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パイレーツ・オブ・カリビアン

 AT WORLD'S END. もっと早くに観にいきたかったんだが、いろいろ予定が狂って今頃鑑賞。ベケット卿の圧制の下、カリブの民衆が次から次へと絞首刑に処されていく(女子供まで)容赦ない幕開けに、いやが上にも期待が高まる。最大の見せ場である巨大渦潮でグルグル回りながらの砲撃戦は、実に素晴らしい。

 でもそこまでに至るのが、なんぼなんでも長すぎる。1作目も2作目も脚本にはなんの不満もなかったが、今回は今一つ……いや今二つ、三つ……。カリプソの伝説とか、まったく機能してない。機能していないことを笑いに転化する機能を果たしているなら、いっそ大したものだけど、ただ漫然と放置されているだけだ。女神とか海賊王とか、そういう後付設定は要らんから、前作までと同じく阿呆だけど抜け目ない海賊と、腹黒いけど間抜けな東インド会社の(もちろん海賊同士でも)騙し合いとチャンバラとドンパチに徹してほしかった。あれだけたくさんの船を揃えておきながら艦隊戦がないなんて、がっかりですよ。

 だいたい、海賊のくせに「自由のための戦い」なんてお題目を取って付けるから鬱陶しいことになるんだ。しかもそのお題目を唱えるのがキーラ・ナイトレイか。彼女の前作や『ドミノ』のような「身の丈に合わないことをしている小娘」という役どころは結構好きだが(1作目の「清楚に見えて実は図太いお嬢様」というのは身の丈に合っていた)、なんぼなんでも今回は持ち上げられすぎ。

 一番よかったのはバルボッサ船長のジェフリー・ラッシュ。その彼が林檎を食べるシーンがないというだけで、今作の点数は下がる。チョウ・ユンファは、なんだか『バットマン・ビギンズ』の渡辺謙みたいな役どころだったな。或いは『ジェヴォーダンの獣』のマーク・ダカスコスの出番を半分以下に削ったみたいな。

 オーランド・ブルームは、妙に優等生的というか「いい子」な役者になりつつある。『ロード・オブ・ザ・リング』の撮影時のエピソードは、おもしろい役者に成長するんじゃないかという期待を持たせてくれたし、何より『トロイ』のヘタレ振りは素晴らしかったんだが(私はヘタレを演じるのが巧い役者は、ほかのどの条件にもまして高く評価します。現実のヘタレは嫌いですが)。ハリウッドに於いて役に恵まれないというのは、彼に限らずイギリス出身の美形(に分類される)男優の宿命みたいなものかもしれない。

 ジョニー・デップは世間的にはすっかりジャック・スパロウのイメージが定着してしまって、以前からのファンとしては少々複雑な心境です。いや、あの役は好きだし、デップも一つの役で人気が出た俳優にありがちな「以後、似たような役ばかりを求められる」という状況に陥るどころか却って以前より役の幅が広がってますがね。しかしそれでもなお、従来のファンにとっては、ジョニー・デップがメジャーという状況は「何かの間違い」のような気がしてしまうのです。従来っつっても、90年代半ばからだけど。

「パイレーツ・オブ・カリビアン 生命の泉」感想

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ロシア皇帝の至宝展

 大阪国立国際美術館。いや、これほど大量の金製品を見たのは、スキタイ展以来です。注目すべきは、細工の異様な細かさ。ロマノフ朝に入ると、諸外国から献上されたオランダ、ドイツ、フランス等の工芸品が多いんだが、それらと比べるとロシアの芸術工芸の特異性がよくわかる。近寄って目を凝らさないと判らないような細かさなのである。地紋のアラベスクとか、びっしり並べられた直径1~数mmの金や真珠の粒とか。それでいて全体の形状自体は単純で、ものによっては不恰好でさえあったりするし、そのうえ黄金がベカベカで真珠以外の宝石は大振りなので、ぱっと見は大味で野暮ったい印象だ。地紋なんて、離れた場所から見ると汚れみたいだしな。

 一方、ヨーロッパの工芸品は、「そんなところまで誰も見ないよ」というような細部の細かさがない代わりに、全体のバランスが考えられている。その影響なのか、18世紀以降のロシア工芸は、細部の作り込みがあまり重視されなくなっていったようだ。しかし全体のバランスを整えるセンスは欠けたままなので、結果として質は低下していった、ように思う。

 12世紀半ばから20世紀初頭まで、概ね時代ごとに7つの区分で展示されていて、最初の31点は1990年代にモスクワで発掘された装飾品。モンゴル襲来の際に、土中に埋めて隠されたものらしい。銀製品が中心で、どれも錆びてしまっているので見た目は地味なんだが、技術は非常に高い。これらの発掘品を除くと、展示品は宮廷や総主教のために作られたものがほとんどで、つまり各時代のロシア工芸の最高水準なわけだけど、技術のレベルとしては、モンゴル襲来以前からあまり発達しなかったように思う。

 前回の「舞台芸術の世界」展に引き続きロシアづいているのは、『ミカイールの階梯』が25世紀初頭の天山北路にロシア人による擬似社会主義政権が確立されているという、なんじゃそらあっていう設定だからです。なぜそんなことになっているのかというと、ユーラシア西部に人が住めなくなって民族大移動が起こったからです。天山南路はイラン系民族の宗教組織が掌握しています。そういうわけで、次回は大阪歴史博物館の「ペルシャ文明展」に行く予定です。

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パットン大戦車軍団

 冒頭、巨大な星条旗をバックに、パットン将軍が大演説をぶつ。効果音なし、ほとんど動きもなしで数分間もたせるのもすごいが、「アメリカがなぜ敗北したことがないのか?」「それは我々が勝利を好む国民だからだ」「我々は伝統的に戦いを好む」といった台詞に(実際の演説に基づいているらしい)、制作者および主演のジョージ・C・スコットらにはいろいろ思うところがあっただろう(公開は1970年)。もちろん、現在に於いてもだ。で、この演説の次に来るのが、チュニジアでロンメルにボコボコにやられた米軍と、その死体を身ぐるみ剥いでるアラブ、というシーンである。

 到底20世紀の人間だとは思えない時代遅れの奇人を、否定も肯定もせずに描く。戦場のシーンは、荒野を粛々と進んでくるロンメル機甲兵団とか、終戦間際の強行軍とかはおもしろかったけど、シチリアやフランスでの快進撃は「はしょった」感がある。そういう演出だ、と言われればそうなんだけど。以下ネタバレ。戦争が終わり、用済みとなったパットンは解任された直後、荷車に轢かれかける。これは間もなく訪れる自動車事故による死を暗示しているともいえるし、自動車事故そのものを描いているともいえる。荷車の難を逃れた後、パットンは犬の散歩に行くのだが、その寂しい後姿は、もはや彼の人生が終わっていることを示している。

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プラダを着た悪魔

 メリル・ストリープは、「いつも同じような役ばっかりだから嫌い」な役者の一人だ。だからそういう役者がいつもと違う役をやっているだけで、私の中では非常に評価が高くなってしまう。コメディのセンスはあるし(『永遠に美しく……』は大失敗だったが)、意地悪そうな顔してんだから、もっとそういう役をやればいいのにと思うが、でもそれだとグレン・クローズと被るか。

 ともあれこのカリスマ編集長の役は大変よかった。本当にカリスマが発揮されているし、本当に恐ろしい。こういう役のほうが綺麗に見えるよね。アン・ハサウェイがお洒落な服をとっかえひっかえするのは見ていて楽しかったけど、でも彼女は化粧と髪型によってはマイケル・ジャクソンに似てるなあ。『ブロークバック・マウンテン』の時はそんなこと思わなかったんだが。

 ストーリー自体は、「自己実現のために何かを犠牲にしてでも邁進する(時には他人を蹴落としてでも)」ことを、否定的な視点と肯定的な視点の双方から描いていって、「ま、いい点もあるし、悪い点もあるよね」という無難な結論に至る。要するに、「是か非か」という二元論でしかない。是非ではなく、人それぞれ向き不向きの問題だろうと思う。そういうのんが向いてる人はそうすればいいし、向いてない人は別の遣り方をすればいい。それだけの話だ。

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カルロス・フエンテス

 メキシコ人作家で小説が最も多く翻訳されているのがフエンテスなんで、必然的に彼の作品ばかりを読むことになったわけである。おもしろかったものについて、事実日記(非公開のほうの日記)に書いた感想を参考に思い出し。

『アルテミオ・クルスの死』 死の床に横たわる大富豪アルテミオ・クルスと、その若き日の記憶がカットバックで描かれる。手法に慣れてしまえば、ストーリー自体はごくシンプルで、革命期の混乱を利用してアルテミオがのし上がっていく過程はエンターテイメント性が高い。

『聖域』 美しい女優の母とニートの息子、という物語はありきたりと言える。その結末も、奇を衒った結果、却って予想どおりの場所へ着地してしまっている。しかし、いい齢して母親の関心を惹こうと汲々とする息子の駄目っぷり、少年時代の友誼といった描写はおもしろく、現代小説としてよくできている。というか、まるで1980年前後の山岸凉子作品のようですよ。絵柄もすごく嵌まりそう。ところで主人公が「ミト」と呼ばれるのは「ギジェルモ→ギジェルミート→ミト」だからだけど、ほかの名前でもこういう略し方はするのかな。

『老いぼれグリンゴ』 メキシコ革命に身を投じ、そのまま消息不明となったアンブローズ・ビアスの「起こり得たかもしれない最期」。ビアスの短編の幾つかがモチーフとして使用されている。ビアス/グリンゴ(アメリカ白人)は当然ながらメキシコ人カルロス・フエンテスの目を通したグリンゴ/異邦人であり、その異邦人の目を通して、フエンテスはメキシコ革命を描いている。ちなみにこの作品は1989年にグレゴリー・ペックとジェーン・フォンダの主演でアメリカで映画化されている。小説では擬似父娘的だったビアスとハリエットの関係が恋愛に置き換えられてるらしいんで、どうも観る気がしない。映画タイトルは小説のGRINGO VIEJOの直訳でOLD GRINGOだが、邦題は『私が愛したグリンゴ』。小説の翻訳も単行本時はこのタイトルだったが、文庫化で原題の直訳に変わっている。

『アウラ』 短編集。「チャック・モール」が一番おもしろかった。メキシコの知識階級に属する男がチャック・モール像のレプリカを手に入れるが、像は命を得て動き出す……。もしかしてフエンテスはチャック(マヤの雨の神)とチャック・モール(彫像の様式というか形態。チャック神の像に限らない)の区別が付いてないんじゃないかという気がするが、まあともかく。蘇ったチャック神は畏怖に満ちた存在ではない。それどころかその力は衰えていて、神というよりは奇妙な獣のようである。最初のうちは結構可愛い。本来は凶暴なはずの獣が人間に拾われて懐いていくかのようで、『リロ&スティッチ』のスティッチってこんな感じかもしれない(姪っ子に付き合って2作目は観たが、1作目は観ていない)。この作品はゴシック・ホラーの体裁を取っているので、文明的な主人公の許に転がり込んできた可愛い野生動物が可愛いままでは、もちろん終わらない。やがて凶暴な本性を剥き出しにしていくのだが、これは文明的な生活を侵犯する現地民もしくは二級市民という構図である。偉大で残忍な神は、現代文明に染まった卑俗な現地民として蘇る。しかしその凶暴な力は元のままで、アイデンティティが曖昧な征服者の子孫たちは到底太刀打ちできないのである。

 というわけで、四ヵ月近くもゆるゆる続けてきた『グアルディア』『ラ・イストリア』自主販促キャンペーンはようやく終わりです。販促になったのか? 『ミカイールの階梯』は鋭意執筆中ですが、そろそろ日常生活に支障が出てきましたよ。つまり執筆していない時期に増して食器を割ったり料理を焦がしたり包丁で手を切ったり何もないところでこけたり買い物をして品物を受け取るのを忘れたり、といったことをしやすくなってきているのです。もちろん、道にも迷いやすくなります。

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サム・ペキンパー

 ペキンパー作品で観たことがあるのは『ワイルドバンチ』『ガルシアの首』『わらの犬』『ゲッタウェイ』『戦争のはらわた』。確かこの順番。『ワイルドバンチ』は『ラ・イストリア』執筆中にディレクターズカットで再鑑賞したが、ほかは数年~十年以上前にビデオ鑑賞したきり。印象は未だに強烈だが、細部はいろいろ記憶違いがあるかもしれません。

 ペキンパー作品は「男の映画」だが、「男の美学」の映画ではない。「そういうふうにしか生きられない」男たちを描いた作品だ。そういうふう、というのがどういうふうなのか、というのは言葉で説明できるものではない。彼らが己の生き方、或いは思考や感情、行動原理を自省して言葉で説明できるのなら、それはある程度自己コントロールができるということで、「そういうふうにしか生きられない」ということにはならないわけだ。そしてペキンパーは彼らの「そういう生き方」を、映画という媒体によって描いている。もっとも、より正確を期すなら、描こうとした、と言うべきか。描けてる作品と描けてない作品があるからね。

『ゲッタウェイ』はそもそも「そういうふうにしか生きられない」男を描こうとしてる作品ではない。ペキンパー作品の中では一番普通というか作家性が薄い(テーマに於いて)というか。『わらの犬』と『戦争のはらわた』は「そういう生き方」を映画という表現手段ではなく、理屈で説明しようとしているきらいがある。というわけで成功しているのは『ワイルドバンチ』と『ガルシアの首』。

 映画の中の話ではなくて、世の中には実際に「そういうふうにしか生きられない」男たちが存在している。そしてそういう生き方は、少なくとも当人には理屈で説明できるものではなくて、つまりは言語化できない野蛮な生き方である。言語化された、理論武装された文明的な蛮行というのも事欠かないわけだが、そういうものはまた別の理屈を付けてやめることもできる。当人が言語化できない蛮行は、別の理屈を付けることができないので、やめることができない。で、当然ながら世の中には実際に「そういうふうにしか生きられない」女たちもいるんだが、ペキンパーはそういう野蛮な女を描こうとはしなかった。おそらく描けなかったか、野蛮な女がいるということ自体、解っていなかったか。そういうわけでペキンパー作品では、女は男の野蛮を表現するためのダシとして使われることがしばしばある。女殴らなきゃ勃たない男ばっかりだしな(5作品中3作というのは、やはり多かろう)。セックスを暴力表現のダシに使う手法はあまりに陳腐で、そんなものに頼らずとも、『ワイルドバンチ』のように女相手でも容赦なくさっくり殺せばよかろう。でもって、女にさっくり殺されるのである。

『ガルシアの首』では、男が女のために行動している。もっとも、本人はそのことに気づいていない。ガルシアの首を探すという計画に付き合わせなければ、彼女は死ぬことはなかった――と後悔はしたに違いないんだが、そこからなぜ「何が何でも首を奪い返し、賞金を獲る」という行動に繫がるのか、自分でも解っていない。復讐という意識すらないだろう。間違いなく、いくらも経たないうちに自分が後悔したことすら忘れてるし。女の死の悲しみすら忘れていたかもしれない。それでも最後まで、男を衝き動かすのは女の死である。

 この作品で描かれるメキシコの情景も素晴らしい。最初のシーンが、娘をガルシアに孕まされた富豪の屋敷で、革命前(20世紀初頭以前)が舞台かと思うんだよね。で、「ガルシアを連れて来い。生死にかかわらず」と命じられて男たちの一団が馬で出て行く。次の一団は自動車で出て行く。あれ?と思ってるうちにジェット機が飛び立つので、ようやく現代(1970年代)だと判るのである。

 そういうわけで、メキシコの情景を観るにはペキンパー作品で一番参考になりそうだったんだが、あまりに好きな作品なんで却って再鑑賞したくなくて、『ワイルドバンチ』を借りたのでした。再鑑賞するなら、もう数年は先にしたい。なんとなく。『ワイルドバンチ』ディレクターズカットの追加シーンは確か短いのが3つだけ。回想が二つとマパッチ将軍がパンチョ・ビージャに追われるシーン。最後のは私は興味深かったが、時代背景にまで興味がない人にはどうかと思われるし、回想二つは明らかに蛇足。監督の意思を無視した編集でズタボロになった作品はたくさんあるんだろうし、これまでに私が劇場公開版といわゆるディレクターズカット版を両方観た作品は少ないんだが、その少ない例からすると、「やっぱり他人の意見って大切だよ」。追加されてるシーンは大概が「なくてもいい」か「ないほうがいい」。

 ですから私は、編集諸氏の御意見は常に謹んで拝聴しているのです。いやマジで。

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スパイダーマン3

 悪役が3人もいることで、散漫な印象。これだけ詰め込んだのに、よくまとめてるなあとは思うけど、詰め込んだことでモチーフ一つ一つの印象が薄くなっているのは否めない。とはいえ今回の悪役はいずれもウィレム・デフォーやアルフレッド・モリーナに比べて小粒なので、3人いるくらいがちょうどいいのかもしれないけど。

 黒くなった(文字どおりに)スパイダーマンが悪の限りを尽くす話かと期待してたんだが、そういう展開にはならなかった。その代わり、黒くなったトビー・マグワイア(服が黒いし、髪の色も心持ち黒くなってるし、目の下も黒くなっている)が調子こいてるシーンをこれでもかとばかりに見せられる。あれは前回、スパイダーマンの力を失った彼が「普通の若者」として青春を謳歌するシーンをこれでもかとばかりに見せたのと対応してるわけだな。確信犯的に映像化された「おたくが想像する普通の若者の青春謳歌」と「おたくが想像するイケメン・ライフ(←この辺が想像力の限界)」。しかも所詮想像力に限界があるところまで、きちんと映像化してるし。

 キルスティン・ダンストを見たのは前作以来なんだが、これまでにも増してもっさりしてたので、ちょっとびっくりした。彼女は鼻と顎のバランスをもう少しどうにかして、目を細める癖をやめれば結構美人なんじゃないかと思っていた(だから目をしっかり開けているショットでは、それなりに綺麗に見えることもあった)んだが、もはやそれくらいの改善ではどうにもならないくらいにもっさりしてました。ああ、でも前回まで気になってた姿勢の悪さは、だいぶ直ってたな。とりあえずヘアメイクのスタッフは、ちゃんと仕事をしなかったんだろうか。仮にもブロードウェイのスターなのに場末のウェイトレスみたいな髪型だなあと思っていたら、後半は本当に場末のウェイトレスになってしまいましたよ。プライス・ダラス・ハワードは『ヴィレッジ』や『レディ・イン・ザ・ウォーター』に比べて、えらい脂肪が増量していて、そうすると全然普通の人だなあ。プラチナ・ブロンドは似合わない。

 CGを駆使したアクションは凄かったが、今回はちょっとスピードが速すぎて、何が起こっているのかよくわからないところも少々あった。特に序盤のニュー・ゴブリン戦は夜間、しかもビルとビルの狭い隙間で猛スピードの空中戦なんで、ほんとに何がどうなってるんだか。

 まあでも3作目だというのにマンネリ化とかパワーダウンとかいうことは全然なくて、おもしろかったです。

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ブエノスアイレス

 タンゴを聴くようになったのはピアソラからで、ピアソラを知ったのはこのウォン・カーウァイ作品ということなので、なんとなく思い出し。もっとも、これ以前に『12モンキーズ』のテーマ「プンタデレステ組曲序曲」が非常に印象が強かったんだが、その時はピアソラを知らないばかりか、それがタンゴということすら判らなかったのでした。

 作品自体について。結構好き。なんかえらいブームになってるようやから観てみようか、くらいの気持ちで観た。「やり直す」ためにアルゼンチンにやってきたゲイカップルが、でも何か具体的な目的があるわけじゃないから相変わらず痴話喧嘩ばっかりしてる話で、そんなことで来られたらアルゼンチンも迷惑だろうよと思う。痴話喧嘩は笑える。でもそろそろ飽きてきたな、と思う頃には、爽やかな台湾青年チャン・チェンも登場するし。脚本無しで撮られた作品で、トニー・レオンはアルゼンチンに到着してから初めてゲイの役だと知らされた、というのは有名。それでも役者根性で頑張るトニー・レオン。役にのめり込んでます。彼のインタビューによると、後半のとあるシーンで監督に「テープレコーダーに何か適当な台詞を吹き込め」と指示されたので、台詞を考えて撮影に臨んだ。だがいざテープレコーダーのスイッチを入れた時、胸が詰まって啜り泣くだけだったという。

 技巧よりも感性、緻密な構成よりもアドリブを重視する……ああ、いたね、学生時代に、周りに大勢。そういうスタイルで佳作傑作が作られることは、もちろんある。上記のテープレコーダーのシーンは確かに素晴らしい。でもそのスタイルだと同じ作者でも作品ごとに当たり外れが大きいんだよねー。続いて『恋する惑星』と『天使の涙』をビデオ鑑賞して、がっかりというより、げんなりする。特に『天使の涙』はひどい。エキセントリックな人というのは傍迷惑だが本人もそれで苦労してるわけだし、と思うが、エキセントリックなのがかっこいいと思ってる手合いは最悪だ。というわけで、それ以来ウォン・カーウァイは観ていない。

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ベスト・オブ・タンゴ

 神戸文化ホール。『ラ・イストリア』の作業が終わるまでは心の余裕(一ヶ月以上前から予定を立て、チケットを予約する余裕)がなかったので、タンゴの公演に行くのは久し振りでした。

 全部で20曲はあったかな。演奏主体の曲、歌のタンゴ、ダンス付きと盛りだくさんな公演でしたよ。「ラ・クンパルシータ」「ア・メディア・ルス」「エル・チョクロ」などスタンダードな曲が中心でした。私はタンゴはピアソラから入ったのですが、彼以前のタンゴも好きです(というか、ピアソラは曲やアレンジによっては奇を衒いすぎてどうかと思うものもある)。編曲はスタンダードだけど陳腐ではなく、聴かせるものでした。オルケスタは5人編成(ピアノ、バンドネオン、ヴァイオリン、チェロ、コントラバス)。ピアソラの曲もありました。「リベルタンゴ」「アディオス・ノニーノ」「ロコへのバラード」で、バンドネオンの人は「リベルタンゴ」では立ち上がって椅子に片足を乗せる「ピアソラ・スタイル」で演奏してました。ほかの曲は普通に座って弾いてたけど。

 タンゴが成立したのは港町の酒場で、女の数が絶対的に少ないため、女のステップは誰でも踊れるように簡単に、男のステップは技巧を競い合うためにどんどん複雑になっていき、現在まで男が女をリードするという技術的な不均衡は受け継がれている……とものの本には書いてあるんだが。タンゴ公演などで観ることのできるのは、いわばショーとしてのアクロバット的なダンスだということもわかってるんだが。ごく基本的なステップだけでも、全然簡単そうに見えないんですけど。もっとも私は男女が踊っていると女しか目に入らないので、どちらのパートがより難しいのかは判りません。

 歌だけは今ひとつ。ホール側の責任だよ。マイクの音が大きすぎ、響きすぎ。歌詞が聴き取れないし、声を張り上げると音が割れるし。カラオケじゃないんだから。

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マリアッチ・シリーズ

『グアルディア』文庫版の印税が入りましたが、また調子こいて今度はイラン辺りに行ってまおうとか、そういうことはしませんよ。いや、ほんとは行きたいんですけどね。せっかくペルシア語勉強してるし。でもそんなことをしたら、新疆ウイグル自治区を舞台にした『ミカイールの階梯』の完成がまた延びてしまう気がするので我慢します(ほな、なんで新疆ウイグル自治区に行かへんのかと言うと、ウイグル語は全然知らないし中国語ももはや忘却の彼方だからなのでした)。とりあえず、借金を返済します。父に。情けねー。

 さて今回の「思い出し鑑賞記」は、『エル・マリアッチ』『デスペラード』『レジェンド・オブ・メキシコ』。一応トリロジーってことになってるけど、ロドリゲス本人はあまりこだわりがないようだ。話つながってないし。

『エル・マリアッチ』は『デスペラード』の後からビデオで観たが、これが一番おもしろいし、よくまとまっている。低予算はアイディアと勢いで乗り切る、まさに自主制作映画の輝ける星。もう数年早く作られるか、せめて日本でもすぐに公開されていれば、自主制作映画の先輩らにとってどれほど励みになっただろうか。当時の8ミリフィルム映画の衰退振りは、私から見ても目を覆うものがあったからなあ。「勢いだけで作る」というロドリゲスのスタイルは後の2作にも引き継がれているんだが、だんだん勢いというよりは「ノリ」になってきて、特に3作目でそれが顕著だ。ある意味、肩の力が抜けたと言えるかもしれないけど。それはともかく、『レジェンド・オブ・メキシコ』はメキシコの音楽にメキシコの政治情勢にメキシコの料理にメキシコの街並に、と妙にメキシコ観光案内になってますよ。

 西部劇はハリウッド製もイタリア製もまともに観たことがなかったんで、『デスペラード』がメキシコのガンファイト初体験ということになる。当時はまさかメキシコを舞台にしたSFを書くことになろうとは、思いもしませんでしたよ。てか、放棄していたプロット(『ラ・イストリア』の原型)の舞台が、よもやメキシコになろうとは。で、どの辺が『ラ・イストリア』と関わりがあるのかというと、執筆中に『レジェンド・オブ・メキシコ』のサントラと、「3部作からの音楽と新録音音源を収録した」MEXICO & MARIACHISを繰り返し繰り返し聴いていたのでした。『レジェンド――』のサントラは『グアルディア』でも、特にアクションシーンを書いてる時によく聴いたが、『ラ・イストリア』ではMEXICO & MARIACHISも入手して、しばしば景気付けに歌ってました。1曲目に収録されている「マラゲーニャ」のロバート・ロドリゲス・ヴァージョンを。執筆中は、いろんな歌を歌います。スペイン語とイタリア語とフランス語は、歌詞カードがあれば意味は解らなくても読み方だけは一応判るんで。英語もまあなんとか。

 ところで『デスペラード』でアントニオ・バンデラスの髪は平常時は括られているのに撃ち合い時はざんばらになる、と指摘したのは石川三千花だったが、『ドミノ』を観てたらエドガー・ラミレス演じる中米出身の賞金稼ぎが、「決め」の場面(撃ち合いとか女に告白するとか)の直前になると普段は括っている髪をいちいち解いてざんばらにしていたのであった。あれは何かの仕様なのですか。

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グアンタナモ

 邦題の恥ずかしいサブタイトルについては後述。あまり出来はよくないが、グアンタナモ収容所について初歩的な知識を得るにはいいんじゃないかと思う。

 事件自体は、ごく平凡なムスリムの青年たちが、偶々選択を誤ったためにテロリスト扱いされてグアンタナモ収容所で虐待を受ける、というものだった。主題にするなら、グアンタナモ収容所の「実態」か、無実の青年たち――それも英国育ちで英国籍を有し、熱心な信者ではなく英国社会に同化している――が過酷な運命に巻き込まれるその理不尽さのどちらかにすべきだろう。主題が定まっていないために、ひどく半端な作品になってしまっている。

 映画の構成自体も、ドキュメンタリータッチで再現映像と実際のニュースを交え、そこに本人たちのインタビューを挟むというもので、どうにも中途半端だ。またこの再現映像が出来がいいとは言えない。ハンディカムで撮った映像っぽく処理してあるんだが、妙に臨場感がない。映画的な演出をしないことで「真実」だと強調したかったのかもしれないが、真実も何も再現映像だってのは観てるほうには解っているのだから、却ってあざとく、安っぽく感じられる。なお悪いことに、事件そのものにまで安っぽい印象が加わりかねない。過酷な体験を淡々と語る本人たちの冷静さには感心したが、再現映像が俳優によって演じられているというのを繰り返し思い出させられるので興醒めだ。本人たちを登場させるなら、最後だけにするべきだった。

 私としては、収容所での米軍の非道振りをねちねち描くよりは、原題THE ROAD TO GUANTANAMOどおりの内容にしたほうがよかったんじゃないかと思う。彼らが英国でどう暮らしていたかとか、友達の結婚式に行くという気楽な旅行の様子とかをもっと丁寧に描けば、戦場の恐怖、米軍の非道がより際立っただろう。先進国の都市生活にすっかり馴染んだ彼らの一人は故郷であるはずのパキスタンで下痢をし、バスに置いて行かれるのだが、アフガニスタンとの国境でちゃんと友人たちと再会できる。その呑気さと、後で別の一人がはぐれてしまい、それきり生死も不明という怖さとを対比させることもできたのに、ただ漫然と流している。

 約1時間半の尺で、最後まで彼らの顔と名前が一致しなかった。パキスタン系の顔を見慣れていないから区別がつかない、というわけではなく(本人たちと再現映像の俳優たちが別人なのは一目瞭然だったし)、彼らが個人として描かれていないからだろう。要するに制作者は、「物語」としての完成度を高める努力をことごとく放棄しているように思える。実際に起きた事件に基づいていようがなんだろうが、「事実」というのはその時その場で起きたことだけであり、たとえ当事者であっても後から誰かに語る時点で、意図しようとしまいと解釈や作為が入り込む。語り出すまでもなく、「思い出した」時点ですでになんらかの選択と解釈が働いている。それはもはや事実ではなく、「物語」だ。まして当事者以外によって語られるものならば。

 邦題には、「僕達が見た真実」という羞恥心のないサブタイトルが付けられている。制作者たちはそこまで厚顔ではないにしろ、事実に基づいているということに胡坐をかいて、語りを垂れ流しているだけのように思える。物語は、人に伝わるものにしなくてはならないし、事実に基づいているのなら尚更、伝える努力をしなければならないだろう。その努力を放棄するのは、起きた出来事とそれに巻き込まれた人々に対する敬意の欠如だと言わざるを得ない。もしかしたら、「伝える努力」を精一杯やって、この出来なのかもしれないけどね。

 ま、最初に言ったとおり、初歩知識を得るくらいにはちょうどいいかと思います。それから、ドキュメンタリー或いはノンフィクションの在り方について考えさせられる作品でもあります。後者は明らかに制作者の意図から外れてますが。

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プレステージ

「プレスティージ」じゃなくて「プレステージ」なのは、単に表記の簡略化というだけじゃなくて、ひょっとして「ステージ」と掛けてあるのか? だとしたら、ある意味「勝手邦題」的な邦題だな。

 小説ならではの技巧を駆使した原作に対し、こちらは映画ならではの技巧を駆使した作品に仕上がっている。何より、原題prestige栄光、幻惑――要するに「はったり」とか「こけおどし」とか「けれん」――の具象化は素晴らしい。その最も端的なシーンは、19世紀末ロンドンの薄暗いホールで稲妻のように閃く電光だ。またストーリーやトリックも映画向きに簡潔に整理され、「行間を読む」楽しみがなくなった代わりに、結末まで一気に突き進むジェットコースター的な娯楽作として成功している。二人の奇術師の対比(独創性はあるが華がないVS独創性はないが華がある)をより明確にすることで、駆け引きもより真剣勝負になった趣だが、ただ原作ではボーデンのほうがより強く対抗意識を抱いている印象だったが、映画だとむしろアンジャーのほうが執念深いように思えた。まあ原作では発端がアンジャーの妻の流産に対し(妻自身はどうにか命を取り留める)、映画では彼女の死だというのもあるんだろうけど。この改変自体は、映画は上映時間に制限がある以上、二人の因縁の根深さを簡潔かつ明確にしているという点で評価できる。

 しかしクリスチャン・ベールは、ますますトム・クルーズに似てきたな。顔が。つまり、トム・クルーズが「何をやってもトム・クルーズにしか見えない」のは、顔の問題ではないということですね。作品の雰囲気を構築するのに多大に貢献しているのが、スカーレット・ヨハンソンの容姿。あの体型(と顔)であのステージ衣装というのは、それだけで一見の価値がある。いや、演技力にも問題はない、むしろ同世代の女優の中では抜きん出ているんだろうけど、容姿のインパクトが強すぎてな。ガジェットについては、二人の奇術師のノートのほうは映画が小説のような積極的な使い方ができないのは致し方ないが、ナレーションとして巧く利用していると思う。一方「瞬間移動装置」は、映画のほうが巧い。

 ミステリとSFの中間的作品、つまりSF的なガジェット(超能力とか、『プレステージ』で言えば瞬間移動装置)を使ったミステリ、或いはミステリ仕立てのSFは多い。しかしミステリファンとSFファンの双方を満足させられる作品というのは少ないように思う。もちろんミステリもSFも好きという人は多いはずだが、とりあえず中間的作品に対してトリックと謎解きにより注目するのがミステリ寄りの人、ガジェットの使い方により注目するのがSF寄りの人、だろう。SF的ガジェットがトリック自体や謎解き(或いはその遅延)に用いられているミステリの場合、ルール無視の反則技のように感じるミステリファンは多いだろうし、SFファンはSFファンで、そのガジェットの設定がきちんと活かされているかどうか、つまりトリックや謎解きに奉仕するためだけに便利に使われているのではないかを問題にするだろう。SF設定が前提としてあり、そこにミステリ要素が持ち込まれている作品の場合、SF設定を問題にするのがSFファン、ミステリ要素を問題にするのがミステリファン、ということになる。

 私の場合、トリックや推理に対する関心は皆無とは言わんが非常に低い(だからミステリが書けない)が、逆にSF設定が「便利に使われてる」だけの作品には大変強い不満を覚える。だから一般にネタバレと言った時の「ネタ」(オチとかトリックとか)は作品鑑賞に於いてそれほど重視しないが、人によっては最重要視し、それがバラされると作品の価値が激減することもあるようなので、以下はネタバレですと警告しておきますよ。

 瞬間移動装置は実は……という点は映画は原作と同じだったが、その副産物の設定や扱いについては映画のほうがすっきりしていてよかった。小説だとホラー要素まで加わってしまって、さすがに収拾が付かなくなってるような……。「自分自身を始末する」という行為のほうが、アンジャーの狂気じみた執念が表現されいていいと思うんだが。

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舞台芸術の世界

 京都国立近代美術館。いや、おもしろかったんだけどね。いまいち主旨がはっきりしない展示内容だったな。

「舞台芸術の世界」というメインタイトルは、あまりにも漠然としている。サブタイトルは「ディアギレフのロシアバレエと舞台デザイン」なんだが、「ディアギレフの」が掛かるのが「ロシアバレエ」までなのか「舞台デザイン」までなのかよくわからない。バレエ関係の展示物はバレエ・リュスを中心に大なり小なりディアギレフとその周辺人物が関わったものだったが、それ以外の舞台芸術(演劇とかオペラとかミュージックホールとか)は一応「ロシアの」という括りがあるだけのようで、よくわからない。そら確かに、人脈を辿っていけばいくらでも関連は見出せるんだろうけど。

 展示物は衣装のデザイン画が中心で、次いで舞台作品のポスターやパンフレット、実際に使用された衣装など。デザイン画は数が非常に多く、また素描とはいえ作品として鑑賞に値するものばかりだった。天野喜孝が19世紀末の絵画の影響を受けていることはよく指摘されているが、20世紀前半のバレエ・リュス関連のデザインからの影響も強いんじゃないかと思う(特にレオン・バクスト)。それにしても、もっと当時の雰囲気を伝える展示物を揃えてほしかった。舞台装置のデザイン画だけじゃ、よくわからん(展示数も少なかったしな)。セットの一部や小道具が一点も残ってないってことはないと思うんだが。せめて写真の展示をもっと増やすとか。1985年にパリで再現された公演「牧神の午後」「薔薇の精」「ペトルーシュカ」の上映はよかったが、音質はともかく画質はもう少しなんとかならなかったものか。

 興味深い内容なだけに、展示が半端だったのが惜しまれる。いっそのこと何か一作、当時の舞台装置をそっくり再現した展示でもしてくれればよかったのに。以前観に行った敦煌展では、石窟の一つの実物大レプリカが作られていて感動したぞ。

 常設展示も観る。あまりこれといったものはなかったな。ルドンが4、5点もあったのは多少驚いたが。もう一つの企画展「シビル・ハイネン テキスタイル・アートの彼方へ」は、展示数は少ないがおもしろかった。1961年オランダ生まれか。テキスタイルといっても金箔を貼ったゴムによる工芸品で、特に説明はなかったが蒔絵や屏風といった日本の伝統工芸の影響を受けているのだろう。伝統工芸と現代美術の融合という試みとして、成功しているように思う。

 近代美術館というか岡崎公園には、京都に住んでた頃、何度も行ったことがあったので道に迷うはずがないと思っていたんだが、地下鉄東西線の東山で降りたのは初めてだっったため、地上に出た途端、早速道を間違えました。5分で気が付いたので迷子にはならずに済んだけど(反対方向に歩いていた)。その昔、会社の上司は、私がお使いに出ると戻ってくるのが遅いのは道に迷っているからだというのを信じず、どっかでさぼっているのだろうと疑いました。ようやく信じてくれたと思ったら、今度は「道を間違えるのは不注意だからで、勤務中だというのに注意力散漫なのは怠慢だ」と決め付けました。酷い誤解もあったものです。注意深くしていても道に迷う、むしろ注意深くしていると迷ったことに気づいた時に焦ってますます迷う、それが方向音痴というものなのです。

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