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ベルギー王立美術館展

 入り口近くに展示されていたのがピーテル・ブリューゲル(父)の作と推定される「イカロスの墜落」。のどかな風景の中、画面の片隅で手脚だけを海面に突き出す溺れかけた人間、イカロスであることを示すのは海上に舞うわずかな羽だけ、という身も蓋もない作品だ。参観者たちの中には、近寄って眺めて失笑する人たちもいたが、失笑でもする以外にこの不条理さには対処のしようがないだろう。ブリューゲルのほかの作品よりは描き込みが少ないが、真剣なんだか悪意に満ちてるんだかよくわからない座りの悪さと、あとは剥き出しの脚の生々しさが相俟って、よりボッス的であるように思えた。

 ベルギー絵画という括りの展覧会が日本で開催されるのは初めてだそうである。確かに16、17世紀はブリューゲル一族、ヴァン・ダイク、ヨルダーンス、テニールスと錚々たる面子だが(レンブラントやフェルメールはなかった)、18世紀の作品はなく、19世紀もアンソールとクノップフまでは知らない人の作品が続く。とはいえ100点を超える展示の大半がそれぞれ印象的であり、数に埋もれてしまうようなことはなかった。

 造形作品を前にして、まず観るのは「形(構図を含む」と「色(或いは陰影)」がおもしろいかどうか。しかしそれだけなら偶然の産物でおもしろいものはいくらでもあり、意図を持って作られた「作品」である必要はない。「作品」をおもしろくしているのは、作り手のこだわりだ。作品はテーマとメッセージだけからなるものではない。一部の造形家は形と色に対してそれぞれ何かしらのこだわりを持っており、そのこだわりを追求することに偏執的な愉悦を覚えるフェティシストである(自覚があろうとなかろうと)、と私は思っている。構図や色彩の微妙なバランス、或いは絵筆の一刷け、鑿の一彫りに作り手の執拗な追求と愉悦を見出せた時、私もまたその愉悦の一端を味わう。という鑑賞の仕方を、『小説のストラテジー』に倣ってほかのジャンルの芸術――例えば小説とか――に当て嵌めてみると、自分の嗜好を別の角度から見ることができて興味深い。実は小説の鑑賞って苦手なのですよ。いや、読むのは好きなんだけど、読んだものを自分の中で把握するのが苦手というか。だから感想を述べるのも苦手です。

 大阪中ノ島の国立国際美術館に行ったのは初めて。初めての場所に行く時は、大概道に迷う。昔、大阪で働いていた時に肥後橋の辺りにはよくお使いに行っていた。いくら初めて行くとはいえ、肥後橋から大して離れていないのに、しっかり道に迷いました。雨の中、行きも帰りも。こういう奴にはもう愛想を尽かしてしまいたいのですが、自分で自分に愛想を尽かすわけにもいかないのでした。うー。

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