著作 2014~

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『ナイトランド・クォータリー』vol.18「想像界の生物相」2019年8月30日発売予定

 短篇「ガーヤト・アルハキーム」が掲載されます。商業媒体では初のファンタジーになります。
 ほかに書いたことのあるファンタジーは、デビュー前の「鴉の右目の物語」(当ブログの「お蔵出し」で読めます)だけなんで、実は非常に稀少です。

「ガーヤト・アルハキーム」とはラテン語の魔術書『ピカトリクス』の原典タイトル、と言えば、解る人は解るかもしれません。もっとも扱っているのは魔術書そのものではなく、そこに掲載されている魔術の一つです。
 異世界ファンタジーに見せかけたオルタネイト・ヒストリー。魔法が「実在」する世界を舞台とした、もう一つの歴史です。ジャンルとしては「マジック・パンク」になるんだろうか……私としては「ロジカル・ファンタジー」のほうが、しっくりきますが。いずれにせよ、SF寄りのファンタジーというか、SF脳の人間が書いたファンタジーです。
 400字詰めで40枚強と短めですが、中身は濃いです。御期待ください。 

 

 

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『屍者たちの帝国』2015年10月3日発売。

伊藤計劃氏/円城塔氏の『屍者の帝国』のシェアワールド・アンソロジー。
私の収録作「神の御名は黙して唱えよ」は、1854年秋、ロシア帝国南西部が舞台です。生者の屍者化計画とイスラム神秘主義。

 

 

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『伊藤計劃トリビュート』 2015年8月25日発売

 タイトルどおり、伊藤計劃氏へのトリビュート・アンソロジー。
 私の収録作「にんげんのくに」は、HISTORIAシリーズの一篇でもあります。

 

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『ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち』

ハヤカワSFシリーズ Jコレクション 2014年4月24日発売

 HISTORIAシリーズ 連作集

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「幕屋の偶像(アイドル)」追補

 発売中の『トーキングヘッズ叢書』№79「人形たちの哀歌」に、「幕屋の偶像(アイドル)」を寄稿しております。

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 サーデグ・ヘダーヤトの二つの短篇、人形愛をテーマとした「幕屋の人形」(『生埋め』所収)とペルシア系仏教徒(=偶像崇拝者)が主人公の歴史小説「最後の微笑」(『サーデグ・ヘダーヤト短篇集』所収)を取り上げ、「イスラムにおける偶像観」を論じています。

「人形」がテーマの今回の特集ですが、いや実にいろんな切り口があるものですね。「人形」というと、人形愛と人形恐怖症(ホラーや怪談の題材としても)くらいしか思い浮かばなかった自分の不明を反省……
 言い訳をすると、実は5歳の時に怖い夢を見たせいで、かなり重症の人形恐怖症なのです。見たのは41年前の夏休み、ちょうど今頃ですが、古い無人の日本家屋になぜか入り込んでしまい、当時の自分と同じサイズの市松人形に追いかけ回されたという悪夢で、以来、人形だけでなくぬいぐるみも着ぐるみも怖い。

 それと学生時代、人形好きの友人(ハンス・ベルメールをとりわけ偏愛していた)がいたことから、人形愛と人形恐怖症は表裏なのではないかと思ったわけですよ。なぜ自分はこんなに人形が怖いのか、解明したいと思って。
 といっても、心理学や精神医学の分野では納得行く説明を見つけられなかったし、人形についての随筆や評論の類からも得られるものは少なくて、結局のところ調べると言っても、人形を題材としたフィクションを漁るくらいでしたけどね。しかもホラーは苦手なんで除外するから、作品数も限られる。

 そうして決して多くない作品を読んだり観たりしてきて思ったのは、人形の「人形らしさ」(端的にはたとえば関節の継ぎ目など)へのフェティシズムを表現したものは意外と少ないということ。ピュグマリオン伝説から『砂男』、『未来のイヴ』、それに「人でなしの恋」といった古典作品は、いずれも理想を体現する生身の女が見つからないから人形を身代わりにしている、と言える。
 そうではない、人形という物そのもの(フェティッシュ)への愛(フェティシズム)というのは現実にはかなりありふれているはずで、たとえば前記の友人がそうだったし、彼が好んだような人形を好む人たちの大半もそうではないかと思うのです。
 しかしこれまで私が出会った中で、そのような愛を真正面から捉えた作品だと思えるのは、リチャード・コールダーの『アルーア』と、ヘダーヤトの「幕屋の人形」くらいです。
 んで、「頑張ってとんがってます」のコールダーよりも、ヘダーヤトのほうが、現実の人形愛(フェティシズム)に近いものを描いているのではないかと(いや、コールダーも好きですけどね)。

 さて、「幕屋の人形」を読んだのは数年前のことですが、人間の具象表現(人形も含む)を偶像崇拝として排斥するのは、ムスリムの中でも偏狭な手合いに限られるとすでに知っていたので、ヘダーヤトが「正しく」人形愛を書き得たことを意外に思いはしなかったんですが(それに何しろヘダーヤトだし)、その少し後に「最後の微笑」を読んで、「……何これ」。
 まあ一言で言うと、仏教徒を仏像フェチとして描いてしまっているわけです。ヘダーヤトは「異民族」から押し付けられた信仰であるイスラムに反感を抱いており、ゾロアスター教や仏教、ヒンドゥーといった異教に強い関心を持って、かなり勉強もしていたようです。「最後の微笑」の主人公は、9世紀初頭にアラブ系であるカリフに粛清されたペルシア系の宰相で、その粛清理由は歴史上の謎なわけですが、ヘダーヤトは宰相の一族の先祖が仏教徒だったという史実から、粛清理由を「隠れ仏教徒だったのが露見したから」ということにしている。同じペルシア系である宰相に完全に肩入れしていて、仏教信仰も理解し共感しようと頑張ってるのが、読んでいてひしひしと伝わってきます。
 ……でも、「仏像フェチ」としか理解できていない。

 ヘダーヤトほどの知性と異文化共感をもってしても、こんな頓珍漢な異教理解しかできないのか、と。「幕屋の偶像(アイドル)」で、中世のムスリムの典型的な偶像観の例を挙げましたが、あれと根っこは同じだと思ったわけです。「偶像」崇拝を、「神の象徴としての偶像」崇拝だとも、偶像に「偶(やど)った」神あるいは神の力の一部の崇拝だとも理解せず、偶像という「物そのもの」(フェティッシュ)の崇拝(フェティシズム)としか理解しない、できない。
 その後、イスラム神秘主義についていろいろ調べて、イスラム神秘主義によく見られる聖者、聖廟、聖遺物などの崇拝は、要するにそれらに宿った「バラカ(神寵)」という「神の力の一部」の崇拝だと理解し、それでますます、ならばなぜ偶像崇拝をフェティシズムとしか理解できないのかと謎は深まるばかりなんですが。

 なお、中世イスラムの史料にしばしば現れる、「偶像崇拝者たちは馬鹿なので、狡賢い奴(旅行記や歴史書などの「実話」では神官、『千夜一夜』のような説話ではジン)が偶像の手足を動かしたり声色を使ったりするのに騙されて、偶像を神だと思い込む」というエピソードを、「中世ムスリムの典型的な偶像観」とするのは私見です。
 この類型化されたエピソードは、私が知る限りではイスラム初期の史料には見られず、10世紀の『中国とインドの諸情報』が最古の例の一つなんじゃないかと。まあ私の「知る限り」というのは日本語テキスト(論考でも原典翻訳でも結構な量は出てますが)に加えて英文を多少読んでるだけの本当に限りがあるものなので、専門家の御意見を伺いたいところです。

「ムスリムの偶像観」みたいなものを包括的に論じたテキストは見つけることができませんでしたし、イスラムに関する私の知識は、だいたい10世紀くらいまでならそこそこ詳しいと言えるのではないかと思いますが、それ以降は時代が下るに従って少なくなっていく(特に近現代は中央アジアに偏る)。
 そんなんで中世ムスリムと20世紀前半のヘダーヤトの偶像観を一括りにするのは些か乱暴かもしれませんが、ただ、「最後の微笑」の少し後に読んだ論文、記録を取らなかったので確認できないのですが、確かイスラム神秘主義がテーマで、日本人研究者の論文がメインだけど外国人研究者の論文の翻訳も幾つか入っているという論文集(書籍)に収められていた、中央アジア(たぶんカザフスタン)の女性研究者が現地の遊牧民の聖者崇拝を調査したものがありました。
 調査対象はとある聖者の廟で、泉の傍に建っている。自身もムスリマである研究者は、その聖者についての記録が見つからないので、実在しなかったに違いない、ということを批判的に述べていて(少々執拗な印象を受けた)、泉のほうはまったく眼中にない。まあちょっと齧っただけの私にも、真の崇拝対象は泉であり、遊牧民たちがイスラム化される以前から崇拝していた聖なる泉に架空のイスラム聖者をこじつけただけ、というイスラム圏全体で普遍的に見られる現象なのは明白なわけです。
 その論文を翻訳した日本人研究者の方も、注記で「なぜこんな明白なことに彼女は気づかないのか」という感じで困惑を表しており、どうも現代に至るまで多くのムスリムにとって、異教というのはどうにも理解しがたいものなのではないかと。

 いや、現代のイスラム聖者崇拝についての論考もかなり読んできたつもりですが、日本および欧米の研究者の間では、聖者崇拝はイスラム化以前の信仰との習合が多い、というのが常識である一方、ムスリムたち自身(実際に聖者崇拝を実践している人々や、それらを研究している人々)はその「常識」をどう考えているのか(あるいはそもそも知っているのか)ということに言及したテキストにはお目にかかったことがありません。聖者崇拝を「偶像崇拝」として弾圧する原理主義者たちにしても、この場合の「偶像」とは単に「神以外のもの(被造物)」というだけであって、歴史的背景とかは一切考えてなさそうだし。
 専門家の御意見を伺いたいところです。

 聖者崇拝というのはイスラム神秘主義の形態の一つでもありますが、神秘主義の最も根本的な精神は「信仰=愛」だと言っていいかと思います。拙稿でも挙げた『ラースと、その彼女』では、プロテスタントの善男善女たちが「人形愛は偶像崇拝に当たるか」を議論しますが、結論は「愛は崇拝ではない(からOK)」というものでした。しかしイスラム神秘主義だと、愛=信仰になる。つまり人形を神のように崇拝していると見做されかねない。
 だからヘダーヤトも、「最後の微笑」で偶像「崇拝」を描こうとして偶像「愛」(フェチ)にしかならなかったんじゃないかと。ただ問題は、ヘダーヤトが神秘主義の影響をどの程度受けているのかがわからないことで、そもそも「愛=信仰」という思想を発展させたのは中世ペルシアの神秘主義者たちですが、そのペルシアでは16世紀に成立したサファヴィー朝による徹底的な弾圧によって、神秘主義はすっかり衰退してしまっている。まあ現代に至るまでハーフェズの神秘主義詩が民衆レベルで膾炙しているなど、ペルシア文化に浸透してるのは確かなんですが、ヘダーヤト個人はどうだったのか。
 これでヘダーヤトがハーフェズを愛好してたりすれば話は簡単なんですが、彼が偏愛していたのはオマル・ハイヤームのほうで、しかもハイヤームを神秘主義者と見做していたかどうかもわからない。
 専門家の御意見を伺いたいところです。

 人形恐怖症に話を戻すと、じゃあ人形の写真でいっぱいの『TH』今号はどうなんだというと、まあ写真なんで実物ほどは恐怖を引き起こしません。それに私が一番恐怖するタイプの人形は「古びて汚れた安物の大量生産品」なので、近いタイプの図版は阿澄森羅氏の「あなたの知らない人形怪談の世界」掲載の「お菊人形」くらいでしたから。あれも単に「古びて」いるだけですし。手垢で汚れてるようなのが一番怖いんですよ。
「髪が伸びる」だの「動き回る」だのの怪異は屁とも思わんのに、「念が籠ってそう」なのが怖いのかもしれません。人形恐怖症の原因となった悪夢の市松人形は、別に古びても汚れても安っぽくもなかったし、我ながら恐怖とは非合理なものです。

 

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インタビュー、エッセイなど 2

2015年以降のインタビュー、エッセイなどです。2014年以前はこちら。

エッセイなど

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TH(トーキングヘッズ叢書) №79「人形たちの哀歌」』
2019年7月31日発売予定

「幕屋の偶像(アイドル)――物そのもの(フェティッシュ)への眼差し」というエッセイを書かせていただきました。
 まず「人形愛」を定義したうえで、サーデグ・ヘダーヤトの短篇「幕屋の人形」を取り上げ、人を含む動物の具象表現が禁止されている(とされる)ムスリムであるヘダーヤトが、なぜかくも「正しく」人形愛を描くことができたのか。その謎を解くべく、イスラムにおける偶像観を考察します。
  ヘダーヤトの別の短篇「最後の微笑」も取り上げます。

 ヘダーヤトの評論は、これで二度目になります。前回は『早稲田文学』2015年秋号のアンナ・カヴァン特集で、まあつまりカヴァンとヘダーヤトを一緒に論じたわけで、ごく一部で「空気読まない」と好評(笑)をいただきましたが、今回は原稿の段階で何人かの方々に読んでいただいたところ、「イスラムについて知らなくても解りやすい/おもしろい」と好評(笑、でない)をいただいております。
 自分が興味を持っていることが、どう興味深いのか他人に伝えることができるのは、物書き冥利につきます。

『TH』№76と77では、規定枚数に収めるのに少々苦労したので、今回は「できれば少し増やしていただきたいのですが」とお願いしたところ、なんと2頁も増量していただけました(3頁→5頁)。書きたいことを書きたいだけ書けて、たいへん楽しかったです。
 もう一つ、今回は是非とも「イランの対“バービーとケン”人形、“サラとダラ”」の画像を使いたかったのですが、あいにく自分では実物も画像も所持しておらず、編集の方々に無理を言って画像を探していただきました。この場を借りて、改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。
 バービーを「欧米からの文化侵略」と見做すイラン政府が2002年に製造販売を開始した、「イスラム的に正しいお人形」サラ(宗教指導者のお墨付き)。なかなか味のあるデザインですので、是非周知させたいと。

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内容に関する補足の記事はこちら

 

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『SFが読みたい! 2019年版』

 今年も特別企画「2019年のわたし」に書かせていただきました。
 毎年、「201○年のわたし」の原稿を書く時期に当たる1月上旬は、寒さによる不調で思考も後ろ向きになります。精一杯前向きなことを書いたつもりでも、後日、『SFが読みたい!』で読み返すと、「ああ、なんて後ろ向きな……!」と頭を抱える羽目になるので、今年は開き直りました。どうもすみません。

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『TH(トーキングヘッズ叢書)№77「夢魔~闇の世界からの呼び声」』
2019年1月30日発売

「ノイズから物語を紡ぐ~脳科学の見地から夢を解く」というエッセイを寄稿させていただきました。

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「ノイズから物語を紡ぐ」こぼれ話的なもの(今回は1回だけです)

 

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『TH(トーキングヘッズ叢書)№76「天使/堕天使~閉塞したこの世界の救済者」』
2018年10月30日発売

「イスラムの堕天使たち」というエッセイを寄稿させていただきました。

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補足あれこれ
「ヤズィーディーの信仰について Ⅰ」(長いので何回かに分けました)

 

 

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『SFが読みたい! 2018年版』(2018年2月10日発売)
 SF作家たちによるエッセイ「2018年のわたし」に書かせていただいております。
 体調が悪い時に書いたので、少々気弱な内容です。すみません。補足と近況報告はこちら

 

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『SFが読みたい! 2017年版』(2017年2月10日発売)

 カテゴリー「日常」では御報告しましたが、こちらの「活動」カテゴリーに上げるのを忘れていました。特別企画「2017年のわたし」にエッセイを掲載していただきました。
 また、もう一つの特別企画「2010年代前期ベストSF30」では、国内篇30位にランクインさせていただきました。投票してくださった皆様、ありがとうございました。

 

 

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『ハヤカワ文庫SF総解説』 (2015年11月20日発売)
『SFマガジン』2015年4月号、6月号、8月号の連載企画が1冊の本になりました。
 私は〈ホーカ〉シリーズ(『地球人のお荷物』『くたばれスネイクス!』『がんばれチャーリー』)、『スターシップと俳句』、『80年代SF傑作選』上下巻、『星ぼしの荒野から』の4点を担当しています。

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8月21日発売『早稲田文学』2015秋号 amazon 公式ページ(内容の詳細はこちら) 

小特集「昏い部屋の女たち」で、アンナ・カヴァンについて書いています。

 

 

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『SFマガジン』2015年8月号

ハヤカワSF文庫総解説PART3[1001~2000]で、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『星ぼしの荒野から』の解説を担当しました。

 

 

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『SFマガジン』2015年6月号

ハヤカワSF文庫総解説PART2[501~1000]で、ソムトウ・スチャリトクルの『スターシップと俳句』、小川隆/山岸真・編の『80年代SF傑作選』(上下巻)の解説を担当しました。

 

 

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『SFマガジン』2015年4月号

2000番到達記念特集 ハヤカワSF文庫総解説PART1[1~500]で、ポール・アンダースン&ゴートン・R・ディクスンの〈ホーカ・シリーズ〉(『地球人のお荷物』『くたばれスネイクス!』『がんばれチャーリー』の解説を担当しました。

 

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〈トーキングヘッズ叢書№61〉「レトロ未来派~21世紀の歯車世代」

 2015年1月28日発売。一冊丸ごとスチームパンクの特集です。企画の一つ「エッジのきいたスチームパンク・ガイド」で映画レビューを五本担当しました。

 

 

インタビュー

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『SFマガジン』2015年10月号

 インタビューじゃなくて、長谷敏司氏と藤井太洋氏との鼎談ですが。伊藤計劃氏と『トリビュート』について。

 

2014年以前のエッセイ、インタビューなどはこちら

 

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『ローズマダー』に見るハーレクイン・ロマンス観

 前回の記事ではスティーヴン・キングの『ミザリー』におけるハーレクイン・ロマンス観を論じた。今回は同じくキングの『ローズ・マダー』(1995)。確認のため一応再読してますが、通読はしてないのでカテゴリー「思い出し鑑賞記」。ネタバレ注意。

 夫のDVを受け続けていたヒロイン、ロージーもまた、ハーレクイン・ロマンスを愛読していた。しかも例として挙げられているのは、ポール・シェルダンのミザリー・シリーズである(いわゆる「キング・ワールド」)。
 ただし彼女はこの趣味がDV夫に「露見」して、流産するまで殴られる羽目になる。夫はその理由を、この手の本は「屑」(トラッシュ)だからと述べる。
 以来、ロージーはハーレクイン・ロマンスには一切近づかず、10年後に家を出て逃げ込んだ先のシェルターで偶然遭遇してしまった時には、トラウマが呼び覚まされてしまう。

 ロージーの前にハーレクイン・ロマンス(奇しくも同じミザリー・シリーズ)を持ち出したのは、シェルターを運営するアンナという女性である。彼女はこのジャンルを「ボディス・リッパー」(ヒロインの衣服が引き裂かれるのがお約束の官能ロマンス。訳文では「ロマンス小説」となっていたが)と呼び、「屑」(トラッシュ)だと断じる。なぜなら、このような本の中の世界では、あらゆる物事にきちんと理由があり、あらゆる物事がきちんと説明されるからだ。
 現実の世界では、物事には理由がないことのほうが多い。それなのに多くの人が、あらゆる物事に理由があると考えたがり、アンナはそれが嫌いだ。
 しかしハーレクイン・ロマンスの世界では、あらゆる物事に理由があるのが真実であり、だから「心が安らぐ」。「ほんのつかのまとはいえ、神は正気で、本のなかでは自分が好きな人に災難が降りかかることはないと信じさせてくれる」だからだとアンナは言う。
 しかしそれゆえにこの手の本は「屑」であり、しかし「太ることはないからチョコレートよりましだし、出てくる男も現実の男よりまし(現実に女を煩わすことはないから)」なのである。だからアンナはこのジャンルをこっそり愛読し、「わたしの秘密の悪癖」と呼ぶ。

 実際、ハーレクイン・ロマンスに代表されるフォーミュラ(型に嵌まった)・ロマンスに対するアメリカでの一般的な評価は、「屑」(トラッシュ)である。肯定的な評価でさえ、文学的な価値は不問にし、日常的にストレスに晒されている女たちにとっての「慰め」の機能を持つ、というものだ。
 総合すると「カロリーゼロのジャンク(屑)フード」といったところだろう。ジャンクフードは短期的だがストレス解消の効能がある。カロリーゼロなら、長期的にはともかく短期的には何も悪いことはなさそうである。アンナが言うように、「チョコレートと違って太らない」。普通のジャンクフードだったら短期でも太るからな。

 後述するように、ロージーはこのアンナのハーレクイン・ロマンス論には特に感銘を受けないのだが、物語的にはこの「秘密の悪癖」をロージーに明かすことによって、アンナは聖女でも偽善者でもなく、高潔だが平凡な弱さや愚かしさも併せ持ったバランスの取れた人間として示される。そのための小道具というハーレクイン・ロマンスの扱いは、『ミザリー』に比べてだいぶよいように思われる。
 ただしこの場面が置かれているのは、まだ全体の4分の1のあたりだ。ロージーが新しい人生を始める一方で、DV夫は彼女の行方を追い、その過程で次々と殺人を犯していくのだが、終盤間近、その手はアンナにも及ぶ。
 殺害の場面はアンナ自身の視点で叙述されるのだが、殺人鬼に荒々しく抱き竦められたその時、彼女がつい連想するのはハーレクイン・ロマンスお約束の熱い抱擁であり、死の直前、彼女の脳裏を掠めるのは、ミザリー・シリーズのヒロインにならこんな理不尽でおぞましい災難が降りかかるはずがない、という思いだ。

 アンナが殺人鬼に遭遇する少し前から、彼女の視点で物語は進んでいくのだが、そこで彼女が実はハーレクイン・ロマンスの愛読という「秘密の悪癖」よりも、もっと深い「秘密」を抱いていると明かされる。それはシェルター運営の成功が、彼女の虚栄心を満たしているだけでなく、さらなる成功と称賛も望んでいる、ということである。
 まあ罪深いというほどではないが褒められた心持ちでないのは確かで、つまり彼女は自分で思わせたがっているよりもさらに愚かで卑小な人間だった、ということになる。

 このように、さらなる弱さや愚かしさ(ただし罪や汚点と呼ぶにはあまりにも軽い)が明かされることで、アンナをより身近に感じて直後の殺害場面の衝撃をより重く受け止めるか、それとも「バカ女ざまあ」と快哉を上げるか、それは読者次第だが(キングはどっちの効果も狙ってそうである)、ハーレクイン・ロマンスという小道具に注目すれば、殺害場面でわざわざアンナに思い起こさせることで、彼女の愚かしさをさらに強調している。

 そして改めてヒロインのロージーとハーレクイン・ロマンスとの関係に立ち戻ってみれば、彼女自身がこの手の小説をどう思っているかは、一切言及されない。この手の「屑」を読んでいたからと言って夫は彼女を流産するまで殴ったが、殴る口実があればなんでもよかったのだと彼女は思う。
 それはそのとおりなのだが、しかしロージーを追うDV夫の回想によれば、彼女はミステリ小説を愛読し続けていた。そんな「屑」を読むのをやめろ、と彼は言い聞かせ続けた――おそらく言葉だけでなく拳も使ったのであろうが、彼女が文字どおりの半死半生になり、その後は目にするだけでフラッシュバックを引き起こすほど「厳しく」言い聞かせはしなかった。つまりは読み続けることを許した(ただしなぜか、ロージー自身がミステリ好きを表明する記述はない。私の読み落としかもしれんが)。
 ハーレクイン・ロマンスは確かに口実に過ぎなかったが、もしその「口実」がミステリ小説だったら、巻頭に置かれたあの場面のインパクトも彼女の惨めさも、あれほど強烈ではなかったのは間違いない。

 そして上記の、アンナがハーレクイン・ロマンス論を語る場面、ロージーのフラッシュバックというかたちで流産の場面が生々しく再現されるが、彼女自身がアンナの御立派な評論をどう思ったかもまた、一切述べられない。
 アンナの御高説のうちロージーが賛同するのは、「現実においては、なんにでも理由があるわけではない」という部分だけである。しかもその際、彼女が思い浮かべるのは、「夫の暴力には理由などない」という、長年かけて文字どおり骨身に叩きこまれた真実だ。

 夫や恋人に虐待される多くの女性たちを、アンナは救ってきた。その過程で、「理由のない災難」を嫌と言うほど見聞きしてきただろう。妻や恋人を所有物と見做して取り返そうとする男たちに、脅迫や嫌がらせもされただろうし(命の危険まではなかったにせよ)、そこまでしても救えなかった女性もいるだろう。
 それは確かに逃げ出したくなるほどの大変な経験であるが、しかし結局のところ、虐待されているのはアンナ自身ではない。逃げることができなければ死ぬまで殴り続けられる人生に、ハーレクイン・ロマンスは「慰め」となり得るのか?
 この問いに対するキングの答えは明白である。アンナの説く、「慰めを与える」というハーレクイン・ロマンス有用説に、ロージーは完全に無反応であり、その代わりに夫の暴力を生々しく回想する。

 ロージーが流産させられたのは、結婚5年目の頃である。それまでは彼女も、ハーレクイン・ロマンスという「カロリーゼロのジャンクフード」に「慰め」を得ていたのだろう。仮に夫に「露見」することがなければ、そのまま読み続けていたはずである。苛酷な日々ももう少し耐えやすくなっていたかもしれない。
 その結果、彼女は逃げ出すことなく、自分が殺されるか夫が運よくぽっくり逝くかするまで耐え続けたかもしれない……とまでは言わないが、いわば重病人に「カロリーゼロのジャンクフード」を与え続けるようなものである。短期的な「慰め」にはなっても、「救い」には決してならない。
 生々しい暴力の回想を背景に、アンナの「慰め」理論は実に虚しく響く。アンナは、ロージーが必死に動揺を押し隠しているのを、ちょっと上の空になっているくらいにしか思わない。

 さて、ロージーの夫は、なぜ彼女の愛読書として三文ミステリ小説は許して、三文ロマンス小説は許さなかったのだろうか。
 一つには同じ三文小説でも、(少なくともアメリカでは)ミステリよりロマンスが「より屑」と見做されているからだが、それだけではない。以前の記事で述べたように、ロマンス(『パミラ』以降の)とは「女が必ず男に勝つ話」なのだ。
 欧米における「愛」(愛と恋の区別はない)とは男女間闘争でもあると同時に、キリスト教においても、もっと近現代的な道徳においても「絶対善」である。だから「ロマンス」(悲恋も含む「恋愛もの」全般ではなく、結婚がゴールにしてハッピーエンド)とは、「恋愛という名の男女間闘争で女が必ず勝つ話」であり、また「婚外交渉という悪行を繰り返す男を、愛という絶対善の戦士である女が必ず改心させる話」でもある。

 これは女から見た場合であり、男にとっては「恋愛という名の男女間闘争で男が必ず負ける話」であり、「婚外交渉し放題という特権を持つ男を、愛という絶対善を笠に着た女が必ず屈服させる話」である。
 もちろんそんなことを意識してハーレクイン・ロマンスを読んでいる女性読者は、いたとしてもごくわずかだろう。何しろこのジャンルでは、なんであれ「剝き出し」は忌避されるらしい。アンナが述べるように、登場人物たちに「理由のない災難」が降りかかることは決してない。露骨な暴力描写がないのと同様、露骨な性描写もない。セックスはひたすら情熱的だが具体性のない言葉で描写される。
 当然、男を屈服させ支配せんとする女の欲望も、露骨に描かれることはない。ヒロインの容姿や性格も、一部の例外を除き、地味で控えめだということになっている。

 しかし男たちは女たちのこの欲望に、自覚の有無にかかわらず気づいているのではないだろうか。欧米におけるハーレクイン・ロマンスへのバッシングの激しさは、「くだらないから」という理由だけでは説明がつかない。
 だから『ローズマダー』の巻頭、ロージーが流産するまで殴られた「きっかけ」は、他のどんなジャンルでもなくハーレクイン・ロマンスでなくてはならなかった。大量の血を流して倒れている彼女の傍らに、引き裂かれて散らばっているペーパーバックは、ハーレクイン・ロマンスでなくてはならなかった。女を屈服させ支配せんとする「男の欲望」の権化であるこのDV夫が、「女の欲望」の結晶であるハーレクイン・ロマンスを「許す」はずがないのだ。

 ところで、アンナがハーレクイン・ロマンス論を述べる気になったのは、ロージーに見せられた1枚の油絵をに触発されたためである。ローズマダー(赤紫色)のドレスを着た女の後ろ姿を描いているのだが、どこか煽情的であり、それがハーレクイン・ロマンスを連想させたというのだ。
 この絵が「異界」(文字どおりの)への入り口となり、物語はサイコサスペンスからダークファンタジーへと舵を切る。この転換には賛否両論あるが、キングは安易に幻想世界を持ち出してきたわけではない。絵の中の世界は暗くおどろおどろしく、狂気と恐怖に満ちている。

 この「絵の中の世界」とその女王、ローズマダーは、つまるところ「女の欲望」の象徴である。『ミザリー』についての記事で、アニーが耽溺するハーレクイン・ロマンスは、男を支配せんとする女の欲望の象徴だと述べた。
 女の欲望をソフトにソフトに糊塗したハーレクイン・ロマンスでは、女を屈服させ支配せんとする男の欲望には対抗しえない。思うにキングは、そんな男の欲望に対抗し得る「ロマンス小説」を書こうとしたのではなかろうか。だから男の欲望も女の欲望も、包み隠さず剝き出しに描いた。
 ただし「剝き出し」に描いたことで、ハーレクイン・ロマンス――とこの記事で通称してきたが、英語圏で言うところの「フォーミュラ(型に嵌まった)・ロマンス」の型からは完全に外れてしまっている。『ミザリー』では、ハーレクイン・ロマンス(フォーミュラ・ロマンス)という「屑」を文字どおり命懸けで書かざるを得なくなったポール・シェルダンは、それを傑作へと昇華するのだが、しかしやはりフォーミュラ・ロマンスの型からは大きくかけ離れてしまっている。

『ローズマダー』に話を戻すと、フォーミュラ・ロマンスという「定型」からは外れてしまってはいるものの、あくまでも「ロマンス」である以上、「男の欲望の権化」がDV夫という「現実世界の住人」であるのに対して、「女の欲望の権化」をロージー自身ではなくローズマダーという「異世界の住人」にした、つまりロージーから切り離して「外部化」したのは必然的な処置である。「女の欲望の権化」を「現実世界の住人」として設定したら、まんまアニーだからね。それはさすがにキングの手腕をもってしても、ロマンスにはならんでしょう(少なくとも大多数が認められるロマンスにはならない)。

 それとはまた別に、キングの意図は『ローズマダー』を「すべての女を救い得る寓話」にすることだったのではないか、と私は思うのである。そのために、「ロマンス」というジャンルを借りたのではないか。そもそも「女が必ず勝つ物語」としてのロマンスの元祖である『パミラ』からして、作者のサミュエル・リチャードソンは寓話として書いたのだ。
 まあこれについては後日、別の記事で。

 言わずもがなのことですが、私自身がハーレクイン・ロマンスに代表されるフォーミュラ・ロマンスをこのように見做しているのではなく、アメリカのフォーミュラ・ロマンス観を踏まえた上で『ローズマダー』を読むとこういう解釈できる、という話です。自分の意見を持てるほど、このジャンルは読んでないんで。

関連記事:「『ミザリー』に見るハーレクイン・ロマンス観」
     「男女間闘争としてのロマンス」

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『ミザリー』に見るハーレクイン・ロマンス観

 今、「シークもの」読んでます。
 ……つらいです。つくづく恋愛小説は性に合いません。読者レビューなどを参考に、このジャンルの「典型」だと判断した3冊を読むことにしたんですが、1冊読んでは気力をごっそり削られ、他ジャンル(主にSF)を何冊も読んで回復してから次の1冊に挑んでいます。
 というわけで、「シークもの」評はもう少し先になります。

 さて今回は、アメリカでは一般的にハーレクイン・ロマンスすなわち女性向け紋切り型量産ロマンスがどのように評価されているのか、翻訳小説を例に見ていきたいと思います。一応ネタバレ注意。

 まずはスティーヴン・キングの『ミザリー』(1987)。主人公のポール・シェルダンは、女性向け通俗ロマンス「ミザリー・シリーズ」の作者である。このシリーズはハーレクイン・ロマンス・レーベルから出ているとされてはいないものの、「女性向け紋切り型量産ロマンス」なのは明白で、ポールの口を借りてその「くだらなさ」を散々に腐される。彼が志向するのは、「文学的」な作品である。
 尾崎俊介氏によると、ロマンス作家はごく少数の例外を除いてほぼ全員が女性だそうなので、ポールはその数少ない例外の一人ということになる。

 ところでこれを読んだのは20年余り前、確かハードカバーではなく文庫だったが、口絵付きであった。白黒写真で、胸を肌蹴た逞しい男性と長い髪をなびかせた美女が抱き合っているという構図だが、男性は顔だけキング本人というコラージュである。
 巻末解説によると、これはポール・シェルダンのミザリー・シリーズ「最新作」『ミザリーの生還』の表紙、というキングのお遊びで、ハーレクイン・ロマンスの表紙のパロディなのだという。

 ……と鮮明に記憶しているのに、ググってもこの「『ミザリーの生還』の表紙」であるところの口絵は画像が見つからないどころか、存在の確認すらできない。んんん~?
 判明したのは、文藝春秋社刊のハードカバー版には、カバー下の本体表紙が『ミザリーの生還』の表紙となっているが、写真ではなくイラストで、カバーイラストを手掛けた藤田新策氏によるもののようだ。文庫版にはこのような仕掛けはないとのこと。

 英語サイトでオリジナル(原書)版と思しき画像も見つけたが、これも写真ではなくイラストだ。

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 まあ明らかに顔だけキングだし、構図も記憶にあるものと同じである。写真だと記憶違いしていたにしても、いったいどこで見たんだろうという疑問は残るが。

 とにかく、ここまでなら「お遊び」で済むんだが、問題は狂気のおばちゃんヒロイン、アニーがミザリー・シリーズの熱狂的ファンだということだ。
 つまり「ハーレクイン・ロマンスの愛読者」であることは、彼女の狂気を構成する小さからぬパーツなのである。
 以前の記事で述べたように、アニーは「男性を精神的に導く女性」像のホラー版である。彼女はポールを、「芸術の高み」へと導く。さらに、身体の自由を奪われた(当初は事故によって、後にはアニー自身によって)ポールを、献身的に世話し、かつ支配する。ロチェスターに対するジェイン・エアのように。

「男性を精神的に導いてくれる女性」への希求と、その裏面である「男性を躾けて軟弱にする女性」への恐怖・嫌悪は、換言すれば「完全なman(男/人間)になる手助けをwo-manにしてもらいたい」願望と「wo-manによってun-man(軟弱化、男らしさの喪失、去勢)される」恐怖であろう。
(ポールやロチェスターが負わされる身体欠損は、去勢の暗喩だと読める)

 このように『ミザリー』では、ハーレクイン・ロマンスは「女の欲望」を象徴する小道具である。ただし先日の記事で述べた、ハーレクイン・ロマンスのヒロインと読者の「関係性」の問題、つまりアニーがミザリーに「自己投影」(自分とキャラクターを同一化するという意味での)していたかどうかは、あいにく忘れてしまった。
 いや、図書館から借りるなりして確認すれば済む話なんですが、あれを再読するのはちょっと……あの閉塞感にもう一度耐えるのは無理です。「暗くて狭い」というシチュエーションは、物理的なのだけじゃなく精神的なのでも駄目なんだよ。以前、手放したのも、二度と読み返せないのが自分でわかってたからだよ……

 というわけで、次回は同じくキングの『ローズマダー』(1995)について。

関連記事:「本当は怖い『ジェイン・エア』

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少女漫画とハーレクイン

 先日の記事で、アメリカに比べて日本ではハーレクイン・ロマンスがそれほど叩かれない理由について、日本と欧米の恋愛観およびジェンダー観の違いを挙げた。
 欧米では(恋)愛を至上の道徳とする一方、恋愛を男女間闘争と見るので、「女が必ず勝つ(男が必ず負ける)物語」であるロマンスは女性に喜ばれる一方、男性には忌避される。また「男性を精神的に導く女性」と、その裏面である「男に道徳を押し付けて軟弱化させる女」というステレオタイプも古くからあり、ロマンスは女性の視点からは「女性が男性を精神的に導く」物語であるのに対し、男性の視点からは「女が男に道徳(=愛)を押し付けて軟弱化させる」物語なのである。
 日本ではこのような恋愛観およびジェンダー観が存在しない(一応あるにはあるが、根強くない)ため、ハーレクイン・ロマンスが(男性に)敵視されることがない。

 というのが主旨であったが、まあ仮にこれが正しかったとしても、「日本でハーレクインが(比較的)叩かれない」理由としては、潜在的なものでしかない。
 もっと顕著かつ重要な理由として挙げられるのは、少女漫画である。ハーレクイン・ロマンス(レーベル)が日本に上陸した1979年当時、すでに日本には少女漫画があった。

 少女漫画の典型的な定義に、「なんの取柄もなく努力もしない少女の許に、“白馬の王子様”が迎えに来てくれる」というものがある。で、この定義はそのまま「読者(女性)は“白馬の王子様”を待つだけの人生を送るようになる」という批判・バッシングに繋がる。

 今、この記事を書いてる手を止めて、「白馬の王子様」でググると、「(いい歳をして)白馬の王子様を待つだけの女性」を批判する記事が大量に出てくる。
 そういう記事には、「少女漫画に出てくるような白馬の王子様」としているものが少なくない。が、具体的な作品名を挙げて記事は見当たらなかった。
 幾つかの記事は「白馬の王子様のルーツ」に言及しているが、挙げられるのは「白雪姫」や「シンデレラ」などの童話、あるいはそのディズニーアニメである。
 しかし今時、10代20代、あるいは30代40代の女性で、生き方にまで影響を受けるほど「白雪姫」や「シンデレラ」の童話やディズニーアニメに耽溺していた人っているんだろうか。

 直接の「影響源」が挙げられないまま、「(いい歳をして)白馬の王子様を待つだけの女性」が批判され、それと同様に、「少女漫画とは、なんの取柄もなく努力もしない少女の許に、“白馬の王子様”(的なイケメン)が迎えに来てくれる作品」という定義(決めつけ)でも、具体的な作品名が挙げられることはまずない。

 このような少女漫画評がいつ出てきたのかも、ちょっとわからない。とりあえず70年代初めまでに、漫画全体の中でも少女漫画を低く見る風潮が出来上がっていたようだが、「どのように質が低いのか」ということすら論じられない、批判はおろかバッシングですらなく、ただただ軽んじられていたという状況らしい。
 1960年代以前に少女漫画と同じ位置を占めていた少女小説も、同じような扱いだったようである。
 70年代後半になると少女漫画の質の高さを賞賛する評論家が出てくるが、その対象となった「24年組」の作品はいずれも、「なんの取柄もなく努力もしない少女の許に、“白馬の王子様”が迎えに来てくれる」ものではまったくない。 

 私は1973年生まれで、中学に上がる80年代半ばまで家庭で漫画を禁止されていたが、図書館と年上のいとこたちのお蔭で、70年代~80年代前半の漫画はそれなりに読むことができた。後に復刊されたものもかなり読んでおり、それらに占める少女漫画の割合はかなり高い。80年代半ば以降はリアルタイムでも読んだから、90年代末くらいまでの少女漫画については、そこそこ知識があると言っていいかと思う。
 にもかかわらず、「なんの取柄もなく努力もしない少女の許に、“白馬の王子様”が迎えに来てくれる」という定義に該当する作品を読んだ憶えがない。

 恋愛ものに興味がないのは昔からで、それらしきものは避けてきたから、その中に「白馬の王子様もの」も含まれてたのかもしらんが、少女漫画全体における割合は、ごく低かったんじゃないか? 
 いや、それを言うなら恋愛もの自体の割合も、それほど高くなかったのではあるまいか。もちろん恋愛をまったく扱ってない少女漫画は少なかろうが、恋愛メインでない作品ならごまんとあるぞ。
 まあ何をもって「恋愛メイン」とするか、という問題もあるが。そもそも私はフィクションにおける恋愛を、「物語の駆動」や「キャラクターの掘り下げ」の手段としか見ていないんで、恋愛に起因するドラマやコメディは楽しむけど、恋愛そのものの顛末や恋情の描写には関心がない。
 だから恋愛要素のある物語(少女漫画に限らないし、ノンフィクションも含む)における「恋愛そのものの顛末や恋情の描写」は印象に残らないし、「恋愛そのものの顛末や恋情の描写」中心の作品は読むのがつらい。
 そういう私にも楽しめる、恋愛メインでない少女漫画作品が大量にあるというのに、遅くとも80年代から現在に至るまで、「少女漫画=恋愛漫画」という偏見が飽きもせず再生産され続けている。

 言うまでもなく、「女は恋愛のことしか考えてない」という偏見があるからで、それはつまり「女は恋愛以外のことは考えるな」という願望なんだが、にもかかわらず(あるいは、だからこそ)「少女漫画=恋愛漫画=程度が低い」と見下される。未だに「少女漫画の枠を越えた」「少女漫画らしくない」といった物言いが、褒め言葉として通用している有様だ。

 そしてそのような少女漫画に耽溺していた女性は「(いい歳をして)白馬の王子様を待つだけ」になる、という言説は、18世紀後半以降のヨーロッパにおける、「ロマンス小説を読み耽る女は、玉の輿に憧れて現実に不満を抱き、道を踏み外す」というバッシングとまったく変わるところがない。中には「白馬の王子様を待ち続けて行き遅れる」どころか、「白馬の王子様願望に付け込まれて騙される」だの「結婚後も現実に不満を抱き、家庭を崩壊させる」だのと飛躍する人までいる。
 近代ヨーロッパでも現代日本でも、「読者(女性)はヒロインに自己投影している」ことを、(根拠もなく)大前提としているところも共通している。

 このような「有害論」を持ち出すことすらしない、「少女漫画を読むから女は馬鹿」「女が読むから少女漫画は馬鹿げている」というトートロジーは、1970年代末以降のアメリカのジャーナリズムによるハーレクイン・ロマンス叩きをなぞるかのようだ。
 こちらもおそらくは、「ヒロインへの自己投影」を前提としており、同時に「自己投影」という読書の仕方も見下している。

「日本におけるハーレクイン・ロマンス」に話を戻す。
 ハーレクイン・ロマンスは、「ハンサムで大金持ちだが愛を軽視しているヒーロー(ヒロインの相手役)を、ヒロインが愛の力だけで屈服させる」物語である。しかし上記のとおり、日本においては愛を「道徳」とする価値観も、恋を「男女間闘争」とする価値観も希薄である。
 したがって日本の読者が、「愛という絶対善の戦士であるヒロインが、愛を知らないセックスという悪行を繰り返してきたヒーローを改心させる正義の戦い」という道徳的側面を意識することはほとんどないと思われる。
 典型的なハーレクイン・ロマンスのヒロインは、容姿、才能、社会的地位といったスペックは、低めに設定してあるという(ただし容姿については、絶世の美女ではないものの可愛い系という設定が多い)。私はまだハーレクイン・ロマンス(および類似レーベル)は1冊も読んでいないんだが、古典ロマンスやロマンス要素の強いSFやファンタジー(近年、パラノーマル・ロマンスの進出が著しい)でも、ヒロインの容姿や社会的地位についてはハーレクイン・ロマンスと共通するようである。

 ただしSF/ファンタジーのレーベルから邦訳が出るだけあって、ハーレクイン・ロマンスの規格からすると変則的な作品が多いように思われる。ヒロインとヒーローが結ばれなかったりするのもそうだが、ヒロインの設定についても、容姿や社会的地位はともかく、才能は突出している場合が少なくない。
 気の強いヒロインが多いのも、「変則」であろう。古典ロマンスでも強気なヒロインが多いが、ハーレクイン・ロマンスでは内気なヒロインが人気だそうだ。

「愛という絶対善の戦士であるヒロインによる勧善懲悪」という側面を無視してしまうと、ハーレクイン・ロマンスは「なんの取柄もないヒロインが、ひたすらヒーローを愛するという以外はなんの努力もせずに、ヒーローを射止めて玉の輿」という物語になる。
 しかしすでに「そういうもの」として誹りを受ける少女漫画というジャンルが存在しており、かつ小説は漫画より上位カーストに置かれているため、ハーレクイン・ロマンスはバッシング対象とされてこなかったのではないだろうか。
(もちろん現状のハーレクイン・ロマンス低評価も充分不当だと思いますし、まして今後、今以上に叩かれればいいなどとは思ってないですよ)

 もう一つ、日本でハーレクイン・ロマンスが(比較的)叩かれない顕在的理由として、過激な性描写がないことも挙げられるんじゃないかと。まあこれについて論じようと思ったら、日本および欧米の女性向けポルノの歴史にまで踏み込まなきゃならず、そこまで脱線(オリエンタリズムの考察から)する気はないんで、ただの憶測、印象論に留めておきます。
(オリエンタリズムからしてがポルノの歴史と密接に結びついてるんだが、文献がないんだよ~)

「男女間闘争としてのロマンス」
「フィクションと自己投影」

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フィクションと自己投影

 尾崎俊介氏の『ホールデンの肖像』によると、女性向け紋切り型量産ロマンス(以下、「ハーレクイン・ロマンス」と総称)は、「女性読者がヒロインに自己投影する」ことを前提に「製造」されているという。
 言い換えれば、ハーレクイン・ロマンスの読者は「ヒロインに自己投影する女性」だと見做されている、ということだ。

 ここで言う「自己投影」とは、心理学用語としての、否認したい自己の資質(欠点)を他人に投影するという意味での「自己投影」(自分の心の弱さを認められないので、他人の心の弱さを非難するなど)ではなく、キャラクターと自己を同一視し願望を充足させている、といった程度の意味だろう。
 以下、「自己投影」の語はこの意味で使う。
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 ところで、私は「物語」のキャラクターに自己投影することがない。幼少期から冒険ものとかバトルもの(絵本や童話にそんなものはなかったが、TV番組とか)を専ら好んでいたが、非常にものぐさだったので、自分で冒険したり闘ったりしたいとは思わなかった。
 仲のよい近所の女の子もヒーロー番組が好きだったので、ままごととかよりもガッチャマンごっことかウルトラマンごっこをすることが多かったが、しんどいしめんどくさいしで、あまり楽しくはなかった。しんどくならないだけの体力が欲しい、とは思わず、体力があろうがなかろうが、とにかく動き回らねばならないのがめんどくさかった。
(それらのヒーローたちの人形でも持っていればそれで遊んだであろうが、生憎40年も昔のこととて、私も彼女も「男の子のおもちゃ」は買ってもらえなかった。)
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 そういう体験が関係しているのかは不明だが、その後の人生でもフィクションに自己投影はしないというか、できない。
 では感情移入はどうかというと、これも定義が曖昧な語だが、とりあえず悲しい場面を観たり読んだりすれば悲しくなるといったように、ミラーニューロンは活動する(出来の悪い作品でなければ)。 
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 ロマンスのような恋愛メインの作品が昔から苦手だったが、その理由は考えたことがなかった。ロマンスの読者は自己投影するものだ、という大前提を挙げられて、なるほど私は自己投影をしない(できない)からロマンスが苦手なのだな、と納得する……より先に、まず抱いたのが、
「ロマンスの読者人口は日米ともに相当高いが、その人たちが全員、ヒロインに自己投影するものなんだろうか」
 という疑問であった。
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 これは何も、私が自己投影しない/できないから、というだけではない。
『ホールデンの肖像』を読むよりも先に、ハーレクイン・ロマンスを中心にレビューしている読書ブログなどを幾つか回ってみていたのだが、多くのレビューが感情移入(共感)できるか否かを作品の出来の良し悪しの判定基準としている一方で、その読者が自己投影していると明確に読み取れるレビューは見当たらなかったのだ。
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 で、続けて『ロマンスの王様 ハーレクインの世界』というムック本を読んだ(『ホールデンの肖像』の一部は、これに掲載されている)。
 この時はあくまで「シークもの」について知ることが目的だったから、大部分の記事は流し読みで済ませたのだが、巻頭のハーレクイン・ロマンス(レーベルおよびジャンル)の解説からして「ハーレクイン・ロマンスは読者がヒロインに自己投影する」ことが大前提であった。
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 そうした中、特異だったのが、杉浦由美子氏の「「恋バナ」をするように読む」である。全3頁中、4分の3くらいは「読者はヒロインに自己投影する」観点で論じているが、残り4分の1まで来たところで
「読者もそうそう簡単に異国のヒロインに自己投影できない。もっと客観的に読んでいるのではないか」
 と異議を呈する。そして
「私はハーレクイン作品を読んでいると、まるで女友達の「恋バナ」を聞いているような気分になってくる。もちろん「恋バナ」には時々、さまざまな願望が混ざった「妄想」が入ってくるものだ。そしてそんな話を聞いていると、ついついそれに対してあれこれと意見を言いたくなる。」
 と続け、
「そんな会話(恋バナ)は現実の自分の恋愛には少しも役に立たない。でもそれでいいのだ。なぜなら「恋バナ」は時に現実の恋愛自体よりもよっぽど楽しいのだから。女性にとって「恋バナ」はメジャーな一大娯楽だ。リアルの恋愛以外を題材にして「恋バナ」をしてもいいのではないか。優れた「恋バナ」の題材としてもハーレクインは求め続けられるだろう。」
 と締めくくる。
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 フィクションに自己投影しない/できないという自身の経験からも、ハーレクイン・ロマンスの読者レビューからも、杉浦由美子氏の見解は「ハーレクイン・ロマンスの読者はヒロインに(全員が必ず)自己投影するもの」という大前提(決めつけ)よりも、はるかに腑に落ちるものであった。
 なるほど、私がハーレクイン・ロマンスに限らず恋愛もの全般に興味が持てないのは、「知らない人の恋バナ」に興味がないからなのか。
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 友人知人の恋バナなら、その人についてより深く知ることができるので興味深い。とはいえ、当人が話したくない事柄を無理に聞き出す気はなく、当人以外から聞く気もない。
 したがって知らない人の恋バナには、まったく興味が湧かない。私にとって恋愛ものとは、初対面の全然知らない人、もう二度と会うこともない人から、一方的に恋バナをされているようなものなのである。
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 しかしそうなると、じゃあ再三再四繰り返される、あの大前提(決めつけ)はなんなん? という話になる。
 ハーレクイン・ロマンス(レーベル)は日米ともに入念な市場調査を行っているそうだが、「読者はヒロインに自己投影するもの」という大前提でいいのか? 仮に、文化あるいは価値観の違いによりアメリカの読者は(ほぼ)全員が自己投影するとしても、日本では明らかにそうじゃないんだが?
 まあそんなことは、ハーレクイン・ロマンスの読者でもない私が気にしてもしょうがないことである。たとえリサーチが間違っているとしても売れているのだから、読者の求めているものと偶々一致しているのであろう。
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 それより気になるのは、ハーレクイン・ロマンスを嘲笑する巷の言説までもが、「ハーレクイン・ロマンスの読者はヒロインに(全員が必ず)自己投影するもの」と決めつけていることである。「自己投影している」と断じていないとしても、この大前提の下でなければ成り立たないものばかりだ。
 つまり、「自己投影なんかしていない」の一言で否定できるものばかりなのである。
 これは日本に限った話ではなく、前回の記事で紹介した、アメリカで1970年代末に始まったハーレクイン・ロマンス叩きおよび批判にも言えることである。尾崎俊介氏はバッシング(批判とは呼べない嘲笑や中傷)については、「低俗」とされた、としか言及していないが、私が見つけた事例では、明らかに「自己投影」を前提としている(後日紹介)。
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 フェミニズムからの批判は、「男性優位の構造を容認している」という主旨なので、自己投影ではなく、恋バナを聞くように「客観的」に読んでいる場合にも一応は当てはまる。しかしこれに対するハーレクイン・ロマンス擁護論は、「女性の社会的・経済的成功は現実では困難なので、その願望を充足させてくれるもの」とする。やはり自己投影が前提だ。
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 ところで尾崎氏の論文「後ろめたい読書――女性向けロマンス小説をめぐる「負の連鎖」」(オンライン閲覧可)によると、ハーレクイン・ロマンスへのフェミニズムの立場からでない批判(主に男性による)は、1970年代末に突然始まったものではない。
 もちろんハーレクイン・ロマンスすなわち「女性向け紋切り型量産ロマンス」が米国に登場したのは1963年、大ブームとなったのは70年代に入ってからであり、上記のアンチ・ハーレクイン言説はその反動である。

 しかし『パミラ』以来、「ロマンスの3条件」(前回の記事参照)を満たす「紋切り型ロマンス」(まだ「量産」ではない)は、連綿と女性読者に支持されてきた。「後ろめたい読書」によれば、「紋切り型ロマンス」の発展は、読書する女性の増加と軌を一にしている。
 そして『パミラ』刊行からほどない1770・80年代頃から、「小説を読む女」へのバッシングが盛んになる。小説とは具体的にはロマンス小説のことで、「若い御婦人は小説に影響を受けやすいので、ロマンス小説のような劇的な恋と玉の輿結婚に憧れ、現実に不満を抱くようになる」というのである。
 英国に限らずこれ以後、西洋諸国では「(ロマンス)小説の読み過ぎで堕落する女」というステレオタイプが形成され、定着する。

 確かにフローベールの『ボヴァリー夫人』(1857)は、そのものずばりの内容で、「ボヴァリズム」という用語を生んだ。また19世紀のロシア文学でも、「フランスの恋愛小説を読み過ぎたお嬢さん」というステレオタイプが時々登場する。
 大方は「ロマンチックな空想に浸りがちな、やや~かなり頭がゆるふわなお嬢さん」という揶揄や苦笑のニュアンスだったように思うが、『戦争と平和』のピョートルの「堕落」した妻エレナや、男に騙されて「堕落」しかけるナターシャ(後にピョートルに「救済」される)は、「フランスの恋愛小説」を読んでたっけ、どうだったかな。あの作品では、「フランス文化」それ自体が「ロシア文化を損なうもの」という扱いだったのは確かだが。

 それにしても実際のところ、ロマンス小説を愛読する女性のうち何割が、「ロマンス小説のヒロインのような人生に憧れ、現実に不満を抱」いたのであろうか。一時的にならともかく、何年も何十年も不満を燻らせ続けた女性は、そんなに多かったのだろうか。まして、エマ・ボヴァリーのように自身も周囲も不幸にした挙句に破滅するような女性が、現実にいたとしてもその割合は。
 まあフローベールは「ボヴァリー夫人は私だ」という言葉からも窺えるように、「理想と現実のギャップに悩む己自身」を彼女に投影したのであって、「ロマンス小説に耽溺する女性」を攻撃するのが目的だったわけではないのだが。
 しかしフローベールの意図がなんだったにせよ、エマ・ボヴァリーはまさに「(ロマンス)小説の読み過ぎで堕落する女」というステレオタイプそのものであり、そこには、ロマンス小説の愛読者の実像とは一切関わりなく、「女は馬鹿だから馬鹿げたロマンス小説なんかに夢中になり、馬鹿だからそれに影響されて堅実な人生に不満を抱き、堕落する」という偏見がある。 
 では、なぜロマンス小説が馬鹿げているかと言えば、「女が夢中になるもの」だから、であり、同語反復である。

 一方、文化果つる国アメリカではどうだったかというと、『パミラ』以来のロマンス小説は、前述の3条件の1つ、「ヒロインの固い貞操観がヒーロー(ヒロインのお相手)を改心させる」が強調され、若い女性に相応しい「道徳的な読み物」として大いに推奨されたという。
 しかも、1740年の『パミラ』の時点で、すでに「市民的道徳」の一部でしかなかった「信仰心」が、アメリカでは道徳の上に置かれ、20世紀に入ってもなおその状況だったのである。
 また、ヒロインとヒーローが結ばれるハッピーエンドではなく、「悪漢によってヒロインが誘惑され、堕落し、最終的に惨めな死を遂げる」という「誘惑小説」ですら、若い女性のための「道徳的な読み物」として喧伝されたという。
 なぜそんなことがあり得たかというと、これらの誘惑小説は完全なフィクションだったにもかかわらず、「実話」と銘打たれ、若い女性の「反面教師」だということにされていたからである(さすがに19世紀半ばには人気が廃れたそうだが)。

 実にアメリカらしい、プリミティヴな文化受容の仕方だな。
 そして上述したように、1970年代末になってようやく(ヨーロッパから200年遅れて)バッシングが始まるのである。

「自己投影している」という批判・バッシングは、「自己投影していない」の一言で否定できる、と上で述べた。しかし尾崎氏の論考に限らず文学史の類でも、ロマンス(ハーレクイン・ロマンスでも古典ロマンスでも)を登場させている(海外の)フィクションでも、「自己投影を否定するロマンス読者」に出会った覚えがない。
 では欧米のロマンス読者は、全員必ず自己投影するのか。
 そんなことはないと思うんだが、邦文文献が少なすぎ、かつこの記事で使っている意味での「自己投影」を英語でどう表現するのかすらわからない私には英文文献をチェックできないので憶測でしかない。が、たとえ否定したとしても聞く耳持たれないのではあるまいか。

 だって日本に限らず、フィクションへの「読者/視聴者/ユーザーは虚構と現実の区別がつかない」という批判・バッシングは、「読者/視聴者/ユーザーはキャラクターに自己投影している」とほとんど同義だからな。当の読者/視聴者/ユーザーたちが、「虚構と現実の区別はついている」と言っても、「自己投影していない」と言っても、まったく聞く耳持たれない。

 仮に虚構と現実の区別がつかなくて、問題を起こす人がいたとしよう(明白な犯罪に限らず、生き方や対人関係に支障を来すなど)。それは彼らがフィクションのキャラクターに自己投影した結果であるかもしれない。
 しかしフィクションのキャラクターに自己投影する人すべてが、虚構と現実の区別をつけられなくなるわけではあるまい。私はキャラクターに自己投影しない/できないので、推測でしかないが。自己投影したって、虚構と現実の区別がついていれば、なんの問題もないんじゃないの?

 要するに、特定の作品もしくはジャンルを叩く人々は、実際にそのファンがどのように作品を受容しているのかは眼中にない。その作品/ジャンルとファンを叩きたいから、「虚構と現実の区別がついていない」「自己投影している」ということにしたいのだ。
 フィクションを叩きたい輩にとって現実はどうでもいい、というのはすでに散々言い尽くされてきたことであり、にもかかわらずなんの効果も上げていないのだが、今日的な意味でのフィクションが成立して間もない18世紀後半以来の強固な「伝統」だもんな。効果がないのも当然なのかもしれないな。

 ところで「現実と虚構の区別がつかない結果、現実において問題を起こすから」という理由づけすらせず、自己投影という行為そのものを嘲笑する向きもあり、それを受けてか昨今では、同じ作品/ジャンルのファンの中でも、「自己投影しない派」が「する派」を叩くということが起きているようである。いや、昨今生じたのではなく、顕在化しただけかもしらんけど。

「男女間闘争としてのロマンス」

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男女間闘争としてのロマンス

 尾崎俊介氏の論文「後ろめたい読書――女性向けロマンス小説をめぐる「負の連鎖」について」(オンライン閲覧可)には、米国の「女性向けロマンス」(「通俗的で紋切り型」とされる恋愛小説。以下、代表的レーベルの名から「ハーレクイン・ロマンス」と総称する)の愛読者を対象として1980年に行われた、とある調査が紹介されている。
 それによると、調査対象者50人は全員女性で、大半が既婚者で子持ち。毎日夫と子供の世話をしなくてはならないし、人によっては外で働かなければならない。唯一の息抜きが、ハーレクイン・ロマンスを読むことなのだという。
 しかしこの「息抜き」は、同時に「後ろめたさ」で彼女たちを苦しめることになる。読んでいる間は家事や仕事を放棄することになるし、本を買うのにお金も使う。しかも彼女たちが愛するハーレクイン・ロマンスは、世間から「低俗な読み物」と見下されている。それらすべてが、「後ろめたい」というのだ。

 いや、息抜きというからには毎日何時間も読みふけるわけじゃなし、そのペースでは月に何冊も買えないだろう。しかもペーパーバックである。
 その程度の「贅沢」を後ろめたく思わざるを得ないって、どんだけ人権抑圧社会だよ。
 アメリカという国は、いろいろと差別がひどいが、それに対する抵抗運動も激しい(しばしば命懸けで行われる)ように思うんだが、このイメージがまったくの的外れというのでなければ、ハーレクイン・ロマンスの愛読者たちの状況は明らかに異常である。

 彼女たちの「息抜き」が同程度の金と時間を使う別の趣味だったら(別ジャンルの小説とか)、周囲からとやかく言われることは少なかっただろうし、何より彼女たちが後ろめたく思うことはなかったはずである。
 たとえば極端な話、ソフトポルノと揶揄されるハーレクイン・ロマンスではなく、がっつりハードポルノ小説だったとしても、バッシングはさらに強くなるかもしれないが、そういう「息抜き」を選ぶような女性は、「女がポルノを消費して何が悪い」と同じくらい激しく抵抗するだろう(アメリカという国へのイメージ)。

 調査が行われたのは1980年であり、今はそんなことはないと思いたい。しかし「後ろめたい読書」は、「ハーレクイン・ロマンスは読みたいけど、恥ずかしいから買えない」女性が大勢いることが明らかになった2000年代初頭の事例を挙げているし、ググったところ案の定と言うべきか、ハーレクイン・ロマンス(および類似レーベル)の電子書籍版が売り上げを伸ばしているそうだ。
 ハーレクイン・ロマンスを読むのは、それほどまでに「後ろめたい」行為なのだ。

 1963年にアメリカに登場したハーレクイン・ロマンスは、70年代に入って一大ブームを巻き起こす。これを受けて70年代末頃から、ジャーナリズムが「低俗な量産品とそれを読み漁る大勢の低俗な女たち」について、おもしろおかしく書き立てるようになる。
 こうした批判ですらない嘲笑や中傷に対し、女性の側からハーレクイン・ロマンス擁護論も出されたが、それらにしたところで、「低俗だけど、女性の息抜きになるからいいじゃない」というものであった。
 ジャーナリズムによる(男性が中心と思われる)バッシングの具体例は挙げられていないが、米国におけるハーレクイン・ロマンスの一般的評価は、翻訳小説を読んでいれば時々遭遇するものである(後日、事例を紹介する予定)。

 なぜハーレクイン・ロマンスは、アメリカ(ヨーロッパでも似たような状況らしい)でここまで叩かれるのか。
 この疑問はそのまま、「ではなぜ日本ではそこまで叩かれないのか」という疑問に繋がる。

 先日の記事で述べたように、オリエンンタリズム小説である「シークもの」について調べようとしたところ、このサブジャンルのみならずハーレクイン・ロマンスそのものの研究(邦文文献)がほとんど存在しないことを「発見」したのであった。
「日本におけるハーレクイン・ロマンス」に限定すれば、研究は皆無ではなかろうか(尾崎俊介氏の研究対象は、米国および西洋のハーレクイン・ロマンスである)。批評についても、せいぜいが「紹介」といったところだ。
 面倒なので出版点数の確認はしないが、ハーレクイン・ロマンスおよび類似レーベルから出版される小説、およびそのコミカライズ作品は、この出版不況においてすら相当な割合を占めているはずである。にもかかわらず、だ。

 まあアメリカでも、バッシング(低レベルな嘲笑や中傷)でない、研究や批評と呼べるものであっても、「低俗」であることを否定するものはほとんど無いようだ。
 それに比べれば、正面きって研究や批評の対象にされない代わりにバッシングも軽い(それでも読者にとっては充分すぎるほど不快であろうが)日本の状況は、遥かにマシである。

 アメリカでは70年代末のジャーナリズムによるバッシングに続き、80年代にはフェミニズムよるハーレクイン・ロマンス批判が始まった。要約すると、「経済力も社会的地位も高く傲慢なヒーロー(この場合はヒロインの相手役という意味)に、か弱いヒロインが虐げられ続けた挙句、従順な妻として屈服する」物語を喜んで読むような女は男の性的願望を助長させている、というのである。
 日米のフェミニズムの違いについては解らないので、日本でフェミニズムの立場から目立ったハーレクイン・ロマンス批判が見受けられない理由も解らないが、アメリカの場合は、その時期からも窺えるように、ジャーナリズムによるバッシング(「低俗な読み物に耽溺する低俗な女たち」)へのリアクションという側面もあるのではなかろうか。「女が全員そうだと思うな」的な。実際、そのうち沈静化したし。
 このフェミニズムからの批判に対し、やはり女性批評家によるハーレクイン・ロマンス擁護論も出された。ハーレクイン・ロマンスは「金も権力もあるヒーローを、ヒロインが愛の力で飼い慣らす」物語である、というのだ。

 ロマンスを男女間の権力闘争と見做すこうした批評は、結局のところ水掛け論にしかならないので、90年代には下火になったそうである。
 しかし近代小説の元祖にしてすべてのロマンスの元祖である『パミラ』(1740年)からしてすでに、男女間の権力闘争でヒロインが勝利する物語であり、作者のサミュエル・リチャードソンもそれを自覚していた。本編の前に、「編者リチャードソン」の「親友」を名乗る匿名の人物による『パミラ』への賛辞が置かれているのだが(もちろんリチャードソンによる創作)、その中に次のような一文がある。

 そうしてついには、この類まれなる忍耐と、勇敢にして俯仰不屈の守りによって、すっかり包囲されていた彼女が、包囲していた彼に対して輝かしい勝利を収めるのみならず、今度は彼をすっかり包囲してしまうということになるのです。

 この「勝利」とは、尾崎氏が挙げる、「ロマンスの元祖としての『パミラ』の3つの要点」のうちの②に当たる。

 ① ストーリーがすべてヒロインの一人称で語られる。
 ② ヒロインが固い貞操観によってヒーローを改心させる。
 ③ ヒロインはヒーローと結婚し、それによって身分が上昇する(玉の輿)。

 貞操は、キリスト教倫理の一部である。西洋においては道徳全般はもとより礼儀作法ですら「信仰」の要素であったが、『パミラ』の時代には、あまりに宗教色を前面に押し出し過ぎるのは敬遠されるようになり、「信仰」は「道徳」の一部となった。
 やがて「道徳」も敬遠されがちになり(すでに『パミラ』の道徳ですら、「偽善的で押しつけがましい」と反発を買っていた)、ロマンスのヒロインが行使するのは「愛の力」となったのである。

「愛」こそは欧米社会における絶対善にして最終兵器である。愛は元来、キリスト教的善である。キリスト教は重視しないが道徳は重視する者にとっても、愛は至高の道徳であり、キリスト教も道徳も敬遠する向きにとってすら、愛は最高の善である。

 では、パミラと彼女に続くロマンスのヒロインたちは善なる力でもって、具体的にはどのようにヒーローを「改心」させたのか。
 端的に言うと、ヒロインと結婚し、かつ死ぬまで彼女だけを愛し続けるようにさせたのである。

 キリスト教倫理においては婚外交渉は重罪だったから、結婚は「救済」であった(もちろん互いに不倫をしなければの話)。「愛ある結婚」が推奨されたのは、愛が絶対善であるというだけでなく、夫婦が互いに愛し合っていれば不倫もないはず、という理屈だからであろう。
 しかし近代に至るまで(というか近代に至ってもなお)結婚とは家同士の結びつきであり、しかも同じくらい永らく身分違いの結婚はほぼ不可能であった。
 独身の男女同士であっても、結婚を「恋愛の成就」とするのは難しく、プラトニックを貫かない限り「罪人」とならざるを得なかったのである。
 だが実態としては、女にとって婚外交渉は社会的な死を招きかねず(古い時代には実際に殺されかねなかった)、それが強い抑止力となったのに対し、男の場合は非難も実質的な制裁も、女のそれより重いことは稀だった。聖職者や信心家の説教など、馬耳東風である。

 パミラの「勝利」とはすなわち、「御主人様」に婚外交渉し放題の「権利」を放棄させ、「愛」によって彼女に一生縛りつけることに成功したという「勝利」である。
 パミラの勝利はまた「市民階級の勝利」でもある。市民階級の台頭によって、身分違いの結婚のハードルは低くなり、また結婚は個人同士のもの、という価値観も広まりつつあった。結婚を「恋愛の成就」とする可能性が広がったのである(『パミラ』は実話を基にしているのだそうである)。上流階級の男たちにとっては、下層階級の女に手を付けても、身分違いを理由に結婚を逃れられる可能性が減ったわけだ。
 しかも貴賤結婚で不利益を被るのは「貴」の側であり、御主人様にそこまでさせた、という意味でもパミラの勝ちなのである。

  また『パミラ』の時代より半世紀ほど下った18世紀末頃から、女には性欲がないという学説が次第に優勢になる。女は男を結婚によって「救済」する「家庭の天使」となったのである。

 ところで、西洋における愛は古来、キリスト教における絶対善であるだけでなく、「闘争」でもあった。この場合の愛とは、恋愛である(ヨーロッパ諸語に愛と恋の区別はないんだが)。以下、異性愛に限定して述べる。
 恋愛を闘争と見做す価値観が、いつ、なぜ、西洋に根付いたのかは不勉強で知らないのだが、闘争と性交を互換性のあるメタファーとするのは古来多くの文化に共通しているし、いわゆるプラトニックラブという概念は文化の洗練があって初めて成立するものであり、そうでなければ恋愛とはすなわち性愛である。
 肉欲が罪とされた西洋では、プラトン哲学としてのプラトニックラブが導入されるルネサンス期よりも早く、中世末期に貴婦人崇拝が流行し、以後も「理想的な愛」として称揚され続けたが、理想はあくまで理想であって、実態としては恋愛=性愛だった。

 上述のように、近代以前には結婚を「恋愛の成就」とするのが困難であり、高尚なプラトニックは理念上のものに過ぎないとなれば、即物的に性交渉の成立をもって「恋愛の成就」となる。
 ここに性交と闘争を同一視する価値観が加われば、「恋の勝者」は常に男ということになる。1回ヤりさえすれば、「勝者」は「敗者」を好きなように扱える「権利」を得たことになる。もちろん現実の戦争がそうであるように、「敗者」を手酷く扱うのは人倫に悖るが、「勝者」は人倫を無視することもできるのだ。

 このような恋愛観があるから、ドン・ファンのように次々女をヤリ捨てるだけの行為を、なんの疑問もなく「恋」と呼ぶし、女に膝を屈して散々愛を乞うていた男が、ヤった後は掌を返して冷たくする、という筋立てが、特にフランス文学では飽きもせずに繰り返される。
 つまりロマンスにおける結婚という結末は、

 ① ヒロインにとっては玉の輿(社会的・経済的な身分の上昇)という勝利だが、ヒーローにとっては身分違いの結婚によるさまざまな不利益(現代でもそれなりにある)を受けることになる「社会的な敗北」である。
 ② ヒロインにとっては愛という絶対善(元来はキリスト教倫理)によって、ヒーローに婚外交渉し放題という「悪」から足を表わせたという勝利だが、ヒーローにとっては「権利」喪失という敗北である。
 ③ ②のような倫理的な意味での「愛」による「敗北」のみならず、「闘争としての恋愛」においても、残る生涯を1人の女に縛り付けられるということは、その女への「敗北」を意味する。

 ②は、以前の記事で述べた「女性による男性の教化」であるが、婚外交渉し放題という「権利」に固執する男性にとっては、「善を振りかざす女による精神的去勢」にほかならない。
 日本でも「尻に敷く」という表現があるように、パートナーの女性に頭が上がらない男性を嘲笑するのは昔からだが、欧米と違って「女に飼い慣らされる」ことへの恐怖はそれほど根強くない。

 同様に恋を男女間の闘争とする見方も、日本にも一応あるにはあるが(「惚れた弱み」「惚れたが負け」等)、「勝ち負け」にこだわりすぎる向きは敬遠されるだろう。いや、身をもって痛感させられたからね。

 2000年代初頭のことだが、私はある非SF系小説新人賞への応募用に、恋愛を主題とした長篇を執筆した。応募に先立って数人の友人(互いに知り合いではない)に読んでもらったところ、彼らは異口同音に「主人公の性格がひどすぎる」とドン引きした。
 この主人公というのが、「惚れたが負け」の価値観を持つ15歳の少年で、私が表現したかったのは幼稚さゆえの冷酷さだったから、友人たちの反応は「大成功」であった。
 ……が、賞の選考委員をもドン引きさせて、「あまりにも殺伐としていて、この賞にはふさわしくない」という理由で3次選考通過止まりだったのだから、完全に本末転倒である。
 しかも読んでくれた友人たちからはその後、申し合わせたかのように(繰り返すが、彼らは互いに知り合いではない)距離を置かれ、最終的に縁が切れてしまったのだが、原因の少なくとも一部は、私自身が件の主人公と同じ価値観の持ち主だと思われたことであるらしい。もう散々ですよ。
 ことほど左様に、恋愛を勝ち負けだけで判断する見方は、日本人には馴染みがなく受け入れがたいものである。

 しかし恋愛を「男女間の闘争」と見るのなら、「(女性向け)ロマンス」とは「必ず女性が勝つ(必ず男が負ける)物語」である。
 その観点からすれば、たとえば『ジェイン・エア』(1847)は「男を支配せんとする女の底なしの欲望」の物語として読める。
 ただし前回の記事で述べたように、『ジェイン・エア』は「典型的なロマンス」とは言い難い。
 典型的なロマンスでは、そのヒロインも女性読者も、そのようなおどろおどろしい欲望をあられもなく抱いたりはしない。当時、ジェインの「反抗心」は男性からだけでなく女性からも批判されたという。

 ところで私は未だにハーレクイン・ロマンスもしくは類似レーベルの作品を一冊も読んでいないのだが、オリエンンタリズム小説分析のために「シークもの」を読まなくてはならないのなら、「典型的」な作品であればあるほど読む冊数を少なく済ませられる、ハーレクイン・ロマンスが好まれる理由の一つが「類型的」であることなら、人気のある作品ほど類型的すなわち典型的であるに違いない、という発想から、レビューサイトをあれこれ訪ねてみたところ、どうやら「気の強いヒロイン」は不評であるらしいことを「発見」した。
 これは何も日本特有の傾向ではない。本場アメリカでも人気なのは、か弱く内気で健気、清楚可憐なヒロインなのだそうだ。
 対するヒーローは傲岸不遜なので、その横暴にヒロインはひたすら涙を呑んで耐え忍ぶ。「踏みつけにされるヒロイン」ということで、「ドアマット・ヒロイン」と揶揄されている。

 一方、ジェイン・エアに限らず、古典ロマンスのヒロインは、私が知る限りでは総じて気が強い。パミラからして道徳を振りかざして御主人様に抵抗し(それが「押しつけがましい」と読者の不評も買っている)、『高慢と偏見』(1813)のエリザベスもダーシーに激しく反発する。
 まあヒロインの身分が特に低い場合は、いくら貞操観が強くても、気が弱かったら押し切られた挙句に罪悪感に押し潰される『テス』(トマス・ハーディ 1891)になっちゃうからね。

『あしながおじさん』(ジーン・ウェブスター 1912)も、ひねった構成ではあるが典型的なロマンスで、「あしながおじさん」は親切なだけじゃなくてジュディの行動をコントロールしようと干渉するが、彼女はそれに正論で抵抗する。また、出してもらったお金は何年がかりでも全額返済する気でいるので、おじさんが余分なお小遣いをくれたりしても断っている。
 すでに読んだ「シークもの」の元祖『シーク――灼熱の恋』(エディス・ハル 1919年)のダイアナも気が強いが、そもそも当時は気の弱い白人女性が砂漠の一人旅などしたりしない(現地人の同行者が何人いようと数には入れない)。

 ロマンスにおけるヒロインの性格の変化は、「身分の壁を乗り越える」ことがかつてより容易になったのが最大の要因であろうが、ハーレクイン社はリサーチを入念に行って、読者の好みを「製品」に反映しているそうなので、「気の強いヒロインは苦手」という傾向は元からあったのだがリサーチをするまで明らかではなかった、ということなのかもしれない。
 なぜ「気の強いヒロインが苦手」なのかは、読者の感情移入とか共感が絡んでくるのだが、それについては後日述べる(つもり)。
 作劇上の都合としては、ヒロインがヒーローを道徳や正論を振りかざして言い負かしたり、激しく罵ったりは一切せずに、ひたすら耐えて耐えて耐え忍んだほうが、ヒーローがついに膝を屈して愛を乞うた時のカタルシスは確実に大きい。
 また、愛を至高とするイデオロギーにおいては、ヒロインがヒーローに勝利するのは、あくまでも愛によってでなければならないのである。

 でも結局のところ、向こうの男性にとっては、ヒロインがどんな性格だろうと関係なく、「女が男を打ち負かす」物語がとにかく許せないんだろう。そもそも読んだ上で叩いてるのかも怪しいし。

 近作の「シークもの」を2冊ばかり読んだら、私がハーレクイン・ロマンスを読むことは二度となく、SFやファンタジーのレーベルに潜んでいるロマンス要素の強い作品を注意深く避けていくことになるだろう(いろいろ調べたことが役立てばいいな)。
 まして海外のハーレクイン・ロマンス事情など、いっそう関わりのないことである。ただ、「趣味を見下され、否定される」境遇というのは、どうにも他人事じゃなくてな。

 というわけで、次回はフィクションと自己投影について。

 まあどんな事情があろうと、自分で自分の趣味を肯定できない人には、じゃあその趣味やめれば、としか言えないんだが。

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本当は怖い『ジェイン・エア』

 

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本当は怖い『ジェイン・エア』

 ネタバレ注意。

 前回の記事で紹介した『ホールデンの肖像』によると、サミュエル・リチャードソンの『パミラ』(1740)で創出されて以来、現在のハーレクイン・ロマンスまで連綿と受け継がれてきた「ロマンスの3条件」というものがあって、それはだいたい次のようなものである。

 ① ストーリーはすべてヒロイン視点で語られる。
 ② ヒーロー(ヒロインの相手役)はハンサムで傲慢な大金持ちとして登場するが、ヒロインの「愛の力」によって、最後には改心させられる。
 ③ ヒーローとの結婚によって、ヒロインの身分が上昇する(玉の輿)。
 そして『パミラ』に続く古典的ロマンスとして挙げられるのが、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』(1813)とシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』(1847)である。

『高慢と偏見』は、数年前に『高慢と偏見とゾンビ』の予習として読んでおり、言われてみれば確かに「3条件」を満たしているなあと納得したのだが、『ジェイン・エア』ってそんな話だっけ?
 読んだのは35年ほど前で、子供向けにリライトされたものだが、序盤のジェインの境遇が、子供向けフィクションではあまりお目にかかれないひどさだったのと、精神を病んだ妻の存在を隠して二重結婚を目論んだロチェスターの屑っぷりとで、強く印象に残っていた。
 火事で都合よく妻が死んでくれたものの、ロチェスターは屋敷も財産も失ったばかりか、一生介護が必要な身体障碍者となってしまう。
 そんな彼を支えて生きていくことがジェインの幸福となるので、ハッピーエンドではあるのだが、紋切り型ロマンスの紋切り型ハッピーエンドとは言い難い。
 まあ読んだのはだいぶ昔だし、ジュヴナイル版だしな、と、この機会に光文社の新訳を読んでみた。数ヵ月以上前なので「思い出し鑑賞記」。

 だいたい記憶にあるとおりだったが、再読してもまったく記憶が蘇らない箇所もかなりあった。昔読んだのは子供向けとはいえ対象年齢やや高めで分量も多かったが、それでも多少は省略されてたんだろうな。
 しかし、ロチェスターの妻の存在が暴露されてからジェインが彼の許に戻るまでの経緯がまるごと記憶になかったのは、省略されていたとも思えないので、当時の私にはよく解らなくておもしろくなかったから忘れてしまったのだろう。

 絶望の余り荒野をさ迷い、行き倒れかけたジェインを助けてくれたのが、これまで存在も知らなかった実の従兄だった、という古典的な御都合主義は、古典的すぎるがゆえに理解不能だったと思われる。えっ、そんな偶然ってあり得る? どういうこと??? と混乱したのではあるまいか。
 また、この従兄セント・ジョンは清教徒的という意味で狂信的で独善的な人物で、宣教師としてインドへ赴任するために妻を必要としており、ジェインに白羽の矢を立てる。貧困に慣れているジェインなら宣教師の妻に相応しいと考えたからだが、互いに恋愛感情がないことを理由に彼女が断ると、「神聖な使命のために愛のない結婚をすることは殉教である」という謎理論を持ち出して結婚を迫る。
 なかなか興味深い人物造型と展開だが、10歳かそこらの子供には、ただただ理解不能でおもしろくなかっただろうな。

 そんなわけでセント・ジョンに関わる情報はきれいさっぱり記憶から抜け落ちていたので、彼の父親すなわちジェインの叔父の遺産のことも忘れていたのであった。この遺産のお蔭で、ジェインはロチェスターを養っていくことができるようになったのである。

 憶えていた以上に御都合主義だった……というのが三十数年ぶりの再読の感想だったが、先日、偶々読んだ川本静子氏の『ガヴァネス ヴィクトリア朝時代の〈余った〉女たち』(中公新書)で考えが変わる。
「ガヴァネス(女家庭教師)小説」の古典として『ジェイン・エア』を論じているのだが、それによると、ジェインは①不美人である、②何よりも自立を望んでいる、という2点において、まったく新しいヒロインであった。

 ロチェスターに妻がいることが露見する以前、ジェインに彼との結婚を躊躇わせたのは、社会的および経済的な格差だった。愛する男性とは経済的にも精神的にも対等でありたい、というジェインの願いは、結局のところ時代の制約によって御都合主義(川本氏は「強引なプロットの展開」と表現する)でしか叶えることができなかった――と川本氏は結論する。

 ……あれ? ジェインが願ったのは「対等」だけど、結果はロチェスターが経済的にも精神的にもジェインに依存することになってるよね? これって「猿の手」的展開じゃね?

 ジェインが手に入れた遺産は絶縁状態だった叔父のものだが、これがすごく親しい間柄で、若くして非業の死を遂げてたりしたら、まるっきり「猿の手」だ。
 いや、「猿の手」なら、ジェインは「こうなることを望んだわけじゃ……」と絶望に沈むはずだが、それどころかロチェスターが彼女に依存せざるを得ないことになって、心から満足しているのである。「猿の手」より怖いじゃねえか。

『パミラ』は刊行後直ちに大ベストセラーになったが、「こんなに巧く行くわけがない」とか「道徳が押しつけがましい」と反発する読者も多かったそうだ。人気作家ヘンリー・フィールディングもその一人で、『シャミラ』と題するパロディを翌年発表する。パミラは実は計算尽くで玉の輿に乗ったのだ、という内容だそうだ(邦訳があるので、そのうち読みます)。
『ジェイン・エア』も、遺産が転がり込んできたのもロチェスターが金も健康も失ったのも彼の妻が死んでくれたのも、全部ジェインが仕組んだことだった、ということにしたら、立派なクライム・ノベルの出来上がりだな。
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サミュエル・リチャードソンはすごいぞ

 いわゆる「恋愛もの」に興味がなく、読んだり観たりしたこともあまりなかったんだが、SFやファンタジーを濫読していると、恋愛メインの作品に当たることもある。偶にだったらいいんだが、間を置かずに何作品にも当たってしまうと、精神力がかなり削られる。
 いや、「恋愛要素」だけなら全然いいんです、愛だの恋だのは物語を強力に駆動し得るし、そこまで至らない「淡い思慕」みたいなのでもキャラの掘り下げには非常に有効ですし。しかし、それがメインになってしまうと、私にはきつい。特に近年はパラノーマルものが増えているので、遭遇してしまう確率が高くなっている。つらい。

 しかしオリエンタリズムについて考える上で、避けて通れない作品というか、ジャンルがある。「シークもの」だ。
 とにかく読みたくなくて先延ばしにしてきたのだが、邦訳されているオリエンタリズム小説をほぼ読み尽くしてしまった。もはやこれ以上の先延ばしはできない……まずは外堀から埋めようと、シークものの研究文献を探すことにする。悪あがきである。

 シークものは、いわゆるハーレクイン・ロマンスと総称される(日本での話。後述)ジャンルのサブジャンルで、日本でも高い人気を保っている。だから日本語の研究文献もそれなりにあるだろうと思ったのだが、探し方が悪いのか、論文も含め一つも見つけられない(英語のものは幾つか見つけたが、読んでいる時間がない)。
 仕方ないので、ハーレクイン・ロマンスについての研究を探す。本家本元のあのレーベルは、書店でバイトしていた90年代後半、毎月数冊ずつ買っていく女性客が数人いたし、現在でもたいがいの書店で一角を占めているので、固定層に人気があることは知っていた。

 だから日本語の研究テキストもそれなりに出ているのだと思っていたのだが、日本でハーレクイン・ロマンスを主題とした研究を行っているのは、どうやら尾崎俊介氏だけのようである。氏の著作『ホールデンの肖像: ペーパーバックからみるアメリカの読書文化』(新宿書房 2014)は、タイトルどおりアメリカのペーパーバックが主題だが、かなりの紙幅を割いてハーレクイン・ロマンスについて論じている。
 もう1冊見つけたのは、『ロマンスの王様 ハーレクインの世界』(洋泉社 2010)で、これは入門書というか案内書。尾崎氏の上記著書の一部は、このムック本に掲載されたものである。
 2冊とも分量はそれほど多くないが、シークものを取り上げている。シークものについては後日改めて記事にする(予定)。今回はハーレクイン・ロマンスとその元祖について。

 先に読んだ『ホールデンの肖像』で初めて知ったんだが、英語圏におけるromanceというのは、少なくとも近年では日本語の「恋愛小説/恋愛もの」と同義ではなく、「必ずハッピーエンドになる通俗的で類型的な」作品を指すのだそうである。
 類型的であることを強調する場合は、「フォーミュラ(型に嵌まった)・ロマンス」と呼ぶそうだが、日本ではその代表にして元祖であるレーベルの名をとって「ハーレクイン・ロマンス」が通称である(と言ってよいだろう)。この記事でも、「紋切り型量産ロマンス」を「ハーレクイン・ロマンス」と総称することにする。

 ハーレクインが元祖というのは、「類型化と量産化を確立した」という意味での元祖である。この量産される類型/紋切り型の原型となったのが、英国のサミュエル・リチャードソンによる『パミラ』(1740)である。以下、ネタバレ注意。
 尾崎氏は「ハーレクイン・ロマンスの原型」としての『パミラ』の特徴を、次のように要約する。

 ① ストーリーがすべてヒロインの一人称で語られる。
 ② ヒロインの固い貞操観がヒーロー(ヒロインのお相手)を改心させる。
 ③ ヒロインはヒーローと結婚し、それによって身分が上昇する(玉の輿)。

 なお上記のパラノーマルものも、少女向けのレーベル(コバルトみたいなものか)でブームになったのが、ハーレクインをはじめとする成人女性向けレーベルに波及したものである。

 二つある邦訳のうち、原田範行氏による『パミラ、あるいは淑徳の報い』(研究社 2011年)を読む。
 ヒロインのパミラは、貴族の未亡人に仕えるメイド。家は貧しいが、元々は中産階級だったようである。パミラが両親に宛てて書いた多数の手紙を中心に、他の人々に宛てた手紙、それらの人々から彼女に宛てて書かれた手紙などを、サミュエル・リチャードソンが「編纂」したという体裁である。
 第一の手紙は、奥様が亡くなってその息子が新しい主人となったことを報告する。パミラは15歳で、この新しいご主人様のB氏は10歳ほど年長、ハンサムだが傲慢な性格である。

 このB氏が美しいパミラを愛人にしようと目論むのを、パミラは固い貞操でもってはねつけ続け、ついにはB氏は彼女に屈して正式に結婚する。と一言で説明できる話が、800頁近くにわたって続く。
 いや、すごいね、これ。尾崎氏の解説を読んでも、あんまりピンと来なかったんだが、これは「少女漫画のテンプレだけで構成された小説」だ。
 その「少女漫画のテンプレ」も、むしろパロディでしか知らないものばかりなんだけど。少女漫画も、恋愛メインの作品はほとんど読んだことがないからなあ。

 田舎のメイドによる手紙という体裁だから、原文はくだけた表現や方言が多く、それに対する批判も多かったので、後の版では改訂されているそうである。旧訳では改訂版を底本にしているが、原田氏の訳は初版を底本として口語的な文体を忠実に表現しようとしたそうで、そのお蔭でいっそう(昔の)少女漫画(のパロディ)っぽい。「ああ、心臓がドキドキしてしまったわ!」「私、いったいどうなっちゃうのかしら!」
 足りなかったのは「美人で意地悪なライバル」くらいだが、これはおそらく「外見が美しければ心も美しい」という中世的な価値観が依然、根強かったためではなかろうか。

 そんなわけで「テンプレ少女漫画のパロディ」に読めてしまう『パミラ』なんだが、言うまでもなくパロディどころかこれが「元祖」なのである。次から次へと繰り出されるテンプレに、「こ、これが元祖か……」とひたすら圧倒される。
 しかもすごいのは、少女漫画にせよハーレクインにせよ「すべての女性向けロマンスの元祖」に留まらないことである。『パミラ』は、「近代小説の元祖」でもあるのだ。
『パミラ』を「近代小説の元祖」たらしめているのは、「市民」(貴種ではない人々)の心理と人間関係の丁寧な描写である。『パミラ』より20年ほど早いデフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1719)が、「市民を主人公にした最初の小説」という点で「近代小説の起源」とされながら「元祖」とされないのは、心理描写の欠如による。

「心理と人間関係の丁寧な描写」を可能にしたのは、「女性によって書かれた手紙」を中心とした構成である。
 以前にこのブログで紹介したオングの『声の文化と文字の文化』によれば、前近代のヨーロッパでは、文学作品の書き手は「修辞学の訓練を受けた男性」だった。修辞学というのは、演説や議論のための技術である。したがって前近代のヨーロッパにおける文学は、多かれ少なかれ演説または議論調だった(「対話篇」は要するに議論である)。
 しかし17世紀頃から女性の識字率が上がり始め、女性による文学作品も多く書かれるようになる。彼女たち女性作家は男性作家と違い、修辞学の訓練を受けていなかった。そのため彼女たちの文章は、演説調でも議論調でもなかった。
 またこの時代には商人が台頭してくるが、彼らもまた識字能力はあっても修辞学とは無縁だった。
 女性と商人による、「演説的でない生活に根差した」文章が近代小説の成立に寄与しており、特に女性の貢献が大きかった、というのがオングの見解である。

 さて、なぜかオングは取り上げていないのだが、サミュエル・リチャードソンこそは「近代小説成立への女性と商人の貢献」を一人で体現している人物である。
 1689年、貧しい指物師の息子として生まれたリチャードソンは、一代で成り上がった大印刷業者であり、修辞学を含む「正規の教育」は受けていない。
 そして彼の最初の小説である『パミラ』は女性一人称で書かれているが、上述したように、体裁としては「作者リチャードソンが女性一人称で書いた」のではなく、「実在の女性が書いた手紙を編者リチャードソンが編纂した」ものなのである。

(追記:ヘンリー・フィールディングが『パミラ』の翌年に出したパロディ、『シャミラ』(邦訳は朝日出版社)の訳者解説によると、リチャードソンは「編者」としてすら匿名だったそうだ)

『パミラ』は書簡体小説の嚆矢でもあるが、ミュラーの『メディアとしての紙の文化史』(東洋書林)によると、書簡体小説というものは、その前世紀(17世紀)に登場した「……の遺稿から」形式の文書の発展型である。
 まず背景として印刷文化の普及があり、印刷された文書が巷に溢れるようになることで、印刷されていない、つまり未発表の文書の価値が上がる。特に「遺稿」は、著者がすでに死亡していることから、秘教的・奥義的、さらには暴露的な様相を帯びることになる。

 そういうわけで当然の流れとして、著者が死亡しているのをいいことに、名前を勝手に借りた捏造文書も作られることになるのだが、それもこれも、「……の遺稿から」形式の文書の内容がフィクションではなく「事実」だという大前提があるからだ。
 このようにして非常にありがたがられた「未発表文書」には、手紙も含まれる。これもまた17世紀後半以降、識字率の向上、紙の普及、さらに郵便業務の拡大によって、私的な手紙の遣り取りが活発になったことが背景となっている。

『パミラ』訳者解説によると、この作品が書かれた経緯は次のようなものである。
 1730年代、リチャードソンは事業の成功によって、著名な文人や学者との交流を広げるが、この頃から教育レベルがあまり高くない層向け読み物の執筆や編集も自ら手掛けるようになった。その一環として、知人の出版業者から依頼されたのが、「日常生活のさまざまな場面において、手紙を書くのに多少不自由を感じるような人々のための模範書簡文例集」の執筆だった。1739年11月のことである。
 当初の予定では「模範書簡文例」を幾つか書くだけだったのが、かつてある友人から聞いた「実話」を基にした「設定」で書くことを思いつき、その結果生まれたのが「文例集」の枠をはるかに超えた一大ロマンスだった、というわけである。

『メディアとしての紙の文化史』の見解に従えば、『パミラ』は前世紀以来の「……の遺稿から」形式の伝統に則って、ノンフィクションとして書かれたことになる。
 つまりリチャードソンが女性一人称で書いたのは、単に文学的技法の一つとしてではなく、完全にヒロインのパミラになりきってのことだったのだ。
 50過ぎのおっさんの、15歳の少女へのなりきりぶりは、『パミラ』を元祖とするジャンルである「ロマンス」が、現在に至るまで女性によって読まれ、女性によって書かれ続けてきたことが証左となるだろう。
 そこまで「なりきった」からこそ、「演説的でない生活に根差した」文章を書くことができ、結果として人間関係と心理を丁寧に描写する「近代小説」を生み出したのである。なりきりにより、「演説的でない生活に根差した」文章を「発見」できたとも言える。ほぼ800年前に、紀貫之が『土佐日記』でやったことと同じだな。
 大長編『パミラ』は、わずか2ヵ月で書き上げられたのだそうだ。「演説的でない生活に根差した」文章を書くのは、それほどまでに楽しかったんだろう。

『パミラ』訳者解説によると、若い頃のリチャードソンは、反政府系の印刷物を数多く引き受けていたそうである。それらがどんなものだったのか具体的な説明はないが、「……の遺稿から」形式の暴露系捏造文書も含まれていたのではなかろうか。
 つまり、文章を「本物」っぽく見せる技術を実地で学んでいたかもしれない、ということだ。『パミラ』には「編者リチャードソン」による序とあとがきに加え、「編者の友を名乗る匿名の人物二名が編者に宛てた手紙」まで付されているが、これも「技術」の一つかもしれない。

 もっとも、「パミラとその手紙」の実在を信じた読者が果たしていたのかどうかは明らかではない。『メディアとしての紙の文化史』にも、「実在の書簡を編集したという設定を読者が本気にするか、虚構と見抜くかにかかわらず」と述べられているだけである。

 なお、上記のとおり見覚えのあるテンプレートのオンパレードに感動したものの、物語自体には120頁を過ぎたくらい(序を除くと100頁余り)で飽きました。恋愛ものがとにかく合わないというのもありますが、一つの事件や事柄が何度も語られていて冗長なせいでもある。
 これはパミラが一つの事件/事柄について、ある人物宛ての手紙に書いた後、別の人物あての手紙でも同じ事件/事柄について書き、さらにそれらの人々からの返信に、その事件/事柄についての意見が書かれていて……ということが繰り返されるのが大きい。『パミラ』の本来の目的であった「手紙の書き方マニュアル」としては、まあ妥当ではあるが、小説としてはあまりに冗長だ。あと、それほど量は多くないとはいえ詩やら歌詞やらも挿入されてるし。

 冗長性を徹底的に切り詰めて、半分(それでも350頁強)足らずの「抄訳」にしてしまったら、テンプレの詰め合わせにジェットコースター展開という現代的要素も加わって、「紋切り型量産ロマンス」のすごくよくできたパロディになるんじゃないかと思う。いや、これが元祖なんだけど。

『声の文化と文字の文化』紹介の記事

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