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トランスフォーマー

 元のあれについては、「そういうものがあった」という程度の認識しかない。すみません。しかし自動車から変形する「善いトランスフォーマー」たちの、いかにも超合金超合金した塗装には、何となしの懐かしさを覚える。

 小ネタが満載なのは、スピルバーグなんだろうなあ。主人公の駄目高校生振りとか、その友人(おそらく唯一の友人)の駄目さを通り越した痛さとか、左前脚のギブスについてなんの説明も為されないチワワとか、中古車店の店主とその周辺とか。ああ、でも「日本製だ、日本製に決まってる」はマイケル・ベイが出したネタらしい。しかしアクションシーンになると、それらはきれいに消失してしまう。惜しげもなく投げっぱなし、というのはいいんだけど、バトルだけになる後半でも、もっと小ネタで引っ張れなかったものか。結果として緊張感がなくなったっていいからさ。どうせ、死体を映さないマイケル・ベイ印なんだし。

 戦闘シーンだらけなのは、大いに結構である。でかくてゴチャゴチャしたものがガシガシ動くのを観るのは大好きだ。いや、でかいです。ゴチャゴチャしてます。ガシガシ動きます。しかしせっかくなんだから、もっとしっかり観たかったですよ。ゆっくりした動きでのクローズアップに耐えられない出来じゃなかろうに。それに、さすがにデザインが入り組みすぎて(駆動部が剥き出しであんなに激しく動いて大丈夫なんだろうかというのはともかく)、悪いトランスフォーマーにボコボコにされているのに、いまいちやられ加減が判らない。損傷したのか、元からそういうデザインなのか判別できないのだ。

 という具合に不満もありましたが、それは主に「せっかくええもん(豊富な小ネタ、でかくてゴチャゴチャしてガシガシ動くロボット)持ってるのにもったいない」ということであって、概ね結構な作品でした。父と妹Ⅱも大いに満足したようです。しかしエンドクレジットが始まって、ふと周囲を見回したら、すぐ近くの席の人が爆睡していました。よくあんな爆音の中で眠れるものだな。よっぽど退屈だったんだろうなあ。

 ところでジョン・タトゥーロは久し振り。主演監督作の『天井桟敷のみだらな人々』のナルシスト振りに呆れ果て、『オー・ブラザー』と『耳に残るは君の歌声』でも凡庸さにがっかりさせられたが、久し振りに本領発揮というか新境地というか(よもやタトゥーロのガンアクションが見られるとは)。

「トランスフォーマー ロストエイジ」感想

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フィラデルフィア美術館展

 京都市美術館。フィラデルフィア美術館の収蔵品は中世から現代にまでわたるそうだが、今回来たのは19世紀後半から20世紀前半まで。77点の作品が、五つに区分して展示されている。写実主義と近代市民生活(1855~1890)、印象派とポスト印象派――光から造形へ、キュビスムとエコール・ド・パリ――20世紀美術の展開、シュルレアリスム――不可視の風景、アメリカ美術――大衆と個のイメージ。中心は二番め(23点)と三番め(27点)。

 一番めの「写実主義と近代市民生活」は8点だけだが、印象派の序章という位置付けで観るとおもしろい。ちなみにマネ(2点)は印象派じゃなくてこっちに展示されていた。造形芸術は、「色(もしくは陰影)と形(構図)がおもしろいか否か」でしか観ないんで、どちらかというと印象派よりキュビスム以降のほうが好き。敢えてカテゴリーとして比較するなら、ということだけど。あと、油彩の厚塗りがあんまり好きじゃないかもしれない。モネの「睡蓮、日本の橋」まで来ると、もう何が何やら。これ、縮小された写真だとそうでもないんだが、実際目の当たりにするとものすごいな。添付の解説は「油絵の具を惜しげもなく使い」云々とあったが……「惜しげもなく」ってゆーか。そんな中でセザンヌの「ジヴェルニーの冬景色」は、未完成であるがゆえに却って印象的だった。

 印象派以降の絵画展で思うのは、唯一無二の「個」を表現しようとした苦闘の結果も、こうして大量に並べられてしまうと埋もれてしまいかねない、没個性になりかねないということだ。レディメイドの背景にはそういう懸念もあったんじゃないかと思うんだが、それはともかく「便器の人」マルセル・デュシャンの絵画も二点あった。1911年の「チェスプレイヤーの肖像」はキュビスムの影響が露骨だが、その前年の「画家の父の肖像」は相当に写実的。大阪の国立国際美術館にはデュシャン作品が多く所蔵されているので、その時々の所蔵品展示で何点ずつか観ることができる。こないだは「L.H.O.O.Q」(髯のモナリザのあれ)を観た。個性の追及といういたちごっこを展望すると、やっぱりぐるっと戻って23歳の時に描かれた「画家の父の肖像」がいい、となる。

 四番めのシュルレアリスムは4点しか展示されてなくて、20世紀美術と分ける必要があったんだろうかと思う。ミロが2点、デ・キリコとマグリットが1点ずつ。マグリットはあんまり好きじゃないんだが、この「六大元素」は意味がありそうで実は全然なさそうなところが気に入った。隠喩に満ち満ちた手合いは「高尚ぶってる」と馬鹿にするが(その隠喩が自明のものである場合はともかく)、いかにも意味ありげな思わせぶりなものを作っておいて、ほんとは意味なんかないんだよーん、という舐めた態度を取られると結構喜ぶ私は、結構しょうもないと思う。「ちょっと意味ありげにしてみました、そのほうがかっこいいから」というのんは論外。

 アメリカ絵画をまとめて観るのは初めてだったんだが、ホーマーの写実主義に比べれば、20世紀絵画は遥かにおもしろい。オキーフの「ピンクの地の上の2本のカラ・リリー」は巨大な白い花弁の繊細な色の変化が素晴らしい。フローリン・ステットハイマー「ベンデルの春のセール」とドロテア・タニング「誕生日」もよかった。

 今回、バスという交通手段があったことを思い出したので、京都駅-岡崎公園はバスで移動。この日は陽射しも気温もそれほどではなかったので、岡崎-河原町間をうろうろする。京都の町家は間口が狭いけど、格子越しに垣間見える深い奥行きが結構好きだ。路地なんて、ちょっとした「異界」である。「間口は狭いけど、奥行きが深い」のは、グアナファトの街並も同じだ、そう言えば。グアナファトは山間なので街全体がミニチュア的なんだな。

 それにしても、河原町界隈はここ数年でどんどん本屋が減っていくなあ。大阪キタは、どこへ行ってもブック1stにぶつかるようになったが。

 

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実は変身ヒーローじゃなかったりする

 先日、子供の頃はTVを見せてもらえなかった、と書いた。長年にわたる権利の主張で、中学生になる頃には好きなだけ見る自由を勝ち取っていたのだが、結局TVをほとんど見ない生活は変わらず、現在に至っている。

 思うに、人がTVを見るのは半ば習慣によるものであって、私はその習慣を形成する機会を逃したのであろう。まず、TVを漫然と見ることができない。どんな内容であろうと、映画鑑賞と同程度の集中力で「観て」しまう。TVがつけっぱなしの状態で何かほかのことをするには、意識的にTVからの情報を締め出さないといけない。どちらにせよ、かなり疲れる。しかも非常に不精なので、見たい番組があったとしても、決まった時間にTVの前に座るという行為が困難である。当然ながら録画の手間も掛けない。

 そういうわけで、『ガンダム』をほぼ毎回見ていたのは、私にしては大変珍しいケースなのであった。続くリアルロボットアニメ路線は見ていない。SF好きとしては当然興味はあったし、確か地元では概ね5時台に放映されてたから見ようと思えば見られたわけだが、習慣の力を打ち破るほどには惹かれなかったのだろう。キャラクターデザインが安彦良和じゃなかったのも、理由の一つだろうなあ。

 アニメを見ていなかったから、特撮については言うに及ばずだが、これは世代的なものもあるんじゃないかと。大学に入ったら周囲が特撮オタクだらけだったのは、所属した場所(映画サークルと演劇部)の特殊性だけじゃなくて、関西では昔の特撮番組がしばしば再放送されていたからだろう(現在の状況は知らないが)。誰かの下宿で飲むということになれば必ず上映会だったし、「これを見ろ!」とビデオを渡されたりして、いろいろ知識が身についてしまったけど、自主的に鑑賞してたわけじゃない。

 思春期以前に鑑賞して、その後の嗜好に多大な影響を受けた作品を仮に「原体験」と呼ぶと、私には小説や漫画では原体験と呼べる作品が複数あるが、アニメでは一番最初の『ガンダム』だけだし、特撮は原体験に含まれない(ちなみに映画も大学以前はほとんど観てないから、原体験と呼べるのんは一作だけだ)。だから、「生体甲冑」は変身ヒーローではない。ほな何かと言うと、「モビルスーツ」である。

 1982年のとある夕方、偶々TVをつけた私の前に展開されていたのは、退避カプセルのシーンだった(つまり第一話序盤は見逃したのである)。「父が軍属です。こんな退避カプセルじゃもちませんから」云々の台詞に、何か妙に地に足ついてるな、などと思っていたら、次のシーンが外に出たアムロの目の前に聳え立つザクである。それまでにも「偶々TVをつけたら」放映していた巨大ロボットものを見たこともあるにはあったんだが、巨大ロボットの「巨大さ」をまるで自分も実際に目にしたような衝撃とともに「実感」させられたのは初めてだった。そんなわけで私にとっては、巨大ロボットの巨大さは映像で表現されるべきものであって、敢えて小説という文字媒体で表現することに(少なくとも自分でやる分には)関心がない。しかもモビルスーツは本来、等身大である。

 等身大のモビルスーツ、要するに「パワードスーツ」が生体甲冑のコンセプトだ。だから生体「甲冑」(ARMADURA=スペイン語で「甲冑」)だし、使用者は「着用者」なのである。それがなぜ「着用」するものじゃなくて「変身」するものになってなってしまったのかというと、使用し続けることによって精神が蝕まれていく(かつて私は『ガンダム』を「少年兵が壊れていく話」だと思っていた。カテゴリー思い出し鑑賞記「脳内ガンダム」参照)過程を、ウイルスによる「侵蝕」という具体的な現象で表現するためだ。科学に関する私の興味と知識が、著しく生物学に偏っているからでもあるんだけど。

 当初は、あまりヒーローっぽくない、ややかっこ悪いデザインにするつもりだった。ずんぐりした鈍重そうな外見、モビルスーツで言うとゴックとかズゴックとかあの辺のシルエット。もっとも当時はプロットを幾つか書いた程度なんで、具体的なデザインも何もなかったんだけど。『グアルディア』の構想を始めたのが1999年末くらいからで、生体甲冑に二つのタイプがあるという設定もその頃に決めた。初期の装甲タイプと、装甲を取り払った改良タイプ、名称は前者を「外骨格型」、後者を「内骨格型」にするつもりだったんだが、じゃあ外骨格型は体内に骨がないのか、とか考えてたら面倒になったので「甲殻型」と「軟体型」にする。どちらもずんぐりしたシルエットで、軟体型の表皮は人間の皮膚のような見た目(弾丸を跳ね返すくらいの強度はあるが)にするつもりだった……が、その頃刊行されたとある小説を読んで、その設定はやめました。やめてよかったと思います。その小説とは…………京極夏彦の『どすこい(仮)』。

 甲殻型を「見る者に畏怖を抱かせる」外見にする必要上、両タイプともシルエットは現行(体長2メートル強で四肢が長い)になったんだが、このデザインはちょっとアメコミ的なような気もする。アメコミも映画を通じて知ってるだけで、そのものにはほとんど触れていないのだが。あと、『バオー来訪者』や『ガイバー』、『BLAME』といったコミックも読んだことがありません。単に機会がなかったというだけで、「○○は読んでない/観てない」と声を大にすることによって自分のオリジナリティを主張するつもりは無論なく、いずれ機会があれば読むでしょう。80年代リアルロボットアニメについては……観る機会はあるんだろうか(昔のTVアニメって、50話前後もあるからなあ)。

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マルホランド・ドライブ

 観ている間はもちろん、観終わってもまったく意味不明だったんだが、劇場を出てパンフレットを読んで、前半のベティと後半のダイアンが同じ女優(ナオミ・ワッツ)によって演じられているのを知り、ようやく「ああ、そういうことだったのか」と腑に落ちる。

「外人」の顔の見分けは付くほうだと思うんだけど、なぜか金髪碧眼に限ってはよほど特徴的な顔立ちでない限り、年齢と体格でしか見分けが付けられない。取り立てて特徴のない「金髪碧眼のそこそこの美人」となると、個体識別がほとんど不可能になる。だからその一人であるナオミ・ワッツがファッションも性格もまったく違うキャラクターを演じ分けていると、もはや別人としてしか認識できないのである。一人二役だってことくらいは映画雑誌とかに書かれていたんだろうけど、映画の事前情報はそれほど詳しくチェックしないのだ。

 ともあれ一人二役だと判ってしまえば、「前半は幻想、後半は現実」という極めてシンプルな構造である。そんな単純な枠組みに収まらない不可解な要素も大量に挟み込まれているんだが、それはどうでもいい。ああそうだ、以下はネタバレがありますよ。

 前半は、死んだ女が見る夢。後半はその女の最後の日々。不毛で荒涼とした現実と対比されて、幻想は哀切なまでに美しい。これはナオミ・ワッツの力に拠るところが大きいだろう。一人二役って判ってなかったのにこんなことを言うのもなんだけど。希望も愛も失い、凄絶な絶望と孤独を抱えたダイアン(現実)が垣間見るベティ(幻想)の人生は、ダイアンの願望であり、ありえたかもしれないもう一つの人生だ。だから文字どおり夢のように美しいが、ところどころ綻びて、無惨な現実が侵蝕してくる。そして、決してハッピーエンドにはなり得ない。或いは、これは現実→死→幻想という一直線の時間上にあるのではなく、平行する二つの世界が一つの死(もしくは腐乱死体)によって結び付けられるまでの物語なのかもしれない。

 前半の夢の世界は、じわじわと侵蝕してくる現実を別にしても、その美しさゆえに現実ではないことを露呈している。そうした不安定さを作り出すのに、ローラ・エレナ・ハリングの容姿も一役買っている。顔も体格もごつい(美人なんだけど、でもごつい)彼女が不安に啜り泣き、華奢というかほとんど貧相なナオミ・ワッツに頼りきりになっているのは、かなり違和感がある。後半のハリウッド・スターのほうが、相応しい役柄だ。ところで前半、彼女がナオミ・ワッツから借りた服を着ているシーンは、服がパツンパツンになっててちょっとすごかった。

 それにしても観ている間、ローラ・エレナ・ハリングがチャールズ・ブロンソン似に見えて、気になって仕方なかったのであった。顔の骨格がそっくりだよ。特に眉骨の張り出し。ほかに顔が似た者同士だと思う組み合わせには、「トム・クルーズとクリスチャン・ベール」「マイケル・ジャクソンとアン・ハサウェイ」「レオナルド・ディカプリオとフィリップ・シーモア・ホフマン」等がある。人には賛同してもらえないんだけど。

 金髪碧眼がみんな同じ顔に見えるのは、おそらく私が子供の頃は「外人」と言えば「金髪碧眼の白人」であり、しかもそれが美のスタンダードだったことに起因するのだろう。そのバイアスがあまりに強力なため「金髪碧眼の白人」というのがそれ自体記号となってしまい、金髪碧眼の白人であるというだけで個々人の容姿の細部の特徴が認識できなくなっている、のだと思う。金髪白皙でも、目の色が青でなければちゃんと見分けは付けられる。

 ま、金髪碧眼という記号に「無個性」とか「安っぽさ」という意味を付与するのは、かなり一般的な認識だろう。『グアルディア』のカルラを金髪碧眼にしたのは、そういう理由からだ。あとがきで述べたように、『ファイアスターター』のヒロインがモデルだからでもあるが。「アルマドゥラ化」には個の希薄化という作用がある、という設定上、カルラとJDにはそれほど際立った個性を与えていない。カルラを金髪碧眼の美少女にしたのも、そうした「無個性化」の一環だ。一方アンヘルは「銀髪銀眼の男装の麗人」という、これもまた(アニメや漫画で)ありがちな外見だが、彼女の捻れた設定そのままに「実は髪も目も銀色というより灰色だし、男装も似合わない」という捻れを加えてある。

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インランド・エンパイア

 あははは、わけわかんねー。

 奇を衒った、概ね「前衛的」とカテゴライズされる作品は、大概が作者の「奇を衒おう」という意図が透けて見えるので好きじゃない。デヴィッド・リンチ作品も、そういう意図が見えないこともないんだけどね。それでも三時間も付き合えるのは、造りが非常に丁寧だからなんだろうなあ。いわゆる前衛的作品(「既成の枠組みに捉われない」と称する)には単に杜撰なだけのものが少なくないが、リンチ作品は何はともあれ技術は高いし、手間がかかっている。「丁寧」というのは、「執拗」「偏執的」とも言い換えられるんだろうけど。

 これまで観たことのあるリンチ作品は、『ブルーベルベット』『ワイルド・アット・ハート』『ツインピークス』の最初の数話、『ストレイト・ストーリー』『マルホランド・ドライブ』。映画館で観たのは『マルホランド』だけ。リンチは自作に対する「文学的解釈」を忌み嫌っているのだそうである。前衛的と称される創作者(文芸分野も含む)は大概こういう主張をする。そうして作られた作品は大概、単に破綻してるだけだったりするんだが、これまでのリンチ作品は(少なくとも私が知る限りでは)「文学的解釈」を可能にする一応の枠組みというか骨組みを持っていた。だいたい、この人は作ろうと思えばまともな話(『ストレイト・ストーリー』)も作れるし。

『インランド・エンパイア』は、文学的解釈を一応可能にする骨組みを完全に取り払った作品だ。まさに「悪夢のように不条理な」世界なのだが、まったくの支離滅裂というわけでもない。悪夢や妄想(精神症状としての)にもそれなりに整合性があるように、一見まったく関係のない場面同士が、同じ役者、同じ台詞、同じ音響、同じ構図等で繫がっていて、こちらの注意力を持続させる。何か意味があるんじゃないかと期待させて。

 たぶんリンチは、「何を見ても意味を見出そうとする」という人間の脳の機能を引き摺り回す才能の持ち主なんだろう。引き摺り回されるのにもそれなりの気力と体力が必要だが。人間の脳は、見たものになんらかの意味を見出そうと(解釈しようと)し、意味/解釈を見出せた時には快感を覚えるように出来ている。その機能をリンチに引き摺り回された挙句、何がしかの意味を見出せて満足する人もいるだろうし、何も見出せなくてフラストレーションしか残らない人もいるだろう。しかしこれまでのリンチ作品は、一応は解釈可能な余地があったが、今回は誰にとっても無理なんじゃなかろうか。いや、パンフレットの解説では無理やりな解釈が試みられてたけど。

 私はと言えば、意味の有無にはあまり意味を見出さないし、例えばクローネンバーグ作品のような類では隠喩が鼻につくこともあったりするんだが、それでももちろん「何を見ても意味を見出そうとする」機能はしっかり持ち合わせている。この機能を刺激され続けなかったら、到底三時間も集中力を持続できはしない。意味などないと判っていながら意味を見出そうとする自分の脳と、それを引き摺り回すリンチの力量の双方に、半ば呆れ半ば感心しながら三時間付き合った。こういう作品もまた、映画館で観てなんぼ、だろう。作中でも映画館の暗闇について言及されていたが、自宅等の日常的な空間では、引き摺り回された挙句にランナーズハイ状態になってエンドルフィンが放出される境地には至れるものではない。実際、14インチTVで観た『ブルーベルベット』と『ワイルド・アット・ハート』は苦痛なだけだったしな。

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魔笛

 姪(3歳)が部屋の掃除をしてくれました…………駄目な伯母(34歳)。

 さて、こういうのは映画館で観てなんぼだろー、というわけでケネス・ブラナーの『魔笛』を観に行く。あははは、おもしろかった。ま、いろいろ難はある。一言で言うなら全体のトーンの不統一というか不徹底かなあ。もっと賑々しく悪趣味なほうが好みなんだけど、それは措いといて、「夜の女王が戦車でやってくる」のレベルを一貫してほしかった、ということですね。

 第一次大戦風の世界、と言っても、特にどちらがどちらの陣営といった想定はしてなかったようだ。それは問題ない。しかし戦場がなあ。ファンタジーだからオブラートにくるんでみました、ということなんだろう。しかし第一次大戦の塹壕戦は、リアルに描こうとすればするほどシュールになる世界だから(それを言うなら、大概の戦場がそうなんだろうけど)、せめて序曲の間の突撃シーンだけでも、『西部戦線異状なし』にしてしまえばよかったのに。そのほうがそこから一転、幻想的な世界への鮮やかな移行が為せただろうし、「誰もが皆、こんな鐘を持っていたら……」といった歌詞が持つ意味にも、もっと重みを持たせることができただろう。そういえば冒頭、兵士が塹壕から身を乗り出して花を摘むシーンで、まさかいきなり『異状なし』(のラスト)のパロディか、と思ったが、そういう悪趣味なことにはならなかったので、そちらの方向性は早々に諦めたのであった。

 イメージの読み換えの不統一は、「映像で間をもたせようと」していたのが最大の要因だろう。一つの曲が長い時(特にアリア)、制作者たちが「間がもたない」と考えてるのがありありと判るような、苦し紛れっぽい映像が挟まれる。開き直って歌手だけ映しとけばいいのに、やはり映画畑の人間には「映画には動きがなければならない」という思い込みでもあるんだろうか。

 それでも、全体としてはおもしろかったです。英語の歌詞も最初は違和感があったけど、じきに慣れたし。ドイツ語は全然知らないので、訳そのものには違和感を覚えようがなかった、というのもあるんだけど。それに何はともあれ、私はモーツァルトを聴くとテンションが上がるのです。なぜなら私は『アマデウス』が非常に好きで、『アマデウス』が好きだからモーツァルトを聴いているうちに、モーツァルトのどの曲を聴いても(サントラに使われなかったものも含めて)『アマデウス』のイメージが重なって、条件反射的に情動が刺激されてしまうようになったのです。こういう聴き方は、モーツァルトの音楽自体の鑑賞とは言えないかもしれない。

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脳内ガンダム

 いわゆるガンダムブームは1980年代初めだから、私(73年生まれ)と同年代だと、兄か姉でもいない限り、当時からファンだったという人は意外に少ないんじゃないかと思う。私は第一子だが、ぎりぎりでブームに引っ掛かっている。うちの地元では、82年に初めてガンダムが放映されたのである。

 田舎の子供だったから、ガンダムのことは何も知らなかった。第一話を観たのは、本当に偶然だ。当時、我が家では、TVは一日一時間まで、それも母が許可した番組しか観てはいけないことになっていた。許可されない番組を観ようとすれば、傍に張り付かれて放映の間中、小言を聞かされ続けるはめになる。母がそうした行動を取った理由は、「TVばかり観てると馬鹿になる」。お蔭でこんな人間が出来上がりましたよ。やれやれ。ガンダムの放映時間は、母が夕食の支度をしている5時台だったので、邪魔されることなくゆっくり観ることができた。

 9歳の子供が、あの第一話でノックアウトされて、以後最終話まで観続けることになるわけだが、観ていたものは、9歳の子供の理解力を通した『ガンダム』だった。当時の私はこれを「少年兵が壊れていく話」と解釈していたのである。子供が兵士にされて人殺しさせられたら、そりゃおかしくもなるよね、という意味で、この作品は非常にリアルだった。だからニュータイプ云々も、壊れていくことの「比喩的表現」だと思っていた。ララァが登場した時には、「ああ、もっと壊れた人が」。そして最終話、文字どおり彼岸からのララァの呼び掛けを拒絶し、アムロは仲間の許へと戻る。ちょっとおかしくなったままの彼だが、仲間は受け入れてくれる……という話だと思ってたんだけどね。で、時は経ち、『Z』も『ZZ』も観ずに高校生になったある日、富野監督のインタビューを読んで、「え、ニュータイプって……」。

 まあその後、再放送やビデオ(映画版含む)で再鑑賞しましたが、やっぱり私の中ではこの作品は「少年兵が壊れていく話」であって、ニュータイプは「比喩的表現」であるわけです。私の脳内だけに存在する作品。とは言え、「三倍速い」とか「赤い奴」とか「○○なんて飾りです、偉い人にはそれがわからんのです」とか聞くと、条件反射で笑いますが。「若さゆえの過ち」は、ベタ過ぎて笑わない。

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変わり映えのしない日々

 CDが棚から溢れて収拾がつかなくなっていたので、先週末、CDラックを作りました。作ったと言っても、CD収納用の薄型カラーボックスを組み立てて、二段に積んで、上の段のが落ちないように金具で止めただけです。とりあえずこれで、あと約150枚分の余裕ができました。

 私は整理整頓や掃除が苦手ですが、散らかった状態なのも嫌いです。長年の試行錯誤の末、「まめに片付ける努力をするより、散らかりにくい環境を作っておいたほうがいい」という結論に達しました。そういうわけで、仕事机もカラーボックスと板を組み合わせて作ったものです。座椅子に合った高さで、奥行きが狭く、横に広いデスクはないかと、既成のものをいろいろ探したけど手頃なものがなかったので、二年ほど前に作りました。お蔭で部屋は……まあそれ以前よりは散らからなくなりましたよ。

 気が付いたら、かなり久し振りなカテゴリー「日常」です。判で押したような変わり映えのない日々が好きなので、判で押したような変わり映えのない日々を送ってきたわけですが、今月は「英語強化月間」ということで、ひたすら英語学習に明け暮れています。なんのためかというと、ワールドコンに行くからです。一般参加です。英語の勉強はまあその、やらないよりはやったほうがいいかなあ……と。それとワールドコンにかこつけて、「一ヵ月でどれだけ英語力が向上するか」挑戦というか実験というか。

 というわけで、今月は執筆が休止してます。すみません、ごめんなさい。ワールドコンが終わったら、いよいよ執筆だけに明け暮れる予定です。

 半年ほど前からどうも目が霞むようになったので、先月、眼鏡を新調しました。視力のほうは前回、眼鏡を作った五年前から少しも低下していなかった(右0.3、左0.4)のですが、右の乱視が進んで目の焦点が合いにくくなっていたのだそうです。確かに新しい眼鏡にしたら、目が疲れなくなりました。これで来月から毎日終日書き続ける執筆マシンになれるぞ。

 

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ペルシャ文明展

 大阪歴史博物館。チラシによると、ペルシャ文明に関する「本格的な展覧会」は半世紀振りなんだそうだが、むしろ半世紀も前にそんな(具体的にどんなんだったかは知らないが)展覧会があったことのほうが驚きである。半世紀前っていったら、日本ではようやく高度成長期に入ったか入らないかの頃だし、イランはイランでまだ王政で、かなり政情不安定だったんじゃないか?

 展示物は約200点。夏休みだから小学生が何人も来てたな。土器や彫刻は動物の意匠が多く、写実と抽象を巧く組み合わせたデザインなので、子供が見てもおもしろかったんじゃないかと思う。実際、女の子たちは「かわいい」と喜んでいた。しかし金銀製品が全然見当たらないな、時代ごとに展示されているはずなのにアケメネス朝の黄金の角杯はどうした、と思っていたら、金銀は出口近くにまとめられていた。確かにこういうものはまとめて見たほうが壮観だし、土器や青銅器と一緒に展示しておくと、参観者は金銀ばっかり見て、地味なものは素通りしてまうからなあ。

 こういう歴史系の展覧会で呼び物となる展示物は、「黄金」と「ミイラ」だ。だから金製品もしくはミイラが数点しかない展覧会であっても、それを強調する(ミイラの場合は、一点だけでも人を呼べる)。純金じゃなくて鍍金とか合金、それに金箔なみに薄く延ばされた製品しかなくても「黄金の○○展」とか平気でやるよな。今回は貨幣や印章等のごく小さなものを除けば金銀製品は20数点で1割強だから、まあ多いほうか。

 貨幣もアケメネス朝からササン朝まで、まとめて展示されていた。銀貨が大半。アケメネス朝の銀貨が、小さくて歪なので驚く。歪んだ楕円形で、長いほうの径でも2センチあるかないかといった程度。ササン朝に入ると完全な円で径3センチ前後になるが、それでも「小さい」という印象は拭えない。これは私が学生時代、シルクロードの服飾文化研究でササン朝銀貨の人物像を参照にする時、拡大写真でしか見ていないからだろう(拡大写真は、この「ペルシャ文明展」でも一緒に展示されていた)。当時、銀貨の実物は、ある展覧会で展示されていた数点しか見たことがなかったし。図版にばかり頼ってると、こういう点が危険なんだよな。特に私は、数字でサイズを示されても、具体的な大きさをイメージする能力が低いから。やっぱ実物は見なあかん。

 あと、ラピスラズリ製品の中には、ひどく色褪せているものもあったのが意外でした。ラピスラズリって、変色・退色しないから貴重(特に顔料として)だったんじゃないのか。

 大阪歴史博物館は二度目。谷町四丁目で下りればすぐなんだが、私は方向音痴のくせに街中を歩くのが好きなので、二度とも天満橋で下りて歩く。二度とも迷わずに到着できたんだが、前回どこをどう通って移動したのか、ほとんど憶えていないことが判明した。あれー? 今回も前回も、途中で何度も地図を確認しながらの移動だったんだよな。というわけで、三度目も無事に辿り着けるという保証はありません。

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イルスの竪琴

 たぶん最も繰り返し読んだ小説。さすがに近年は全三巻通しでの再読はしていないが、部分的な拾い読みなら今でもちょくちょくやってるので、カテゴリーは思い出し鑑賞記じゃなくてこっち。

 いわゆる異世界ファンタジーは、いわゆる世界設定について読んでる途中でいろいろ要らんことが気になってしまうので、ちょっと苦手である。しかしこの『イルスの竪琴』三部作(『星を帯びし者』『海と炎の娘』『風の竪琴弾き』パトリシア・A・マキリップ 早川書房)は別格……というか、「そもそも世界設定なんて、大して重要じゃないんだ」と思わせてくれる。それくらい、ほかの要素がしっかりしているのだ。イラストが山岸凉子なのは、かなり貴重だろう。ちょうど1979~81年の、和と西洋ファンタジーの融合した作風だ。残念ながら現在は古本しか入手できないけど。

 とにかく全編にわたって描写が素晴らしい。繊細かつ重厚。美しいが、決してけばけばしくはない。喩えるなら、松明で照らし出された坑道の壁面に輝く宝石の原石。或いはよく磨かれ光沢を帯びた木の、木目と調和した浮き彫りや象嵌細工の美しさだ。情景描写はもちろんだが、特に好きなのは人物の描写。内面の描写は非常に少ない。その代わり、表情や仕草の描写がとても詳細だ。肩を竦める、目を伏せる、顔を覆う、眉をひそめる……それらが、独白や説明などより遥かに雄弁にキャラクターたちの心情を伝えてくれる。一方、容姿や服装の描写については、きちんとなされているものの、ごく軽くなので想像の余地がある。また、舞台となる世界はさまざまな法則に支配されているが、それについての説明もほとんどない。散在する情報の断片を繋ぎ合わせて推測していく必要がある。

 ネタが作品になるまでにはいろんな段階があって、話の筋や設定、キャラクター造形などは当然ながら最も根底の、土台となる段階だが、それらを「小説」という表現形態にする段階で、私はこの作品から随分影響を受けているんだと思う。何しろ初読が二十年も昔なので、もともとそういうスタイルが好きだったから『イルスの竪琴』をここまで好きになったのか、この作品が好きだからそういうスタイルが好きになったのかは、もう自分でもわからないのですが。

マキリップ『チェンジリング・シー』と『ホアズブレスの龍追い人』感想

『バジリスクの魔法の歌』感想

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