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サンタ・サングレ

 アレハンドロ・ホドロフスキー作品はこれが最初で、今のところ最後。ネタバレが問題とされるタイプの作品ではないと思うが、一応ネタバレ注意と書いておきますよ。

 視覚的にはいろいろと楽しめたが、脚本や演出がどうにも。まずは不平から。メキシコで実際に起きた連続殺人事件に基づいているそうだが、監督の関心は実際の事件にはなく、それをネタに自分のやりたいことをやっただけのように思える。とにかく私は、実在だろうと架空だろうとサイコ野郎は嫌いだし、それに同情的な作品および人は嫌いである。かっこいいと思ってるのんは論外だ。母親に操られて殺人を犯す青年、しかし実は母親はとうに死んでいて……って、『サイコ』じゃん。先行作品があることを云々する気はないが、このネタに限っては『サイコ』一本で充分だ。てめえのこらえ性のなさを母ちゃんのせいにしてんじゃねえよ、情けねえ野郎だな。

 全編に満ちた毒々しい俗悪さは、なかなか素晴らしい。特に一箇所、すべての不満を帳消しにするほど素晴らしいシーンがある。主人公の母コンチャは信心にのめり込んでいるのだが、その信仰の対象は、かつて強姦されて殺されたある一人の少女である。少女を聖女として崇める宗教団体で、コンチャは教祖か少なくともかなり高位にあるらしく、小さな教会でミサを取り仕切っている。祭壇には両腕を切り落とされた少女の像が祀られ、教会の前庭にはプールがあり、「聖女から流れ出た聖なる血」で満たされている。

 そこへカトリックの司祭がやってきて、コンチャたちを異端だと糾弾し、さらにプールいっぱいの鮮血がペンキに過ぎないことを暴く。げんなりするほど浅薄な「聖性」がこの瞬間、毒に満ちた嘲笑へと昇華される。実に、素晴らしいシーンだ。ただし作品全体にちりばめられた隠喩の中には、解りやすすぎて辟易させられるものもあるので(大蛇の幻覚=性衝動/殺人衝動、等)、ひょっとしてこの監督は大真面目なんじゃないかとやや不安になったりもする。「二人羽織」はもしかしてギャグじゃない?とか。

 強姦され両腕を切り落とされた少女、というのはアステカの女神コアトリクエだろう。大勢の子を持つ未亡人だったが、ある日、どこからともなく出現した羽毛の球に触れたところ、妊娠してしまう。息子や娘たちは、家の恥としてコアトリクエを殺す。四肢と頭を切り落とされた死体から生まれたのが、アステカ族の守護神ウィツィロポチトリである。生まれるや否や兄と姉たちを虐殺した彼は、太陽神であると同時に戦争の神でもある。アステカ族の戦争は、生贄を狩るために行われていた。

 スペインによる征服後、コアトリクエは聖母マリアに習合された。ということはつまり、ウィツィロポチトリはキリストだということになる。生贄を求める神は、自身が生贄となった神と同化されたのである。『サンタ・サングレ』では、コンチャもまた両腕を切り落とされて死ぬ。コンチャ=コアトリクエ=聖母、主人公=ウィツィロポチトリ=キリスト、とまで監督が考えていたのかどうかはわからないが、主人公の名は「フェニックス」で、最後に彼は母親から解放されて自分の罪と向き合う=復活するので、たぶんそうなんでしょう。ちなみにフェニックスを導き、救う少女の名はアルマ(ALMAスペイン語で「魂」)で、コンチャの正式な名はコンセプシオン(INMACULADA CONCEPCION無原罪懐胎)でつまり聖母を指す。

 最後にもう一つだけ不満を述べる。成長したアルマ役の女優、もっと綺麗な子を使ってほしかった。

 観たのは確か2000年。友人に強く勧められたから。どうだった、と訊かれて、はかばかしい反応をしなかった私に失望したらしく、彼女はその数年前に作っていたというミニコミ誌に掲載された彼女自身のレビューを見せてくれた。私も失望しましたよ。サイコ野郎に同情的な人だと判ったので。友人に作品を勧めるというのは、本当に剣呑な行為だなあ。

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LA CALACA

『ラカラカ』。CALACAの意味が、調べても判りません。それはともかく。

 フリーダ・カーロの話、では全然ない。メキシコの海辺に女が一人住んでいて、彼女の名はフリーダといって顔もフリーダ・カーロそっくりなんだが、それについてなんの説明もない。フリーダは骸骨たち相手の下宿屋を営みながら、夫の帰りを待っている。夫(ディエゴという名)は海にさらわれ、行方知れずだ。彼女は夫が骸骨になってでも帰ってきてくれると信じている。

 この作品を知ったのは『ラ・イストリア』の執筆中だったんだが、メキシコものを探していたとかそういうわけではなくて、ある日ふと「そういえば澤井健って、もう漫画は描いてないのかな」と気になり、ネット検索して発見。私が知らなかっただけで、04年の刊行でした。いくら澤井健の絵でフルカラーでB5判だからって、100頁足らずで1800円てのはちょっと高いんだが(量の問題じゃないけどさ)、まあともかく。

 登場するのは骸骨ばかりだが、とても美しい作品。肉を完全に失い、漂白された骨の美しさ、海の波に削られ磨かれた石やガラスの美しさだ。メキシコの骸骨たちは陽気だが、それでも死の静けさを併せ持っている。騒擾と静謐の並存。チョコレートのエピソードには笑った。作中ではなんの説明もされていないが、フリーダ・カーロはディエゴ・リベラより三年早く死んでいる。死者が帰ってくる国メキシコで、「死んだ」夫ディエゴを待つフリーダは、果たして死者なのか生者なのか。物語の最後に、生と死は多層の円環を成す。

 ところで澤井健は、今は映画秘宝のエッセイだけなんだろうか。確かに文章もおもしろいんだが、折角だからもっとイラストをメインにした仕事もしてもらいたい。コミックエッセイは……ちょっと違うか(それ向きの絵ではない気がする)。

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フリーダ

 ル・クレジオの『ディエゴとフリーダ』(新潮社)を読んで、なんとなく観たくなったのでDVDを借りる。それまで観なかったのは、監督が『タイタス』の人なんで、あんまり期待してなかったから。『タイタス』は出だしはよかったんだけどねえ。

 伝記映画というのは、往々にして散漫な内容になりがちだ。人ひとりの人生は、二時間前後に収めるには長すぎる。テーマを絞り、エピソードを切り出さないことには、どないもならん。この『フリーダ』も例に漏れず。確かにテーマは「ディエゴとフリーダの愛」に絞られてるんだけどね、出会いからフリーダの死までの30年ってのは、なんぼなんでも長すぎでしょ。せめて少女時代は回想にするべきだった。エピソードの選択や扱い方は巧いし、要所要所でフリーダの絵や残っている写真が活人画として使われている映像もよい。それでも、散漫さは免れていない。役者の演技も巧いし、音楽もいいのに埋没してしまっている。ある意味、勿体ない作品。2回に分けて放映する4時間ほどのTVドラマにしたほうがよかったんじゃないかと思う。いや、別に映画とTVドラマのどっちが上とかそういう問題ではなくて。フリーダの絵、そして先スペイン期でも植民地時代でも西部劇でもない、近過去のメキシコの都市の情景を眺めるには、手ごろな映像作品だと言える。

 メキシコという国、或いは「ディエゴとフリーダ」について、「事実」という表面的なものをすべて剥ぎ取った作品として、澤井健のコミック『LA CALACA』がある。というわけで、カテゴリー「鑑賞記」のほうに上げておきました(所持してるから、「思い出し」じゃないです)。

『アクロス・ザ・ユニバース』感想

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メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬

 カテゴリー「思い出し鑑賞記」は、鑑賞が数ヵ月以上前になるものについての記事です。書くのにあたって再鑑賞はしていないので、記憶違いがあるかもしれません。御了承ください。しばらくは、『ラ・イストリア』で参考になったような気がする作品を挙げていきます。

 というわけで、『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』。いかにもマジック・リアリズム的なタイトルを映画雑誌で目にして以来、ずっと公開を楽しみにしていた。もちろん、映画館で観ましたよ。

 中南米、ことにメキシコ人にとってアメリカ合衆国は、憧れとコンプレックスと脅威が入り混じった存在だ。戦後から高度成長期にかけての日本人の心性に近いんじゃなかろうか。当然ながら、メキシコ人にとっては遥かに肉薄した問題であるわけだが。物語は、三人の男を中心に展開する。テキサスのカウボーイであるピート、その親友で不法越境者のメルキアデス・エストラーダ、そしてメルキアデスを射殺した国境警備隊員のマイク。マイクは高校時代はフットボールのスター選手で、今はただの人。異文化に無関心で国境の外はすべて「周辺」だと思っている、典型的なアメリカ人だ。ピートは国境地帯に根を下ろし、スペイン語も話せるが、自らの法に従って生きており、マイクとは違った意味で典型的な(或いは伝統的な)アメリカ人である。

 興味深いのは、脚本がメキシコ出身のギジェルモ・アリアガ(『バベル』の人)であることだ。つまりマイクとピートというキャラクターは、「外の人間から見た典型的アメリカ人」なのである。俳優たちも、おそらくそのことを意識して演じている。ちなみにバリー・ペッパー(マイク役)はカナダ出身、トミー・リー・ジョーンズはテキサス出身でハーヴァード大卒(これが初監督作になる)。この二人のキャラクターに対し、フリオ・セサール・セディージョ演じるメルキアデスは冒頭すでに死体となっており、回想シーンに登場するだけである。ピートとルー・アン(マイクの妻)という彼に好意的な者たちによる回想だということもあって、メルキアデスはありえないくらい純朴な人物として描かれている。あたかも「文明人」にとっての理想化された「第三世界人」といったところで、脚本家の意図に疑念を抱くが、終盤、メルキアデスの「故郷」ヒメネス、「胸が痛くなるほど美しい場所」で、それまで作り上げられてきた彼のイメージは一変する。そして最後の最後にそのイメージは再び変貌し、メルキアデスというキャラクター、および作品そのものが現実と幻想の入り混じった美しい場所へと飛翔する。

 死体とともにメキシコ国境の荒野を旅する男、というモチーフは『ガルシアの首』を思わせる。作品の雰囲気も似ている。とはいえ『ガルシアの首』の殺伐とした陰鬱さに対し、『3度の埋葬』の旅はどことなくユーモアが漂う。死と結び付けられたユーモア、という点でも実にメキシコ的な作品だ。

 メキシコでは不法越境者を「ポーリョ」(若鶏)、その仲介業者を「ポリェーロ」(養鶏業者)と呼ぶという。『ラ・イストリア』では、北米からメキシコへと大量の不法越境者(その多くは20世紀のメキシコ移民の子孫)が押し寄せるが、彼らはメキシコ人たちから「プエルコ」(豚)、仲介業者は「ポルケーロ」(豚飼い)と呼ばれる。スペイン語圏では豚は最も忌み嫌われる動物で、人を豚呼ばわりするのは非常に強い侮辱になるんだそうな。ただし豚肉は好んで食べられてます。

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ベルギー王立美術館展

 入り口近くに展示されていたのがピーテル・ブリューゲル(父)の作と推定される「イカロスの墜落」。のどかな風景の中、画面の片隅で手脚だけを海面に突き出す溺れかけた人間、イカロスであることを示すのは海上に舞うわずかな羽だけ、という身も蓋もない作品だ。参観者たちの中には、近寄って眺めて失笑する人たちもいたが、失笑でもする以外にこの不条理さには対処のしようがないだろう。ブリューゲルのほかの作品よりは描き込みが少ないが、真剣なんだか悪意に満ちてるんだかよくわからない座りの悪さと、あとは剥き出しの脚の生々しさが相俟って、よりボッス的であるように思えた。

 ベルギー絵画という括りの展覧会が日本で開催されるのは初めてだそうである。確かに16、17世紀はブリューゲル一族、ヴァン・ダイク、ヨルダーンス、テニールスと錚々たる面子だが(レンブラントやフェルメールはなかった)、18世紀の作品はなく、19世紀もアンソールとクノップフまでは知らない人の作品が続く。とはいえ100点を超える展示の大半がそれぞれ印象的であり、数に埋もれてしまうようなことはなかった。

 造形作品を前にして、まず観るのは「形(構図を含む」と「色(或いは陰影)」がおもしろいかどうか。しかしそれだけなら偶然の産物でおもしろいものはいくらでもあり、意図を持って作られた「作品」である必要はない。「作品」をおもしろくしているのは、作り手のこだわりだ。作品はテーマとメッセージだけからなるものではない。一部の造形家は形と色に対してそれぞれ何かしらのこだわりを持っており、そのこだわりを追求することに偏執的な愉悦を覚えるフェティシストである(自覚があろうとなかろうと)、と私は思っている。構図や色彩の微妙なバランス、或いは絵筆の一刷け、鑿の一彫りに作り手の執拗な追求と愉悦を見出せた時、私もまたその愉悦の一端を味わう。という鑑賞の仕方を、『小説のストラテジー』に倣ってほかのジャンルの芸術――例えば小説とか――に当て嵌めてみると、自分の嗜好を別の角度から見ることができて興味深い。実は小説の鑑賞って苦手なのですよ。いや、読むのは好きなんだけど、読んだものを自分の中で把握するのが苦手というか。だから感想を述べるのも苦手です。

 大阪中ノ島の国立国際美術館に行ったのは初めて。初めての場所に行く時は、大概道に迷う。昔、大阪で働いていた時に肥後橋の辺りにはよくお使いに行っていた。いくら初めて行くとはいえ、肥後橋から大して離れていないのに、しっかり道に迷いました。雨の中、行きも帰りも。こういう奴にはもう愛想を尽かしてしまいたいのですが、自分で自分に愛想を尽かすわけにもいかないのでした。うー。

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ホテル・ルワンダ

『ココシリ』の感想で、寡黙な男はかっこいい、とか書いたけど、それよりも口の巧い男のほうが好きである。口が巧いという言い方が悪いなら、「言葉の使い方が巧い」男だ。まあ男に限らないんだけど、要するに目的を持って発言し、目的どおりの効果を上げられる人だ。寡黙な男云々ってのは、言葉を有効に使えずにダラダラ垂れ流すくらいだったら黙っていてくれたほうがよっぽどいい、ってだけのことである。

 さて『ホテル・ルワンダ』を今まで観なかったのは、凄惨なシーンがてんこ盛りになってるんじゃないかと危惧していたからである。幸いにして、それは外れた。そのようなシーンを見ずに済んだからではなく、『ホテル・ルワンダ』が良質な作品だった、という意味での「幸いにして」である。

 私の小説には残虐なシーンが時々登場するが、それはそういうシーンをスラップスティックに書く(例えば『スターシップ・トゥルーパーズ』のように)のが好きだからであって、残虐なシーン自体が好きなのではない。さらに言えば、残虐なシーンが鑑賞者に与える衝撃を、作品そのものがもたらす衝撃だと勘違いしている手合いは嫌いである。作り手がエンターテインメントと自覚しているならまだしも、「実話を基にしたヒューマンドラマ」で、さあこれが「真実」だよ、とばかりに残虐な場面を突き付けるのは最悪だ。単にそういうものを見たくない、それによるショックを「感動」なんぞと呼ばれたくない、というのもあるが、何より嫌なのは、そればかりが印象に残って、ほかの要素が見えなくなってしまうこと、またそうしたシーンを大量に見せられることによって、こちらが「慣れて」しまうことである。

 虐殺が始まった時、ツチ族の妻を持つフツ族のポールの許には、隣人のツチ族が逃げ込んでくる。それがきっかけで、ポールは自分が支配人を務めるホテルに、1200人ものツチ族をかくまうことになる。まったくの成り行きだったのだが、最後まで人々を守り通したのは、正義感ではなく、「一流ホテルの支配人」という矜持のためだろう。隣人が隣人を殺す状況で、そんな矜持はもはやなんの意味も持たないように思えるが、ポール自身にとっては、自分が「一流ホテルの支配人」である限りは虐殺に加担しないし、ホテルにいる人々(=お客さま)を見捨てないし、また銃を取って暴徒たちを撃退したりもしないのである。そして実際、一流ホテルの支配人としてのコネは虐殺が日常化した状況でも有効であり、彼はそのコネと長年培った交渉術だけで切り抜けていく。といって、自分の手腕に自信があるわけではなく、常に綱渡り状態だ。平凡な男が異常な状況下で己を見失わず、最善を尽くすことで目的を達する。それはとても非凡なことである。

 ところで、『ラストキング・オブ・スコットランド』もそうだが、アフリカで実際に起きた出来事を欧米出身の黒人が演じ、欧米の監督が撮影するというのは、どうなんだろう。いや、それがいいとか悪いとか言うんじゃなくて、欧米の監督が日本を舞台に、日本人ではない役者に日本人を演じさせることについて、日本ではとかくいろいろ言われるもので、つまりそれと同じ状況だということになるわけですが。

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ココシリ

「雄大な自然」などと悠長なことを言ってる場合じゃない、とにかく過酷な世界。

 監督は中国人で、観客のための「案内役」として北京から来たジャーナリスト(父親がチベット族でチベット語は話せるが、チベットの習慣には詳しくない)を用意しているが、序盤を過ぎてからはチベット人たちの視点に徹する。パトロール隊員たちは、無給で働くヴォランティアである。この場合、「義勇兵」という語義に相応しく、彼らの仕事は命懸けである。密猟者たちとの「戦い」は、比喩ではなく文字どおりの戦闘行為だ。撃ち合い自体がなくても、追跡途中で自然の猛威によって命を落とすこともしばしばである。隊長は元軍人だが、隊員たちは元タクシー運転手とか学生とか、要するに素人の集まりである。

 彼らはひたすら寡黙だ。作品で観る限りは、チベットの人々は「喜」と「楽」の感情表現は日本人や中国人に比べて豊かだが、「怒」と「哀」はむしろ抑制するようだ。そして「喜」と「楽」もボディランゲージや歌で表現し、言葉で語ることは少ない。

 チベットカモシカが乱獲されても、彼らは(少なくとも直接には)別に困らない。しかし命懸けでそれを阻止しようとする。その理由について、彼らは何も語らない。自然保護だとか郷土愛といった大層なお題目は一切唱えないのである。もし欧米人の監督が同じテーマの作品を撮ったら、隊員たちに自発的もしくはジャーナリストの質問に答えるかたちであれこれ語らせただろう(日本人でもやりかねない)。密猟の実態や隊員たちの苦境の原因はそのまま中国政府の失策だから、ルー・チューアン監督は当局に睨まれるのを恐れたという可能性もあるが、裏の事情はどうでもいい。どのみち間接的な批判は、充分に機能している。また環境保護を訴えるドキュメンタリーの類にありがちな、自然の美しさや野生動物の愛らしさのアピールも省かれているため、一層ストイックに仕上がっている。ま、余計なことを語らない男ってかっこいいよね。とはいえ、ここまで何も喋らない(弁解すらしない)のも、家族や恋人はしんどいやろな。

 切実さという点では、密猟者たちのほうがパトロール隊員より遥かに上である。彼らの多くは、食っていく術がほかにないのだ。三人の息子とともに常習的に密猟に協力している老人は、ジャーナリストの質問に「元は遊牧をしていたが、牧草地が砂漠になってしまった」と答える。これも、突き詰めて言えば政府の失策だ。そういう困窮したチベット族を使って密猟を行う親玉リータイ(漢族か?)は悪人だが、毛皮を買う者がいるから密猟が成り立つのだ。

 高度4700mに暮らすチベット族が次々と脱落するような追跡行に、果たしてジャーナリストが最後までついていけるものなんだろうかという些細な疑問はあるものの、とにかくひたすらストイックでハードボイルドな映画なのでした。

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カジノロワイヤル

 007シリーズははショーン・コネリーとピアース・ブロスナンしか観たことないんだが、どちらも人工的で好きではない。特にブロスナンは気持ち悪くてな(セルフパロディ的な『パナマの仕立て屋』はよかったが)。ブロスナン版ボンドは、どうしようもなく時代遅れなキャラクターを扱いあぐねた挙句、醜悪な代物にしてしまっている感じだ。

 さて、ダニエル・クレイグ版ボンドは、パロディにでもするしかない斯くも厄介なキャラクターを、妙な具合に等身大にすることに成功している。「成功」なのに「妙な具合」というのは、ジェームス・ボンドが等身大というのは明らかに妙な状況だからである。駆け出しという設定だから等身大にできている、というより、むしろその設定のお蔭で旧来のシリーズのファンも、「ボンドが等身大」という妙な現象を比較的すんなり受け入れられたのではないだろうか。つとに評判の悪い容姿も、私は一般に美形とされる男には興味がないんで問題ない。というか北欧系(アングロサクソンを含む)の男は、ああいう色素が薄くて爬虫類っぽい容姿であるのが一番望ましいので、実に結構なことである(東欧系も爬虫類っぽいのんが好きだが、黒髪のほうがいい。南欧系というかセム系も含めた地中海系は濃いいのんが好きだ)。「駆け出し」という安全装置を外しても、このまま等身大で行けるかどうか、次作に期待。

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中央アなんたら

 ここ数日、急に暑くなったので、ちょっとしんどいです。

「ラテンアメリカ」という語は、当のラテンアメリカでは実はあまり一般的ではないんだそうな。そもそも中南米を一つの(独自の)文化的政治的単位として捉えたのは、シモン・ボリーバルが最初だろう。その思想は誰からも理解されることなく、1830年、彼は孤独のうちに死んだ。「ラテンアメリカ」という呼称を初めて用いたのは1836年、フランスの経済学者ミシェル・シュヴァリエである。彼は60年代にナポレオン三世の諮問官になり、その頃からフランスは中南米に於ける覇権を主張すべく、ラテンアメリカの呼称を広範に用いるようになったらしい。フランスはスペイン・ポルトガルと同じラテン系なんだから中南米を支配する権利も当然持っているはずだ、という強引すぎる理屈で。

 当のラテンアメリカ人が「ラテンアメリカ」という名称および単位を意識し始めるのはようやく19世紀末からで、ヨーロッパやアメリカ合衆国に対するアイデンティティの高揚が動機となっている。それが20世紀の革命をイデオロギー面で支えていくわけだけど、結局のところ現在に至るまで「ラテンアメリカ」は知識人および外部の人間が使う呼称である。

 そんなわけで、『グアルディア』でも「ラテンアメリカ」という呼称を使うことには躊躇いがあった。作中では「ラティノアメリカ」という呼称が定着している未来という設定だから別に問題ないんだが、塩澤編集長との打ち合わせでは常に「ラテンアメリカ」ではなく「中南米」と言っていた。いよいよ刊行(2004年8月下旬)の2ヶ月ほど前になり、早川書房hpに短い紹介文が掲載されたんだが、作品の舞台が「中央アメリカ」となっていた。うーん、そりゃ普通は「ラテンアメリカ」の名称にまつわる事情なんか知らんよな。加えて「中央アメリカ」「南アメリカ」「ラテンアメリカ」も普通はちゃんと区別されんよな。

 まあ一応中央アメリカが舞台になってるシーンもあるし、刊行まで間があるし、数日内に塩澤さんから電話があるはずだから、その時に名称をどうするか相談して直してもらおう、と思っていた。ところがまだ電話の来ない2、3日後、早くもあちこちのネット書店のhpにも紹介文が掲載されてしまった。早川のhpに掲載されたものと同文だったが、一箇所だけ違っていた。作品舞台が「中央アリカ」となっていたのである。

  中央アフリカ、中央アフリカ、アフリカ、アフリカ……っ。

 そら「フ」以外は全部合ってるけどさあ! さらに2日後、塩澤さんが電話をくれたので事情を話し、結局、作品紹介では「ラテンアメリカ」の呼称を使うことにした。数日以内に早川および各ネット書店のhpの紹介文は「ラテンアメリカ」に訂正されていたが……それにしても、どうしてこんなことが起こったのでしょう。誰か教えてください。

 そういうわけで『ラ・イストリア』の舞台はメキシコからグアテマラ、つまり「中央アメリカ」なので、また誰かが間違えるんじゃないかと心配である。さらには『ミカイールの階梯(仮)』であるが、これは新疆ウイグル自治区の天山南北路が舞台だ。「シルクロード」は学術的にはちょっとアレな用語だし、第一シルク関係ないし、かといって「中央アジア」もなあ、と悩んでいるうちに、なんとなく中央アジアで決定しそうな趨勢である(『SFマガジン』6月号とか『ラ・イストリア』解説とか)。「中央ア」ジアかあ……。いや大丈夫、大丈夫だよ。きっと。

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バベル

 言葉が通じないことから起こる悲劇、では全然ない。コミュニケーション不全の物語、といえるのも日本のパートだけである。バベルの塔の神話は「愚行の結果、人々は互いに言葉が通じなくなり、世界は争いに満ちた」というものであり、その塔の名を冠した作品の軸となっているのは「言葉」ではなく「愚行」のほうだ。登場人物の一人の台詞「私は悪人じゃない。愚かなことをしただけ」が、すべてを象徴している。現実に於けるさまざまな軋轢――近所付き合いから国際問題まで――も、悪意よりも愚かさが原因であることが遥かに多いのではないだろうか。

 モロッコのキャストたちが、映画を観たこともない素人とは思えないほど素晴らしかった。そういう素人役者たちに、ブラッド・ピットもケイト・ブランシェットも抑えた演技で自然に溶け込んでいる。ブランシェットならそういう演技ができて当然だけど、ブラピまでできるとは……いや、なんでもありません。それにしても欧米人というのは、人生やら結婚生活やらに行き詰ると、決まって北アフリカに行くなあ。「なぜここに来たの」というブランシェットの問いに、ピットが「二人きりになるために」と答え、「二人きり?」と観光客や地元民に溢れた周囲を見回したブランシェットが苦笑するシーンがある。ところでモロッコの警察って、とことん国民に信頼されてないんですね。

『グアルディア』と『ラ・イストリア』の自主販促キャンペーン中だからというわけじゃないんだが、メキシコ人俳優ガエル・ガルシア出演作連投。今回は出番少ないけど。それほど印象的な役ではないが、続けて観ただけに演技の幅が広いのには感心させられる。まるきりメキシコのちんぴら兄ちゃんにしか見えなかったよ。ところで彼を職務質問した国境警備員が、しきりと「ディエゴ」と言っているように聞こえた。「いいから言うとおりにするんだ、ディエゴ」「飲んでるのか、ディエゴ」「車を移動させろ、ディエゴ」てな感じで。ガエルの役名はディエゴではない。これはDiego=Dago、すなわちヒスパニック系に対する蔑称だったんじゃないかと思うんだが。だとすればこの警備員は、ごくあっさりした事務的な態度で蔑称を連発していたことになる。露骨に威圧的で侮蔑的な態度を取られるより、相手は却って屈辱を感じるのではないだろうか。字幕からわかるのは、やや猜疑的な態度だということくらいだから、ガエルが単に切れやすい奴にしか見えない。

 子供の視点から見たメキシコの結婚式の情景は、たいそう魅力的。例の旅行で泊まったグアナファトのホテルでも、地元のカップルが結婚式を挙げてました。建物の一部にかつてのアシエンダ領主の屋敷が使われている趣のあるホテルなので、そういう催しには相応しいのでしょう。マリアッチのオルケスタを呼んで(ホテルに入っていくところを偶々見かけたけど、ほんとに銀の刺繍入りの伝統的な黒いスーツに大きなソンブレロという出で立ちだった)、夜中の2時まで騒いでましたよ。

 日本のパートは、一番解りやすくコミュニケーションの問題の物語。その趣旨で、すでにたくさんの人が感想を述べているでしょう。菊池凛子、ちゃんと高校生に見えたけど、26歳で女子高生役って、キャリーですか。監督がメキシコ人だからなのか、日本に対するバイアスは弱かったように思う。チエコの家のインテリアが仏像や書画なのは御愛嬌。

 日本のメディアが監督をイニャリトゥと呼ぶのは、スペイン系人名に無知だからなのか監督自身がそう希望したのかどっちなんだろ。ガエル・ガルシア・ベルナルは、ガエル・ベルナルとは呼んでないのにな。ゴンサレスのほうが呼び易いし憶え易いと思うぞ。

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恋愛睡眠のすすめ

『エターナル・サンシャイン』は、この監督にしては「普通」だったんだなあ。

 シャルロット・ゲンズブール出演作は初めて。可愛いんだけど、もうちょっと若かったらな、と思いました。ガエル・ガルシアは美青年役よりもこういうほうがいい。美青年役が似合わんとかそういうわけじゃないけど。夢と現実の区別がつかない、という点についてはとりあえず措いといて、異性との付き合い方がわからず、好きな女性が相手でも悪気はないのに無礼な言葉を口走ってしまう成人男性を巧く演じ、且つ大変可愛らしい。レビューを見ても、「可愛い」という評価は定まっているようだ。別の俳優によって演じられていたら、たぶんあんまり可愛くなかったんじゃないかな。で、実際に身近にこういう男がいたら、大概の女の評価は「きもい」なんじゃなかろうか。私はと言えば、そういう人がいてもきもいとは思わん。その不器用さを気の毒に思う。別に可愛いとも思わんけど。

 夢と現実の区別がつかない状態、というのは、私にとって非常にリアルで、観ていてしんどかった。現実感が希薄だから生々しい夢を見るのか、生々しい夢を見るから現実感が希薄なのか知らんが、現実から夢に逃避しているわけではない。生々しい夢というのは、自分の願望や不安が露骨に、しかしひどく歪んだ現れであるので、理想的どころか時には不快ですらある。さらには、起きている間も自分の記憶が実体験だったのか夢だったのか区別がつかず、幻覚も幻聴もないが既視感はしばしばで非常に気分が悪い。ガエル演じるステファンが夢に逃避しているという物語であれば、その夢はもっと美しく幸福感に満ち溢れたものとして描かれるはずだ。しかし彼が見る夢は、楽しいものでもどこか不安を掻き立てるものであり、悪夢でしかないこともある。彼にとってどこからが夢でどこからが現実か区別がつかないように、観客にも次第に区別がつかなくなる。

 気が付いた時にはもうこういう状態で、確固たる現実感というのがどういうものか、そもそも自分がそういうものを持っていたことがあったのすら憶えていない。だからと言ってその状態の不快さに慣れることはできない。小説を書くようになってからは、現実でない状態(執筆中。プロットを練ったり調べ物をしたりしている時も含む)と現実(それ以外の時間)が明確に区分されるようになった。歪んで生々しい夢も見なくなった。ただし夢の中でも構想を練り続けているし、でなければ執筆に呻吟している夢とか、「書いても書いても終わらない」夢とか、塩澤編集長に駄目出しを食らってる夢とかを見る。起きてから疲労に襲われるほど生々しくはないけど。相変わらず「確固たる現実感」というのがどんなものかは解らないが、もはや現実とも非現実ともつかない状態が入り込む余地はない。だから小説を書くというのは、それ自体の愉悦だとか飯の種だとかとはまた別に、私には必要な行為だ。

  というわけで、私にはこの作品は気が滅入るほど「リアル」だったわけですが、ほかの人にとってはどうなんでしょう。

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