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マルホランド・ドライブ

 観ている間はもちろん、観終わってもまったく意味不明だったんだが、劇場を出てパンフレットを読んで、前半のベティと後半のダイアンが同じ女優(ナオミ・ワッツ)によって演じられているのを知り、ようやく「ああ、そういうことだったのか」と腑に落ちる。

「外人」の顔の見分けは付くほうだと思うんだけど、なぜか金髪碧眼に限ってはよほど特徴的な顔立ちでない限り、年齢と体格でしか見分けが付けられない。取り立てて特徴のない「金髪碧眼のそこそこの美人」となると、個体識別がほとんど不可能になる。だからその一人であるナオミ・ワッツがファッションも性格もまったく違うキャラクターを演じ分けていると、もはや別人としてしか認識できないのである。一人二役だってことくらいは映画雑誌とかに書かれていたんだろうけど、映画の事前情報はそれほど詳しくチェックしないのだ。

 ともあれ一人二役だと判ってしまえば、「前半は幻想、後半は現実」という極めてシンプルな構造である。そんな単純な枠組みに収まらない不可解な要素も大量に挟み込まれているんだが、それはどうでもいい。ああそうだ、以下はネタバレがありますよ。

 前半は、死んだ女が見る夢。後半はその女の最後の日々。不毛で荒涼とした現実と対比されて、幻想は哀切なまでに美しい。これはナオミ・ワッツの力に拠るところが大きいだろう。一人二役って判ってなかったのにこんなことを言うのもなんだけど。希望も愛も失い、凄絶な絶望と孤独を抱えたダイアン(現実)が垣間見るベティ(幻想)の人生は、ダイアンの願望であり、ありえたかもしれないもう一つの人生だ。だから文字どおり夢のように美しいが、ところどころ綻びて、無惨な現実が侵蝕してくる。そして、決してハッピーエンドにはなり得ない。或いは、これは現実→死→幻想という一直線の時間上にあるのではなく、平行する二つの世界が一つの死(もしくは腐乱死体)によって結び付けられるまでの物語なのかもしれない。

 前半の夢の世界は、じわじわと侵蝕してくる現実を別にしても、その美しさゆえに現実ではないことを露呈している。そうした不安定さを作り出すのに、ローラ・エレナ・ハリングの容姿も一役買っている。顔も体格もごつい(美人なんだけど、でもごつい)彼女が不安に啜り泣き、華奢というかほとんど貧相なナオミ・ワッツに頼りきりになっているのは、かなり違和感がある。後半のハリウッド・スターのほうが、相応しい役柄だ。ところで前半、彼女がナオミ・ワッツから借りた服を着ているシーンは、服がパツンパツンになっててちょっとすごかった。

 それにしても観ている間、ローラ・エレナ・ハリングがチャールズ・ブロンソン似に見えて、気になって仕方なかったのであった。顔の骨格がそっくりだよ。特に眉骨の張り出し。ほかに顔が似た者同士だと思う組み合わせには、「トム・クルーズとクリスチャン・ベール」「マイケル・ジャクソンとアン・ハサウェイ」「レオナルド・ディカプリオとフィリップ・シーモア・ホフマン」等がある。人には賛同してもらえないんだけど。

 金髪碧眼がみんな同じ顔に見えるのは、おそらく私が子供の頃は「外人」と言えば「金髪碧眼の白人」であり、しかもそれが美のスタンダードだったことに起因するのだろう。そのバイアスがあまりに強力なため「金髪碧眼の白人」というのがそれ自体記号となってしまい、金髪碧眼の白人であるというだけで個々人の容姿の細部の特徴が認識できなくなっている、のだと思う。金髪白皙でも、目の色が青でなければちゃんと見分けは付けられる。

 ま、金髪碧眼という記号に「無個性」とか「安っぽさ」という意味を付与するのは、かなり一般的な認識だろう。『グアルディア』のカルラを金髪碧眼にしたのは、そういう理由からだ。あとがきで述べたように、『ファイアスターター』のヒロインがモデルだからでもあるが。「アルマドゥラ化」には個の希薄化という作用がある、という設定上、カルラとJDにはそれほど際立った個性を与えていない。カルラを金髪碧眼の美少女にしたのも、そうした「無個性化」の一環だ。一方アンヘルは「銀髪銀眼の男装の麗人」という、これもまた(アニメや漫画で)ありがちな外見だが、彼女の捻れた設定そのままに「実は髪も目も銀色というより灰色だし、男装も似合わない」という捻れを加えてある。

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