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アメリカン・サイコ

 背中がひどく痛んで、いろいろと支障を来す。作業を中断して近所の温泉へ。痛みが和らいだので作業再開、終了。本日午前中、ゲラ返送。

 体調を崩したのは、睡眠時間が短くなっていたせいかもしれない。この数日、なぜか夜になると眠くてたまらなくなり、12時以降、起きていることができない。しかし5時前に目が覚めてしまうので、普段より睡眠時間は減っている。そんなに早く起きてもしょうがないので、6時過ぎまで読書をしている。昨日まで読んでいたのが、『アメリカン・サイコ』(ブレット・イーストン・エリス、角川書店)。寝起きにパトリック・ベイトマン。映画は公開時に観ているが、なんで今頃原作を読んだのかといえば、10代後半から20代後半にかけてほとんど小説を読まずにきてしまったので、その空白を未だに埋められずにいるのである。

 さて原作版だが、書いてあるままの内容であり、今さら私が言うべきことは何もない。これの読者全般にとって、映画はいまいちのようですね。まあ、『I SHOT ANDY WARHOL』の監督には、これが精一杯ってとこでしょう。ほかの監督が撮ったとしても、もっといいものができた可能性は低いだろうし。原作未読で映画を観た者としては、それなりにおもしろかった。特にブランド物の氾濫というか羅列が視覚的に楽しかったのだが、小説を読んで驚いたのは、「羅列」という点に於いて映像は文字ほどの効果を上げていないことだ。ただ、映画のほうが明らかにインパクトが強かったのは、ベイトマンがあの時代のポップスを流しながら、雑誌から拾ってきた複数のレビューを繋ぎ合わせたような空疎な薀蓄を垂れ流すシーンで、その空疎さはほとんど破壊的ですらあった。

 映画が先行しているから余計にそう思うのかもしれないが、ベイトマンにクリスチャン・ベールをキャスティングしたのは成功だった。『I SHOT』でもリリ・テイラーはよかったしな。レオナルド・ディカプリオが名乗りを上げていたそうだが、その心意気は買うにしても、当時のディカプリオは演技が大味になってたし、何より彼は顔に特徴がありすぎて、始終人違いされているベイトマンを演じるには無理がある。劇中、クリスチャン・ベールの表情や仕草がトム・クルーズに似ているのは意図的にやってるとしか思えなかったんだが、原作にトム・クルーズ本人が登場したので笑ってしまった。ベイトマンと同じアパートメントの住人という設定で、つまりそれによってそのアパートメントには箔が付いており、延いてはトム・クルーズはあの時代のアイコンの一つということになる。クリスチャン・ベールは、もともと顔の造りが多少トム・クルーズに似ている。

 容姿に関してさらに言うなら、『リベリオン』で彼がしばしばやった小首を傾げて目を大きく見開く仕草が何かに似てると思ったら――「白フクロウは私に似た目をしている。目を大きくしたときは、とくに似ている」。ベイトマンの時は、そういう仕草は確かしなかったけどね。あと、これはまったくの偶然なんだけど、小説ではベイトマンがバットマンと呼ばれるシーンがある。

 私にとって70年代は、一応体験しているもののほとんど社会とリンクしておらず(73年生まれだし、TVをあまり観ていなかったし)、後から文献等で知った、いわば歴史上の時代である。それに対して80年代およびバブル崩壊の1990年は、小学校から高校までのある意味人生最悪の時期と重なる時代だ。あの時代の流行、社会的な出来事、価値観をひっくるめた「時代性」が、ろくでもない個人的体験の最もろくでもない部分と密接に結び付き、忌まわしさを通り越して、おぞましさすら帯びている。客観的というか相対的な評価とは無関係に、とにかく思い出すのも嫌な時代だ。逆に学生時代と重なる90年代前半は、諸々の束縛からの解放という個人的事情とバブル崩壊後の価値観不在が結び付いて、実に自由な時代だった。もちろん、そんなふうに感じられたのもモラトリアムだったからこそなんだけど。

 映画『アメリカン・サイコ』が公開された2001年頃、見るもおぞましい80年代ファッションが復活しかけ、私は恐れ慄いたものだが、幸い一過性だった。たぶん映画公開とは無関係だと思う。どのみち当時はまだ、80年代およびバブル時代を振り返るには早すぎた。ここのところようやく、あの時代を懐古的に振り返る風潮が訪れている。私としては、頼むから振り返らんでほしい。記憶の蓋が開いてまうやんけ。

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