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『イーリアス』を楽しく読む

 ゲラ待ちの某日、かねてよりやりたいと思っていた『熱帯』(佐藤哲也、文藝春秋)と『イーリアス』の比較検証を行った。テキストは岩波文庫の呉茂一訳版。図書館にこれしかなかった。サブテキストは家にあった呉茂一著の『ギリシア神話』(新潮文庫)。

 作中で言及されているように、『熱帯』P25~P53は第一歌、第二歌(呉版では第一書、第二書)に沿って進行している。以下のように筋を対比しながら書き出していく。

『熱帯』;株式会社KRSのリーダー栗栖洋一が、赤井屋システム・エンジニアリングの黒小路乱造に対し、当初の契約を守ってくれるよう要求する。黒小路乱造はこの要求を突っぱね、栗栖を追い払う。栗栖は海へ赴き、この涙の償いがあるようにと天上の神々に祈願する。神々は祈りを聞き届け、東京に猛暑をもたらす。

『イーリアス』;クリューセーの町のアポローンの祭司クリューセースは、アカイア人の王アガメムノーンに対し、娘を返してくれるよう数多の身代を持って懇願する。アガメムノーンはこの懇願を突っぱね、クリューセースを追い払う。クリューセースは海へ赴き、この涙の償いがあるようにとアポローンに祈願する。アポローンは祈りを聞き届け、アカイア勢に疫病をもたらす。

『熱帯』;異常気象が始まって十日目、株式会社MMDの神子一徹の発議によって緊急対策会議が招集される。プロジェクトがいつまで経っても終わらない理由を、コンサルタントに尋ねてみることを提案する。コンサルタントは株式会社テストルの粕屋軽作である。粕屋は神子一徹に、真相を述べることで自分が恨みを買った場合には庇ってくれることを要求する。神子一徹は、その相手が黒小路乱造その人であったとしても粕屋を庇うことを約束する。

『イーリアス』;災厄が始まって十日目、ミュルミドーンらを率いるアキレウスが有志たちを会議の座に呼び集める。この災厄の理由を、占い師に尋ねてみることを提案する。占い師はテストールの子カルカースである。カルカースはアキレウスに、真相を述べることで自分が恨みを買った場合には庇護することを要求する。アキレウスは、その相手がアガメムノーンその人であったとしてもカルカースを庇護すると約束する。

『熱帯』;粕屋軽作は、そもそもの原因は黒小路乱造が栗栖の要請を一蹴したことにあると述べる。黒小路はこれに怒って粕屋を非難する。神子一徹は、ともかくKRSと再契約を結び、次の仕事で充分な利益を出せるようにすればいいと宥める。黒小路は再契約は承諾するが、予算の分配を巡って神子一徹と言い争う。プロジェクトから外してもらったほうがマシだと罵る神子一徹に対し、黒小路乱造はそのほうがこちらも助かるとやり返す。

『イーリアス』;カルカースは、そもそもの原因はアガメムノーンがクリューセースの要請を一蹴したことにあると述べる。アガメムノーンはこれに怒ってカルカースを非難する。アキレウスは、ともかくクリューセースに娘を返し、充分な戦果を上げてその埋め合わせをすればいいと宥める。アガメムノーンは娘の返還は承諾するが、褒美の分配を巡ってアキレウスと言い争う。故郷に帰ったほうがマシだと罵るアキレウスに対し、アガメムノーンはそのほうがこちらも助かるとやり返す。

 ……と、実に見事に対応している。神が黒小路乱造を惑わすために使わした夢が紹介する開発支援ソフトの名は、まんまオネイロス(=夢)である。

 圧巻はやはり、第二歌の「軍船の表」である。株式会社BОT=ボイオートイ勢、株式会社ОKM=オルコメノスに住まう者ども、という具合に企業名と軍勢の名が対応している。各企業からの参加人数も、軍勢の兵員数や軍船の数に対応。企業の代表社名も皿見挨拶=アイアース、軽山英一=カルコードーンの子エレペーノールという具合。

 企業の名は概ね上記のようにアルファベットだが、アルゴスとかスパルタのようにそのまんまだったり、ロクリス=ろくろ情報システム、株式会社アセンズ・ジャパン=athen=アテーナイ等、変則もある。人名では、対応が判らないものもあった。諸星まさると砂城建一がどの人物または事象に対応するか見つけ出せなかったし、神子一徹=アキレウスはなんか判るよーな判らないよーな。居丈高征哉=イタケーのオデュッセウスで「征哉」はやっぱり『オデュッ「セイア」』かなあとか。黒小路乱造=アガメムノーンなのは、彼がクレタのミノス王の末裔であるところから→ミノスと言えばラビュリントス→迷宮→袋小路→くろこうじ、かなあとか(自信ありません)。

『イーリアス』ではほぼ軍船の数や兵員数、代表者の名前を羅列するに留まっているが、『熱帯』では各企業についての説明も加えられている。さすがに読者を考慮したのであろうか。もしかしたら実際の史実もしくは神話上の事柄に関連しているのかもしれないが、呉茂一の『ギリシア神話』だけという貧弱な装備では調べがつかない。糸目捻吉(イドメネウス)率いるクレタ・システム株式会社が予測システムを担当するというから、クレタ王家かイドメネウス王本人が予言の能力に関連しているのではないかと推測したんだが、それらしき挿話は見つけられませんでした。

 株式会社SRSが寺院を母体としている、というのはサラミス島が重要な祭祀センターだったとかそういうんじゃなくて(一応調べてみた)、大アイアース(体格がいいほうの皿見挨拶)の父の名が「テラモーン」だからなんだろうなあ。

 第二歌後半で話がトロイエー陣に移るのに応じて、『熱帯』でも大日本快適党に移り、対応は一応ここでおしまい。しかしP80~83の大乱闘は、第四歌終盤~第五歌序盤および第六歌序盤の戦闘にかなり対応している。物の具も「からから鳴った」し。 

 そのほか、波打ち際は東京湾岸のごとく不毛だし、海面は葡萄酒色だし、神々は12日間の予定でエチオピアに旅行に行ったりする。「満ち足りた思いをする者は一人もない」に対応する表現は見つけられませんでした。

追記;こういうことをやったお蔭で初めて、ブラピ主演の『トロイ』が、意外に『イーリアス』に忠実だったんだと判りました。

『下りの船』感想

比較検証(単なる読み比べ)シリーズ
 マイケル・クライトン『北人伝説』とイブン・ファドラーン『ヴォルガ・ブルガール旅行記』

 佐藤亜紀氏「アナトーリとぼく」とトルストイ『戦争と平和』

 佐藤哲也氏『サラミス』とヘロドトス『歴史』

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