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プレステージ

「プレスティージ」じゃなくて「プレステージ」なのは、単に表記の簡略化というだけじゃなくて、ひょっとして「ステージ」と掛けてあるのか? だとしたら、ある意味「勝手邦題」的な邦題だな。

 小説ならではの技巧を駆使した原作に対し、こちらは映画ならではの技巧を駆使した作品に仕上がっている。何より、原題prestige栄光、幻惑――要するに「はったり」とか「こけおどし」とか「けれん」――の具象化は素晴らしい。その最も端的なシーンは、19世紀末ロンドンの薄暗いホールで稲妻のように閃く電光だ。またストーリーやトリックも映画向きに簡潔に整理され、「行間を読む」楽しみがなくなった代わりに、結末まで一気に突き進むジェットコースター的な娯楽作として成功している。二人の奇術師の対比(独創性はあるが華がないVS独創性はないが華がある)をより明確にすることで、駆け引きもより真剣勝負になった趣だが、ただ原作ではボーデンのほうがより強く対抗意識を抱いている印象だったが、映画だとむしろアンジャーのほうが執念深いように思えた。まあ原作では発端がアンジャーの妻の流産に対し(妻自身はどうにか命を取り留める)、映画では彼女の死だというのもあるんだろうけど。この改変自体は、映画は上映時間に制限がある以上、二人の因縁の根深さを簡潔かつ明確にしているという点で評価できる。

 しかしクリスチャン・ベールは、ますますトム・クルーズに似てきたな。顔が。つまり、トム・クルーズが「何をやってもトム・クルーズにしか見えない」のは、顔の問題ではないということですね。作品の雰囲気を構築するのに多大に貢献しているのが、スカーレット・ヨハンソンの容姿。あの体型(と顔)であのステージ衣装というのは、それだけで一見の価値がある。いや、演技力にも問題はない、むしろ同世代の女優の中では抜きん出ているんだろうけど、容姿のインパクトが強すぎてな。ガジェットについては、二人の奇術師のノートのほうは映画が小説のような積極的な使い方ができないのは致し方ないが、ナレーションとして巧く利用していると思う。一方「瞬間移動装置」は、映画のほうが巧い。

 ミステリとSFの中間的作品、つまりSF的なガジェット(超能力とか、『プレステージ』で言えば瞬間移動装置)を使ったミステリ、或いはミステリ仕立てのSFは多い。しかしミステリファンとSFファンの双方を満足させられる作品というのは少ないように思う。もちろんミステリもSFも好きという人は多いはずだが、とりあえず中間的作品に対してトリックと謎解きにより注目するのがミステリ寄りの人、ガジェットの使い方により注目するのがSF寄りの人、だろう。SF的ガジェットがトリック自体や謎解き(或いはその遅延)に用いられているミステリの場合、ルール無視の反則技のように感じるミステリファンは多いだろうし、SFファンはSFファンで、そのガジェットの設定がきちんと活かされているかどうか、つまりトリックや謎解きに奉仕するためだけに便利に使われているのではないかを問題にするだろう。SF設定が前提としてあり、そこにミステリ要素が持ち込まれている作品の場合、SF設定を問題にするのがSFファン、ミステリ要素を問題にするのがミステリファン、ということになる。

 私の場合、トリックや推理に対する関心は皆無とは言わんが非常に低い(だからミステリが書けない)が、逆にSF設定が「便利に使われてる」だけの作品には大変強い不満を覚える。だから一般にネタバレと言った時の「ネタ」(オチとかトリックとか)は作品鑑賞に於いてそれほど重視しないが、人によっては最重要視し、それがバラされると作品の価値が激減することもあるようなので、以下はネタバレですと警告しておきますよ。

 瞬間移動装置は実は……という点は映画は原作と同じだったが、その副産物の設定や扱いについては映画のほうがすっきりしていてよかった。小説だとホラー要素まで加わってしまって、さすがに収拾が付かなくなってるような……。「自分自身を始末する」という行為のほうが、アンジャーの狂気じみた執念が表現されいていいと思うんだが。

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