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アメリカン・サイコ

 背中がひどく痛んで、いろいろと支障を来す。作業を中断して近所の温泉へ。痛みが和らいだので作業再開、終了。本日午前中、ゲラ返送。

 体調を崩したのは、睡眠時間が短くなっていたせいかもしれない。この数日、なぜか夜になると眠くてたまらなくなり、12時以降、起きていることができない。しかし5時前に目が覚めてしまうので、普段より睡眠時間は減っている。そんなに早く起きてもしょうがないので、6時過ぎまで読書をしている。昨日まで読んでいたのが、『アメリカン・サイコ』(ブレット・イーストン・エリス、角川書店)。寝起きにパトリック・ベイトマン。映画は公開時に観ているが、なんで今頃原作を読んだのかといえば、10代後半から20代後半にかけてほとんど小説を読まずにきてしまったので、その空白を未だに埋められずにいるのである。

 さて原作版だが、書いてあるままの内容であり、今さら私が言うべきことは何もない。これの読者全般にとって、映画はいまいちのようですね。まあ、『I SHOT ANDY WARHOL』の監督には、これが精一杯ってとこでしょう。ほかの監督が撮ったとしても、もっといいものができた可能性は低いだろうし。原作未読で映画を観た者としては、それなりにおもしろかった。特にブランド物の氾濫というか羅列が視覚的に楽しかったのだが、小説を読んで驚いたのは、「羅列」という点に於いて映像は文字ほどの効果を上げていないことだ。ただ、映画のほうが明らかにインパクトが強かったのは、ベイトマンがあの時代のポップスを流しながら、雑誌から拾ってきた複数のレビューを繋ぎ合わせたような空疎な薀蓄を垂れ流すシーンで、その空疎さはほとんど破壊的ですらあった。

 映画が先行しているから余計にそう思うのかもしれないが、ベイトマンにクリスチャン・ベールをキャスティングしたのは成功だった。『I SHOT』でもリリ・テイラーはよかったしな。レオナルド・ディカプリオが名乗りを上げていたそうだが、その心意気は買うにしても、当時のディカプリオは演技が大味になってたし、何より彼は顔に特徴がありすぎて、始終人違いされているベイトマンを演じるには無理がある。劇中、クリスチャン・ベールの表情や仕草がトム・クルーズに似ているのは意図的にやってるとしか思えなかったんだが、原作にトム・クルーズ本人が登場したので笑ってしまった。ベイトマンと同じアパートメントの住人という設定で、つまりそれによってそのアパートメントには箔が付いており、延いてはトム・クルーズはあの時代のアイコンの一つということになる。クリスチャン・ベールは、もともと顔の造りが多少トム・クルーズに似ている。

 容姿に関してさらに言うなら、『リベリオン』で彼がしばしばやった小首を傾げて目を大きく見開く仕草が何かに似てると思ったら――「白フクロウは私に似た目をしている。目を大きくしたときは、とくに似ている」。ベイトマンの時は、そういう仕草は確かしなかったけどね。あと、これはまったくの偶然なんだけど、小説ではベイトマンがバットマンと呼ばれるシーンがある。

 私にとって70年代は、一応体験しているもののほとんど社会とリンクしておらず(73年生まれだし、TVをあまり観ていなかったし)、後から文献等で知った、いわば歴史上の時代である。それに対して80年代およびバブル崩壊の1990年は、小学校から高校までのある意味人生最悪の時期と重なる時代だ。あの時代の流行、社会的な出来事、価値観をひっくるめた「時代性」が、ろくでもない個人的体験の最もろくでもない部分と密接に結び付き、忌まわしさを通り越して、おぞましさすら帯びている。客観的というか相対的な評価とは無関係に、とにかく思い出すのも嫌な時代だ。逆に学生時代と重なる90年代前半は、諸々の束縛からの解放という個人的事情とバブル崩壊後の価値観不在が結び付いて、実に自由な時代だった。もちろん、そんなふうに感じられたのもモラトリアムだったからこそなんだけど。

 映画『アメリカン・サイコ』が公開された2001年頃、見るもおぞましい80年代ファッションが復活しかけ、私は恐れ慄いたものだが、幸い一過性だった。たぶん映画公開とは無関係だと思う。どのみち当時はまだ、80年代およびバブル時代を振り返るには早すぎた。ここのところようやく、あの時代を懐古的に振り返る風潮が訪れている。私としては、頼むから振り返らんでほしい。記憶の蓋が開いてまうやんけ。

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脳標本

「脳! 内なる不思議の世界へ」展に行ってきた。なんで大阪「歴史」博物館でこんな展示をと思ったら、「大阪の医学史」も一緒に展示してある。適塾とか近いもんな。で、それを含めた展示全体で、脳標本が占める割合は三分の一程度。がっかり。半分は錯視をはじめとする体験コーナーとかパネルや映像の展示でした。それはそれでおもしろかったけど、でも私は脳みそを見たかったんだよ。図録も写真が小さいし。

 それでも、いろんな動物の脳をこれだけたくさん見られる機会は滅多にない。類人猿と人間の脳とか、数値や図とかで知っていても、実際に並んでるのを目にするとサイズの違いにちょっと驚く。あと、標本はプラスティネーションも多少あったけど、ほとんどがホルマリン漬けなんで何か理科室みたいでしたよ。

 専門学校の学生と思しき女の子たちが大勢来ていた。みんな真面目にかつ楽しそうに見学している。彼女たちを除いても、圧倒的に女性客が多い。平日だということもあるんだろうけど、やっぱりこういうの好きな女って多いよな。女の子が興味津々で男の子は露骨に無関心な大学生カップルとかいたし。

 鑑賞記は以上。帰路、駅構内で女の子(10代後半くらい)が二人、前を歩いていたんだが、一方の子がむちゃむちゃ怒っている。なんでも、初対面の誰かに「チャッキーに似てる」と言われたんだそうな。もう一方の子は「はあ……?」。うん、その齢じゃ普通は知らんよね、『チャイルドプレイ』なんて。追い越す時に思わず顔を確認してしまったのだが、キンパツで化粧は濃いものの、チャッキーはないよねー、という可愛い子であった。お気の毒。

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SFマガジン6月号

 本日発売のSFマガジン6月号に、エッセイと特集が載ってます。エッセイは巻頭の「My Favorite SF」、大原まり子氏の『一人で歩いていった猫』です。特集は『グアルディア』と来月刊行の『ラ・イストリア』。ややこしい設定をまとめてくれたKさん、ありがとうございました。特集頁に掲載されている地図は、『グアルディア』文庫版のものに『ラ・イストリア』の地名を加えたものです。この作業も妹Ⅱがやってくれましたよ。

『ラ・イストリア』のゲラが一段落ついて気が緩んだのか、なんだかすごく眠いです。今日は早く寝ます。おやすみなさい。

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刊行

『グアルディア』文庫化の話がまだ出ていなかった昨年秋、横浜の妹Ⅰ(二人いるうちの上のほう)のところへ遊びに行った。彼女は友人知己に「仁木稔」の宣伝をしてくれているという。その甲斐あって、友人の一人が『グアルディア』を買いたいと言ってくれたそうだ。

「そりゃどーも」と言う私に、妹Ⅰはこう続けた。「だからね、言っといたよ。『やめなよ、高いから。図書館で借りなよ』って」

 なんて言うかその……いい妹を持ったなあ。

 いや、でも確かに税込み1995円は高いですね。買ってくださった人、本当にありがとうございました。

 文庫版『グアルディア』は、上下2巻で計1470円(税込み)です。携帯に便利な大きさ、新しい表紙イラスト、佐藤亜紀先生の解説、あと地図も新しくなってるし、文庫版あとがきもありますよ。明日、刊行です(カテゴリー「著作」にamazonへのリンクを追加しました)。

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風とライオン

 1975年の米映画。映像は美しいしショーン・コネリーはかっこいいが、二十世紀初頭の米国の行動原理として描かれているのが、二十一世紀初頭現在の米国の行動原理とまったく同じなので、非常に微妙な心境になる。制作者たちに批判の意図があったようには思えないが、かといってベトナム戦争の泥沼を体験した直後の米国でこれでは、あまりに単純で無邪気すぎる。

 タイトルと内容の関係もなあ。「風」の比喩は作中で幾度か出るが、その割りにルーズベルト大統領は米国を熊に喩えている。一方、「ライオン」の比喩は最後の最後にようやく出てきて、いささか唐突な印象を受ける。作中に実際に登場するライオンは、ショーン・コネリーの敵である暗愚なスルタンへの献上物として檻に入れられた、しかもまだたてがみも生え揃ってない可愛らしい奴だし。

 キャラクター同士の掛け合いとか、散りばめられた小ネタとか、作品の質自体は悪くないのに、素直に楽しめなくて残念。ところで、ルーズベルトが熊好きなのは、やっぱり「テディ」だからだろうか。

 以下、ネタバレ。

 現在の状況への風刺であるはずがないのだが、どうもそういう見方をしてしまうというか、できてしまうというか。ルーズベルト大統領はカウボーイ気取りで、イスラムの族長に「米国人の女子供」が誘拐されると、「被害者の死か、加害者の死か」と強硬姿勢で臨む。米軍は大統領の意志を勝手に汲んで「世界大戦」に繋がりかねない軍事行動を勝手に起こし、大統領はそれを事後承認する。しかし被害者を無傷で返還に来た族長がドイツの罠に嵌まって捕らえられると、米軍の部隊は現場の判断で一応の味方であるはずのドイツ軍と戦闘して族長を取り戻す。最後には、米軍がモロッコから欧州列強の軍隊を追い払いつつある、という報告を大統領が受ける、という落ち。いやほんとに、ものすごい皮肉だなあ。

 そういう正しくない見方をすると、大変興味深い作品でありましたよ。

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見本到着

 毎晩就寝前に布団の中で仰向けになって本を読みます。横向きやうつ伏せの姿勢で本を読むのは嫌いなのです。この10日ほど、すごく分厚い本を読んでいたのですが、たぶんそのせいで2、3日前から右手が少々痛くなってきました。まあいいや、もうじき読み終わるし、と頑なに仰向けで読み続け、昨夜ようやく読了しました。で、今日になって右手は少々痛いどころじゃないです。こうしてキーを打つには特に問題ありませんが、ペンが握れません。どないしょー、明日ゲラが届くのに。

『グアルディア』文庫版上下巻、見本が届きました。ふふふふふふふ……

 ……しばらくこうして悦に入っていたいので、誤字脱字の確認は明日やります(誤字脱字を見つけてしまった場合、頭を抱えて呻いたり叫んだりします)。

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ブラッド・ダイヤモンド

 よくぞここまで多くの政治的な素材を破綻することなく扱えたな、と感心する。しかもただ盛り込んだのではなく、素材によってストーリーを成り立たせている。

 巧いと思うのは、レオナルド・ディカプリオ演じるダイヤ密輸業者アーチャーを、旧ローデシア出身にしたことだ。つまり、肌は白いが彼も「アフリカ人」であり、「余所者」ではない。したがって作品内で扱われるアフリカのさまざまな問題は、彼にとって他人事ではないのだ。彼は第三世界の問題に首を突っ込むために文明圏からやってきたヒーローではなく、だからこそ終盤に向けての彼の「回心」(改心ではない)も説得力のあるものになる。

 ジェニファー・コネリーのアメリカ人ジャーナリストは、不正を暴くという使命感と、単に刺激を求めているだけの身勝手さという二つの行動原理を持っており、なかなか興味深い。しかし、彼女とディカプリオの役がこれだけ凝っているのに、ジャイモン・フンスーの漁師ソロモンが愚直なまでに純粋というのは、ややステレオタイプに過ぎる気がする。ま、そこまで言ったら贅沢か。

 最後の山場を前に、どれほど真摯であっても所詮「余所者」であるジャーナリストは退場し、後はアーチャー、ソロモン、反政府軍、アフリカ出身の白人たちを主要構成員とする傭兵組織という「アフリカ人同士」の物語となる。

 ディカプリオは『アビエイター』で編み出した「眉間に皺を寄せる」技術に磨きをかけ、どうにか童顔を克服することに成功している。てか、ディカプリオでかっこいいアクションを観られるとは思わんかった。ジェニファー・コネリー、すっぴんでもきれいだけど、なんだかデミ・ムーアに似てきちゃってるなあ。パンフレットの監督インタビューを読んだら、ジャイモン・フンスーをキャスティングした理由を「最近の出演作を観て、もっと複雑なキャラクターをやるべきだと思って選んだ」と語っていた……ごもっとも。『グラディエーター』の時は随分印象的だったが、『トゥームレイダー2』と『コンスタンティン』、出てたことにも気づかんかった。『アイランド』では民営軍事企業の戦闘指揮官役で、アフリカの内戦で家族を殺されてるという設定が取って付けられてたよな。

 以上、感想終わり。現在、『ラ・イストリア』はゲラ待ち。その間に登場人物リストと地図の作製。妹Ⅱにメキシコの白地図を用意してもらう。ここに手書きで地名を書き込んで、後は彼女(グラフィックデザイナーなのである)に作製してもらう。そう、今回の舞台はメキシコなのでした。『グアルディア』文庫版でも、妹Ⅱに地図の改訂版を作ってもらってます。『ミカイールの階梯』に向けては、引き続き調べ物。中断していたペルシア語とロシア語の学習も再開。

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進行状況

『グアルディア』関連の作業はすでに終わっています。現在は5月刊行の『ラ・イストリア』。これは『グアルディア』と密接に設定が繋がっているだけでなく、次作(予定)の『ミカイールの階梯』とその後に予定している長篇への伏線を含んでいるのですが、独立した作品として読めるよう(つまり、未解決の伏線に読者が留意せずに読めるよう)、いろいろ計算しています。そのための叙述の最終調整。

 そうこうしているうちに、桜ももう終わりですね。今年は明石公園でお花見をしました。帰りに市場でタコの煮付けを買って、夜はタコめしにしました。おいしかったです。

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文庫版イラスト

 早川書房のhpに、『グアルディア』文庫版上下巻の書影が上がってます(我が家では、デスクトップだと見えるけどノートだと見えない。なんでだ)。イラストレーターはD.Kさん。

 Jコレクションの時とは違うイラストレーターで、ということだったので、「アンヘルを美しく描ける画力のある人」という条件で、塩澤編集長に人選をお任せしました。『グアルディア』には、「表主人公」としてJDとカルラがいて、「裏主人公」としてアンヘルとホアキンがいます。「裏」なのは悪役だからです。Jコレクションの時は佐伯経多さんと新間大悟さんに描いていただく表紙イラストは一枚だけだったので、当然「表」の二人になりました。文庫版は上下二枚なので、上巻は「表」、下巻は「裏」です。

 ホアキンはともかく、アンヘルは描くのが難しいキャラクターだと思います。そもそもヴィジュアル的な造形は、いわゆる「銀髪白皙美形キャラ」のパロディです(「どれだけ顔がきれいだろうと、肌が白くて銀髪だったら眉毛がないみたいに見えて変じゃん」)。なおかつ、華奢で胸がなくて髪型がスキンヘッドに近いショートで、というキャラクターがドレスを着て「美しい」わけですから。D.Kさんにはいろいろお手数を掛けてしまいました。でも、お蔭様で力作を仕上げていただきましたよ。

 佐伯さん&新間さんの描くアンヘルとホアキンが見られなかったのは、ちょっと残念な気がしますが、だからこそD.Kさんによる新しいJDとカルラをいただけたわけです。マンガ読みの私は絵の好き嫌いがわりと強いので、よいイラストを表紙に描いていただけるのはとても嬉しいです。

 というわけで、新しい表紙をよろしくお願いします。

 話は変わるというか変わらないというか、ノベライズを引き受けた理由の一つも、コザキユースケさんのキャラクターデザインが気に入ったからだったのでした。というかある意味、最大の理由だ。つまり、ノベライズの表紙をコザキさんのイラスト、それもひょっとしたら描き下ろしイラストにしていただけるのではないかと皮算用をしたのです。目論みは当たって、三冊とも描き下ろしイラストでした。ふふふふふ。あ、もちろん私からお願いしたわけじゃないですよ。

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グッドナイト&グッドラック

 ジョージ・クルーニーは、何をやってもジョージ・クルーニーである。顔がくどすぎるからなんだろうなあ。だから、どの演技も同じに見える。実際の演技力云々以前に。そういう彼を敢えて『オー・ブラザー』や『ディボースショウ』のああいう役にキャスティングするコーエン兄弟は、やっぱり性格が曲がっている。で、クルーニーも解っててオファーを受けてるんだろう。だから、「何をやっても同じ」という条件を満たしているにもかかわらず、私はクルーニーが嫌いではない。別に好きでもないけど。

 この作品でも、ジョージ・クルーニーは体重を増やしていようと眼鏡を掛けていようとジョージ・クルーニーにしか見えないが、随分控えめにしているので(出番は比較的多いが、顔のアップが少ない)見なかったことにできる。ロバート・ダウニーjrも久し振りな上に、クマがあんまり目立たなかったしね。そうすると、モノクロだし見覚えのある役者は少ないしで、なんだか本当に50年代か60年代初めくらいに撮られた作品を観ているような感じであった。カメラワークも演技のメソッドも、現代的ではあるんだけど。

 作り手もメッセージ性よりは、「時代性の再現」のほうに重点を置いていたのではないだろうか。というか私のような曇った心の持ち主には、このメッセージにだけ着目すると、あまりにも真っ直ぐでまっとうで、まともに受け止められないんだけど。もちろん、エド・マローを描くことで行われた批判は、充分有効である。批判の矛先は当然ながら、今さら言論弾圧ではなく、バラエティ重視の昨今のTV業界だ。ということで、今現在の日本に対しても有効ということですね。

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ジャーヘッド

 こういう作品だって知ってたら、もっと早くに観てたのになあ。

 サム・メンデス監督作品は、『アメリカン・ビューティー』も『ロード・トゥ・パーディション』も観ている。後者については、光量の足りない画面とトム・ハンクスの顔面(特に太っている時)を生理的に受け付けない私にとって、ひたすら神経にこたえる作品であった、という以上のことを述べられない(『レディキラーズ』のトム・ハンクスの顔は、トム・ハンクスに見えなくて非常によかったのである)。

『アメリカン・ビューティー』は、奇妙な作品であった。話の筋そのものは、「アメリカの中流家庭の崩壊を描いた悲喜劇」と一言で説明することができる。ではその家庭ひいてはアメリカ社会の愚かしさ、空疎さを風刺した作品なのか。ただそれだけだと言ってしまうには、あまりにも美しい。では、ありきたりに「人生は醜く愚かしい。されど美しい」なのか。そうであるには、あまりにも悪意に満ちている。かと言って、その悪意は監督自身が抱いているものだとも思えないのだ。この作品には、監督自身とその描く対象との間に距離を感じる。深紅の薔薇と美少女の白い肉体に象徴される、胸焼けしそうなほど陳腐で俗悪な美しさ。それらをフェティッシュに執拗に描き続けることで、そこから突き抜けて純化された、完全な美が忽然と立ち現れる。しかし監督はその美とも、或いはフェティシズムとも距離を置いている。そういう作品であるから、どのような解釈を当て嵌めようとしても、どこかはみ出してしまう。解釈は空転し、収まりの悪いものとなる。

『ジャーヘッド』は、解釈を受け付けないという点では『アメリカン・ビューティー』以上かもしれない。序盤は大変解りやすい。冒頭はいきなり『フルメタル・ジャケット』のパロディだ。海兵隊の新兵訓練があって理不尽なしごきもあるが、演出はあくまで明るく、新兵たちはあくまでアホであるので、こっちは笑って観ていられる。『地獄の黙示録』の上映会では、「ワルキューレの騎行」に新兵たちが目をギラギラさせている。こちらは笑うが、いよいよ虐殺シーンが始まるとますます熱狂して大歓声を上げる彼らに、ひやりとさせられたりする。

 湾岸戦争が始まると、状況は一変する。新兵たちは砂漠に連れて行かれるが、何事も起こらないのである。最初は相変わらずアホをやっているが、そのうち待つことに倦んでくる。何週間経とうと戦闘は始まらない。彼らはダレ始め、ストレスを溜め込み、戦争とはなんの関係もない、しょうもない諍いを起こす。170日余りも続くこの待機期間は、上映時間でも3分の2ほどを占めるだろうか。序盤の訓練期間との違いは、ベトナム戦争映画の扱いの違いにも表れている。新兵の一人の妻から、『ディア・ハンター』のダビングテープが送られてくるのだが、上映を始めた途端、画面が切り替わって彼女の浮気現場を撮影した映像が流れるのだ。彼らだけでなく、こちらの忍耐も限界に近付いた頃、ようやく戦闘が始まる。任務は過酷というよりは、うんざりするような醜悪さで、しかも周知のとおり4日間で終了してしまう。

 摑みどころのない作品である。派手な破壊や殺戮シーンは一度も画面に現れない。そういうものを期待していると、主人公たち同様、失望し戸惑うことになる。ではこれは、湾岸戦争の「現実」を描き、戦争の愚かしさ、虚しさを描いた反戦映画なのか。派手なシーンがなかったことに失望しないために、そういう解釈を当て嵌めようとする鑑賞者もいるかもしれない。だが、そのようなメッセージを読み取るには、作品はあまりにも淡々としている。その上、実はこの作品は「リアルな戦争映画」という解釈ですら、当て嵌まるかどうか覚束ないのだ。なぜなら、兵士たちは砂漠に従軍して日焼けもしないし、髪も伸びないのである。いくら待機しているだけとは言ったって、兵士がスキンケアを丹念にできるわけがなかろう。白人が上半身裸で砂漠の太陽の下をうろついたりしたら、悲惨なことになるぞ。髪型も、入隊時の丸坊主から上を短く残した「ジャーヘッド」になってからは、まったく変わらない。剃り上げた部分はまだしも、「短く残した状態」を保つのは結構手が掛かると思う。待機期間はいいとして、戦闘が始まって無精髭を生やしているというのに、頭はきれいにジャーヘッドを保っているのである。

 見落としでこんなことをするような監督だとは思えない。とすれば、意図的なのである。要するにこの作品を評するには、次の一言がもっとも相応しいと思う。

「監督が何を言いたいのか解らない」

 だからこの作品はいいのか悪いのか、それを判断するのは、もちろん鑑賞者個々人である。

 ところで私は『チーム・アメリカ ワールド・ポリス』以来、どれほど真面目な作品であろうと「主人公が強くなっていく過程を短時間で見せる」のに「モンタージュ」が使われると、微妙な半笑いが込み上げるようになってしまったのだが、使われてましたね、『ジャーヘッド』でも。あの一連のシーンは「新兵訓練もの」のパロディではあるのだが、それでも純粋に技法の観点からすると、やはり「主人公が強くなっていく過程を短時間で見せる」のにはモンタージュが最適なのだろうと思うと、微妙な半笑いが浮かんでしまうのであった。

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書き下ろしも出ます

 英語はhistoryとstoryとを分かつが、私の知る限りでは、他のヨーロッパ諸語はギリシア語historia(ラテン文字で失礼)を語源とする一語で、「歴史」と「物語」の双方を意味する。さらには、「物語」から転じて「作り話」「でっち上げ」などの意味をも持ちさえする。「歴史」は「過去の事実」であると同時に、「でっち上げ」なのだ。

 今月下旬の『グアルディア』文庫化に引き続き、来月下旬に書き下ろし長篇『ラ・イストリア』が刊行されます。同じくハヤカワ文庫「リアル・フィクション」のレーベルから。La Historia スペイン語です。意味は上記のとおり。

 やや短め(『グアルディア』の半分強の約570枚)で、『グアルディア』と相補的な関係にある作品なので、文庫として出すことになりました。相補的といっても、『グアルディア』より400年ほど過去が舞台で、直接的な繋がりは多くありません。単独で読んでも問題ないと思います。間接的な繋がりはたくさんあるので、探してみるとおもしろいかもしれませんよ。

 2006年度版『SFが読みたい』に予告が載った『ミカイールの階梯』は、その次になります。(もし予告を憶えていて、「いつ出るんだ」と思っている人がおいででしたら)すみません。

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文庫版解説はこの方です

 『グアルディア』文庫版解説は、佐藤亜紀先生です。うわー。

 塩澤編集長に「解説は誰か希望がありますか」と訊かれた時、本当は先生にお願いしたかったんですが、これまで散々お世話になってきたことだし、とぐっとこらえて「特にないので、お任せします」と答えたのでした。そしたら後日、塩澤さんからお電話があって、「佐藤先生にお願いしました」。

 うわー。嬉しいけど、緊張します。私も読めるのは本ができてからなのです。著者ですから店頭に並ぶよりは早く読めますが、それでも数日早いだけです。あと2週間はある……。

 あ、昨日の日記では最後にあんなこと書きましたが、作業は順調ですよ。もちろん。

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事実だけとは限りません

 追い込みの時期以外、仁木稔は概ね判で押したような生活を送っています。

  • 6時半~  起床→朝食の支度→朝食→運動→食器洗い
  • 8時~    日記(事実日記)→勉強→仕事(執筆または調べ物)
  • 12時半~  昼食→運動→仕事
  • 6時半~  買い物→帰宅してメールチェック→夕食の支度
  • 20時半~  夕食→洗濯→食器洗い→仕事または読書→運動→入浴
  • 0時半~    就寝

 平日の日課です。同居してる父と妹Ⅱが会社勤めなので、自ずと私も生活が規則正しくなります。ありがたいことです。当然、土日祝日は二人に合わせて朝が遅くなります。

 食事の支度と片付け、洗濯は私の分担です。料理は下手ではないと思うが、それほど上手でもない。不器用な上に、野菜や生肉とかの汁が手に付くと手荒れが悪化するので、凝ったものは作れません。そこに加えて妹Ⅱが、芋類と南瓜と玉葱と椎茸が嫌いだとか言うので困ったものですよ。でも彼女は、掃除と洗濯物を畳むのを担当してくれるので助かります。私は洗濯物を畳むのが下手だし、掃除は苦手な上に嫌いです。そのくせ部屋が散らかっているとイライラするという身勝手な性格なので、妹Ⅱが同居するようになってから、だいぶストレスが減りました。

 運動は、ステッパー15分とダンベル運動5分で1セット。朝はこれにストレッチ5分を加えます。こうして、追い込みに備えて体力の貯金をしておくのです。勉強は、高校の理数科目のおさらいと語学です。調べ物は、非常に時間が掛かります。資料を一読しただけでは憶えられないので、要点をまとめて書き出す必要があるからです。頭が悪いので大変です。

 事実日記というのは、スケジュール管理のために05年夏から付け始めた非公開の日記です。前日のまとめをすることで今日すべきことが明確になるので、朝に付けることにしています。それなりに有効ですが限界があるので(要するにサボるので)、こうしてブログを始めれば、もう少し勤勉に働くようになるんじゃなかろうかと思った次第です。皆様、よろしくお願いいたします。

 しかしもちろん、事実日記には書けてもこのブログ(事実だけとは限りません)には書けない「事実」というのもあるわけです。新刊の本当の作業状況とか。

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ラストキング・オブ・スコットランド

 物語の舞台が鑑賞者(読者或いは観客)に馴染みがない世界である場合、「ガイド役」がいると便利である。その世界に関する知識が乏しい人物を放り込んで、「これはなんだ? あれは誰だ? どういう状況だ?」と周囲に質問させれば、作者は世界設定の説明を無理なく行えるというだけではない。想定される鑑賞者にできるだけ近い社会に属する人物であれば、鑑賞者は感情移入することで物語にスムーズに入り込めるのだ。というわけで舞台が過去や未来、或いは異世界だったりする場合、ガイド役はなんらかの手段によって移動してきた現代人が務めることになる。同じ世界の出身者が務めることもあるが、そういう場合は記憶喪失だったり極端に無知だったりする。

 現代やごく近い過去が舞台であっても、ガイド役が必要とされることもある。想定される鑑賞者には馴染みのない社会が舞台の場合だ。残念ながら、私たちは1970年代のウガンダという世界に対し、「白人青年」というガイド役を必要とする。

 以下、ネタバレがありますよ。

「文明人が野蛮に満ちた後進国に行って、無知と半端な正義感から散々周囲に災厄を引き起こすが、本人は大した損害も受けず(いろいろ怖い思いはするが)、のうのうと脱出する、しかも大概は現地人の自己犠牲によって」という類型を、この作品も踏襲していると言える。ただしガイド役となる白人青年の無知と無責任を際立たせているあたり、制作者側はこの問題に自覚的なのだろうと思う。中盤くらいまではともかくそれ以降はあまりにも無責任な彼に、観てるほうは感情移入するというより、アミン大統領の台詞じゃないが「おまえは一体何しに来たんだ」と言いたくなるし。最後にだいぶ痛い目に遭うが、その頃にはほとんどの観客が「当然の報いだ」という気分になってるんじゃなかろうか。

 しかし彼は、従来の「ガイド役」(鑑賞者が感情移入できるよう、鑑賞者の分身として設定される)よりも、実のところ遥かに私たちに近いのだろう。私を含め現代の日本人の多くが彼と同じ状況に置かれたら、少なくとも行動原理は彼と似たものになってしまうのではないだろうか。

 お約束どおり、白人青年は現地人の無償の自己犠牲によって脱出する。青年の同僚の医師だが、決して仲がよかったわけではない彼は、なぜ助けてくれるのか、という問いに対し、「自分でも解らない」と答える。この妙に投げやりな展開には、制作者の意図を憶測する余地があるなあ。ただし、この医師が言うとおり「『真実』は白人が訴えなければ、世界(白人を中心とする世界)は耳を傾けてくれない」のは事実である。

 長々と述べたが、観に行った目的は馬鹿な白人が酷い目に遭うところじゃなくて、フォレスト・ウィテカーの演技である。彼の出演作で観たことがあるのは、憶えている限りでは『スモーク』『ゴーストドッグ』『フォーンブース』『パニックルーム』。なんかいつ観ても「苦境に立たされて困った顔をしてるおっさん」であった。巨体にかかわらず胃弱っぽい。出産以来無敵のジョディ・フォスターに敵うわけないじゃん、勝負は最初から見えてるよ、みたいな。いつも同じような役ばかりの俳優は好きではない。なので、そういう役者がいつもと違う役を、しかも嬉しそうに演じてたりするとそれだけで評価が上がる。『レディ・キラーズ』のトム・ハンクスとか。「いつも困っているおっさん」が、「狂気の独裁者」をどのように演じるか興味があったのだ。

 実在の「狂気の独裁者」が演じられる場合、だいたいが単にヒステリックなだけだったり、内面へのアプローチとか称して、うじうじしてるだけだったりで、「こんなののどこにカリスマがあるんだ」と言いたくなるのが多い。そうなる可能性も危惧してたのだが、杞憂で終わった。「狂気の独裁者」が怖いのは、それが人を惹き付ける魅力を持ってるからだよね。いや、とにかくフォレスト・ウィテカーが楽しそうなので、私も楽しかったです。

 殺されたのは30万人とも50万人とも言われるが、映画の中での直接的な死はむしろ少ない。それがために却って残虐さを突きつけることに成功している。少なくとも一緒に観た父と妹Ⅱ(二人いるうちの下のほう)には、非常に効いていた。劇場から出た時には妹Ⅱは真っ青でほとんど口も利けない有様だったし、父まで心なしか顔色が悪かった。えらいすんません、と謝る私に父は「いい。知ってたわけじゃないんだろ」

 いや、知ってはいなかったけど、予想はしてました。でもって、父と妹Ⅱも当然ある程度は予想してるもんだと思ってました。えらいすんません。

 こうした仕打ちにもかかわらず、このあと二人は新刊刊行の前祝をしてくれました。でも初めて入った店が、よさそうな見かけに反して高いし(一品あたりの値段は普通なのだが、量がやたらと少ない)、その割りに味は大したことないし、料理が出てくるのが遅かった。すぐに出て、近所のスーパーで酒と刺身を買って家で仕切り直しました。

 というようなことを書くと、まるで家族仲が良いかのようですが、普段は会話らしい会話もありません。仕切り直しでも、父と妹Ⅱは日曜洋画劇場『コラテラル・ダメージ』を観ながら、私は『ラストキング――』のパンフレットを読みながら、黙々と飲んでましたよ。

 

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