なぜ彼らは悪魔崇拝者と呼ばれるのか Ⅱ

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2018年10月30日発売
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 欧米のキリスト教徒は、神の存在だけでなく悪魔の存在も信じている。そこまでならいいんだが、「悪魔が存在するのだから、悪魔崇拝者も存在する」「キリスト教徒の組織(教会)が古来、存在するのだから、悪魔崇拝者の組織(カルト)も古来、存在する」となると、完全に妄想である。
 神学的な問題に立ち入るつもりはないので大雑把な説明に留めるが、一神教における悪魔は神の認可の下に人間を誘惑する神のしもべであり、そんなものを崇拝しても意味はない。悪魔が神から独立した、神の対抗存在だとすると二元論になり、一神教ではなくなってしまう。また悪魔をそのような存在だとするゾロアスター教やマニ教でも、最終的には善神が勝利することになっている。
 異教の神(悪神であれ善神であれ)を悪魔と見做す場合でも、その信徒たちからすれば、彼らが崇拝してるのは彼らの神であって悪魔ではない。そして一神教の論理でも、それらもまた唯一神の被造物、しもべに過ぎず、人々を「惑わす」のも唯一神の意志に従っているだけということになる。
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「悪魔崇拝カルト」の妄想がどれほど根強いのかは、1980年代以降のアメリカで、「催眠による記憶回復療法」によって「悪魔崇拝カルトに性的虐待を受けた記憶が回復した」と称する「被害者」たちが次々と訴訟を起こしたことからも明らかである。催眠が掘り起こしたのは、「潜在意識に埋もれていた記憶」ではなく、「潜在意識に埋もれていた妄想」だったのだ。
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 この妄想は、人々の恐怖だけではなく願望の現れでもある。「自分(たち)が不幸なのは○○○のせい」と、たった一つの何かに責めを負わせることほど楽な解決法はない。
 その何かが自分(たち)にとって目障りな存在であれば、なおさらだ。欧米には「悪魔崇拝者」の汚名の下に、無数の無実の人々が排除されてきた長い歴史がある(言うまでもなく「魔女」も「悪魔崇拝者」だ)。
「悪魔崇拝者の親から性的虐待を受けた」ことを子供たちが「思い出した」のは、催眠療法士による誘導が少なからず影響しているはずだが(賠償金を掠め取ろうと目論む輩もいたそうだ)、その根底には親への密かな憎しみ、とまではいかなくても疎ましく思う気持ちもあったのではあるまいか。
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「yazidi」と「satanist」あるいは「devil worshiper」を組み合わせて検索すると、文字どおり無数の記事がヒットする。上位数十件をざっと見た限りでは、大多数が「悪魔崇拝者だと誤解されている」という主旨だが、幾つかは悪魔崇拝者だと断言している。
 誤解だとする記事の多さも、この偏見/妄想の根強さを示している。
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 前回の記事で述べたように、『失われた宗教を生きる人々』の著者ラッセルは、19世紀の西洋人(学者や宣教師)によってヤズィーディーが「悪魔崇拝者」と報告されたことを記している。
しかしその後の欧米のオカルティズムやホラー小説における、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」の「人気」については、まったく言及していない。
 それどころか、同書が刊行された2014年の時点で、多数の欧米人が未だに「悪魔崇拝者ヤズィーディー」の妄想を信じていることすら知らない。エピローグでは、CNNのリポーターがヤズィーディーの信仰について「世界で最も恐ろしい宗教です」と述べていた、というヤズィーディーの訴えを、「耳を疑った」の一言で済ませている。
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 いや、あなたと同じ英国人のトム・ノックスが2009年に出した小説『ジェネシス・シークレット』は、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」を扱ってる上に、国内のみならず世界的なベストセラーになったんですが。
 武田ランダムハウスジャパンから出てる邦訳(2010年)の訳者あとがきによると、25ヵ国で刊行が決まっているそうだ。これはその時点での予定なので、「イスラムの堕天使たち」の文献案内では、Wiki英語版のヤズィーディーの頁にあった「23ヵ国」を採った。
 ただし、同書が「2006年に国際的なベストセラーになった」とか書かれていて、さすがWiki、データがいい加減、というわけで拙稿には23ヵ国語に「訳された。」ではなくて「訳されたとのこと。」としたのでした。
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 まあとにかく、『ジェネシス・シークレット』の内容はというと、超古代史をはじめとするオカルト俗説の闇鍋だ。フィクション、ノンフィクションを問わず、この手の本をまともに読むのは子供の頃以来だが、予想を超えたひどさだな(「SF作家なのに?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、SFというのはこういうネタをおちょくるジャンルであって、真に受けるジャンルではありません)。
「魂を屠る者」(1920年)や『悪魔の花嫁』(1932年)が碌に調べもせず嘘八百をでっち上げていたのに対し、21世紀の『ジェネシス・シークレット』は、あらゆる時代や地域の神話や伝説、最新の学説や研究成果を利用してはいる。ただしそれらとオカルトネタ、俗説、謬説の区別をまったくつけていない。
 作者ノックスは前書きで、次のように宣言している。
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 本作はフィクションである。ただし、宗教、歴史、考古学に関する記述のほとんどは、事実に正確に基づいている。
(中略)南トルコや北イラクで暮らすクルド人の中には、天使のカルトと呼ばれる古代宗教を信仰する人たちがいる。そのようなカルト信者の中には、マラク・ターウースと呼ばれる神を崇める者がいる。
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 この「天使のカルト」なるものは本編中、考古学の権威という設定のキャラクターによって次のように説明される(P261)。
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「アレヴィー派や、ヤズィード派。総称して、天使のカルトと呼ばれている。五千年か、それ以上前に生まれたものではないかとされているんだけど。世界でもあの地方(クルディスタン)に特有のものなの」
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 ……何を言っているのか、さっぱり理解できないんだが。
 この2つの引用からすると、「天使のカルト」には何種類もの宗派があるかのようだが、全篇を通して挙げられているのはヤズィード派(ヤズィーディー)とアレヴィー派の2つだけだ。しかもヤズィーディーがいかに特異な宗教かということは作中、何度も語られるが、アレヴィー派についての説明は一切ない。そのため、「天使のカルト」全体に共通する特徴がなんなのかもわからない。
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 アレヴィー派はトルコ人とクルド人に多くの信者を持つ宗派で、「アリーの徒」というその名が示すとおり、預言者ムハンマドの従弟で娘婿のアリーを崇敬するシーア派の分派である。『失われた宗教を生きる人々』が「ヤズィーディーと似た宗派」の一つとして挙げるシリアのアラウィー派とは、同名だが直接の繋がりはない。
 アラウィー派と同様、成立の時期は不明だが、イスラムの分派である以上、イスラムより古いわけがない。イスラムより古い宗教の要素を強く残しているという説もあるが、それがトルコ人のものにせよ、クルド人のものにせよ、どちらもクルディスタンに来たのは「五千年か、それ以上前」より何千年も後である。
 ヤズィーディーも「ヤズィーディーの信仰について」で述べたとおり、「ヤズィーディー派」もしくは「ヤズィーディー教」として成立したのは12世紀以降であり、その「原型」がなんだったにせよ、「五千年か、それ以上前」にクルディスタンで生まれたものではない。
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 後述するように、この小説にはあらゆる時代や地域の神話や伝説、最新の学説や研究成果、オカルトネタ、俗説、謬説のどれでもない「独自設定」が多々見受けられる。
 そのこと自体はフィクションなんだから問題ないが(出来の良し悪しはこの際、問わない)、前書きの大見得「宗教、歴史、考古学に関する記述のほとんどは、事実に正確に基づいている」は嘘とは言わないでも誇大宣伝であり、読者に対してもネタにされた人々や文化に対しても不誠実である。
 以下、ネタバレ注意。
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 物語は最終的に、超古代文明ネタに行き着く。まあ本書では「文明」とまでは風呂敷を広げず、「高度な文化」とするに留めてはいるが、ともあれその担い手は、ホモ・サピエンスとは別系統の人類で、当時(旧石器時代)の現生人類の先祖より知力体力ともに格段に優れていたんだそうである。フォン・デニケンとかの最新ヴァージョンだな。
 彼らは知力体力ともに劣る現生人類の祖先を奴隷化してこき使ったが、優れた文化も伝えた。日本の縄文土器はその一つだそうですよ。
 物語の主な舞台であるクルディスタン東部に、ギョベクリ・テペという遺跡がある。旧石器時代に建てられた巨大な石造神殿という、考古学の常識を覆すものである。今年、世界遺産に登録された。これもスーパー亜人類の遺跡なんだそうである。
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 やがて彼らは滅びたが、現生人類の先祖たちは奴隷とされていたのを恥じ、ギョベクリ・テペの神殿を隠蔽した(神殿が何者かによって埋められていたのは事実)。
 で、「ヤズィード派やアレヴィー派」といった「クルドのカルト信者」は神殿と奴隷であった過去を隠蔽した人々の子孫で、その秘密を守り続けてきたんだそうである。
 それだけならまだしも、件のスーパー亜人類は、鳥と人間を掛け合わせたような容貌だった。つまり、ヤズィーディーが崇める孔雀天使(マラク・ターウース)の正体は、かつての邪悪で恐ろしい主人なのである……って、そいつらの存在を隠蔽したいんだったら、なんでわざわざ「神」として崇めるんだ。
 アレヴィー派が何を崇めているのかは、結局触れられないままである。
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 現実のヤズィーディーが信仰する孔雀天使と同一視されるイブリースは悪魔ではなく、悔悛して赦され、元の地位に復帰した天使長である、という事実は無視され、作中の孔雀天使は悪魔そのものだということになっている。
 しかも、マラク・ターウースの「マラク」がアラビア語の「天使」だということも伏せられ、「モレク」の別名だとされている。旧約聖書には子供の生贄を要求する異教の神とされるが、この名はヘブライ語で「王」を意味し、本当にこのような名の神を崇拝する宗派があったのかどうかはわからない(なお、アラビア語で「王」は「マリク」といい、「マラク」と発音が似てはいる)。ユダヤ教・キリスト教における邪神の代名詞の一つだ。
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「魂を屠る者」(1920年)、「レッドフックの恐怖」(1927年)、『悪魔の花嫁』(1932年)となんら変わるところのない歪曲と捏造である。
「魂を屠る者」(『黄衣の王』所収)と『悪魔の花嫁』と、本書『ジェネシス・シークレット』の邦訳が同じ2010年に出されたのは単なる偶然だが、「魂を屠る者」と『悪魔の花嫁』では訳者の大瀧氏が、現実のヤズィーディーへの偏見が強まるのを危惧して、従来の日本語表記である「ヤジディ」や「イェジディ」ではなく「イェーズィーディー」という表記にしているのに対し、『ジェネシス・シークレット』の訳者、山本雅子氏はそのような配慮が必要だとは考えなかったらしい。訳者あとがきには、次のように述べられている。
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「どこまで事実なのかとよく効かれるが、ほとんど事実だ」と著者も自らのホームページで断言しているが、たとえば、事件解決の手がかりとなるインターネット上や書籍の中の情報は、現実の世界のネット上や書籍の中にもすべて存在する。ジャーナリストでもある著者は、本書の舞台となるほぼすべての場所に足を運び、じゅうぶんな調査を行ったうえでこの作品を書いている。
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 作者のノックスは、中東での取材経験も何度かあるそうである。本書刊行の2009年までに、すでに散発的とはいえイスラム原理主義者によるヤズィーディーへの迫害が顕著になってきており、ノックスもそのことは当然知っていて、作中で言及している。
 だから彼は、ヤズィーディーを邪悪な存在としては描かない。「善良で穏やかな悪魔崇拝者」として描く。「善良で穏やかなのに迫害される可哀想な悪魔崇拝者」である。意味不明だ。
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 だったら、そもそも悪魔崇拝者の濡れ衣を着せるのをやめろよ。
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 前述のとおり、「古代より密かに存続してきた悪魔崇拝カルト」の妄想は、欧米のキリスト教徒にとって恐怖だけでなく、願望の現れである。すべての不幸や不都合の責任を押し付けることができるからだ。
 そしてヤズィーディーは、「孔雀天使はイブリースだが、悔悛して赦されている」と「彼らの本来の主神(おそらく孔雀の神)とイブリースが同一視されたのは12世紀になってから」の2点さえ無視すれば、「古代より密かに存続してきた悪魔崇拝カルト」の条件にぴったり当て嵌まる。
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 だから彼らが迫害されているという事実を前にしても、彼らには是が非でも悪魔崇拝者であってほしい。だから「善良で穏やかなのに迫害される可哀想な悪魔崇拝者」という意味不明なヤズィーディー像をでっち上げる。
「善良で穏やかな悪魔崇拝者」という形容矛盾をひねり出してまで、ヤズィーディーが悪魔崇拝者であってほしいという願望のさらに裏に、「善良で穏やかな悪魔崇拝者が実在するのだから、邪悪で凶暴な悪魔崇拝者も存在するはず」という期待や、「善良で穏やかなのは見せかけで、実は邪悪で凶暴なはず」という期待を読み取るのはやめておこう。
 上述したように、『ジェネシス・シークレット』は英語版Wikiのヤズィーディーの頁で紹介されているが、この頁の執筆者は「悪魔崇拝者だというのは誤解」としながら、本書のヤズィーディー像については批判どころか、「重要な役割を演じている」などと評価している。
「ヤズィーディー=悪魔崇拝者」とする英語のネット記事の中にも、少なくとも一つ、「善良で穏やかなのに迫害される可哀想な悪魔崇拝者ヤズィーディー」があった。しかもニュース記事である。
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 あるいはまた、「神への叛逆ってかっこいい」「欲望を否定しないってかっこいい」という中二病的な憧憬から、「教会組織に対抗する悪魔崇拝カルト」があってほしいと願う輩もいるだろう。近世以降の悪魔崇拝を標榜する秘密結社の類は、この手合いである。二元論を否定する以上、キリスト教の悪魔が神に叛逆するのも、人間の欲望を煽るのも、すべては神の御心のままなんだが。
 この「悪魔賛美」も結構根強くて、近年でもジョー・ヒルの『ホーンズ 角』(原書は2010年)なんかがある。 
 ヤズィーディーが悪魔崇拝者だというのは誤解、とする大量の記事の執筆者たちも、わざわざそう書くのは、内心では「実は悪魔崇拝者だったらいい」と願っているからではないか、と思うのは邪推が過ぎるだろうか。
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 では、本題である。イスラム原理主義者たちは、なぜいつからヤズィーディーが悪魔崇拝者だと信じるようになったのか。
  • 「悪魔崇拝カルト」という妄想は、イスラムの伝統には存在してこなかった。
  • ヤズィーディーが悪魔崇拝者だという偏見は、隣人のムスリムたちの間に「比較的近年」に、「外部から持ち込まれた」ように見受けられる。
  • よく知られているように、ISをはじめとするイスラム原理主義者の多くは、イスラムの伝統から切り離されて育ち、むしろ欧米文化にどっぷり浸かって、その中でアイデンティティを見失った若者たちである。
 無論、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」を「討伐」したイスラム原理主義者たちに、「欧米人の受け売りだろう」などと指摘しようものなら、「事実無根の侮辱」に激怒するに違いない。だが、そう遠くない過去に、「ヤズィーディーは悪魔崇拝者だ」と最初に言い出した、1人もしくは少数の原理主義者がいたはずなのだ。
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 おそらく、見当外れの憶測でしかないだろう。そうであってほしいものだ。19世紀半ば以来、欧米人たちがでっち上げてきた「悪魔崇拝者ヤズィーディー」の妄想を、「純粋な」イスラム原理主義者が真に受けて、「正義の軍隊」として「悪魔崇拝者狩り」をやらかし、それを欧米人が「これだから狂信者は」と一斉に非難し、ナディア・ムラードさんにノーベル平和賞を授与して自らの「正義」に悦に入り、しかして内心では「でもほんとは悪魔崇拝者だったらいいな」などと願っている、という構図は、あまりにもおぞましい。

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なぜ彼らは悪魔崇拝者と呼ばれるのか Ⅰ

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2018年10月30日発売
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 拙稿「イスラムの堕天使たち」で述べたように、イスラム圏では悪魔の概念が漠然としている。ジンと悪魔の区別が判然としないし、ジンにも唯一神に帰依したジンとしていないジンがいることになっているが、『千夜一夜』などを読む限りでは、善いジンと悪いジンの区別もはっきりしない。
 なお、悪魔の総称は「シャイターン」(ヘブライ語の「サタン」に相当)、「イブリース」はアーダム(アダム)に跪拝せよとの神の命を拒んで追放され、後にシャイターンたちの父にして長になった堕天使の名、というのが一応の通念だが、「イブリース」が漠然と悪魔全般を指すこともある。
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 クルアーンには、イブリース/シャイターンが人間やジンを誘惑するのは唯一神の認可の下である、とはっきり述べられている箇所と、神と(ほぼ)互角の敵対者であるかのように述べられている箇所とがある。
 しかしいずれにせよ、西方キリスト教世界と違ってイスラム世界では体系立った悪魔学は発達しなかった。だから教会組織に対抗する悪魔崇拝組織というものが妄想されることもなかった。まあそもそも、イスラムには教会に該当する組織も存在しないんだが。
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『千夜一夜』のような説話、文学作品、旅行記・驚異譚(フィクションを多分に含むが、ノンフィクションだと信じられた)、聖者などの伝記、随筆や論考などで見る限り、「不信仰者」すなわち「異教徒」の人間(およびジン)は、唯一神以外のもの(火や偶像)を信仰しているとされ、悪魔を信仰しているとは見做されていない。
 悪魔は人間(およびジン)を誘惑して、唯一神以外のものを信仰させるのであって、悪魔自身を信仰させようとしているのではない。また、「唯一神のほかに神はなし」なので、「異教の”神”」という概念も存在しない。異教徒=不信仰者(唯一神を信仰しない者)が拝むのは、火や偶像という「モノ自体」なのである。
 そのためか、西洋のように異教の神を悪魔と見做すこともない。
 前回の記事で述べた、ハッラージュやハマダーニーのようにイブリースを肯定的に捉える者は異端視されたが、彼らが「悪魔崇拝者」と呼ばれることはなかった(私が知る限りだが)。ルーミーに至っては、広く愛され尊敬されている。
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 では、なぜヤズィーディーはISをはじめとする原理主義者たちから、「悪魔崇拝者」として迫害されるのか。
 イスラム圏における異教徒や分派といった「異分子」の歴史は、迫害と共存の繰り返しと言ってよい。ヤズィーディーの場合も例外ではなく、近年に限ってもIS侵攻以前は原理主義勢力からの迫害が散発的にあった一方、そうでないムスリムの隣人たちとは穏やかに共存していたことが、川又正智氏や林典子氏の報告から窺える。
 しかし隣人のムスリムたちが、いくら非暴力的で寛容だとしても、「悪魔崇拝者」と見做した相手と同じ職場で働いたり、休日には一緒にピクニックに行ったりするものだろうか。ISが侵攻してきた時、彼ら隣人たちの中には迫害に荷担した者もいたが、危険を冒してヤズィーディーたちを助けた人々もいたという。
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 ここで注目すべきは、『失われた宗教を生きる人々』の著者自身の体験である。彼はヤズィーディーが多く住むクルディスタンのシンジャルへ取材に行くため、イラクのクルド人自治区の首府アルビールでムスリムの運転手を雇った。その運転手はこう言ったという。
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「俺はヤズィード教徒の食べ物は食べません。昔はムスリムも彼らの食べ物を食べていたそうですがね。今は違います。だって、彼らの崇拝するマラク・ターウースは悪魔ですから」
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 この発言からは、ヤズィーディーが悪魔崇拝者だという偏見は、「比較的近年に」「外部からもたらされた」ものであるかのような印象を受ける。
「ヤズィーディーの信仰について」で述べたが、ヤズィーディーの信仰は13世紀以降、クルド人の間で大いに盛行したが、16世紀以降のオスマン帝国(スンナ派)とサファヴィー朝ペルシア(シーア派)の宗派対立の巻き添えで、双方から弾圧されて衰退した(らしい)。しかしその時代に彼らが「悪魔崇拝者として」弾圧されていたのかは定かではない。
なぜヤズィーディーは悪魔崇拝者と見做されるようになったのか」という疑問は、「いつヤズィーディーは悪魔崇拝者と見做されるようになったのか」という疑問と直結している。
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「なぜ」「いつ」という疑問は、イスラム圏においての話であり、西洋人(もちろん北米白人も含む)たちは最初から、ヤズィーディーを悪魔崇拝者と見做してきた。
『失われた宗教を生きる人々』によれば、1840年にイラク北部に赴いた考古学者オースティン・ヘンリー・レイヤードがヤズィーディーを悪魔崇拝者として報告している。調べのついた限りでは、どうやら彼が「悪魔崇拝者ヤズィーディーの発見者」のようである。
 同書はほかに、「19世紀のイギリス人宣教師パーシー・バッジャー」の報告を引用している。これは1852年のものらしい。
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 ラヴクラフトの「レッドフックの恐怖」(1827年 東京創元社『ラヴクラフト全集5』所収)は、ヤズィーディーを取り上げた初期のフィクションの一つである。
 かつて大学の先輩から、ラヴクラフトを読んで感想を述べることを強要されたことがある。当時、私はどんな小説も読めなく(読んでもおもしろいと思えなく)なっており、かつ小学校時代以来、感想を述べるという行為が大嫌いだった。感想を述べること自体も、それを前提とした読書も苦痛でしかなく、挙句に先輩からは「ラヴクラフトを素晴らしいと思えないとは、なんて感性の鈍い奴」と言わんばかりの露骨な侮蔑を向けられたのであった。
 ラヴクラフトはSFへの影響が多大なので、その後、アンソロジーなどで何篇か読んではいるが、最初の印象を払拭するには至っていない。
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 その上での感想だが(ちなみにこのブログで映画レビューの修行を積んだ結果、今では小説レビューもそれほど苦手ではなくなりました)、まあラヴクラフトのゼノフォビアを佃煮にしたみたいな話ですね。佃煮と同じで、具は何種類かあるんだけど、全部醤油味になってるという。
 ヤズィディズムは単に「異人種=悪」の象徴として採用されただけで、「東洋の邪教」だったらなんでもよかったんだろうと思われる。
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 巻末解説で訳者の大瀧啓裕氏は、「なお、ディ・キャンプ(ラヴクラフトの評伝を書いたL・スプレイグ・ディ・キャンプのことと思われる)によれば、クルド人は古代メディア人の血をひく白色人種であり、イェジディ派(=ヤズィーディー)は極端な信仰をもっているものの、温厚で振る舞いもおとなしいらしい」と述べている。
 後述する「魂を屠る者」と『悪魔の花嫁』でヤズィーディーを「イェーズィーディー」と表記した配慮と同様、大瀧氏は日本の読者が現実のヤズィーディーに偏見を持たないよう、ディ・キャンプを引用したのだろう。『ラヴクラフト全集5』の刊行は1987年で、ヤズィーディーの受難は日本ではほとんど知られていなかったはずだし、ポリティカル・コレクトネスの意識も低かった時代に、なかなかできることではない。
 しかしこの引用の前半、ディ・キャンプが言いたかったのは、「だから”東洋人”っていうのはラヴクラフトの勘違いなんだよ」ということなんだろうか。それ以前の問題なんだが。
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 オリエンタリズムを「東洋蔑視」と定義すれば、その基盤は言うまでもなくゼノフォビアである。西洋人にとっては「オリエント」は「非西洋」すべてを指すのだから、なおさらだ。ラヴクラフトも、その点は同様である。
 しかしオリエンタリズムには、「東洋趣味」という側面もある。これにはさらに、「東洋への憧憬」と「東洋をおもしろおかしく見世物化」という二つの要素がある。
「憧憬」と「蔑視」は対極にあるが、間に「おもしろおかしく見世物化」があって地続きであり、線引きは不可能である。
「レッドフックの恐怖」には、東洋趣味の要素はほぼない。せいぜいが、「悪魔崇拝者イェジディ派」を持ってきたのは、おどろおどろしい効果を出すためだと思われるだけである。言うまでもなく、「憧憬」は皆無だ。
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 上述の「魂を屠る者」は、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」を取り上げたフィクションとして、「レッドフックの恐怖」に先行する(ロバート・W・チェイムバーズ 1920年 東京創元社『黄衣の王』所収)。同書収録の連作「黄衣の王」は1895年の初期作品で、そこそこ趣のある幻想小説だが、訳者の大瀧啓裕氏によると、チェイムバーズはその後、大衆小説に路線変更した。
 晩年(1933年没)に久々に書かれた怪奇小説である長篇「魂を屠る者」には、「趣」など薬にしたくもない。
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 いや、オリエンタリズムについて知りたくて、東洋的主題の欧米作品は結構な数を読んでます。すべて翻訳ですが、それでもかなりの数です。それらの中で、最もオリエンタリズムが露骨な作品でしたよ。
 オリエンタリズムのような現象は、ハイカルチャーよりもマスカルチャーにこそ如実に現れるはずなので、こういう作品が邦訳されるのは、本当にありがたいですね。E・サイードに「二流作家」呼ばわりされているロティでさえ、「大衆作家」とは言い難いですから。
 以下、ネタバレ注意。
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 ヒロインは幼い頃、中国の義和団事件で両親を惨殺されたアメリカ人女性。事件の黒幕はなぜか「悪魔崇拝者」ヤズィーディーで、それと言うのも、東洋すなわち非西洋の邪教や秘密結社は実はたった一つの組織なのである。だからヤズィーディーは黒幕と言っても、イスマーイール派(アサシン教団)、モンゴルやチベットの密教、ヒンドゥー等々と全部一絡げで区別されていない。
 ヒロインは邪教徒たちの気紛れで、教団の巫女として養育され、強大な魔力を身に着ける。その力を使って教団から逃れるが、母国アメリカに帰った途端、路頭に迷い、かくなる上は売春しか道はないと思いつめたところを、CIAのエージェントである若い紳士に拾われる。
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 彼女の話から、エージェントは「アメリカの敵」すなわち「世界の敵」の正体を知る。近年、世を騒がせていた「共産主義」も、その正体は悪魔崇拝者ヤズィーディーなのであった。
 ……ああそうか、ロシアやドイツを含む「東」欧も、「東」洋になるわけか。偶々、先祖にモンゴル人やフン族もいるしな。
「敵」は一見、多種多様だが実は単一の組織である――典型的な陰謀論だ。
 というわけでエージェントはヒロインを仲間に引き込んで「アメリカの敵」との闘いを開始するのだが、共に闘うCIAエージェントが、たった2名しか登場しないのである。しかもヒロインを拾って恋仲になるエージェントその1も含めて全員、拳銃も効かない妖術師たちを相手に右往左往するだけで、実質闘うのはヒロインただ1人である。
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「おもしろおかしい見世物」としての東洋趣味はがっつり盛り込まれており、ラヴクラフトがヤズィーディーについて、百科事典の当該項目あたりを読む以上の下調べをした形跡がないのに対し、チェイムバーズが大量のテキストを読み漁ったのは明らかである。
 ただし同じくらい明らかなのは、ただただキャッチーな名詞やモチーフを拾うのが目的の濫読であって、およそ知識と呼べるものは何一つ身についていない。
 たとえば序盤、ヒロインが敵の妖術師に向かって「アブー、オマール、オットマン、アリーにかけて」と言う。
 これは、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーのことかと思われる。預言者ムハンマドの直接の後継者(カリフ)であり、スンナ派ムスリムから深く尊敬されている。
「アブー」というのは「~の父」という意味で、「アブー・バクル(バクルの父)」のように個人名とセットで使うものであり、単独で「父」という時は「アブ」だ。チェイムバーズはそのことを知らず、「アブー」がファーストネームだとでも思ったんだろう。
 イスマーイール派ならアリー以外は正統なカリフとして認めないから、ほかの3人の名も一緒に唱えるはずがないし、ヤズィーディーをはじめとする非ムスリムが、この4人にかけて誓ったところでなんの意味もない。
 言うまでもなくそんなことは、チェイムバーズにとってどうでもいいことである。
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「東洋の官能」も忘れられてはいない。若くて美しい白人女性が食うに困って身売りを考える、という当時のモラルでは到底受け入れられそうもないヒロイン像も、東洋人に育てられたから、ということで許容されたのであろう。だったら少々モラルが歪んでも仕方ないよね可哀想に、というわけだ。
 エージェントその1は、「きみを守るには同居するしかない。しかし未婚の男女が同居することはできない。だから結婚するしかない」という理屈で、まんまと結婚に持ち込む。いや、全然守ってないじゃん。なんの役にも立ってないじゃん。
 そしてヒロインは、この役立たずの夫に献身的に尽くすのであった。
 とはいえ彼女は白人なので、露骨なお色気シーンはない。その代わり、エロ要員の東洋女性はちゃんと用意されている。しかも2人も。
 彼女たちはヒロインと一緒に育った教団の巫女で、少しの躊躇もなしに教団を裏切ってヒロインをテレパシーで援助し、さらには役立たずのエージェントその2、その3にそれぞれ惚れて、テレパシーで押しかけセックスをする。大団円にはもちろん彼らの結婚も含まれる。
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 ノーマン・スピンラッドの『鉄の夢』(1972年)は、ナチズム風刺にかこつけてヒロイックファンタジーや同趣向のSFに蔓延してきた御都合主義、ザル設定、そして何より差別主義を虚仮にしまくった怪作だ。そのあまりのひどさ(誉めてます)には笑わせてもらったが、「魂を屠る者」はそれすらおとなしく思えるほどのひどさ(誉めてません)であった。
 ただし『鉄の夢』の、御都合主義や差別主義よりさらに顕著なホモソーシャル(何しろ女性キャラが1人もいない上に、最終的には「混血」を防ぐ究極の手段として男だけのクローン軍団が誕生する)は特に目につかない。
 これはチェイムバーズが長年にわたり、デパート店員など「働く女性」を主要読者としたロマンス小説を書き続けてきたことと関係していると思われる。フェミニズム運動に関わっていたことも、当時は珍しかったであろう「闘うヒロイン」に反映されているかもしれない。
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 というか、敵も味方も巨大な組織(東欧までも含む「東洋」全土を網羅する邪教組織vsUSA=世界の守護者CIA)の割りには妙にこじんまりしてて、闘うのは実質ヒロイン1人、彼女の恋人という立場にある男性キャラクターは、己の無力を嘆いて自己憐憫に浸るだけ(しかし、ちゃっかり美味しい思いはする)って、セカイ系だなあ。
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「魂を屠る者」(1920年)、「レッドフックの恐怖」(1927年)に続き、「悪魔崇拝者ヤズィーディー」を扱った1932年の作品も、大瀧啓裕氏の訳で東京創元社から出ている。シーベリイ・クインの『悪魔の花嫁』だ。そういうタイトルの少女漫画があったが(というか、まだ完結していないらしい)、原題がThe Devil's Brideなので仕方ない。
 以下、一応ネタバレ注意。
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 大瀧氏の解説によると、かの『ウィアード・テイルズ』誌で最大の人気を誇った「ジュール・ド・グランダン」シリーズ(1925~50年の間に93篇が掲載)の唯一の長篇。同名の探偵が主人公で、怪異を扱ってはいるがほぼすべてに「科学的」な説明が与えられており、当時多かった怪奇ものとは一線を画していたとのこと。
 確かに『悪魔の花嫁』でも、「結婚式の最中、大勢の参列者の眼前で花嫁が消失!」という怪現象も、タネは「アフリカの未知の幻覚剤」であった。
 こんな御都合主義の「科学」なら、御都合主義の超常現象のほうが100倍マシだ。
 なお、この便利な幻覚剤は、作中で何度も使われる。
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「魂を屠る者」の露骨なパクリで、世界中の「邪教」、共産主義、民族運動はすべて根っこで繋がっている、ということになっているが、こちらは太古からそうだったというのではなく、近年、信徒が減って弱体化しつつある世界中の邪教集団が、巻き返しを図って合併・統合したのだそう。
 ……なんというか、たいへん「現代的」でありますが、情緒に欠けるというか、しょぼいというか、景気が悪い話だなあ。そんな船頭多くして船山に登りそうな烏合の衆、いかにも恐るるに足らないし、実際、老いた探偵ほぼ1人によって蹴散らされてしまうのである。
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 レイシズムの醜悪さは「魂を屠る者」に匹敵するが、あちらがあまりの箍の外れ具合に一周回ってレイシズムの風刺にしか見えなくなっているのに対し、こちらはレイシズムという非合理の極みに「合理性」の箍を嵌めようとしたために、ひたすら醜悪なだけである。
 わずか12年の経過でエログロは随分露骨になっており、これにもうんざりさせられた。

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 この表紙イラストは邦訳のための描き下ろしだが、作中の場面を忠実に描いたものだ。この女性(上述の「消えた花嫁」)が着けているコルセット状のものはヤズィーディーが古来、サタニズムの儀式に使ってきた銀の帯なんだそうである(もちろんそんな事実はない)。
 ヤズィーディーは有象無象の邪教の一つでしかないが、多少特別扱いされている。「花嫁」の何代か前の先祖が、ヤズィーディーに捕らえられて生贄にされそうになったところを、悪魔の司祭の美しい娘が例によって例の如くその青年に惚れて、なんの躊躇もなくキリスト教に改宗して2人で逃げる。その際、帯を持ち逃げする(「特別扱い」と言っても、これだけ)。
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 上で散々腐しておいてなんだが、「魂を屠る者」の、膨大な文献から抜き書きされた東洋の珍奇な語句の羅列からは、「誰も見たことのないものを創り上げてやろう」という熱意が伝わってきた。そうして出来上がった、無秩序で俗悪でキッチュでグロテスクでごてごてしてけばけばしく毒々しい外連味溢れた巨大なゲテモノ趣味のパビリオンは、確かに目を奪うものがあった。
『悪魔の花嫁』からは、そのような並外れた熱意は感じられない。「エキセントリックなフランス人の探偵」という主人公の造形からして、何もかもが何かの亜流でしかない。
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 こういった大衆小説のほうが、限られたエリートしか読まない「芸術性の高い文学」などより、社会に及ぼした影響は遥かに大きいはずであり、内容はさておき資料性は非常に高い。英語が苦手な人間にとって、邦訳の刊行は本当にありがたいことです(読めないとまでは言いませんが、辞書引きながらだから時間がかかるんですよ、ものすごく)。
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「悪魔崇拝者ヤズィーディー」を扱った初期の小説は、今では英語圏でも上記3点のほかはほとんど知られていないようですね。未確認ですが、邦訳のあるロバート・E・ハワードの「墓はいらない」(1937年 『暗黒神話体系 クトゥルー 5』大瀧啓裕・訳 青心社』収録)に孔雀天使が登場するようです。
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 というわけで、本題は次回

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ハッラージュとヤズィーディー Ⅱ

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.「イブリースは我が友にして師」
 アーダムに跪拝せよとの神の命を拒んだのは、まさにその神以外を礼拝対象と認めないからであり、すなわちイブリースこそ真の信仰者である――というのが、この発言の意味するところだ。
 しかしこの発言を取り上げたテキストを読んでも、この発言および思想がイスラム圏内でどのように扱われてきたのかが、まったくわからない。
『座談の枠』(『イスラム帝国夜話』)も『イスラーム神秘主義聖者列伝』も、この発言には一切触れていない。
『イスラーム神秘主義聖者列伝』に至っては、ハッラージュの処刑前夜、イブリースが牢を訪れ、スーフィズム的問答をするという伝説が語られている。ややこしいので詳細は省くが、要はイブリースが「おまえには神の慈悲が、わたしには呪いが与えられたのはなぜか」と尋ね、それに対してハッラージュが説教を垂れる、という筋である。
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 そういうわけで、この発言について拙稿では「余人の追随を許さない」と書きました。私が見つけられないだけで追随者はいる可能性はあったので、「追随者は一人もいない」というような断定的な表現は避けたわけですが……
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 はい、いましたね、追随者。
「追随者」という言い方の印象がよくないようでしたら、「継承者」と言い換えてもいいですが、少なくとも3人はいます。アフマド・ガザーリー(1126頃没)、アイヌル・クザート・ハマダーニー(1098-1131)、ジャラールッディーン・ルーミー(1207-1273)。3人ともペルシア語圏のスーフィーです。
 ガザーリーとハマダーニーは師と弟子であり、ハッラージュ関連で調べることができたのは、ガザーリーがハッラージュの思想を継承・発展させたのを、ハマダーニーはさらに過激化したので、異端の廉でセルジューク朝により処刑された(磔刑または火刑らしい)。
 彼らが継承した「ハッラージュの思想」には、「我は真理なり」だけでなく「イブリースは我が友にして師」も含まれていたとのことだが、具体的にどう発展させたのか、ガザーリーについてはまったく調べがつかず、ハマダーニーについては、「イブリースの不信仰があるからこそ、預言者ムハンマドの信仰が成り立つ」というものらしく、イブリースの存在を肯定的に捉えた逆説、という点はハッラージュと共通するものの、イブリースを真の信仰者とする思想とは真逆である。また異端の嫌疑に、このイブリース解釈も含まれていたのかも不明。
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 まあとにかく、1131年のハマダーニーの処刑により、イブリースの肯定的解釈の思潮はいったん途切れたようだ。ハッラージュ擁護論を著したペルシア人ルーズビハーン・バクリー(1128-1209)は、「イブリースは我が友にして師」についてだけは明確に否定し、上述のとおりアッタール(1221?没)は、『イスラーム神秘主義聖者列伝』のハッラージュ伝において完全に黙殺している。
 なおアッタールはハッラージュの賛美者を幾人も挙げているが、その中にはガザーリーもハマダーニーもルーズビハーンも含まれていない。
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 私は史学科出身ですが、論文やレポート、ゼミ発表等で、「根拠を示さない断定」は絶対に許されませんでした。何しろ関西なんで、ツッコミが厳しい厳しい……
 いや、何もツッコまれるからというんじゃなくて、「根拠を示す」のはどんな分野であれ研究の基礎の基礎なんですが。お蔭で、根拠を示せない時の断定を避ける微妙な言い回しばかりが巧くなりましたよ。
 その習性のお蔭で、イブリース肯定思想の継承について散々探して見つからなかったとはいえ、それだけでは「継承されなかった」証拠にはまったくならないので、「余人の追随を許さない」と書いたわけですが。
「余人」というのは、「他人」という意味のほかに「第三者」「部外者」という意味もあるので、継承者がいるとしてもごく少数で、特異な立ち位置にある思想家だけだろうな、という推測からこの語を使ったんですが。
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 ガザーリーとハマダーニーだけだったら、ぎりぎりセーフかなあ……セ、セ、セー…………でもルーミーか……駄目だ、アウトだ、完全に。
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 ルーミーの名に聞き覚えがなくても、こういう画像に見覚えがある人は多いでしょう。ルーミーが興したメヴレヴィー教団の旋舞です。

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 スーフィズムを短く親しみやすい物語で説いた寓話集『精神的マスナヴィー』は、ペルシア、トルコ、インドで、スーフィズムには特に傾倒していない人々も含め、広く愛されてきた(他の地域のムスリムの間ではどうなのか知らないんだが)。
 その「親しみやすさ」の好例となるのがイブリース像で、堕天使にしてシャイターンたちの長は自ら、神を愛するがゆえにアーダムに嫉妬したのだと語る。
 ルーミーの時代までに、スーフィズムは唯一神への信仰を恋愛に喩えるようになっていたのである。神だけを崇拝するがゆえに、ほかならぬその神からの命令であろうと、神以外のものを崇めるのを拒む、というハッラージュの思想はラディカルすぎ、高尚すぎてついていけない者でも、「恋するイブリース」というルーミーの解釈なら容易に受け入れられるだろう(なんか少女漫画っぽい。『天使禁猟区』とか)。
 ただしルーミーもまた結局のところ、ハッラージュほどにはイブリースを肯定していない。
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 ルーミーのこの解釈を継承し、さらに発展させた者がいたかどうかまでは調べがつかなかったんだが、まあ追随者は多いだろうな。何しろルーミーだからな。『精神的マスナヴィー』はペルシア語圏では「ペルシア語で書かれたクルアーン」とまで呼ばれてるくらいだからな(ムスリムが何かをクルアーンに譬えるのは、日本人が「○○のバイブル」とか言うのとは重さがまるで違う)。
 というわけで、「余人の追随を許さない」という記述は誤りでした。申し訳ありません。
 しかもこのイブリースの物語「ムアーウィヤとイブリース」は、英訳で読んでいたのでした。何年も前のことだし、『精神的マスナヴィー』は短い話が大量に詰め込まれてるしで、すっかり忘れてました。いやあ面目ない。
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 さて、今度こそ本題です。ハッラージュのイブリース解釈とヤズィーディーのイブリース崇拝とに関連はあるのか?
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 ヤズィーディー本来の主神(それがなんだったのであれ)とイブリースを習合して「孔雀天使」としたのは、スーフィーのアディー・イブン・ムサーフィル以外に考えられない(断定を避ける言い回し)。果たして彼は、ハッラージュの思想を「継承」していたのだろうか。
 イブン・ムサーフィルは1075年頃にレバノンで生まれ、クルディスタンに布教に赴く以前はバグダードで活動していた。没年は1162年とされる。
 前回述べたように、ハッラージュの弟子たちが師の処刑後、その思想を広めたのはペルシアにおいてだった。実際、「我は真理なり」にしても「イブリースは我が友にして師」にしても、「火蛾の喩え」(熱烈な信仰を、火に飛び込む蛾に喩える)にしても、「継承者」はペルシア語圏の人間ばかりである。アラビア語圏への影響は、あったとしても非常に少ないのは確かだ。
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 1045年、アッバース朝を牛耳っていたペルシア系ブワイフ朝の宰相が、バグダードでハッラージュの「名誉回復」を宣言してはいるが、効果のほどは疑わしい。ブワイフ朝は少数派のシーア派ということで多数派のスンナ派から嫌われていたし、当時すでにかなり衰退しており、わずか10年後にはバグダードから追い出されてしまう。
 代わって権力を握ったのは、後にアイヌル・クザート・ハマダーニーを異端の廉で処刑することになるトルコ系のセルジューク朝だ。
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 アフマド・ガザーリー(1126年頃没)やその弟子のハマダーニー(1131年没)がハッラージュの思想を継承・発展させていた頃、イブン・ムサーフィルはすでにクルディスタンの山奥で布教に勤しんでいたかもしれないし、まだバグダードにいたかもしれない。いずれにしても、この2人の著作を読んでいた可能性は低い。
 ガザーリーはアラビア語とペルシア語の両方の著作があるが、ハマダーニーの著作はペルシア語だけのようだ。当時のペルシア系知識人はアラビア語の読み書きもできたが、ペルシア語の読み書きができるアラブ系知識人はほとんどいなかった。
 さらに、セルジューク朝はペルシアからイラクまで支配していたものの、イブン・ムサーフィルの時代には内憂外患で、各地で混乱が続いていた。ただでさえ遅い情報伝達は、いっそう遅くなっていただろう。
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 何より、ハッラージュが「(アーダムに跪拝せよとの命令を拒んだ)反逆こそが真の信仰」としたのに対し、ヤズィーディーたちのイブリースは、その反逆を悔いて改心し、赦されているのだ。
「異教徒もしくは不敬虔なムスリム(すなわちイブリースに誑かされている)が改宗/改心して最も敬虔なムスリムとなる」という物語はイスラム世界で広く好まれ、特にスーフィズムの聖者伝においては、つきものと言ってよいほど採用されている。イブン・ムサーフィルの時代には、すでに人口に膾炙していた。
 イブリースに誑かされた不信仰者ではなくイブリース自身を悔悛させる、というのは確かに非常に独創的ではあるが、たとえば『千夜一夜』には不信仰のジン(たいてい、偶像に入り込んで愚かな異教徒どもを誑かしている)が悔悛して敬虔なムスリムになる、というエピソードが幾つもある。
 ま、関連はないだろうな、というのが結論である。
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 ……とあれこれ否定してきましたが、『失われた宗教を生きる人々』は中東のマイナー宗教を幾つも紹介し、その信徒たちにも直接取材しているという点で、非常に貴重な資料です。
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ハッラージュとヤズィーディー Ⅰ

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「イスラムの堕天使たち」ではヤズィーディーに続いて、10世紀のイスラム神秘主義者(スーフィー)ハッラージュを取り上げた。
『失われた宗教を生きる人々』ではハッラージュの思想を、ヤズィーディーの信仰の最も確実な「影響源」候補だとしている。ただし各章冒頭の解説を担当している青木健氏には、あっさり否定されているが。
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 857年に生まれ、922年(925年説もある)にバグダードで処刑されたホセイン・マンスール・ハッラージュは、非イスラム圏では最も知られたスーフィーの1人だ。彼を有名にしているのは、「我は真理なり」という言葉である。
「イスラムの堕天使たち」でも述べたが、「真理(アル・ハック)」とは唯一神の99の美称の1つなので、「我は神なり」と宣言したことになる。
 欧米人や日本人が書いたテキストは、専門書からもっと一般向けの概説書まで、ほとんどすべてにおいて、ハッラージュはこの発言のために処刑されたとしている。
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 しかしわずかながら例外もあり、たとえばR・A・ニコルソン『イスラーム神秘主義におけるペルソナの概念』(1922年、邦訳は1981年)は、「我は真理なり」宣言はハッラージュが告発された4つの罪状の1つでしかなく、しかも死刑を決定付けたのはこの発言ではなく、「病気や貧困などでメッカ巡礼ができない者は、しなくても罪にならない」(つまり大事なのは行動ではなく信仰そのものである)という発言が冒瀆と見做されたことと、当時盛んに騒擾を起こしていた異端のカルマト派だと疑われたことだった、とする。
 著者のニコルソンはスーフィズム研究の大家で、邦訳ではほかに『イスラムの神秘主義――スーフィズム入門』がある。
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 いったい、どちらが正しいのだろうか(なお、ジョナサン・バーキー『イスラームの形成』(2003年、邦訳は2013年)は、ハッラージュの敵は「我は真理なり」宣言ゆえに処刑を望んだが、それは罪ではないと見做す者も多かったので、カルマト派だとの濡れ衣を着せたのだ、とする)。
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 幸い、ハッラージュと近い時代の史料が邦訳されている。『イスラム帝国夜話』上下巻(岩波書店 2016、2017)で、著者タヌーヒーはハッラージュ処刑の十数年後の938年生まれ、アッバース朝の宰相に仕えた、つまり体制派の知識人だった。
 変な邦題がついているが、『座談の粋』(原題)は、そのタイトルどおり、宮廷人や知識人同士の歓談でタヌーヒーが耳にした逸話の数々を書き留めたものである。その中に、ハッラージュに関する逸話が数多く含まれているのだ。
 そうした場で披露される逸話は、作り話ではなく実話であることが大原則だった。つまり『座談の粋』に収められたハッラージュの逸話はいずれも、タヌーヒーが一つ上の世代の人々から直接あるいは間接的に、「実話」として伝え聞いたものなのである。
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 それらによると、当時の体制寄りの人々は、ハッラージュを異端者ではなく詐欺師と見做していた。ハッラージュが信徒を獲得するためのペテンの数々が紹介されているが、一つ例を挙げると、
 ハッラージュの住居は不毛の山中に建つ館だった。ある人がそこを訪ねると、「何か欲しいものはあるか」と訊かれた。「魚が欲しい」と答えると、ハッラージュは部屋を出て、しばらくすると生きた魚を持ってきた。客人はこの「奇蹟」にすっかり感嘆してしまった。
 しかし実は館には隠し扉があって、大きな屋敷と庭園に通じている。そこには草木や花が生い茂り、生きた魚でもなんでも揃っている。ハッラージュは訪問者から求められた物をそこから持って来て、奇蹟で出現させたと言うのであった。
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 費用対効果を考えるまでもなく、馬鹿げたでっち上げである。しかし少なくとも当時、ハッラージュが世間からどう見られていたかをよく示している。
 近代以前のイスラム圏では、情報の真偽や是非について、その内容自体ではなく、情報の伝達者が世間からどんな評価を受けているかで判断する傾向があった。著者タヌーヒーも例外ではなく、彼が好んで付き合っていた、地位も世評も高い人々から聞いた話だということで、まったく無批判に鵜呑みにし、記録している。
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 そのため、ハッラージュについての逸話も、ほとんどは上の例や、彼の大小便が信徒たちの間で薬として用いられているといった類の誹謗中傷なのだが、それらと矛盾するような逸話も幾つかある。たとえば、ハッラージュの「奇蹟」譚は信奉者らが勝手にでっち上げて言い触らしたもので、本人は迷惑がっていた、とか、または投獄されたハッラージュが、厳重な監視にもかかわらず、会いたい人物をいつでも好きなように呼び出すことができたという「本物」の奇蹟譚などである。
 また、彼がメッカ巡礼を否定したとの嫌疑についても、そうではなく貧窮や病気のためにできない者はしなくていいとしたのだ、ということをきちんと記している。
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 特筆すべきは、例の言葉「我は真理なり」について一切触れていないことである。つまりハッラージュと同時代人で、著者タヌーヒーに逸話を語って聞かせたバグダードの人士ら(処刑を目撃した人もいただろう)にとって、この発言はまったく印象に残らないものだったということである。
 いくらか近いものとしては、「信徒からハッラージュへの書簡が押収され、その中で信徒たちから神と呼ばれていることについて追及されたハッラージュは、そんな書簡は知らない、誰かが自分を陥れるために捏造したのだろうと答えた」という逸話があるだけだ。
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『座談の粋』(『イスラム帝国夜話』)の訳者、森本公誠氏の解説によれば、ハッラージュの死刑執行を推し進めたのは宰相のハーミド・ブン・アルアッバースで、それというのもハーミドは元は徴税請負人で、ハッラージュがその職業を非難したことを根に持っていた、らしい(この人の解説や註は、ところどころ解りにくい)。
 ともあれ、『座談の粋』本文にも、ハッラージュがカリフの侍従と母后.の庇護によって処刑を免れていたのを、宰相が躍起になって処刑に持ち込んだことが記されている。おそらく、宮廷内の権力闘争も関係していたのだろう。
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 また上述のカルマト派についても、宗教思想的に異端というだけでなくアッバース朝転覆を目論んでおり、ハッラージュ処刑の数年後にはメッカを襲撃してカアバ神殿の聖なる石を強奪するという暴挙に及び、タヌーヒーの時代にはまだかなりの勢力を保っていた。
 それにもかかわらずタヌーヒーは、ハッラージュとカルマト派との関わりには一言も言及していない(というか、カルマト派に限らず当時、世を騒がせていた分派についてほとんど言及していない)。
 いずれにせよ、カルマト派か否かということは信仰上の問題にとどまらず、政治的な問題だった。
 以上のことを踏まえて、『TH』拙稿ではハッラージュ処刑を決定付けたのは「主として政治的な嫌疑」といたしました。
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 というわけで「我は真理なり」宣言は、どうやら処刑の第一要因ではないようだが、ハッラージュの発言であることに間違いはない。彼の著作にも記されている。
 彼の著作や思想が残ったのは、弟子たちが伝えたからである。タヌーヒーも、彼の時代にもハッラージュの「信徒」がまだおり、彼らは「処刑されたのは実はハッラージュではなく、奇蹟の力で変身させられた駄馬であり、本人は近いうち復活する」と信じている、と記している。
 体制派知識人たちがどれほど軽蔑しようと、「信徒」たちの活動は実を結び、ハッラージュの評価は上がっていった。タヌーヒーの晩年の945年、アッバース朝は地方政権だったブワイフ朝に乗っ取られたが、その100年後にはブワイフ朝の宰相が、ハッラージュの「名誉回復」を宣言している。
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 ハッラージュの評価がどう変化したかは、ペルシアの神秘主義詩人アッタール(1221年?没)の『イスラーム神秘主義聖者列伝』に見ることができる。抄訳だが日本語訳が出ており、ハッラージュ伝も含まれる。
 アッタールは手放しでハッラージュを賞賛しており、彼を「我は真理なり」宣言ゆえに頭の固い「公教的教学者」(正統派の神学者のことを指すと思われる)たちによって陥れられた殉教者としている。
 キリスト教の殉教者伝の如く、拷問や処刑の詳細が述べられ、斬首後さらに四肢が切り落とされたが、その手足一本一本から「我は真理なり」の声が聞こえた、という奇蹟が語られる。
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 また次のような奇蹟譚も語られる。
 ハッラージュは生前、自分の骸が焼かれ、灰がティグリス河に捨てられることを予言し、そうなれば河が氾濫してバグダードが水没する恐れがあるので、この衣を河岸に置くように、と召使いに自らの衣を渡していた。処刑後、実際に灰がティグリスに捨てられると、水位が異常に上がった。召使いがハッラージュの衣を河まで持っていくと、水は鎮まった。
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『座談の粋』(『イスラム帝国夜話』)にも、ハッラージュの灰がティグリスに撒かれた後、河の水位が(偶々)異常に上がったことが記されている。水害には至らなかったらしいが、ハッラージュの信徒たちは、これは彼の力によるものだと主張したという。
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 かくして、ハッラージュは神秘主義者(スーフィー)の鑑としての地位を獲得した。
 欧米や日本におけるハッラージュ像は、こうした後世のスーフィーたちのそれを無批判に継承したものだと言える。
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 スーフィズムに関するテキストは、日本語のものだけでも相当な量になる。スーフィズムだけを扱った書籍なら、古典文学やスピリチュアル系(欧米作品の翻訳にはこれが結構ある)を含めても30冊はいかないだろうが、書籍の中の1章を割いたもの、論文集の1篇、書籍に入っていないものなら大量にあって、とても把握しきれない。
 それらのテキストの多くがハッラージュを取り上げており、そのうち幾つかは「我は真理なり」だけではなく、もう一つの過激な発言にも言及している。
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 それが拙稿「イスラムの堕天使たち」でも述べた「イブリースは我が友にして師」であり、『失われた宗教を生きる人々』が、ヤズィーディーのイブリース崇拝の「影響源」として挙げるものだ。.
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 というわけで、ヤズィーディーに続いてハッラージュについて、ようやく本題。いや、まず欧米人(および日本人)のハッラージュ評は割り引いて考える必要があることを述べたかったんで。
 しかし本題に入る前に、少々弁明させていただきたいことがあるので、いったん切ります。
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ヤズィーディーの信仰について Ⅱ

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『TH』№76の拙稿では、ヤズィーディーが信仰の中心に据える「マラク・ターウース(アラビア語で「孔雀天使」)」について、「ヤズィーディーたちの本来の主神が、イスラムの堕天使イブリースに習合されたものではないか」という推測を述べた。
「なぜ孔雀なのか」という問題には、これといった仮説も出ていないようだが、孔雀そのものはアジアやアフリカの各地で神聖視されてきた歴史を持ち、イスラムにおいても悪いイメージはない。
『失われた宗教を生きる人々』では、中東全般で孔雀に悪いイメージが持たれている例として「レバノンのドゥルーズ派」と「イランのゾロアスター教徒の一部」を挙げているが、これらは少数派のさらに一部であり、まったくの例外である。孔雀を悪魔に結び付ける西方キリスト教圏のバイアスだ。
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 ヤズィーディー元来の信仰を改革したとされるアディー・イブン・ムサーフィルは、12世紀に実在したスーフィー(イスラム神秘主義者)である。スーフィズムは異教を取り込んでイスラム化するのに長けている。インドでもイスラムとヒンドゥー(「ヒンドゥー教」という呼び方は適切でない)が共存している地域では、スーフィー聖者の祭をヒンドゥーの人々も一緒になって祝っていたりする。
 さて、ここで私が「ヤズィーディーの信仰」と表現しているものについて、日本語では「ヤズィード派」と「ヤズィーディー教」という2種類の表記がある。イスラムの分派とするなら「ヤズィード派」、独立した宗教とするなら「ヤズィード教」が適切である。
 そしてヤズィーディー自身は明らかに、自分たちの信仰がイスラム(および他の宗教)とは違うもの、と認識しているので、「ヤズィード教」が適切だということになる。
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 しかしイブン・ムサーフィルによる改革の時点では、「ヤズィード派」であったはずである。というのは、幾つかのテキストによれば、イブン・ムサーフィルによる改革より後の13世紀になるとヤズィーディーの信仰がクルド人の間で大いに広まり、数百年(諸説ある)にわたって盛行したからである。
 12世紀に活躍したサラーフッディーン(サラディン)がクルド人であることからも明らかなように、この時代までにクルド人の大多数はムスリムだったはずである。
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 少なくとも近代以前のムスリムは、イスラムこそが世界で唯一の「正しい宗教」だと信じていたわけで、ムスリムが多数派を占める社会で、イスラムから異教への改宗は考え難いことである。ヤズィーディーの信仰が広まった13世紀にはモンゴル軍の侵略があったが、征服者たるモンゴル人たちも早々にイスラムに改宗しているくらいだ。またスーフィーは異教に寛容な者が多いが、それでもわざわざイスラムを棄てて新たな宗教を興すというのも、ありそうにない。
 特定の人物を神と同一視したり、ムハンマドを最後の預言者とするイスラムの教義を無視して後世の人物を「最後の預言者」と呼んだりする「異端」宗派がイスラムから出た例は幾つもある。「正統派」イスラムから見れば、そのような逸脱は「もはやイスラムではない」ということになるが、逸脱した人々自身はあくまでも自らをムスリムと見做してきた。
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 また信条とは別に、法律上の問題もある。クルアーンには「多神教・偶像崇拝はシャイターンの業」とあり、原理主義者が「多神教徒・偶像崇拝者」と見做した相手の扱いを「強制改宗・奴隷化・殺害」の3択に限るのはこれを根拠としている。
 しかし分別のある支配者ならば、そんな3択は百害あって一利なしと承知しているので、インドのような多神教徒が圧倒的多数を占める社会では、少数派であるムスリム支配層はおおむね寛容政策を取ってきた。
 一方、ムスリムが多数を占める社会では、彼らの手前もあるので、支配者層は多神教の「一神教化」を図る。イスラムではなくてもユダヤ教やキリスト教などと同じ一神教ということにすれば、法律上で差別を設けるだけで済むからである。
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 そうして例えばゾロアスター教は、ゾロアスター教徒およびムスリム知識人双方の努力の結果、アフラマズダーは唯一神(アッラー)の別名であり、ゾロアスターは預言者アブラハムと同一人物、教典『アヴェスター』は預言者ゾロアスター/アブラハムが唯一神から授かった啓示を記した「啓典」、アフラマズダーの従属神たちは天使(フェレシュテ)等々、と一神教化を果たし、ユダヤ教、キリスト教、イスラムと並ぶ「第四の啓典の宗教」と認められるに至った。
(ただしこれは法律上の都合に過ぎず、一般のムスリムにとっては20世紀に至っても、ゾロアスター教徒は「異教徒」「不信仰者」の代名詞のままだったし、現代の一部の偏狭なムスリムにとっては未だにそうである)
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 現在のトルコ南東部にあった都市ハッラーンの住民は、7世紀にイスラムの支配下に入った後も古代以来の多神教徒のままで、8世紀にウマイヤ朝の首都が置かれた際にも、彼らは放っておかれた。9世紀になってようやく時のカリフから改宗を迫られると、一神教徒を偽装することで切り抜けた。ムスリム側も偽装であることは承知していたが、要は建前が肝心だったのである。
 しかしハッラーンの多神教徒は改宗によって次第に数を減らし、11世紀には最後の神殿が閉鎖されたという。最終的に13世紀半ば、ハッラーンはモンゴル軍の襲来によって都市そのものが完全に破壊される。この時、すでに多神教の伝統は完全に途絶えていたと思われる。
 難民となったムスリム住民の一人が、イブン・タイミーヤだった。彼はこの災厄はムスリムの堕落に対する「神罰」であると考え、「イスラムの純化」を図った。彼の思想は、後のワッハーブ派など、イスラム原理主義に繋がる。
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 まあつまり、建前だけでも一神教徒であることを要求されたイスラム世界の、しかも13世紀以降の不寛容と排他性が増大する中で、「異教」が盛えたなんてあり得ないということだ。だからヤズィーディーは、その当時はあくまでも「イスラムのヤズィード派」だったはずである。
「異教徒」であった彼らが、スーフィーのイブン・ムサーフィルによって「改宗」し、その後、再び異教を名乗るようになったのではないか、という推測は『失われた宗教を生きる人々』でもなされている。では、なぜ彼らは「棄教」したのか。
 ヤズィーディーの本拠地クルディスタンは16世紀以降、サファヴィー朝ペルシアとオスマン朝トルコという二つの帝国に挟まれることになる。この二帝国の対立はシーア派とスンニ派という宗教対立でもあったから、そのどちらでもないヤズィーディーは双方から弾圧された結果、衰退していったらしい。
 彼らの「非イスラム」という自己認識は、こうした弾圧の中で獲得することになったアイデンティティなのではあるまいか。
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 さて、上記のハッラーンの多神教は、古代メソポタミア以来の天体崇拝だった。11世紀に閉鎖された神殿は、月神シンのものだったという。
『失われた宗教を生きる人々』も含めて、一部のテキストはヤズィーディーの信仰の起源もしくは影響源を、このハッラーンの天体崇拝に求めている。しかし前回の記事で述べたように、ヤズィーディーが太陽以外の天体も信仰していることを明記したテキストは見当たらない。
 とはいえ私も、ハッラーンからの影響をまったく否定するわけではない。
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 ハッラーンで保存されてきたのは、古代メソポタミアの神々だけではなかった。6世紀前半、ビザンツ帝国が領内の異教徒を迫害し、アテネのアカデメイアを閉鎖すると、新プラトン主義の哲学者たちは改宗を拒んでサーサーン朝ペルシアへと亡命した。そしてハッラーンに学園を設立し、以後、ヘレニズムの思想や学問はこの地をはじめとするサーサーン朝領内で命脈を保つこととなった。
 9世紀以降、バグダードのカリフの下で、古代ギリシアの学術書が次々とアラビア語に翻訳されたが、これはかつてサーサーン朝下に亡命したギリシア人多神教徒やネストリウス派キリスト教徒がシリア語に訳したものを、その子孫たちがアラビア語へと訳したのである。こうしたギリシアの思想・学問の伝達者たちの中には、もちろんハッラーン出身者も含まれていた。
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 ハッラーン出身の学者が自分たちの思想について書いたものもあったが、現在までに失われてしまったようである。しかしイスラム知識人たちが残した記録だけでも、かなりの量がある。
 それらによると、ハッラーン人の信仰は古代メソポタミアの天体崇拝とヘレニズム思想が融合したもので、たとえばヘルメスは水星の神としても偉大な錬金術師としても、またハッラーン人の始祖としても崇拝されていた。
 こうした思想の影響でムスリムもヘルメスを偉大な錬金術師/魔術師だと見做すようになり、さらにはクルアーンで言及される預言者イドリース(旧約聖書の預言者エノクと同一視される)と同一視さえした。
 ちなみにアラビア語にはe音が無いので、ヘルメスは「ヒルミス」となる。
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 ハッラーンからヤズィーディーへの影響として考えられるのは、ピュタゴラス主義の輪廻転生思想である。
 イスラム知識人の記録によると、ピュタゴラス(アラビア語にはp音が無いので「フィタゴラス」となる)はハッラーン出身の偉大な賢者であり、ハッラーンの異教徒たちは彼を自分たちの預言者の一人に数えていたという。
 ハッラーン人は輪廻転生を信じていたと伝えられる。古代メソポタミアの宗教に輪廻転生思想は見当たらないので、当然、ギリシアからの影響だろう。
 イスラムにおいてはすべての死者は「最後の審判」まで復活しないことになっているので、輪廻転生が受け入れられる余地はない。8世紀のソグディアナ(現在のウズベキスタン辺り)では、イスラムと土着の宗教が融合したホッラム教なる宗派がたびたび叛乱を起こしたが、その指導者の1人は、預言者ムハンマドの生まれ変わりを自称していた。ソグディアナにはインドの文化も流入しているので、その影響だろう。
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 またイスラムの「異端」であるドゥルーズ派とアラウィー派は、人間全般が輪廻転生すると信じる。
 ドゥルーズ派は、シーア派の分派イスマーイール派のさらなる分派である。シーア派は預言者ムハンマドの従弟で娘婿のアリーを特別視することで、イスラム「主流」派(スンニ派)から外れた分派である。「シーア」とは「(分)派」を意味するので、「シーア派」(つまり「派派」)という日本語はどうかと思うんだが、とりあえず慣行に従う。
 シーア派は原則として、アリーの子孫のみを「イマーム」(スンニ派では単に「指導者」の意味だが、シーア派では「預言者ムハンマドの後継者たる最高指導者」の称号)と仰ぐ。早くから、誰をイマームと認めるかで分裂を繰り返してきた。
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 イスマイール派は、第6代イマームの息子で早死にしたためイマームになれなかったイスマイール(765年頃没)を第7代イマームと仰ぐ。シーア派主流はイスマイールの弟を第7代イマームとしたが、9世紀末にイスマイールの子孫を名乗る人物が北アフリカでカリフ(より正確な表記は「ハリーファ」。ムハンマドもしくは神の「代理人」の意)を称した。これがファーティマ朝である。
 ドゥルーズ派は、このファーティマ朝の第9代カリフで11世紀初めに謎の失踪を遂げたハーキムを、終末の日に再臨する救世主と仰ぐ分派である。このハーキムは生前から神を自称し、熱狂的な信奉者がついていた。
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 シーア派の別の分派であるアラウィー派については『失われた宗教を生きる人々』で「ヤズィーディーと似た信仰を持つ(と著者が見做す)宗派」として紹介されているが、その起源は不明な点が多く、諸説ある。彼らはアリーを神格化し(「アラウィー」とは「アリーの徒」の意)、その教義はイスマイール派的要素が濃いとされる。
 ドゥルーズ派とアラウィー派が輪廻転生思想を採り入れた経緯は不明だが、イスマイール派はピュタゴラス主義の数秘術を教義の基盤としている。10世紀にはイスマイール派の秘密結社「清純なる同胞と忠実なる兄弟たち」(「清純同胞団」とか「純粋兄弟団」などと通称される)が、霊魂の救済を目的として数学・音楽・天文学から魔術まで多様多種な内容を扱った百科全書的文書「ラサーイル(書簡集)」を作成・流布した。51通の書簡の形式を取るこの文書は、スンニ派・シーア派を問わず、当時の知識人に大いに影響を与えたという。
 この文書の中で、「同胞団」はピュタゴラスを「ハッラーンの賢者」と呼び、自らをその後継者としている。
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 イスマイール派は輪廻転生思想を採用していないし、「清純同胞団」も輪廻転生には言及していない。しかしピュタゴラス主義をイスラム世界に広めたイスマイール派と関わりのあるドゥルーズ派、およびアラウィー派もピュタゴラス主義の影響を受け、そこから輪廻転生思想を採用したと考えられる。
 ドゥルーズ派はエジプト発祥、アラウィー派は起源ははっきりしないものの、10世紀にはシリアを拠点としていた。両派の輪廻転生思想をインド起源とする見解もあるようだが、これらの地域へのインド文化の影響の少なさ(「インド数字」と筆算、天文学・占星術、幾つかの説話くらいしかない)からすれば、12世紀以前のイスラム世界で大いに栄えたピュタゴラス主義からだと考えたほうがよほど自然だ。
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 しかしヤズィーディーの輪廻転生思想の起源は、さらなる難問である。基層となるイラン・アーリア文化には存在しないから、外部から持ち込まれたものであることはほぼ確実である。インドからも、前述のソグディアナからも遠すぎることから、インド起源だとはまず考えられない。
 となるとイスラムのピュタゴラス主義から、ということになるが、これは「清純同胞団」の「書簡集」に代表されるように、都市のインテリの思想である。しかしヤズィーディーは無文字の山岳民族だった。伝播経路は人から直接、ということになる。
 結論を言うと、クルディスタンの東端は、ハッラーンに比較的近いのである。ムスリム知識人の「高尚な」ピュタゴラス主義経由よりも、より直接にハッラーン住民の信仰からというほうが、あり得る話だ。
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 ハッラーン人の輪廻転生思想は、この都市にギリシア思想が持ち込まれた6世紀以降のものである。それがいつ、どのようにヤズィーディーたちの間に持ち込まれたのか。
 ヤズィーディーの信仰が「改革」されたのは12世紀、スーフィーのアディー・イブン・ムサーフィルによってだが、持ち込んだのは彼ではないだろう。当時すでに、ハッラーンの多神教は消滅していた可能性が高い。
 イブン・ムサーフィルは1075年頃、レバノンで生まれた。『失われた宗教を生きる人々』によると、当時まだ彼の生まれ故郷の近くにはハッラーンの多神教徒のコミュニティがあったそうだが、これも考慮に入れる必要はないだろう。スーフィーが異教をイスラム化する際、輪廻転生のような非イスラム的要素をそのまま保存することはあっても、わざわざ外部から持ち込むとは思えない。なんのメリットもない。
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 要するに、ハッラーンに輪廻転生思想が定着して以降、イブン・ムサーフィルの「改革」以前のいつか、という以上のことは判らない、としか言えないんですが。
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 最後に、ヤズィーディーの信仰の、教義を秘匿するという「秘教」的側面について。
『失われた宗教を生きる人々』は、ミトラ教、アラウィー派、ヤズィーディーの信仰の三者の共通点として、「秘教であること」を挙げる。
 しかし秘教は世界中、歴史上、無数に存在したし、それらの多くは互いにまったく関連がない。「秘密の儀礼」と、それを経て初めて授けられる「秘密の知識」の組み合わせは、いわゆる部族社会の大半が有する。こうした「秘儀」は、成員同士の結束を強めることを目的としている。ミトラ教やピュタゴラス教団のような秘教・秘密結社の秘儀は、その真似事である。
 一方、アラウィー派やヤズィーディーが教義を秘匿するのは、明らかに迫害に対する反応である。元から秘教的側面を持っていた可能性もあるが、迫害によって強められたのは間違いない。
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 以上、ⅠとⅡのゾロアスター教についての記述は、主に青木健氏の著作に拠った。氏は『失われた宗教を生きる人々』の各章冒頭に置かれた解説を担当している。
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ヤズィーディーの信仰について Ⅰ

2018年10月30日発売
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『TH』№76に掲載の拙文「イスラムの堕天使たち」は、この主題の下に4つのトピックを取り上げた。①ヤズィーディー、②ハッラージュ、③イスラムにおける一般的な堕天使/悪魔観、④ハールートとマールート、である。
 好きなことを好きなように書かせていただいたので満足だが、如何せん詰め込みすぎて説明不足になっている嫌いはある。
 といわけで、日本語文献の少ないヤズィーディーを中心に補足。
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『TH』拙稿末尾の文献案内では、ヤズィーディーに関する学術テキストとしてジェラード・ラッセルの『失われた宗教を生きる人々』を挙げた。ヤズィーディーの教義、歴史、現状について報告されており、かつ比較的入手しやすい日本語テキストは、この1点しかない。とはいえ、全7章中の第2章(約50頁)+エピローグ(わずかな言及)だけだ。
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 そもそもヤズィーディーに関する日本語テキスト自体が少なく、教義や歴史については『講座 世界の先住民族 ファースト・ピープルズの現在 04 中東』(2006年)収録の宇野昌樹氏による「ヤズィーディー 孔雀を崇める人々」(十数頁)と川又正智氏による論文「境界世界の一事例――悪魔教徒・悪魔崇拝者と呼ばれるヤズィーディー(ヤズィード教徒)紹介」(2012年 数頁 オンライン閲覧可)くらいしかない。
 ヤズィーディーの現状については、林典子氏の写真集『ヤズディの祈り』(2016年)がある。ネット上のニュース記事およびwikiは、いずれも英語記事を基にしているようである。
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 というわけで日本語テキストがあまりに少ないので、オンラインの英語のニュース記事と学術記事を数本、および英語版wikiも参照したんだが、ヤズィーディーの教義・歴史についての記述は、全部食い違っていると言って過言ではない。
 仕方ないので拙稿には可能な限りそれらの最大公約数的な見解をまとめておいたが、違うことを述べているテキストも幾つかはある。
 つまりそれくらいヤズィーディーについての研究は進んでいないということだが、それ以前の問題として、そもそもヤズィーディーという集団自体、一枚岩ではない。
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 彼らの故地と言えるのはクルディスタンだが、トルコ、イラン、イラク、シリアの4ヵ国に跨る広大な山岳地帯で、そこに小さく閉鎖的な村が点在している状態だ。加えて、少なくとも数百年にわたる迫害と各国の政情不安によって、現在では文字どおり世界中に離散してしまっている。
 コミュニティ同士を結ぶネットワークは存在してこなかったし、無文字文化だった上に厳格な階級制度があるので、教義や歴史は一握りの聖職者たちによってのみ口承されてきた。
 元々、統一された教義があったかどうかも不明だし、そのようなものがあったとしても、孤立した各小集団の中で、それぞれ独自の変化を遂げているだろう。遂げていないほうがおかしいが、そのことを考慮しているテキストは少ないようだ。
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 さらに、ヤズィーディーに関するテキストを読む際には、その著者の持つバイアスにとりわけ注意が必要であるように思う。
『失われた宗教を生きる人々』の著者は元外交官でアラビア語とペルシア語に堪能だそうで、取り上げている7つの少数派宗教の信徒らに直接聞き取りを行っているという点で、非常に貴重な資料である。
 しかし例えばヤズィーディーについてだと、決して多くはない紙幅のうち、彼らの歴史や教義について直接触れている部分は、実はあまり多くない。それより遥かに多く紙幅を割いているのは、ヤズィーディーの教義に似ている、と著者が考える別の宗派についての解説だ。
 挙げられているのはローマ帝国でキリスト教と覇権を争ったミトラ教、古代メソポタミアの流れを汲むとされ、12世紀頃まで存続したハッラーンの星辰信仰、イスラムの少数派アラウィー派である。
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 ヤズィーディーに関する欧米の(私が一応読めるのは英語だけなんだが、英文テキストでドイツ人とかの研究が紹介されてたりもするのだ)テキストでは、彼らの信仰の起源や影響源として、メソポタミアの古代宗教とミトラ教(およびその基となったゾロアスター教)、イスラムなどが挙げられている。ほかには輪廻転生はインドからの影響だとか。
 ところで、いわゆる「西洋」の研究者が、「東洋」(=非西洋)の事物について、ことさらに起源や影響源を外部に求めるのは、つまるところその事物を「不純である」「独自性がない」と見下しているということだ。最近ではさすがに少なくなったものの、「日本の文化は独自性がない」「伝統文化は中国の亜流」「近代化以降は欧米の猿真似」だと腐すのも、同じ発想からだ。
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『失われた宗教を生きる人々』の著者は、上記の「似ている」宗派とヤズィーディーとには直接関係があるかどうかはわからない、と一応断りを入れてはいるものの、一方では無理やり過ぎるこじつけもしている。ヤズィーディーが崇拝する天使の一人、「シャイフ・ハッサン」は「シャイフ・シン」と言っているように聞こえる、きっと古代メソポタミアの月神シンと関係があるんだ! とか。
 またそれに続けて、別の天使「シャイフ・シャムス」は同じく古代メソポタミアの太陽神シャマシュに名前が似ている、とも述べている。いや、何言ってんだ、この人。「シャムス」ってアラビア語で「太陽」のことだよ。「シャマシュ」もアッカド語の「太陽」で、発音が似てるのはアラビア語もアッカド語も同じセム語だからだよ。しかも「シャイフ・シャムス」が太陽と関係があるかどうかすら言及してないしな。
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 こういう具合に、ヤズィーディーの信仰を固有・独自ものではなく、古代宗教の変形(≒劣化版)であるとし、太陽に牡牛を捧げるヤズィーディーの儀式は「ギルガメシュ叙事詩に描かれているものそのまま」などと述べる。
「東洋」の事物を「古来、連綿と受け継がれてきただけで、変化も発展もない」とするのもまた、典型的なオリエンタリズムである。
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 上記の「文化の純血主義」からすると、文化や宗教の混淆は忌むべき現象ということになる。しかし私自身はというと、神仏習合の国に生まれ育ち、大学では中国文化と西域文化の混淆について研究し、「混血の文化」を誇る中南米を舞台に小説を書いているくらいだから当然、文化混淆は「良いこと」だと思っている(まあ中南米の「混血の文化」は「純血の文化」へのカウンターだということは理解しているが)。
 特にシンクレティズム(宗教混淆)は、本来はまったく別々の神様たちが、「属性が同じ」くらいならまだしも、「名前が似ている」等のまったくのこじつけで融合されてしまうから、すごくおもしろい(興味深いという意味でも、笑えるという意味でも)。
 もちろん、こういう「こじつけ習合」と、上記の「シャイフ・ハッサン」→「月神シン」のような「こじつけ解釈」とはまったくの別物である。大学で受けた神話学の講義で、先生が同業者について「日本神話とギリシア神話など、まったく異なるもの同士を、表面的に似た要素があるからといって安易に結びつけている」と苦言を呈しておられたなあ。
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 というわけで、以上を踏まえてヤズィーディーの信仰についていろいろ推測してみる。
(以下、「アーリア民族」というのは、現代の言語・民族学における分類であって、19世紀以降のヨーロッパの人種分類学=疑似科学とは関係がなく、「イラン民族」というのはアーリア民族のうちイラン高原方面へ移動した集団とその子孫を指し、イラン・イスラム共和国の国民に限定されない)
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 ヤズィーディーへの「影響源」としてどの研究者も挙げるのがゾロアスター教であるが、これはヤズィーディーたちが火を礼拝することを根拠としている。ヤズィーディーの大多数の第一言語であるクルド語がペルシア語と同じ西イラン語群に属していること(ゾロアスター教はイラン民族固有の宗教)や、階級制があることも傍証として挙げられる。
 ここで注意しておけねばならないのは、ゾロアスター教にもさまざまなヴァリエーションがあるということだ。
「ゾロアスター」というのは英語の発音に従った表記で、古代ペルシア語(アヴェスター語)だと「ザラスシュトラ」となる。そのザラスシュトラは、紀元前のいつかに中央アジアにいたイラン系遊牧民から出た宗教改革者である。
 アーリア民族のうち中央アジアから西方へ移住した古代イラン民族の信仰は、善なる神々と火を礼拝し、牛を犠牲とする儀式を特徴とするものだった。また善なる神々と対立する悪魔の軍勢がいると信じられていた。
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 古代イラン民族の中でも比較的遅くまで中央アジアに留まっていた部族の出身であるザラスシュトラは、古来の宗教を改革し、善なる神々の中でも崇拝に値するのはアフラマズダだけであるとし、また犠牲獣の儀式も否定した。
 このザラスシュトラの教え(以下、「ゾロアスター教」)を受け入れた中央アジアのイラン系集団が西方へ移住し、先に移住していたイラン系部族の宗教や他民族の宗教と習合することによって、さまざまなヴァリエーションが生まれた。多神教や犠牲獣の儀式の復活、曝葬(遺骸を野晒しにして鳥や犬に食わせて骨だけにしてから埋葬する)や近親婚、および偶像崇拝の採用などが挙げられる。
 ペルシアにおけるゾロアスター教は、イラン系国家のアケメネス朝とアルシャク朝(パルティア)、およびその間に挟まれたギリシア系国家セレウコス朝を経て、AD3世紀に成立したサーサーン朝で国教に採用された。
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 この「国教化」により、「正統」教義が確立されることになった。礼拝対象は聖なる火だけとされ、偶像は禁止された。「正統」から外れた「異端」は、キリスト教やマニ教などの異教とともに弾圧された。しかし何世紀もの間、神官たちが口伝してきた『アヴェスター』を書き留めた「正典」の完成によって、国教化事業がようやく完了したのは6世紀になってからである。
 しかもこの「正統」教義が実践されたのはサーサーン朝ペルシア帝国の中心部のみであり、地方や属領では依然として独自のゾロアスター教が信仰されていた。前述のとおり、開祖ザラスシュトラは古代イラン民族の多神教を否定し、アフラマズダへの崇拝のみを認める一神教的改革を行ったわけだが、後世のゾロアスター教は古い多神教と妥協して「最高神アフラマズダと多数の従属神」というパンテオンを形成することとなった。しかし地方や時代によっては、アフラマズダより他の神々への崇拝が盛んだった。
「正統」教義の完成から1世紀ほどで、サーサーン朝は新興のアラブ・イスラム軍によって滅ぼされてしまう。
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 上述したとおりゾロアスター教はイラン民族固有の宗教であり、他民族への布教は行われなかった。他民族が自ら進んでゾロアスター教に改宗したという例もなかったようであるし、他民族の宗教へのゾロアスター教からの影響も、ユダヤ・キリスト教の悪魔像の変化(神の僕から神の敵対者へ)といった間接的なものに留まる。
 例外はローマ帝国領内でキリスト教と覇を競ったミトラ教で、これはゾロアスター教というか、古代以来のアーリア民族の太陽神ミスラ信仰が、他の諸宗教と習合し、発展した一神教である。
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 ヤズィーディーの信仰への「影響源」として、このミトラ教もしばしば挙げられている。根拠としては、例えば『失われた宗教を生きる人々』で挙げられているのは、太陽崇拝、泉や川の傍に礼拝堂を建てること、階級制、信徒にしか教義を明かさない、いわゆる秘教であり階級が上の者ほど重要な「秘密」を知ることができること、牛を犠牲することなどである。
 まあ一言で言って、こじつけくさい。どれも他の多くの宗教にも共通して見られる要素である。著者ラッセル自身も、「似ている要素があるからと言って、まったく同じものだと考えるのは誤りだろう」と述べているくらいだ。
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 上述したように、そもそもアーリア民族の太陽崇拝はミトラ教やゾロアスター教より遥かに古く、インド・アーリア民族とイラン・アーリア民族に分かれる前にまで遡る。牛の犠牲もその頃から行われていた(イラン高原では畜牛が困難なため、羊の犠牲が主流になったが)。階級制も、インドとイランに共通する古代アーリア文化の特徴の一つだ。
 泉や川の神聖視は、例えばイスラムにも見られる。秘教的側面については後述するが、とりあえずミトラ教の専売特許ではない。
 太陽崇拝と牛の犠牲は、メソポタミアの古代宗教にもこじつけられている(『失われた宗教を生きる人々』でも)。ヤズィーディーの信仰のうち「メソポタミア起源」とされているものに、「天体(太陽・月・星)崇拝」が挙げられるが、どのテキストでも、ヤズィーディーの「天体崇拝」として挙げられているのは太陽崇拝だけで、メソポタミアの古代宗教に見られる月や星への崇拝はない。
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 私見としては、ヤズィーディーの信仰の原形は、「ゾロアスター教から影響を受けた何か」ではなく、ゾロアスター教のヴァリエーションの一つだろうと思う。
 ヤズィーディー(「ヤズィーディーの徒」を意味する)という名は、ヤズィーディー自身にすら実在を疑われている開祖スルタン・エズィード(ヤズィード)ではなく、古代イラン語で「神」を意味する「ヤザダ」に由来するという説が有力であり、ゾロアスター教よりも古い、古代イラン民族の宗教まで遡れる可能性もある。
 しかし古代イラン民族はことごとくゾロアスター教をなんらかの形で受け入れており(アルメニア、中央アジアのソグディアナ、アフガニスタン、北インドまで)、ヤズィーディーの母体であるクルド人もかつてはゾロアスター教徒だった。これは「クルド的ゾロアスター教」だったはずである。
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 また宇野昌樹氏の「ヤズィーディー――孔雀像を崇める人々」では、「ある(ヤズィーディー)信徒」から聞いた話として、ヤズィーディーの信仰の「創始者はザラーダシュト(zaradashut)という人でマラク・ターウースとして崇められている」と述べられている。
 宇野氏は「ザラーダシュト」になんの注釈も加えていないが、ゾロアスター/ザラスシュトラのことと考えて間違いないであろう。ザラスシュトラは例えば現代ペルシア語では「ザルトシュト」というように、時代/言語によってさまざまな発音のヴァリエーションがある。普通に人名として使われた例もあるのでややこしいが、とりあえず「ザラーダシュト」がゾロアスター教の開祖であることを否定する材料もない。
 ちなみに「yazidi zaradashut」でググっても1件もヒットしないんだが、まあzaradashutという表記は、日本人である宇野氏が「ザラーダシュト」と耳で聞いた音にラテン文字を当てはめたものと思われる。
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 なお、幾つかのテキストにはヤズィーディーたちは彼らの唯一神を「xedê」(「ハデ」かそれに近い発音らしい)と呼ぶ、とある。これは明らかにペルシア語で唯一神を指す「ホダー」の転訛だが、この「ホダー=神」の用法はイスラム期に入ってからのもので、サーサーン朝期には「フワダーイ」という発音で、単に「王/主人」を意味し、「神」という意味でもその別称でもなかったという。
 要するに、ヤズィーディーの起源は一筋縄じゃ行かないってことですね。
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インタビュー、エッセイなど

エッセイなど

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『TH(トーキングヘッズ叢書)№76「天使/堕天使~閉塞したこの世界の救済者」』
2018年10月30日発売

「イスラムの堕天使たち」というエッセイを寄稿させていただきました。

アトリエサードさんの公式ページ
Amazonのページ

補足あれこれ
「ヤズィーディーの信仰について Ⅰ」(長いので何回かに分けました)

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『SFが読みたい! 2018年版』(2018年2月10日発売)
 SF作家たちによるエッセイ「2018年のわたし」に書かせていただいております。
 体調が悪い時に書いたので、少々気弱な内容です。すみません。補足と近況報告はこちら

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『SFが読みたい! 2017年版』(2017年2月10日発売)

 カテゴリー「日常」では御報告しましたが、こちらの「活動」カテゴリーに上げるのを忘れていました。特別企画「2017年のわたし」にエッセイを掲載していただきました。
 また、もう一つの特別企画「2010年代前期ベストSF30」では、国内篇30位にランクインさせていただきました。投票してくださった皆様、ありがとうございました。

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『ハヤカワ文庫SF総解説』 (2015年11月20日発売)
『SFマガジン』2015年4月号、6月号、8月号の連載企画が1冊の本になりました。
 私は〈ホーカ〉シリーズ(『地球人のお荷物』『くたばれスネイクス!』『がんばれチャーリー』)、『スターシップと俳句』、『80年代SF傑作選』上下巻、『星ぼしの荒野から』の4点を担当しています。

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8月21日発売『早稲田文学』2015秋号 amazon 公式ページ(内容の詳細はこちら) 

小特集「昏い部屋の女たち」で、アンナ・カヴァンについて書いています。

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『SFマガジン』2015年8月号

ハヤカワSF文庫総解説PART3[1001~2000]で、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『星ぼしの荒野から』の解説を担当しました。

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『SFマガジン』2015年6月号

ハヤカワSF文庫総解説PART2[501~1000]で、ソムトウ・スチャリトクルの『スターシップと俳句』、小川隆/山岸真・編の『80年代SF傑作選』(上下巻)の解説を担当しました。

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『SFマガジン』2015年4月号

2000番到達記念特集 ハヤカワSF文庫総解説PART1[1~500]で、ポール・アンダースン&ゴートン・R・ディクスンの〈ホーカ・シリーズ〉(『地球人のお荷物』『くたばれスネイクス!』『がんばれチャーリー』の解説を担当しました。

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〈トーキングヘッズ叢書№61〉「レトロ未来派~21世紀の歯車世代」

 2015年1月28日発売。一冊丸ごとスチームパンクの特集です。企画の一つ「エッジのきいたスチームパンク・ガイド」で映画レビューを五本担当しました。

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『早稲田文学』2014年秋号 

 特集「若い作家が読むガルシア=マルケス」で、『コレラの時代の愛』について書きました。

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『SFマガジン』2009年10月号

「神林長平特別エッセイ」として『完璧な涙』のレビューを執筆。

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『SFマガジン』2007年6月号

「MY FAVORITE SF」 大原まり子氏の『一人で歩いていった猫』

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インタビュー

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『SFマガジン』2015年10月号

 インタビューじゃなくて、長谷敏司氏と藤井太洋氏との鼎談ですが。伊藤計劃氏と『トリビュート』について。

日刊紙『SANKEI EXPRESS』2014年6月8日(日)付に『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』の紹介記事掲載(インタビューに基づく)
産経新聞のこちらのページに全文アップされています。


ウェブマガジン「アニマソラリス」2005年3月
 
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『SFマガジン』2004年10月号

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ニッポンの文字の文化

 オングの『声の文化と文字の文化』を読んでの雑感の続き。.

 長野から関西に来て最大のカルチャーショックは、偶々同じ大学に入って同じカルチャーショックを受けた妹の言葉を借りると、
「普通の女の子が冗談を言う」。
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 いわゆる県民性によると、長野県民は冗談が通じないそうである。長野県民自身もそう言っている。
 いや、長野県民だって冗談を聞けば、ちゃんと笑う。ただし、誰もが冗談を言うわけではない。冗談を言う「係」は決まっていて、そのいわば「お笑いキャラ」が何かギャグをやって周りが笑う、という構図である。笑うだけであり、冗談に冗談で返すようなことは、基本的にない。
 だから関西の、誰もが常に笑いを取ろうとし、しかも言いっ放し、やりっ放しなのではなく、相手もしくは周囲からのリアクションがあり、それに対してさらにリアクションをする(要するにボケツッコミの応酬)、という「双方向」は驚くべきことだった。
 実際には「誰もが」というわけでもなく、笑いを取ろうとしない、ボケツッコミをしない関西人もいる。しかしその数は少ない。ほとんど誰もが、「普通の女子」でさえも常に笑いを取ろうとしている。 
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 長野県諏訪地方では、なぜか小学校では1度もクラス替えがなかった。中学でもないのが普通だが、生徒数が多すぎて途中で2校に分かれたため、結果的に1度クラス替えが行われた。
 したがって私が知るのは小学校で1クラス、中学で2クラスというわずかな事例でしかないのだが、クラス内で冗談を言うキャラ/係は、女子に限って言えば小学校では5人を超えることはなく、中学ではさらに数が減った。
 彼女たちは、リーダー的女子とお笑い系女子とに分けることができた。リーダー的女子は、個人差もあるがそうしょっちゅう笑いを取ろうとするわけではなく、TPOに応じて、つまり効果を計算して行っていた。リーダーシップの一環、人心掌握の一環であり、嫌な言い方をすれば、周囲が笑うのはおもねりも多少はあっただろう。一方、お笑い系女子は、例外もあったが、やや軽んじられる傾向にあり、必ずしも人気者ではなかった。
 なお、高校では授業が選択制でクラスのまとまりが弱かったのもあってか、そういう「キャラ」は明確ではなかった。
 そんなわけで、関西では誰もが、「普通の女子」さえもが、始終笑いを取ろうとする、というのはまさに「ショック」だったのである。
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 長野の県民性としてほかに言われることに、「議論好き」「理屈っぽい」がある。さらに、ネット上や書籍などの県民性リストには載っていないことで、高校時代、複数の教師から聞いたことなのだが、「相手を説得するのではなく、理屈で追い詰め、論破する」。
 確かに、そういう傾向はある、と思う。小学校では、何かというと「話し合い」ばかりしていた記憶がある。それも学級会で「クラスの問題」とかを話し合うだけではなく、授業の基本が「話し合い」だった。
 国語で「ごんと兵十の気持ちを考えてみましょう」とかならまだしも、算数で問題の解き方が複数あった場合どれがいいかとか、果ては家庭科で「冬は下着のシャツを毎日替えるべきか」というような「正解」などないような問題まで、なんでも話し合う(念のために言うと、30年以上前の諏訪地方は今以上に寒く、しかも暖房設備も整っていなかったから、冬はあまり汗をかかなかったのである)。
 小学校ではクラス替えを経験していないし、他のクラスや他校、他の地域でどんな授業が行われていたのかも知らないが、担任が替わっても話し合いが基本の授業形態は変わらなかったので、少なくとも長野県全体の傾向ではないかと思う。
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 で、その話し合いというのが常に、「相手を理屈で言い負かす」、つまり「言葉による格闘」だった。結論が出ないようなテーマであっても、異なる意見をすべて叩き潰した「勝者」が出るまで続けられる。もっとも、一応はカリキュラムというものがあるので、その前に教師が時間切れを宣言して打ち切ることも少なくなかったが。
 中学以降は受験があるので授業での「話し合い」はなくなるが、「議論好き」で「理屈っぽい」人間の下地は、小学校卒業までにすっかり出来上がっている。
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 この「県民性」は、やはり江戸時代に識字率が日本一だったことが最大の要因だろう。
『声の文化と文字の文化』によると、弁論(議論や演説)が重視されるのは、「声の文化」である。しかし論理的に、言い換えれば理屈で、考えたり話したりするのは「文字の文化」である。
 論理(理屈)というものは、文字を基盤とした思考だ。読み書きの教育を受けていない人は、「北極圏の熊はみんな毛が白いです。グリーンランドは北極圏です。グリーンランドの熊の毛は何色ですか?」といった最も簡単な三段論法すら理解できない。もちろん知能が低いわけではなく、思考法が根本的に異なるのである。
『声の文化と文字の文化』でも紹介されているが、ソ連の心理学者ルリアが1930年代初めに識字率の低い地域で行った調査の報告『認識の史的発達』(明治図書出版)には、読み書きがまったく、もしくはほとんどできない人たちの思考様式がふんだんに紹介されており、非常に興味深い。
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 古代ギリシアから近代ヨーロッパまで、読み書き能力が限られた人々に独占されていた社会、その人々が発達させたのがレトリック(弁論術)である。論理的思考に基づいた、「言葉による格闘」だ。だから古代ギリシアや中世ヨーロッパの哲学書は、対話形式が基本なのである。
 しかしそうしたヨーロッパの議論で重点が置かれていたのは、説得であって論破ではない。私が小学校で経験したようなのは、問題を解決するための議論ではなく、議論のための議論である。これが長野県民の議論の特徴だとしたら、山がちな地形のせいで共同体が小さく、小藩ばかりで大局に立つ機会もなく、それなのに識字率だけは高いから、議論のための議論が発達した、といったところだろうか。
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「議論のための議論好き」がどれだけ読書と関係するのかは知らんが、少なくとも「クラスで一番本を読む」子だった私は、理屈で相手を言い負かす、というか叩き潰すのが何より得意だった。いやほんと、ほかに得意なことがなかったんですよ。運動は全然駄目だし、本ばっかり読んで勉強しないから、成績もせいぜい上の中といったところだったし。
 別に自分の意見が正しかろうがなかろうがどうでもよく、ただただ相手をやり込めるのがすごく楽しかった。で、それを相手が同級生だろうが教師だろうが構わずやったんで、恨まれていろいろ面倒なことになり、小学校高学年になる頃には議論を避けるようになったのでした(遅い)。
 以来、説得目的でない限り、議論は極力避けています。というか、議論自体を避けてる。説得するつもりで始めても、うっかりスイッチが入ってやり込めてしまいかねないんで。恨まれたり嫌われたりするとこまでいかなくても、怖がられるんですよ……
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 長野出身の知識人で、たぶん全国的に一番有名な佐久間象山。詳しく知っているわけではないが、信州人の例に漏れず、誰彼構わず議論を吹っかけては言い負かして、そこらじゅうで恨みを買ってたんじゃなかろうか。過激思想の上に自信過剰の性格と来れば、間違いなくやってるな。
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 先日、ボケツッコミによる「勝負」はハナから習得する気はなかったが、互いに相手が反応しやすいように配慮しながらの会話には馴染めた、と書いた。
 言い換えれば、故郷ではそうした会話には馴染んでいなかったのである。このことについては、やはり妹がこう言っている。
「関西に来る前は、どうやって会話してたか思い出せない」
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「言葉のキャッチボール」が成立していなかったわけではないが、基本、相手がキャッチしやすい球を投げることを考えていない。「議論のための議論」ともなれば、急所にぶつけて仕留めるためだけに投げる。キャッチボールではなくキラーボールである(アメリカではドッジボールをこう呼ぶんだそうである。または「マーダーボール」)。
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 プラトンによると、ソクラテスは「書くこと」と「書かれたもの」を信用しておらず、その理由の一つとして、「書かれたもの」(テキスト)を読むという行為は人間同士の対話ではないからだと述べたという。一方的に言葉を投げつけられるだけで、投げ返すことはできない。投げてくる相手を見ることも聞くこともできない。
 私の故郷と関西とで会話のルールが違うのは、果たして「文字の文化」と「声の文化」の違いなのかどうかはわからない。また、諏訪以外の非関西圏での会話のルールについても、何か意見を述べられるほど実例を知らない。
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 まあ他県民から言われる長野県民の数々の短所のうちの幾つかが、仮に「文字の文化」の弊害だったとしても、「声の文化」のほうが優れていると言うつもりはない。
 たとえば、日本語は罵倒語が少ないとされるが、これは長野県に限らず日本全体が昔から識字率が高かったことと関係しているのではないだろうか。
『声の文化と文字の文化』によれば、声の文化の特徴として、決まり文句の多用がある。罵倒語も決まり文句の一種であり、同じく声の文化の特徴である「罵倒の応酬」とは、決まり文句である罵倒語の応酬なのである。
 著者のオングがこれを「言葉による知的な格闘」と呼ぶのは、非常に多種多様な罵倒語の中から、どれだけ気の利いたものを選べるかを競う、ということであり、斬新な罵倒表現を考え出す創造性を競うのではない。
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 文字の文化が浸透していたから、決まり文句の多用や罵倒の応酬という習慣も早くに廃れた、だから日本語には罵倒語が少ないのだ、というほうが、「日本人は優しいから/礼儀正しいから」「日本語は美しい言葉だから」等々「情緒的」な説明よりも明らかに理に適っている。
『声の文化と文字の文化』によれば、決まり文句の多用は、思考まで決まり文句的に、つまり紋切り型にするそうである。また罵倒語については、日本語の古語や各国語から確認できる事実として差別表現が多いから、廃れて惜しい文化ではまったくない。
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 上記の、ソクラテスが「書くこと」「書かれたもの」を嫌った理由の一つである「対話の欠如」は、ライブ(なま)でないこと、と言い換えることができる。書かれたものとは、記録されたものだからだ(そもそも、文字は記録のためのものである)。
 さて、電子掲示板やチャット(テキストチャット)でのコミュニケーションは、文字によるものではあるが、従来の手紙などの遣り取りに比べて桁違いに即時性が高い。速度だけなら、声によるコミュニケーションに近いと言える。
 ああいう場で決まり文句や定型文(テンプレート)が多用されるのは、ひょっとして「声の文化」的要素なのだろうか。識字層が限られていた時代には「書かれたもの」であっても決まり文句が多用され、その名残は現代でも「改まった」文書に見ることができるが、ネット上に見られる決まり文句は、それらの「死んだ」決まり文句とはまったく別物だ。
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 そしてまた、ネット上では「罵倒の応酬」が日々繰り広げられ、新たな罵倒語も次々と生まれている(もちろん差別表現が多い)。しかし、どれだけ気の利いた返しができるかを競う「言葉による知的な格闘」にはまったくなっていないのは、結局のところ「ライブではない」からではないだろうか。
 反応が文字でしか見えない、いくら即時性が高くても書き込みの最中の反応までは得られないというのは、罵倒の相手だけではなく、その罵倒がどれだけ気の利いたものかを判定する「観客」についても言えることだからだ。
 要するに、声の文化と文字の文化の双方の欠点が複合した結果が、知性の欠片もない罵倒の応酬(もしくは応酬ですらない)なのではなかろうか。別に違っててもどうでもいいんだが。
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ニッポンの声の文化、続き

「ニッポンの声の文化」へ

 関西の「声の文化」は、ボケツッコミだけではない。

 1990年代初め、京都の龍谷大学は非関西圏からの学生がほとんどいなかった。2、3年もすると全国から学生が集まるようになるのだが、私の入学時には非関西圏出身者はいるにはいたが、関西より西からがほとんどで、東からの学生は本当に珍しかった。
 私はといえば、生まれも育ちも長野の諏訪地方、関西弁を間近で聞くのは初めての体験だった。関西弁自体は、すでにダウンタウンの東京進出後であり、TVをそんなに観ない私にも耳慣れないものではなかった。「ほかす」「いちびる」といった、意味の解らない単語も、それほど多くはない。
 困ったのは、表面的な意味は理解できても、ニュアンスまでは理解できないことである。
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 文字どおりには誉められてるが、どうも貶されてるような気がする。しかし、貶されてるだけかといえばそうでもなく、少しは誉められているような気もする。
 とにかく、どう受け取ったらいいのか解らない。これはかなりのストレスだった。
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 実際、関西人の発言は、二重三重の意味を持たせていることが多い。良い意味なのか悪い意味なのか、両方だとしたら、どちらに比重が置かれているのか。
 そうしたことを相手が読み取れるか試す。これもまた、「言葉による知的な戦い」である。
 しかし関西初心者の私が、いきなり寄ってたかってこれをやられたのは、読み取れるかどうか試されたのではなく、読み取れるわけがないという前提で嫌がらせをされたのだろう。しかも一般的な関西人同士の会話以上に、ことさらに微妙なニュアンスを含ませていたような気がする。
 これは決して被害妄想ではない。当時、「関東弁」が気持ち悪い、と面と向かって言われたのは一度や二度ではなかった。
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 前回の記事で、関西の人たちは「関西人」という一つのまとまったアイデンティティを持っているわけではないし、「関西弁」というものもない、と述べた。今回は便宜上、「関西人」「関西弁」を使うが、地域差を無視して「関西弁」「関西人」と十把一絡げにするのは失礼なことである。
 が、関西の少なくとも一部の人々も、「関東人」「関東弁」という雑な括りをするので、お互い様というものだ。しかもそういう人ほど、「関東」を「東京とその周辺」もしくは「東京とそのシンパ」と見做して敵愾心を抱く傾向がある。
 東京など山々の彼方であり「近い」と思ったことなど一度もないのに、一度も意識したことのない「関東」という括りで一絡げにされて敵意を向けられては堪ったものではない。「関東弁」とか「関東人」なんて言い方、それまで聞いたこともなかったよ。
 はっきり判る方言を話していたら状況は違ったかもしれないが、諏訪の方言は標準語との違いが少ない上に、私は母に方言を禁止されていたので、ほとんど話せない。聞けば理解できるし、微妙な地域差も識別できるが、話すことはできない。イントネーションが多少違う程度なので、関西人にとっては「気持ち悪い関東弁」である。
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 どうもあの頃は、私に対してことさらにコテコテの方言を使う人が多かったような気もする。当時はコテコテかそうでないかの判別もできなかったので、実際はどうだったかわからないんだが。
 もし本当にそうだったとしたら、たぶん威嚇を意図していたのだろう。生憎こちらには通じなかったが、ニュアンスが解らないというだけでも充分しんどかった。
. まあしかし、四半世紀以上も昔の話である。今ハキットソンナ人ハイマセンヨー。
 3年もすると、友人たちは皆、「仁木(仮)さんと話す時は、自然と標準語に近くなる」という主旨のことを言うようになったしね。そういう人たちだから友達になれたとも言えるが。
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 当初、ニュアンスが解らなかった関西特有の表現としてはほかに、相手の言葉に被せるように言う「ハイハイ」があった。
「関東」では、「ハイハイ」と返事をされて相手が喜ぶことはまずない。まして話の途中でやられたら、「ハイハイ、わかってるからもう黙ってなよ」ということだと解釈し、腹を立てるか傷つくかするだろう。
 関西の「ハイハイ」は、これとは明確にイントネーションが違うのだが、慣れない人間にはそこに籠められたニュアンスまでは汲み取れない。ただでさえ関西弁に疲弊しきっていた私は、相当な悪印象を抱いた。
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 ニュアンスが解りにくい発言ばかりをしていた人たちが、本当に「関東人」の私に敵意を抱いていたかどうかは定かではないが、「ハイハイ」に悪意がなかったことは断言できる。
 これは「熱心な同意、共感」の表明である。敢えて訳すなら「わかるわかる」となるだろうが、「わかる」という言葉の押しつけがましさはない。相手の言葉に被せるのも、遮る意図はまったくなく、それだけ熱意を籠めているということである。「どんどん続けて」と促す意図もあるだろう。
「ハイハイ」と2回だとまだ軽い合いの手といったところだが、より熱意が籠れば「ハイハイハイハイ」と4回、さらに激しい同意だとさらに回数は増える(最大8回までだと思う)。
 そういうつもりでハイハイ言ったのに、私がむっとして黙ってしまうので相手も戸惑っただろうと思う。幸い、ニュアンスが読み取れるようになるまで、そう長くはかからなかったが。
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 わりと早い時期に、下手くそな関西弁ほど関西人のカンに障るものはないと気づいていたので、関西弁を喋ろうと試みることはなかった。最初の夏休みに帰省した際、TVで非関西人の似非関西弁を耳にして、関西人が嫌がるのも無理はないと思えたし。
 そういうわけで数年後には友人たちから、「いつまで経っても関西弁がうつらない」ことを不思議がられるようになるのだが、帰省すると家族や地元の人たちからは「すっかり関西弁になった」と言われたものである。語尾やイントネーションなんかは、それなりに影響を受けていたと思う。
 前回述べたようなボケツッコミの激しい応酬、「言葉の真剣勝負」も、体得できるわけがないとハナから勝負を降りていた。しかし相手が反応しやすいように互いに配慮しながら会話を続ける「言葉のキャッチボール」には、だいぶ馴染めたように思う。
 自然に「うつった」ものとしては、「ハイハイ」もその一つだ。相手の発言に「熱心な同意、共感」を抱いた時には自然に口を衝いて出るようになった。もちろん、熱意の度合いに応じて回数も変化する。
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 ただし非関西圏の人と話す際には、使わないように注意した。私の場合、短期間とはいえ関西弁で苦労させられたので余計に印象がよくないかもしれないが、6級下で、同じく龍大に入った妹はそのような苦労はせずに済んだようだが(だから、「関東に敵意を抱く関西人」などというものはとっくに絶滅しているはずである)、やはり「ハイハイ」の印象は悪かったという。非関西人相手には、使わないのが無難である。
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 関西を出てからは関西人と話す機会は滅多になくなり、「ハイハイ(ハイハイ……)」を使う機会はほぼ皆無になった。しかし気が付くといつの間にか、相手の発言に「熱心な同意、共感」を抱いた時には、「ハイハイハイハイ」と同じタイミングで、「あーあーあーあー」と言うようになっていた。
 意識せずにやっているので自分でもよくわからないが、「ハイハイ」(2回)の代わりは「あーあー」ではなく、たぶん「うんうん」。で、「最大級の熱心な同意、共感」である「ハイ×8」は、「あー×8」ではなく、「あーあーあーあー、うんうんうんうん」という、なんだか謎の相槌を発している。
 

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『TH』№76

 お久しぶりです、仁木稔です。アトリエサードさんから今月末に発売する『TH(トーキングヘッズ叢書)』№76「天使/堕天使~閉塞したこの世界の救済者」にエッセイを寄稿させていただきました。
 エッセイ・タイトルは「イスラムの堕天使たち」です。書きたいことだけを書いた、たいへん趣味に走ったものとなっておりますが、それでも浮かないのが『TH』。広く深い雑誌です。

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『TH(トーキングヘッズ叢書)』№76(アトリエサード公式サイト)へ

 よろしくお願いいたします。

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