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ホテル・ルワンダ

『ココシリ』の感想で、寡黙な男はかっこいい、とか書いたけど、それよりも口の巧い男のほうが好きである。口が巧いという言い方が悪いなら、「言葉の使い方が巧い」男だ。まあ男に限らないんだけど、要するに目的を持って発言し、目的どおりの効果を上げられる人だ。寡黙な男云々ってのは、言葉を有効に使えずにダラダラ垂れ流すくらいだったら黙っていてくれたほうがよっぽどいい、ってだけのことである。

 さて『ホテル・ルワンダ』を今まで観なかったのは、凄惨なシーンがてんこ盛りになってるんじゃないかと危惧していたからである。幸いにして、それは外れた。そのようなシーンを見ずに済んだからではなく、『ホテル・ルワンダ』が良質な作品だった、という意味での「幸いにして」である。

 私の小説には残虐なシーンが時々登場するが、それはそういうシーンをスラップスティックに書く(例えば『スターシップ・トゥルーパーズ』のように)のが好きだからであって、残虐なシーン自体が好きなのではない。さらに言えば、残虐なシーンが鑑賞者に与える衝撃を、作品そのものがもたらす衝撃だと勘違いしている手合いは嫌いである。作り手がエンターテインメントと自覚しているならまだしも、「実話を基にしたヒューマンドラマ」で、さあこれが「真実」だよ、とばかりに残虐な場面を突き付けるのは最悪だ。単にそういうものを見たくない、それによるショックを「感動」なんぞと呼ばれたくない、というのもあるが、何より嫌なのは、そればかりが印象に残って、ほかの要素が見えなくなってしまうこと、またそうしたシーンを大量に見せられることによって、こちらが「慣れて」しまうことである。

 虐殺が始まった時、ツチ族の妻を持つフツ族のポールの許には、隣人のツチ族が逃げ込んでくる。それがきっかけで、ポールは自分が支配人を務めるホテルに、1200人ものツチ族をかくまうことになる。まったくの成り行きだったのだが、最後まで人々を守り通したのは、正義感ではなく、「一流ホテルの支配人」という矜持のためだろう。隣人が隣人を殺す状況で、そんな矜持はもはやなんの意味も持たないように思えるが、ポール自身にとっては、自分が「一流ホテルの支配人」である限りは虐殺に加担しないし、ホテルにいる人々(=お客さま)を見捨てないし、また銃を取って暴徒たちを撃退したりもしないのである。そして実際、一流ホテルの支配人としてのコネは虐殺が日常化した状況でも有効であり、彼はそのコネと長年培った交渉術だけで切り抜けていく。といって、自分の手腕に自信があるわけではなく、常に綱渡り状態だ。平凡な男が異常な状況下で己を見失わず、最善を尽くすことで目的を達する。それはとても非凡なことである。

 ところで、『ラストキング・オブ・スコットランド』もそうだが、アフリカで実際に起きた出来事を欧米出身の黒人が演じ、欧米の監督が撮影するというのは、どうなんだろう。いや、それがいいとか悪いとか言うんじゃなくて、欧米の監督が日本を舞台に、日本人ではない役者に日本人を演じさせることについて、日本ではとかくいろいろ言われるもので、つまりそれと同じ状況だということになるわけですが。

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