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トム・ヤム・クン!

 原題(の英語タイトル)も『TOM YUM GOONG』。海外市場を意識した日本映画に『SUKIYAKI』と付けるようなものか。まあ一応、トム・ヤム・クンとは陰謀の舞台となるタイ料理レストランの名前なんだけど。監督も『マッハ!』の人。前回は盗まれた仏像を取り返しにタイの片田舎からバンコクに出向いたわけだが、今回は密猟された象の親子を取り返しにタイの片田舎からシドニーにまで行ってしまいましたよ。

 というわけでオーストラリア警察の腐敗に中国系マフィアまで絡んできてスケールは大きくなってるんだが、脚本には前回以上にいろいろと綻びが目立つ。前回はトニー・ジャーが都会へ出るのに、村中総出でカンパしてくれたのが妙に地に足ついてたんだが、今回はどうやって資金を捻出したんだとか、「ジョニーがすべて知っている」という言葉と店(トム・ヤム・クン)のエントランスの写真だけでどうやって場所を突き止めたんだとか、ヒロイン(?)の彼氏の借金の話はどうなったんだとか、ジョニーの退場の仕方は続編への布石なのかとか。しかしアクションは前回同様、工夫が凝らされ、前回以上に見せ方が巧くなっていた。ボートチェイスとか、倉庫でのチンピラ戦とか。カポエラ使いまで登場したのには、ちょっとびっくりしましたよ。とはいえ終盤はネタが切れたのか、後から後から涌いてくる雑魚戦闘員に、ひたすら骨をひしぎ続けるシーンは、やや辟易した。最後の対戦相手が白人の大男ってのも、お約束というより芸がない。しかも数が増えてるだけってのがどうもな。

 キャラクターも前回以上に立ってなかったしな。キャラ同士の関係が乏しく、それぞれにあまり必然性がない。ペットターイ・ウォンカラム(タイのコメディアンらしい)は、前回よりも個性が活かされてておもしろかったけど、必然性があるかっていうと、あんまりない。トニー・ジャーは前にも増して演技のパートが少ない。台詞が「象を返せ!」しかないよ……。表情とか仕草とかは前より巧くなってるように思えるんだけど。しかし作品中、最も演技力があったのは、象の子供でした。いやほんと、芸達者で可愛いんだ。

 そんな感じで、アクション映画以外の何ものでもないわけだが、タイ人が外国人と結託して希少動物を密輸出してるというのは、『マッハ!』の仏像同様、タイが実際に直面している問題なわけだ。仔象が愛らしいだけに、胸の痛む話である。

 ちょっと不思議に思ったのが悪役の造形で、前回は機械を使って発声する車椅子の男、今回は両性具有(?)の中国マフィアと、いずれも肉体的にスティグマを付与されている。監督は何かこだわりがあるんだろうか。しかしその割には折角の設定が活かされてないし、キャラクターの掘り下げもされていない。前回の悪役も、最後は普通に喋ってたしな。結局なんだったんだ。

 敵が中国系マフィアということで、「タイ人から見た中華風」世界というのが、本場の香港映画等とは微妙にずれがあって興味深かった。ずれと言っても考証の間違いとか勘違いとかではない。そもそも、香港映画だって考証もへったくれもないわけだし。敢えて言うなら、色彩感覚の違いだろうか。

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新作刊行

 というわけで、1年と5ヶ月振りの新作『ラ・イストリア』が明日出ますよ。オリジナルってことなら、2年と9ヶ月振りだ(そして、ようやく二作目だ)。ハヤカワ文庫、税込756円、解説は香月祥宏さん。今回、私のあとがきはありません。表紙イラストは文庫版『グアルディア』に引き続き、D.Kさん。それから今回も地図制作は妹Ⅱ(二人いるうちの下のほう。グラフィックデザイナー)です。

 以前お知らせに書いたように、『ラ・イストリア』は単独でも読める作品ですが、『グアルディア』と相補的な関係にあるので併せて読んでくだされば、よりおもしろいかと思います。どちらを先に読んでも問題ありません。『ラ・イストリア』の最後のシーンは、『グアルディア』第3章の「あのシーン」へと続きます。この二作品のストーリーや設定の関係については、香月祥宏さんが簡潔に解りやすくまとめてくださっているので、そちらを参照してください。

 以下、興味を持ってくださる方々だけに向けた補足。『グアルディア』文庫版あとがきに書いたが、この作品の原型となったのは「生体甲冑」というガジェットを軸とした連作(のプロット)である。その中にはすでに、『ラ・イストリア』のプロットも含まれていた。2004年の『グアルディア』刊行から改めて連作として構想し直すことによって、この「大災厄後の世界」は、生体甲冑という一個のガジェットでは捉え切れないほど大きく、深く広がった。新たなテーマを敢えて述べるなら、「人類の変容」となるだろうか(大風呂敷だなあ)。『ミカイールの階梯(仮)』は、そのテーマによって書かれる作品になるはずである。

 それがなぜ、2006年2月、『ラ・イストリア』を書き始めてしまったのか。なぜ25世紀初頭の中央アジアではなくて23世紀半ばのメキシコの話を書いているのか、自分でもさっぱり解らないまま1年間苦闘し続けてきた。今にして思えば、たぶん大風呂敷を広げるその前に、原点となる「生体甲冑の物語」をきちんと書いておきたかったのだろう。これを終わらせなければ先(『ミカイール』)へ進めない、というのは、そういう意味だったのだ。

 ……とかなんとか言ってみましたが、私が小説を書く上で最も力を尽くすのは、テーマやらメッセージやらではないですよ。「すでにある枠組み」にどれだけ歪みや捻れを加えられるか。それこそが私にとって小説を書く最大の愉悦の一つであり、血道を上げることなのです。『グアルディア』は、「文明崩壊後の世界で、ロストテクノロジーを復活しようと目論む悪役とそれに巻き込まれる主人公」というありがちな枠組みを、散々歪みや捻れを加えることであたかもウルトラバロックの教会建築(構造自体は単純だが、装飾が異様に過剰)のごときに仕立て上げました。ノベライズはTVアニメという枠組みをあくまで遵守しつつ(原作あってこそのノベライズですから)、水面下で「どれだけ読者に気づかれずに歪み捻れを加えられるか」に力の限り挑戦していました。まったく何も気づかなかった人もいれば、なんとなく違和感を覚えた人もいるようですね。「気づかれずにやる」ことが命題なわけですから、少しでも違和感を覚えられてしまうのは「失敗」になるのですが、完全に「成功」してしまうのも、それはそれで寂しいような気がして複雑でした。

『ラ・イストリア』の枠組みは「強力な兵器を偶然手に入れ、ヒーローとなってしまう少年」という物語です。しかし『グアルディア』以上に歪みと捻れを加えたために、その枠組みはほとんど原型を留めていません。主人公だった少年が主人公じゃなくなってるし。枠組みに気づかない人も出てくるのではないでしょうか。そういうわけなので、「強力な兵器を偶然手に入れてヒーローになった少年が活躍する話だと思ったのに、全然違った」と怒る人はいないだろうと思います。いや、絶対いないとは言い切れないな。どうだろう。

 刊行が楽しみです(カテゴリー「著作」にリンクを追加しました)。

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闘う前から負けてます

 2004年夏、私は人知れず悩んでいた。他人には打ち明けられない悩みであった。目前となったデビュー作刊行に関わることだったからである(小説家デビューについて伏せている理由については、5月6日の記事を参照のこと)。お盆休みになり、当時は同居していなかった妹Ⅱ(二人いるうちの下のほう)が遊びに来た。私は思い切って彼女に打ち明けた。

「どないしょー、SFでデビューしてまうなんて。高校で生物以外の理数科目の成績、めっちゃ悪かったのに。生物かて、しょせん文系やし」

 母校のカリキュラムは一年次に化学、物理、地学、生物を一通りやり、二年次から選択、というものだった(化学は通年、残り三教科は一学期ずつ)。化学と地学も芳しくなかったが、物理は洒落にならないくらいひどかった。どれくらい洒落にならないかというと、「50点満点なのが、なんのフォローにもならない」。赤点でも取れば少しは勉強したんだろうが、どうやら物理と地学と生物は点数を合計して成績をつけたらしい。生物の点数が他の二科目を補ったのである。で、二年生になって生物を選択し、ほかの科目はそれっきりである。ちなみに数Ⅰはかろうじて平均、数Ⅱは惨憺たるものだった。

 いいんじゃない別に、と妹Ⅱは答えた。よくないよ、と私は言い募った。「だって、SF作家なんだよ?」いいじゃん、となおも妹は言う。「学歴なんて関係ないよ」

 話が噛み合わない。噛み合わないまま、もうしばらく遣り取りを続けているうちに、卒然と私は悟った。妹Ⅱは、「SFというジャンルは、書き手にも読み手にも科学の知識が必要という大前提を知らない」。

 いわゆるSF冬の時代の一つの原因であり、未だに多くの読書家をしてSFを敬遠させるのは、SFが「専門的で難解」というイメージを持つからだ、と私は思っていた。確かに、私の年代(70年代前半生まれ)から上であれば、そういう理由でSFを読んでこなかった人たちが多いだろう。しかしそれより下の年代(妹Ⅱは78年生まれ)は、読書の幅が広がる時期すなわち中学高校時代には、すでに視界にSFが入ってこない状態だったのである。SFは馴染みのない存在であり、難解だという偏見もない代わりに興味も惹かれない。知らないものは読まない、ということなのだ。この発見は、愕然とさせられるものだった。

「あのさあ、SFって『スペースファンタジー』の略じゃないって知ってた?」「えっ、そうなの?」マジで驚く妹Ⅱ。「じゃあ、なんの略?」 「さいえんすふぃくしょん……」「へー」「SFっていったら、どんなイメージ持ってる?」 即答する妹Ⅱ。「宇宙とか」

 それ以上、話題を続ける気力は残っていなかった。そして数日後、高校の理数科目の問題集を買い、15年振りの復習を始めたのだった。それからさらに数ヵ月経って、今度は妹Ⅰ(上のほう)が遊びに来た。76年生まれの彼女に、私は上記の話題を持ち出してみた。「あのさあ、SFって『スペースファンタジー』の略じゃないって知ってた?」「えっ、そうなの?」マジで驚く妹Ⅰ。「じゃあ、なんの略?」 「さいえんすふぃくしょん……」「へー」「SFっていったら、どんなイメージ持ってる?」 即答する妹Ⅰ。「宇宙とか」「宇宙ちゃうやろ、私の小説はっ」妹たちは、『グアルディア』だけは読んでくれたのである。妹Ⅰは私の悲憤慷慨など意に介さず答えた。「でも、宇宙から降りてくるじゃん、なんかが」

 いや確かに、降りてくるけどさあ、何かがっ。

 私は、「仁木稔」の小説がメジャーになることは望んでいない(だって、ならないし)。しかしSFというジャンルには、再びメジャーになってほしいと願っている。てゆうか、「SFがメジャー」というのがどういう状況なのか、実際に体験してみたいのである。龍大史学科の先生方に限らず、五十代くらいの男性にSFの話を振ると、かなりの高確率で元SFファンだと明らかになるんだよね。で、二言目に「もう20年(ないしは30年)以上、SF読んでないけど」。三言目に「SFマガジンってまだ出てるの?」。

 しかしSF再興のために、勤勉な執筆活動以外のことを何かしろといわれたら……無理です、妹たちが相手でも負けてます。まして広い世間が相手では。できることしか、できないんです。

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表紙イラスト

 またぼんやりしてて食器割ってもうた。今年に入って何個目だろう(たぶん3個目。まだ)。

 早川書房のHPに、『ラ・イストリア』の書影が上がっています。イラストレーターは『グアルディア』に引き続き、D.Kさん。

 イラストの少女は、『グアルディア』下巻の女性と同一人物ではありませんが、同一の遺伝子を持っています。衣装の白と青のカラーリングは「無原罪懐胎」。背景の海は23世紀のカリフォルニア湾です。カリフォルニア湾には鯨の群が定住しているんですよ、というお話ですので、皆様よろしくお願いします。

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深草散策

『ラ・イストリア』の作業は今週ですべて終わり。というわけで、京都へ行ってきた。龍谷大学の大宮図書館で調べ物をするのが目的だったんだが、ちょっと足を伸ばして伏見区深草まで。7年間大学におったうち深草学舎に通ったのは最初の2年間だけで、残りの5年間は西本願寺境内にある大宮学舎に隔離されていたんだが、住居は在学中から卒業後もずっと深草であった。デビュー後、時々図書館に調べ物に行ってはいたが、深草近辺をお散歩するのは6年と数ヵ月振りである。

 うわー懐かしー、と京阪深草~藤森~近鉄竹田の範囲をぐるぐる歩き回る。あー、あの店もあの店もなくなってる、バイトしてた店はまだある(げ、店長まだおるやんけ)とか。軽くショックだったのは、幾つもあった小さな書店がことごとく閉店していることであった。最後の一軒に至っては、今まさに閉店作業の最中だった。そうして晴れ渡った空の下を3時間近くも彷徨した後、深草学舎へ行く。新しくなった生協書籍部に立ち寄ってみる。私の本は置いていない、のはまあいいとして、ハヤカワ文庫のコーナー自体が存在しない(電撃とかスニーカーのコーナーはあるのに)。「大宮バス」で大宮学舎へ。学部時代のゼミ教官であったK先生を訪ねる。

 K先生と再会したのは、昨年夏。1998年の卒業以来、連絡すらしていなかったので、調べ物に行ったついでに、挨拶に立ち寄ったのだった。「必要と判断した時以外、自分の職業は明かさない」ことにしているが、この時は必要云々以前に、明かしたらやばいと思っていた。授業中、日本人作家が書く中国歴史小説に先生が一度ならず苦言を呈していたことは、よく憶えている。歴史をネタにしたSF(しかも次作予定の『ミカイールの階梯』は中央アジアが舞台だ)を書いてると知られたら、間違いなく不興を買うと怯えていたのである。で、8年振りに研究室に顔を出した私を見るなり、先生はおっしゃった。

「ああ、きみか。えーっと、SF書いてる?」

 ぎゃーっ、なんで知ってるの?

 正確には、先生は知っていたわけではなかった。その数ヶ月前、龍大広報部からインタビューの申し込みがあった。それは断ったんだが、広報部の人は私に連絡を取るより先に、K先生に質問しに行ったのだそうだ「東洋史専攻の卒業生でSF作家になった人がいるんだけど、心当たりはありませんか」。理由は、「K先生のゼミには、変わった学生が多いから」。どういう理由だ。そして先生は、卒業年も本名も不明だというのに、「そういうことをするのは、きみしかいないと思ったんだよ」。

 なんでそんな根拠で私だと確信するんだ。しかも当たってるし。在学中、私は小説を書いていなかったし、小説家になりたいと公言もしていなかったし、課外活動(映画撮ったり、演劇やったり)のことは先生は知らなかっただろうし。当時も今も、私の自己イメージは「地味で目立たなくて、他人の印象に残らない」なんだけど。先生が、担当した学生のことは皆憶えているのかというと、そうでもないようだし。ほかにお会いした先生方も、すぐに私のことを思い出してくれたしなあ。たぶん、協調性がないから悪目立ちしてたってところなんでしょう。いずれにせよ、憶えていてくださったのはありがたいことです。

 しかしある意味それ以上に驚いたことに、K先生は元SFファンなのであった。今回と前回とで、四人の先生にお会いしたのだが、全員が元SFファンであらせられた。そして全員が二言目に「もう20年(ないし30年)SF読んでないけど」。三言目に「SFマガジンってまだ出てたの?」。……そういうわけで今回は、「ほら、SFマガジンですよ、ほら」と見せに行ったのであった。「これ、くれるの?」「あげませんよ、これは私が貰ったんだから(「謹呈」の判子が押してある)。御自分で買うてください」私なりに販促活動をしたつもりです(なってるのか?)。

 それから図書館に行ったんだが、目当ての資料は、すでに知ってる内容ばかりで役には立ちませんでした。ちっ。

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ブラックブック

 父は私とあまり趣味が合わないので、週末のレンタルビデオ店ではいつも揉めるのだが、『スターシップ・トゥルーパーズ』の「1時間で死者10万人」で笑った人なので、ほかがどれだけ合わなくてもまあいいや、と思える。「今まで観た戦争映画で一番よかった」のが『ジャーヘッド』だとも言ってたしな。

 というわけで、『ブラックブック』。さすがバーホーベン監督である(ほかの作品、観たことないんだけど)。ハリウッドがバーホーベンにこういう映画を撮らせることができなかったという事実は、後者にとってだけでなく前者にとっても悲劇である。才能の持ち腐れさせちゃったね。

 占領下、そして解放後のオランダ人たちの振る舞いは、『戦争の法』を思い出させる。占領軍がナチスだし、バーホーベン作品だしということで、作中で直接流される血の量は自ずと桁が違ってくるのだが。しかし「占領」という行為がその地の住民たちに最低限とはいえ「生活」させておくのであって、殲滅するのでも拘禁するのでもない以上、黒でも白でもない灰色の領域が占領する側もされる側も広く覆うことになる、という点では同じである。

 ヒロインのカリス・ファン・ハウテンは、単に容姿や演技力だけでなく、「好きなバーホーベン作品」に『スターシップ・トゥルーパーズ』を挙げているという点で、まさにバーホーベン作品のヒロインに相応しい。ハリウッドへ「進出」なんかせずに、ヨーロッパで広く活躍してほしい。しかし、彼女が200リットルもの汚物を浴びるシーンの撮影後、「彼はすぐに私のところへ来てくれたの。そんなことをする必要もないのに、自分も私と一緒に汚物の中へ入ると言ってきかなかったのよ。それほど深い愛情と思いやりを持った人なのね」(パンフレット掲載のインタビューより)だそうだが……いや、絶対あのおっさん、「美女と一緒に汚物塗れ」になりたかっただけだと思う。しかもその時、彼女は半裸だし。

 キャラクターの造形は皆、いい意味でシンプルであり、鬱陶しい心理描写などなくてもステレオタイプに陥ってはいない。最もわかりやすい悪役であるフランケン中尉でさえ、そのわかりやすさが実にえげつなく、凡庸とは言い難い。唯一、ステレオタイプのナチ将校だったのが、クリスチャン・ベルケルが演じたカウトナー将軍。投降後の保身の巧さとか、いい味の片鱗は出てたんだけどね。ベルケルは『ヒトラー 最後の12日間』でもナチ将校だったが、その時は良心的な軍医だったな。

 しかしこういう作品が撮れたからには、次こそは是非、『難破船バタヴィア号の惨劇』(マイク・ダッシュ、アスペクト)を映画化してほしい。やはりハリウッドではなく、オランダで制作してこそだろう。レジスタンスの暗部の次は、大航海時代の暗部だ。『ブラックブック』はオランダ国内だけでは資金が賄えなかったそうだから、『バタヴィア号』ではオーストラリアにも出資してもらえばいい(オーストラリアの領海内で難破してるから)。途中で追放された士官とその部下たちにもスポットを当てれば、陰惨なだけの話にはならないと思うし。

 話は戻るが、『スターシップ・トゥルーパーズ』を観たのは3年前の今頃。『グアルディア』刊行に向けての加筆修正のためである。正確な数字は忘れたが、2002年秋の初稿完成時の400字詰換算枚数は、950枚余りだった。で、改稿の結果、最終的には1060枚か1070枚(だから、Jコレ版あとがきでは「約千枚」という表現をしているのである)。もちろん、単に100枚余りを書き足したというんではなくて、加筆修正は全編に及び、シーンによってはまったく別のものに書き換えたりもしている。中でも一番書き直しが多かったのは、第七章の地下要塞での殺戮と、第八章のサンティアゴ降臨。人がばさばさ、ぐちゃぐちゃ殺されるシーンなんか詳細に書いても仕方なかろう、と描写を控えめにしていたんだが、塩澤編集長からは、人がばさばさ、ぐちゃぐちゃ殺されるシーンを詳細に書くよう要求される。じゃあ何か参考になりそうな映像作品でも、と選んだのが『スターシップ・トゥルーパーズ』であった。実際に具体的に参考になったのかどうかは自分でもよく判らないんだが、とにかく鑑賞して大いに意気軒昂となり、その勢いで二つのシーンを書き直した。単純に増えた枚数だけでも、計70枚余りになる。それはそのままOKを貰い、つまり現在Jコレ版ならびに文庫版で読めるわけである。

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不幸な出来事

 塩澤編集長から最初の連絡があって『グアルディア』が刊行されるまで、半年近くあったわけだが(その間何をしていたのかと言うと、ひたすら加筆修正である)、いよいよ刊行目前、もう見本も届いているという時点でも、私はそのことを家族にしか告げていなかった(しかも家族全員にではない)。理由の一つは、要するに本当に本が出るということが信じられなかったのである。早川書房を信用していなかったとかそういうんではなくて、ただこの幸運が信じられなくて、なんとなく口にするのも躊躇われたのであった。

 そんな折、学生時代の友人から偶然に電話があった。彼女は同じ史学科東洋史専攻で、趣味はまったく合わなかったのだがなぜか大層気が合った。当時から私は小説家志望だったが、小説を書けないのでその夢を他人に話したことがほとんどなかった。彼女は、その少ない相手の一人である。卒業してからも付き合いは続いていたが次第に疎遠になり、もう5年ほど完全に連絡は途絶えていた。卒業後、OL→主婦の彼女と、大学院→フリーターの私とでは、致し方ない結果ではあった。連絡の絶えたきっかけも、彼女の妊娠だったしな。その後、彼女は離婚して子供を連れて実家に戻り、さらに一年経ってようやく落ち着いたところで私のことを思い出し、わざわざ私の実家に連絡してくれたのだった。懐かしさも手伝ってすっかり嬉しくなった私は、小説家デビューのことを彼女に告げた。彼女は私の夢をちゃんと憶えていてくれて、本が欲しいと言った。「分厚いし、一般受けするようなんちゃうで。きみ、SF読まんやろ」と断ったが、それでも欲しいと言う。まあ現物は見せたいしな、ということで刊行から一週間後くらいの9月初め、持参していったのであった。そして改めて、貰ってくれるという彼女を謝絶した。

「お薦めの本(またはDVDとか)を貸す」というのは、不穏な行為である。下手をしたら人間関係に罅が入る危険すらある。そして彼女はSFどころか、書籍全般をまったく読まない人であった。子供の頃、クリスマスプレゼントに童話を貰って、失望と嫌悪のあまり泣いて拒否したという逸話の持ち主だ。そんな彼女がなぜ東洋史なんかを専攻したのかというと、「自分の知らない分野だから、ものは試しに」だったそうな。たぶん、東洋史がアホほど文献(それも漢文とか中国語とか)を読む必要があるということも知らなかったのであろう。2回生の時点ですでに「やっぱり私には合わない。早く卒業したい」と言っていた(それでもちゃんと課題をこなして卒論も提出したのだから、むしろ大したものかもしれない)。再会した彼女は、その文芸全般への無関心にますます拍車が掛かっており、いくらなんでもこれは知っているだろうと挙げた「セカチュー」ですら知らなかった(映画化とTVドラマ化の直後である)。

 再会自体は大過なく楽しく終わったが、その後彼女からの連絡はなかった。ま、そんなもんだろう、と3ヵ月後に電話してみると、「ごめんな、本まだ途中までしか読んでへんねん」。「うん、そんなことやろと思てたよ」と私は答えた。「ごめんな」「ええって、無理せんでも。それよりこないだも言うたけど(言ったのである)、職場でもどこでもSFとか好きそうな人がおったら、その本あげてや。そういう人がおらんかったら、図書館に寄贈するか古本屋に売るかして」「えーっ、そんなことでけへんよ」「お願いやから、そうして」

 彼女は困惑しているようだったが、ややあって気を取り直すように言った「本、映画化するといいなあ」。「いや、しないから」映像化不可能という誉め言葉を、彼女は想像したこともないんだろうなあ、と思っている私に、さらに追い討ちが掛かる「でも、映画化するとなると、南米が舞台だからロケとか大変やろな」。そうか……アニメ化とかCG使うとかそういう発想すらないのか。『グアルディア』実写化、キャストはオール日本人……?

 痛い。すっげー痛い。何かもう、断末魔の叫びを上げて床をゴロゴロ転げ回ってしまいそうな痛さである。何より痛いのは、彼女が私が喜ぶものと思って言っていることだ。やめてー、もうやめてー、ゆるしてー。そもそも、こういうことを言われたくないから、デビューの話を周囲にしていなかったのである。それでも彼女にだったら多少痛いことを言われても耐えられる、と思ったのだった。しかしその痛さは、予想を遥かに超えていた。

「ほな、読み終わったら連絡するな」と彼女は言った。それきり、連絡はない。そういうわけで未だに私は、必要だと判断した時以外、自分の職業を人に告げないのである。

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ヴィレッジ

 すごく丁寧に作られた『Ⅹファイル』。Ⅹファイルは(確か4thシーズンの途中まで観た)は必ずしも超常現象ネタばかりじゃなくて、「超常現象に見せかけて実は……」という話もちらほらあった。『ヴィレッジ』は後者。少なくとも20年以上にわたって隔絶した環境に閉じこもっているはずなのに物質的に豊かすぎるとか、いろいろツッコミどころがあるのもⅩファイルっぽい。

 どうやらシャマランの関心は、このⅩファイル的な枠組みを丁寧に丁寧に描くことにあったようだ。『アンブレイカブル』の場合は、アメコミヒーロー映画という伝統的な枠組みの第一作目の前半(ヒーローが力に目覚め、前哨戦となる小さな悪を倒すまで)を、まったくアメコミヒーロー映画的でない技法で丁寧に丁寧に描いていた。この捻り方は大変わかりやすく、おもしろい。しかし『ヴィレッジ』の場合、捻りは目に見えるかたちで表れていない。そのまんま、なぞっているだけである。捻りすぎて360度回ってもうて、何も捻ってないように見えるというか。判りやすく不安を煽る演出とか、「心の痛み」とか「愛」とか「無垢」といった取って付けたテーマとか。ハリウッド映画ならばこういう閉じた環境にはなんらかの形で変化が訪れなくてはならないのだが、閉じたままで終わるというのも、1時間枠のTVドラマ(オープニング、CM、次回予告込み)なら有りだろう。それを、1時間40分余りのハリウッド映画でやっている。

 要するに、この作品にはメッセージ性というものがないのである。『ジャーヘッド』に於けるメッセージ性の排除は、戦争映画とかドキュメンタリーを観ただけで「戦争を解ったつもり」になる観客への批判、と取れないこともないが、『ヴィレッジ』はただただ「すごく丁寧に作った『Ⅹファイル』」だもんなあ。したがって、この「すごく丁寧に作る」ことよりも、ストーリーやテーマ、メッセージのほうがフィクションの価値として優先すると見做している観客は、馬鹿を見ることになる。そしてフィクションの価値というものは、技法よりもストーリー、ストーリーよりもテーマやメッセージのほうが優先するとされているのだ。だから、「作者が何を言いたいのか解らない」「メッセージが伝わらない」といった評は罵倒たり得るのである。レビューを検索してみたら、ストーリーを追ってテーマとメッセージを読み取ろうとした結果、その努力が報われなかった人たちの怒りと困惑が満ち溢れていました。ははははは。

 捻くれ具合がわかりやすいという点では『アンブレイカブル』のほうが好きだが、映像は『ヴィレッジ』のほうが美しい。というか、光量の足りない画面が苦手なので、『アンブレイカブル』はちょっとしんどかったんだ。『ヴィレッジ』は、なんで映画館で観なかったんだっけか。『シックス・センス』は、普通に普通(だから評判がよかったんだろう)。『レディ・イン・ザ・ウォーター』は、ちょうど『ラ・イストリア』に掛かりきりで、気が付いたら終わってたんだよな。公開期間も短かったし。『サイン』は確か公開中に、佐藤先生から薦められてたんだが、メル・ギブソン主演に引いてしまったのだった。「メル・ギブソンの顔が苦手なんです。でかいから」と訴える私に、「そのでかい顔で苦悶してるのがいいんだよ」と先生はおっしゃった。それを聞いてますます引いてしまい、いつかは観ようと思いつつ先延ばしにしているうちに、『小説のストラテジー』を読んで、ああもう絶対無理だ、と諦める。暗い場所は苦手なのである。『アンブレイカブル』では暗い室内でグラスの水が仄かに反射する光とか、雨空の一点から微かに射す光とかがあったので、なんとか持ちこたえることができた。しかし『サイン』では地下室だそうである。暗い上に狭いのは、もっと苦手だ。その暗くて狭い場所にメル・ギブソンとホアキン・フェニックス(あの顔は嫌いではないが、しかしメル・ギブソンと並ぶとくどさが相乗効果を上げるように思われる)がひしめいているなんて、想像しただけで胃が、胃がキューッと……

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キラキラ、ギラギラ

 発売中のSFマガジン6月号のエッセイの中で使っている「キラキラ、ギラギラ」というフレーズは、大原まり子氏の同じく未来史シリーズ『未来視たち』の後書きから引用させていただきました。私にとっての「SFなるもの」は、「キラキラ、ギラギラしたもの」です。「キラキラ」だけじゃ駄目なんだよな。「ギラギラ」もしてないと。

 そんなふうに私の中で「SFなるもの」のイメージは非常に明確なのに、そのイメージに沿って書いたものは「キラキラ」も「ギラギラ」もしてません。なんでやねん。敢えて言うなら、「ぬめぬめ」とか「ぬらぬら」とか……(しかも平仮名かよ)。脳標本を見て喜んでる奴には、どだい無理なのか。いや、そもそも『一人で歩いていった猫』を初めて読んだ時からして、下顎を吹っ飛ばされて死体と化した「猫」が再生するシーンで、「おおっ」と思ったもんな(12歳だったのに……)。

 私の実家は信州の山奥で、市街地まで徒歩20分は掛かります。車がないと、どこへもい行けない。当時は毎週土曜夕方、家族全員で図書館とスーパーへ行く習慣でした。『一人で歩いていった猫』を閲覧席で読み始め、猫が流刑囚として地球送りになることを告げられたあたりで閉館時間。両親に急かされながら、ほかの図書と一緒に借り、乗車すると直ちに取り出して開いた頁が偶々、例の再生シーンだったのですよ。おおっ、と思ったところで車が動き出したので渋々本を閉じ(乗り物酔いするので)、スーパーに着いてから寒い車内に残って続きを読んだのでした。

 作品世界を代表するガジェットとしてエッセイに挙げたのが、タイトルロールの「天使猫」なのはいいとして、もう一つが「破壊されたアディアプトロン人」ってのが、露骨に趣味が出てます。あれは表題作「一人で歩いていった猫」の該当シーンそのままではなくて、『SFマガジン・セレクション1981』所収の「ほうけ頭」に登場するアディアプトロン人のイメージも重ねてあります。『グアルディア』の原型となるプロット群が、当初から連作構想だったのは、間違いなく「未来史シリーズ」の影響ですね。あと、『火の鳥』と『ナルニア』。

 話は変わりますが、『SFマガジン・セレクション1981』はどの作品もおもしろかった。手許にないので、記憶と検索データだけで書きますが、特に亀和田武氏の「夢みるポケット・トランジスタ」のお蔭で、現在に至るまで私は「たとえ現実と思っているものがまやかしだったとしても、そのまやかしのほうが現実よりもマシであるなら、まやかしに留まることを選ぶほうが『リアル』だ」と考えるようになったのでした。現実にそこまでの価値はない、と。作者の意図がどうだったのかは判りませんが。

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