したものがいずれも(といっても2、3点読んだだけですが)、新大陸起源説を偏見と断じ、コロンブス以前から存在していた可能性が高い非梅毒のトレポネーマ感染症や、90年代に発見された新大陸の古人骨に見られる梅毒の痕跡といった事実を無視しているのが気になります。政治が科学を抑圧するのは、政治が科学を悪用するのと同じくらい有害ですよ。

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「アポローの贈り物」補足 Ⅰ

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『トーキングヘッズ叢書』№82「もの闇のヴィジョン」(2020年4月30日発売)

 もう半年近くも経ってしまいましたが、エッセイ「アポローの贈り物――梅毒をめぐる幾つかの逸話と謎」を寄稿しております。

アトリエサードさんの公式ページ
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 発売当時は告知する気力がなかったんですが、やっと諸々回復してまいりましたので。「先の予測がつかない」という状態が続くのは、拷問のマニュアルにもあるくらい人間にストレスを与えるものだそうで、まあとにかく半年前は、自分の活動を宣伝する気力が湧かないくらい気持ちが内向きになっておったのですよ。

『TH』の企画テーマは毎回、何ヵ月も前に決められるものであり、コロナ禍と重なってしまったのはまったくの偶然です。というわけで、内容もセンセーションを狙ったものではありません。
 私が選んだ「梅毒」は、いつかSFのネタにしようと思って調べていたものです。「アポローの贈り物」というタイトルは、梅毒の洋語名「シフィリス syphilis」の由来である16世紀のラテン語の長詩「シフィリスあるいはフランス病」から。

 この詩は邦訳されておらず、内容についてはスティーヴン・ジェイ・グールドの『ぼくは上陸している』(早川書房)の第11章を参照いたしました。詩の作者はジロラーモ・フラカストロというイタリア人医師です。この人については、資料によって「梅毒の新大陸起源説を否定した」「新大陸起源説を支持した」、「梅毒の治療薬として水銀を推奨した」「グアイヤック(西インド諸島産の木)を推奨した」とまちまちなんですが、『ぼくは上陸している』によると、「シフィリスあるいはフランス病」の第1部と第2部では梅毒の新大陸起源説を否定して水銀療法を推奨し、第3部では新大陸起源説を支持してグアイヤック療法を推奨しているそうです。

 どういうことかといいますと、フラカストロは1510年代初めに「シフィリス」の第1部と第2部を書き上げたのですが、出版前にグアイヤックという「特効薬」が登場した。そこで10年以上をかけて第3部を書き上げ、第1・2部と第3部の内容の食い違いはそのままに1530年に出版したのでした。
 では、なぜ食い違いをそのままにしたのか。実はこのグアイヤックの販売と施療には、フラカストロが支持する神聖ローマ帝国カール5世の利権が絡んでおり、なぜカール5世を支持したのかというとフランス王シャルル8世のライバルだからで、フラカストロは1494年にイタリアに侵攻したシャルル8世とフランスを憎悪していたのでした。
 そもそもヨーロッパにおける梅毒の最初の大流行は1495年にナポリにいたシャルル8世の陣中で発生したとされていて、フラカストロをはじめとするイタリア人は梅毒はフランス人が原因だと信じていたのでした(だから「シフィリスあるいはフランス病」)。

 つまりフラカストロが第3部を書いたのは、まったくの政治的な動機からで、医師としてはおそらくグアイヤックよりも水銀のほうを支持していたし、フランス憎しとしては梅毒の起源は新大陸ではなくフランスだと信じていたけれど、グアイヤックは西インド諸島でしか採れないので新大陸起源説を支持せざるを得なかった、といったところでしょう。でも本音では水銀推奨、新大陸起源説否定派なので、第1・2部もそのまま出版したのではないかと。
 ちなみにフラカストロの詩「シフィリスあるいはフランス病」で西インド諸島の住民が「アトランティスの末裔」とされているのは、スペインの歴史家フランシスコ・ロペス・デ・ゴマラ(1566?没)が提唱した説に基づいています。

 恐ろしい疫病(梅毒)をもたらしたのが第2部でも第3部でもアポロー(ラテン語なので「アポロン」ではない)なのは、彼が太陽だけでなく病も司るから。ギリシア・ローマ神話に限らず、古代の医神は疫神でもありました。病を癒す力を持つ者は病をもたらす力も持つと信じられていたのです。たとえば黒死病がユダヤ人のせいにされたの原因の一つは、彼らの罹患率が低かったことにあります(実際にはキリスト教徒より清潔だったからですが)。
「アポローの贈り物」という拙稿のタイトルは、「梅毒が創造性を高める」という俗説とアポローが芸術神でもあることに因みます。「アポロン(アポロー)的」芸術といえば、「ディオニュソス的」芸術と対立する理知的なもの、ということになり、一方、梅毒がもたらすとされた創造性は退廃、狂気、死と結びついたディオニュソス的芸術のほうが相応しい、ということになるんでしょうが、まあ古代ギリシアでも理性が重んじられたのはかなり後の時代で、アポロンも古い神話ではデーモニッシュな側面が強いですからね(疫神であることからも明らかなように)。ギリシアで理性が重んじられるようになり、かつアポロンが「理想のギリシア人」の典型とされた結果、外来の神であるディオニュソスが狂気を担うようになったと言える。まあそもそも「アポロン的」「ディオニュソス的」という対立概念自体、近代のものですけど。

 梅毒によってもたらされる創造性、という俗説の成立過程は、C・ケテルの『梅毒の歴史』(藤原書店)を参照しています。しかしこの本、いろいろ参考にはなったんですが、凝った言い回し、婉曲表現、反語が多く、何より読者が知識を有しているという前提でまともに解説してない事柄が少なくない。たとえば「遺伝梅毒」という謬説についてかなりの紙幅を割いてるんですが、大前提となる「梅毒は遺伝しない」という事実について本文中で一切言及していない。口絵のキャプションに「遺伝梅毒という神話」という表現があるのが唯一の言及。いや、わりと専門的な本なんで、梅毒が遺伝しないことを知らずにこの本を読もうという気を起こす人はいないかもしれないにしても。
 これだからフランス人の書く文章は苦手というか、これでも相当マシなほうというか。

 拙稿で言及している、遺伝梅毒説と優生学の結びつきは『比較「優生学」史』(現代書館)で指摘されています。この本はドイツ、フランス、ブラジル、ロシアの優生学について、それぞれ別の著者が論じているわけですが、遺伝梅毒説がフランス優生学の土壌から生まれた、という指摘があるのは、同書のフランス篇ではなくブラジル篇のほうです。ブラジルの優生学はフランスから導入したものだそうで。

 で、『梅毒の歴史』によると「梅毒性天才」(便宜上、こう呼びます)という概念を「創作」したのは、フランスの作家レオン・ドーデ(1867-1942)。「最後の授業」で知られるアルフォンス・ドーデ(1897没)の息子です。拙稿に引用したレオンの「梅毒讃歌」は『梅毒の歴史』から。
『梅毒の歴史』の訳者である寺田光徳氏は著書『梅毒の文学史』(平凡社)の中で、レオンがこの概念を創作したのは、父アルフォンスの死を不名誉なものとしたくなかったからだろうと推測しています。まあそれも確かに動機の一つではあるでしょうけれど、それ以上に大きかったのは、レオン自身の「遺伝梅毒」への恐怖だったのではないでしょうか。
 梅毒は潜伏期間が長いせいもあって最終段階が狂気(進行性麻痺)であることは長いこと認識されておらず、19世紀後半にアルフレッド・フルニエによって初めて明らかにされます。そこまではよかったんだけど、このフルニエ、「遺伝梅毒」説(提唱されたのは18世紀末)を優生学と結びつけた張本人でもある。優生学の言うところの「人類の退化」の一因が遺伝梅毒かもしれない、と。

 この見解を普及させたのが息子のエドモン・フルニエで、お蔭で遺伝梅毒は人類の退化の一因「かもしれない」ではなく、一因に確定されます。で、エドモンの友人だったのがレオン・ドーデというわけです。レオンは元は医者志望で、エドモンと知り合ったのも医大在学中。正規の医学教育を受けているので、当時の「正統科学」だった優生学を把握しているし、その優生学に沿った遺伝梅毒説も同様。
 父親の梅毒感染後に生まれたレオンは、遺伝梅毒だということになる。遺伝梅毒患者は、知的・精神的・肉体的に劣っているとされていました。遺伝梅毒説そのものを否定する代わりに、レオンは「梅毒性天才」という概念を創造することで実に鮮やかにパラダイムシフトを起こしたわけです。自分を天才だと宣言したのも同然で、しかも世間に認められたわけだから、鮮やかと言うほかない。

 もちろんレオンとしては、自分が惨めな劣等者である可能性を否定したかったのでしょうけれど、それとはまた別に、大作家の息子として自分の才能の「裏付け」が欲しかったのではないでしょうか。たとえその裏付けが梅毒という忌まわしい病気であっても。
 そして自らの才能の保証を梅毒に求める以上は、父親の「天才」も梅毒によるものだとせざるを得なかった。実の父親であろうとなかろうと、他人の才能の源泉を外挿的なもの、それも梅毒(現代よりさらにイメージが悪かった)だとするのは、その人の擁護どころか侮辱以外の何ものでもない、と私は思いますけどね。「フランス、アルザス、フランス、アルザス」が「天才」か? という疑問はさておき。

 何はともあれ、晩年のアルフォンス・ドーデが自らの闘病生活を書き綴った日記やメモが、死後30年余りして未亡人によって編集され、刊行されたのは、「梅毒性天才」論が普及したお蔭でしょう。出版を意図したものではないこともああってか、なかなかの傑作だそうで、ジュリアン・バーンズ(『イングランド・イングランド』とか)が自ら英訳して『In the Land of Pain』のタイトルで出版しています。

 レオン・ドーデが「梅毒性天才」論を捻り出すにあたって、ロンブローゾ(1835-1907)の天才論、俗に言う「天才と狂人は紙一重」を念頭に置いていたのは間違いないでしょう。そして一時はロンブローゾの天才論と同じくらい人口に膾炙します。
「天才と狂人は紙一重」論の天才は、ロマン主義的な破滅型天才、「ディオニュソス的」天才になりますが、この考えが受けたのは、「天才が破滅的に生きるなら、自分も破滅的に生きれば天才になれる(に違いない)」という勘違いを生む余地があったからですが、世の中、そんな人ばかりではない。より広範で根源的で潜在的な理由としては、天才を「狂人と紙一重」と貶めることができるから、じゃないですかね。

 そして「梅毒性天才」論は、「天才と狂人は紙一重」論以上に天才を貶めるものです。梅毒治療法が確立された現代ではこの俗説/謬説も忘れられつつありますが、完全に過去のものとなるのはまだ先でしょう。
『性病の世界史』という本があって、原書はドイツ語で2001年刊、2003年に草思社から邦訳が出て、16年に文庫化されています。拙稿を書くに当たって、参考になるかと梅毒についての記述(大半を占める)だけ読んだんですが、いや、これがひどい。著者のビルギット・アダムは医学や科学を学んだことはなく、梅毒の蔓延でドイツの温泉文化が廃れた等、そこそこ専門的なネタもありますが、まあこれも諸説ありますし、ドイツ人だから他国の人よりはハードルの高いネタではないだろうし。全体的にはミソもクソも一緒というか、現在は(おそらく刊行当時も)はっきり否定されているか極めて疑わしいとされている著名な学者や芸術家たちの梅毒説(後天性あるいは先天性)を「事実」として列挙している。
「梅毒性天才」論がどれだけ人気があったかを知るには役に立つ本ですが、まだ売れてるわけですからね。鵜呑みにする読者もいるのでしょう。

 長くなったので続きます。

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テンプル騎士団とフリーメイソンの謎

 テンプル騎士団について少々知りたかったんで、『テンプル騎士団の謎』(レジーヌ・ベルヌー著 池上俊一・監修 南條郁子・訳 創元社)を読んだのでした。まあテンプル騎士団自体については『魔女狩りの社会史』(ノーマン・コーン 山本通・訳 岩波書店)で充分で、知りたかったのは騎士団についての「伝説」だったから、『テンプル騎士団の謎』は最終章と巻末の「資料編」しか読まなかったんですが。
 とにかくそれで初めて、「フリーメイソンはテンプル騎士団の末裔」という「伝説」を知ったわけです。陰謀論やオカルトは、それを生む背景はともかく、それ自体には興味がないんで。
『テンプル騎士団の謎』資料編には、この「伝説」の「作者」についての記述がありました。「歓迎の辞」というものの中で、初めてその説を唱えたらしいです。引用もあって、十字軍におけるテンプル騎士団の目的は、エルサレムに神殿を再建することだけではなく天国に神殿を築くことだとか、そういう主旨のことを述べたそうです。
「神殿」というのはテンプル騎士団の「テンプル」のことなんでしょうが、ベルヌーの記述がどうにも不明瞭なので、まず日本語でググりました。で、このフリーメイソン=テンプル騎士団伝説の「作者」の名がアンドリュー・マイケル・ラムジーだということまでは判りました。そっから英語に切り替えて、Andrew Michael Ramsay はスコットランド人で生没年は1686-1743だということが判りました。

 整理すると、フリーメイソン(自由な石工)はまず英国で広まり、それをヨーロッパ大陸に伝えたのはジャコバイト。ジャコバイトというのは1688年のいわゆる名誉革命で追放されたジェームズ2世のスチュアート朝復興を目指す勢力で、何度も失敗してはフランスに亡命することを繰り返した。その中にはメイソンも大勢いて、彼らがフランスにその思想を伝えたわけです。1725年、パリにヨーロッパ大陸初のロッジ(支部)が設立。
 ラムジーはフランスに亡命したジャコバイト兼メイソンの1人で、パリのロッジの有力者でした。ベルヌーの言う「歓迎の辞」は1737年に新規会員の歓迎会で行われた講演のことです。フランス語で行われ、Discours de Ramsay「ラムジーのディスクール」として知られるようになります。「ディスクール」discoursは英語のdiscourseと同じで「講演」です。

 英語Wikiのラムジーの記事中のこの講演についての解説によると、
「しばしば誤って繰り返されるのは、ラムジーが彼の講演の中で、テンプル騎士団に言及した、ということである。実際には彼はその騎士団にはまったく言及していないにもかかわらず――彼はホスピタル騎士団に言及したのである。しかし察しのよい聴衆は、彼の十字軍騎士団への言及はテンプル騎士団への間接的な言及であろうと理解した」

 え、そうなん? 

 とりあえずここでテンプル騎士団、ついでにホスピタル騎士団の説明をしておきます。どちらも十字軍に関連して設立された修道騎士団です。団員は修道士でもあるので修道騎士団。戦うお坊さんです。
 第1回十字軍(1095ー1099)は聖地エルサレムの奪取が目的でしたが、それ以前からヨーロッパのキリスト教徒は自由にエルサレムへ巡礼することができていました。しかし旅は大変なので、到着する頃にはボロボロの状態でした。そこで1023年、エルサレムに病院が建てられます。病院の場所は聖ヨハネ教会の跡地だったので、「聖ヨハネ病院(ホスピタル)」と呼ばれるようになります。ちなみにこの聖ヨハネは福音書記者ではなくて、洗礼者のほうです。
 第1回十字軍は1099年のエルサレム奪取という大勝利で幕を閉じます。それでヨーロッパのキリスト教徒がエルサレムへ巡礼に押しかけますが、当然ながら途中でイスラム勢力に襲われます。そこで彼らを守るために「聖ヨハネ修道騎士団」が設立されます。彼らは拠点である聖ヨハネ病院(教会も併設されていた)に因んで「ホスピタル騎士団」とも呼ばれました。
 リドリー・スコットの『キングダム・オブ・ヘブン』にデヴィッド・シューリス演じる戦う修道士が出てきますが、あれの役名は「ザ・ホスピタラー」、つまりホスピタル騎士ですね。

 この聖ヨハネ(ホスピタル)騎士団に倣って1118年頃設立された修道騎士団が、テンプル騎士団です。彼らはかつてエルサレム神殿が建っていたとされる「神殿の丘」近くに拠点を置くことを認められたので、「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」と名乗りました。「ソロモン神殿」とはエルサレム神殿のことです(ソロモン王が建てたとされるから)。で、そのうち略されて「テンプル(神殿)騎士団」と呼ばれるようになりました。日本語だと神殿騎士団とか聖堂騎士団とも訳されますね。
 このテンプル騎士団と聖ヨハネ(ホスピタル)騎士団、そしてやや遅れて設立されたドイツ騎士団が、三大修道騎士団です。どの騎士団も中東での戦闘を支えるため、ヨーロッパ各地で寄進による資産の経営にも力を入れました。最も財力と権力を増したのがテンプル騎士団で、そのことが最終的に命取りになりました。
 1291年にエルサレム王国が滅びると、聖ヨハネ(ホスピタル)騎士団は地中海に拠点を移し、ロードス騎士団、さらにはマルタ騎士団と改称します。ドイツ騎士団は東方植民事業に携わることになります。テンプル騎士団だけが、聖地守護に替わる義務を見つけることなく、ますますヨーロッパにおける経済活動に専念していきます。そして聖俗双方から恨みを買うことになるのです。

 当時のフランス王フィリップ4世は、深刻な財政難と巨大な宗教的野心を抱えていました。後者は、新たな十字軍の総司令官になりエルサレムを奪還してその王になる、という誇大妄想的野心です。財政難解決と野心達成の第一歩として1307年、テンプル騎士団を悪魔崇拝の容疑で壊滅させ、その莫大な富を奪いました。
 悪魔崇拝の容疑というのは一つのステレオタイプを成していて、その儀式では近親相姦や男性同性愛を含む乱交、幼児の生贄と食人がセットで行われるとされています。容疑者はそれらを行ったと認めるまで拷問されるのです。

 さて、『魔女狩りの社会史』でも『テンプル騎士団の謎』でも、この「テンプル騎士団事件」が冤罪であるといつ明らかになったかは記されていません。
 日本語Wikiの「テンプル騎士団」の記事では、彼らにかけられた容疑はその後ずっと「無批判に受け入れられていた。しかし1813年にフランスのレイヌアールが初めてこれに疑義を呈した」とあります。なお典拠は提示されていません。
 この一文はフランソワ・ジュスト・マリ・レイヌアールFrançois Just Marie Raynouard(1761-1836)の1813年の著作、「テンプル騎士たちの有罪判決と彼らの騎士団の冤罪についての歴史的モニュメント」Monuments historiques relatifs à la condamnation des Chevaliers du Temple et à l'abolition de leur Ordre を指していると思われます。普通にネット書店で買えて、その解説(フランス語)によると中身はタイトルどおりの歴史書です。しかし邦訳はもちろん英訳もなく、上記のWiki記事以外、この著作がそんなに大きな影響を与えたという見解は、日本語でも英語でも見つかりません。フランスではどう評価されているのかググるのは、私の能力を超えています。

 このレイヌアールという人は日本ではほとんど知られていないようですね。英語圏ではWikiに記事があるくらい知られていますが、その記事でもフランス語Wikiの記事でも、テンプル騎士団についての研究には触れられていません。そもそもこの人は歴史研究者ではありますが、専門は中世フランス語です(吟遊詩人の研究とかしてる)。そして劇作家でもある(作品には歴史ものが多い)。
 そういう人がテンプル騎士団についての「定説」を覆すパラダイムシフトを起こすことができたのか、という疑問はさて措き、彼は上の歴史書の8年前の1805年、「テンプル騎士団」という悲劇を初演して好評を博してるんですね。これは早くも1809年には英訳されていて、最新版のペーパーバックは2014年刊です。その解説によると、「悲劇」というのはやはりテンプル騎士団への迫害を指しています。
 政治犯とかならまだしも、悪魔崇拝者で幼児殺しでカニバリストで男色家(当時の価値観です)と信じられていた連中を、いきなり悲劇の主人公にして受け入れられるはずがない。それにいくらなんでも19世紀にもなって、500年余り前の悪魔崇拝容疑がまったく疑われていなかったというのもおかしな話です。少なくとも歴史家の間では冤罪だったというのが常識になっていて、専門外の知識人にもある程度は知られていたのではないでしょうか。

 ググるだけでここまで判るのですから、便利な世の中になったものですね(大学の書庫を這いずり回り続けた思い出のある元史学科生)。しかし、では冤罪であるという事実はいつ明らかになったのか、彼らの「名誉回復」はいつから始まったかについては、日本語では上記Wiki記事の引き写ししか出てこないし、英語およびフランス語ではそれらしい情報はまったく出てきません。まあこれは私の語学力の問題。

 フリーメイソンに話を戻すと、私は陰謀論には興味ないんで、メイソンが「自由」「平等」「友愛」「寛容」「人道」を掲げる友愛団体だという主張を疑う理由はまったく持ち合わせません。まあ「真実」がなんであれ、そのような理念を掲げ、会員も社会的地位のある人ばかりという18世紀の団体が、悪魔崇拝者で幼児殺しでカニバリストの男色家(当時の価値観です)と信じられていた連中の後継者だと公言しますかね?

 では結局のところ、ラムジーは「ディスクール」でフリーメイソンの起源についてどんなことを述べているのか?
 前述のとおり、英語Wikiのラムジーの記事によれば、「しばしば誤って繰り返されるのは、ラムジーが彼の講演の中で、テンプル騎士団に言及した、というものである。実際には彼はその騎士団にはまったく言及していないにもかかわらず――彼はホスピタル騎士団に言及したのである。しかし察しのよい聴衆は、彼の十字軍騎士団への言及はテンプル騎士団への間接的な言及であろうと理解した」

 これはホスピタル騎士団が起源だと言ったってこと? でも言及referenceしただけだっていうしな。この記事は典拠を挙げているが、ディスクールそのものではなく二次資料。フランス語Wikiではラムジーの記事でも彼のディスクールの記事でも、テンプル騎士団には一切言及していません。前者では彼がフリーメーソンを十字軍時代の騎士団の後継者とした、としか述べていない。後者ではもう少し詳しく、「この騎士団(メイソン)の伝説的な歴史は、彼(ラムジー)がエルサレムの聖ヨハネ騎士団と特に関連付けた十字軍とともに始まった」としています。

 とにかく二次・三次資料に頼るのはもはや限界なので、「ラムジーのディスクール」原典に当たることにする。邦訳も英訳もありません(ネット公開も刊行もされてない)が、フランス語原文は刊行されてるしネットで無料公開もされています。フランス・メイソンの公式サイト(?)にも掲載されてますが、アクセスしやすい(敷居の低い)Wikisourseへのリンクを貼っておきます(これらの無料公開の「ディスクール」同士には相違がありますが、少なくとも私が読んだ範囲では助詞等の些細でわずかな違いだけです)。

 https://fr.wikisource.org/wiki/Discours_de_Ramsay

 フランス語は独学で初歩を齧っただけなので、歯が立たないようだったら尻尾を巻いて退散します!(なお機械翻訳はどうせ不正確なので、ハナから頼りません) 以下、フランス語の知識があって、原文を読んでみようという気になった人がいたら、その参考になるかもしれないのでフランス語についても説明しますが、興味のない人はその部分は飛ばしてください。

 相当な長さがあります。とてもレジーヌの言う歓迎の「辞」なんてもんじゃない(訳の問題か?)。なのでまず「テンプル騎士団」(Templiersまたはordre de temple)で全文検索してみました。確かにこの名は一度も挙げられていません。次に「神殿」templeと「十字軍 」croisesで検索すると幾つか引っ掛かったので、その周辺だけ読むことにする。
 どうやら求める情報は、「第二部 SECONDE PARTIE この騎士団(=フリーメイソン)の起源と歴史 ORIGINE ET HISTOIRE DE L’ORDRE」の2番目の章(各章の番号はない)「この騎士団の十字軍からの創設 INSTITUTION DE L’ORDRE PAR LES CROISÉS」にあるようです。
 最初の章「起源と歴史 LA LÉGENDE ET L’HISTOIR」は前置きで、ざっと目を通してみたところ、「メイソンの起源を聖書の時代に求める人々もいるが、私はここで真実の歴史について駆け足で語ることにする」というようなことを述べています。この「真実の歴史」は、彼が英国で収集したものだそうです。

 で、次の「この騎士団の十字軍からの創設」の章で、いきなり十字軍の話が始まります。冒頭の一文は、やたら長くて重複もあるので要約すると、「パレスチナにおける聖なる戦いの時代から、諸王、諸侯、そして民衆が協会(Société ソシエテ=メイソン)に入り、聖地にキリスト教の神殿(複数)を再建するという誓いを立て」たそうです。
 少々長い文章が続きますが、メイソン(Société「協会」またはOrdre オルドル「騎士団」)の語は出てこないので飛ばします。で、最後のほうで「我が騎士団(メイソン)はエルサレムの聖ヨハネ(ホスピタル)騎士団と親密に結びついた。それ以来、我々の支部(ロッジ)はその地全域で聖ヨハネのロッジという名だった。この同盟は一方で鏝とモルタルを扱い、他方で剣と盾を帯びている間、第二神殿を再建した時の古代イスラエルの民を手本にしていた」と述べて、後はヨーロッパでの話に移ります。

 これまでに私が読んできたフランス人の文章(もちろん邦訳)は全般的に、エスプリなのか知りませんが、やたら凝った言い回し、婉曲表現や仄めかし、反語が多く、フィクションならそれがおもしろい場合もありますが(おもしろくない場合もある)、ノンフィクションでもそうなので苛々させられます。
 しかしスコットランド人ラムジーの「ディスクール」は、少なくとも私が読んだ部分にはそのような表現はありません。文法も簡単で、辞書を引くのに時間がかかるだけで、私でも読めます。古い欧文の例に漏れず、一文がやたら長くて冗長ですけどね。動詞活用表に載ってない活用形が2回出てきますが、何しろ300年近くも昔の文章なので、現在は使われていない形だと思われます。ググってみたら、一番上に出て来るのがこの「ディスクール」だし。いずれにせよ、文脈から適当に訳せます。

 問題は辞書を引くのに時間がかかりすぎることで、フランス語は英語と綴りと意味がほぼ同じ単語がたくさんあって、大まかな意味を把握するのにはいいんですが、微妙に意味が違うことも多いので正確さを期すにはいちいち辞書を引かないといけない。だからこれ以上読む気はありません。
 というレベルのフランス語力ですが、読解はさほど不正確ではないと思います。で、確かにテンプル騎士団には一切言及していない。その後の文章も一応目を通してみましたが、「騎士団」のヨーロッパにおける「壊滅」にもまったく触れていません。
 日本語Wikiの「テンプル騎士団」の記事で述べられているように、「名誉回復」が1813年にようやく開始したのだとしたら、ラムジーも他のメイソンたちもテンプル騎士団の罪状を鵜呑みにしていることになり、自分たちに結び付けるはずがない。

 しかし前述のWiki英語記事は、「しかし察しのよい聴衆は、彼(ラムジー)の十字軍騎士団への言及はテンプル騎士団への間接的な言及であろうと理解した」に続けて、「フランスにおける彼ら(テンプル騎士団)の評価は異論があ」った、と述べています。つまりメイソンの間では冤罪だと知られていたが、世間では悪魔崇拝者だと信じる人たちもまだまだいた、ということでしょう。典拠は示してませんが。
 フランス以外の国だと悪魔崇拝者だと信じる人はいなかった、と述べているようにも読めます。まあ「いなかった」かどうかはともかく、フランス以外の国、特に新教国ではテンプル騎士団の「名誉回復」は比較的早かったでしょうね。何しろテンプル騎士団に悪魔崇拝容疑をかけて壊滅させたのは、フランス国王とフランス出身の教皇だから。

 上記の英語Wiki記事は、この後さらに続けて、「(ラムジーの「ディスクール」が、メイソンの起源をテンプル騎士団だとした、と了解されたことが)一年後にこの団体(フリーメイソン)への教皇の非難へと至ったのであろう」と述べています。
 これはクレメンス12世による、カトリック教徒がフリーメイソンに加わるこを禁じる1738年の勅書のことでしょう。教皇庁によるフリーメイソンへの初の禁令ですが、禁止の理由はメイソンが「信仰の自由」を掲げていたことだというのが定説です。確かに教皇庁によるテンプル騎士団の公式の「名誉回復」は2007年ですが、どのみち1738年の勅書ではテンプル騎士団には一切言及していません。

「ディスクール」から2、30年後の18世紀後半、「テンプル厳修派」(英語でthe templar strict observance)というメイソンの一会派がドイツのカール・ゴットヘルフ・フォン・フント男爵によって設立されます。その経緯についての『テンプル騎士団の謎』の記述がどうにも不明瞭で、これに関係する日本語Wikiと英語Wikiのそれぞれ複数の記事がまたちょっとずつ食い違ってるという有様なんですが、まあとにかくこの会派が名前のとおり、メイソンの起源をテンプル騎士団だとしていたのは確かです。
 だからフォン・フント男爵の時代にはすでに、「テンプル騎士団は潔白」というのが少なくとも知識人の間では常識となっていたんでしょう。ラムジーの時代には、まだそこまで一般的ではなく、しかしメイソンの間では知られていたとしたら、「ディスクール」は「テンプル騎士団への間接的な言及」だったということになる。
 ではどの辺が間接的な言及かというと、「聖地にキリスト教の神殿(複数)を再建するという誓いを立て」たSociété「協会」の下りですかね。

 しかしこの「聖地にキリスト教の神殿(複数)を再建する」ってのが、どういう意味か解らない。テンプル(神殿)騎士団の名称の由来である「ソロモン(エルサレム)神殿」というのは、ソロモン時代に建てられたとされるエルサレムのユダヤ教神殿のことです。アッシリアによって破壊されたので、「第一神殿」と呼ばれるようになります。で、アッシリアの重圧から解放された後に再建されたのが、ラムジーも言及している「第二神殿」。これが1世紀のユダヤ人大反乱の後、ローマ帝国によって破壊されてからは、エルサレムにユダヤ教神殿は再建されていません。またキリスト教徒もエルサレムに教会は建てても神殿(聖堂)は建てていないので、エルサレムに「再建」されるような「キリスト教神殿(複数)」なんてないわけです。
 まあキリスト教徒はユダヤ教の正典を「旧約聖書」という失礼な名前でキリスト教の正典の一つにしているくらいだから、キリスト生誕以前のユダヤ教神殿はキリスト教神殿だということになるのかもしれません(おまえのものは俺のもの)。それなら「キリスト教神殿(複数)」はユダヤ教の「第一神殿」と「第二神殿」のことになる。

 そうなると次の問題は、ラムジーの時代に「テンプル騎士団の目的は神殿の再建」という見解があったかどうかですね。実際には「テンプル騎士団」の名は、単に「神殿」跡地近くに本拠地を置いたことに由来するんですが、ラムジーの時代には「神殿を再建するために設立されたからテンプル騎士団」という見解があったのかもしれない。あったのだとしたら、このSociété「協会」はテンプル騎士団にほかならないことになる。そうだとしたら、スコットランド人ラムジーも「婉曲な仄めかし」をしたことになりますが。ま、テンプル騎士団への18世紀前半当時の評価も不明なのに、こんな微妙なことはなおさら判りません。
 聖ヨハネ(ホスピタル)騎士団については、この文言でメイソンの起源(の一つ)だとしているんですかね。よく解りません。

 フォン・フント男爵の「テンプル厳修派」のその後の沿革(英語)はさらに錯綜していて、もはや追えませんが、とりあえず現在、メイソンには「テンプル騎士団」を名乗る会派があって、正式名称は英語でThe United Religious, Military and Masonic Orders of the Temple and of St John of Jerusalem, Palestine, Rhodes and Maltaというそうです。
 単語の並び的に訳しにくいですが、「エルサレム、パレスチナ、ロードスとマルタの聖ヨハネ、および神殿の宗教的・軍事的メイソン騎士団の同盟」といったところでしょうか。ラムジーの「ディスクール」にある「我が騎士団」をテンプル騎士団と解釈し、それと聖ヨハネ騎士団との「同盟」というラムジーのでっち上げをそのまま名称にしてるわけですね。

 ちなみに史実のテンプル騎士団と聖ヨハネ(ホスピタル)騎士団は、めちゃめちゃ仲が悪くて、そもそもテンプル騎士団壊滅の直接の原因は、フィリップ4世がテンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団をまとめて支配するために統合しようとしたのを、テンプル騎士団が断固として拒絶し妨害したから、だったりします。
 テンプル騎士団の滅亡は、聖ヨハネ騎士団にとってはライバルが消えた上に、テンプル騎士団の莫大な不動産の一部までフィリップ4世から貰うという余得付きでした。テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団の「同盟」がメイソンの起源とか、あり得ないあり得ない。

 ところで今回のブログ記事のタイトルは「テンプル騎士団とフリーメイソンの謎」ですが、何が「謎」なのかというと、ラムジーの「ディスクール」は機密文書でもなければ難解な古文書でもないのに、「ラムジーはテンプル騎士団には一切言及していない」という事実は、なぜこんなに知られていないんですか? 仄めかしだと言えるのも「神殿の再建」だけだし。
 上述のようにフランス語Wikiの該当記事は「ラムジーはテンプル騎士団には一切言及していない」とは明言しておらず、じゃあフランスではこのことが「常識」なのかというと、冒頭で見たように、フランス人がフランス語で書いた『テンプル騎士団の謎』は、ラムジーがメイソンをテンプル騎士団に結び付けたと明言している上に、「ディスクール」の「引用」まで原典と大きく食い違っている。

 私は趣味でフランス語その他の外国語を齧っていますが(英語と第二外語だった中国語を除いて今のところ12か国語)、興味があるのは言語同士の関係でしかないんで各言語を極めるつもりはまったくないし、そもそも語学の才能がまったくない。英語ですら大まかに意味を摑むのではなく正確な理解を期すなら辞書が手放せないレベルで、未邦訳の資料を読む必要がないか機械翻訳がもっと頼りになるなら、そのレベルにも達してないのは確実です。
 その程度の語学力しかなく、フランス史が専門でもない人間が片手間に調べたことでしかありませんが、誰かの参考になることもあるかもしれないので、こうして記事にしました。

余談「ダンテとテンプル騎士団」

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 実はこの記事は『トーキングヘッズ叢書』№84「悪の方程式~善を疑え!」(2020年10月28日発売)に寄稿させていただいたエッセイの没ネタでした。入れられたら入れるつもりで調べたんですが、構成の都合上使わなかったのでした。

アトリエサードさんの公式ページ
Amazonのページ

 掲載されたエッセイの補足記事はこちら

 もう一つの没ネタはこちら。
「ヴードゥー教、ワルド派、そしてスタージョン」

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«ヴードゥー教、ワルド派、そしてスタージョン