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フィラデルフィア美術館展

 京都市美術館。フィラデルフィア美術館の収蔵品は中世から現代にまでわたるそうだが、今回来たのは19世紀後半から20世紀前半まで。77点の作品が、五つに区分して展示されている。写実主義と近代市民生活(1855~1890)、印象派とポスト印象派――光から造形へ、キュビスムとエコール・ド・パリ――20世紀美術の展開、シュルレアリスム――不可視の風景、アメリカ美術――大衆と個のイメージ。中心は二番め(23点)と三番め(27点)。

 一番めの「写実主義と近代市民生活」は8点だけだが、印象派の序章という位置付けで観るとおもしろい。ちなみにマネ(2点)は印象派じゃなくてこっちに展示されていた。造形芸術は、「色(もしくは陰影)と形(構図)がおもしろいか否か」でしか観ないんで、どちらかというと印象派よりキュビスム以降のほうが好き。敢えてカテゴリーとして比較するなら、ということだけど。あと、油彩の厚塗りがあんまり好きじゃないかもしれない。モネの「睡蓮、日本の橋」まで来ると、もう何が何やら。これ、縮小された写真だとそうでもないんだが、実際目の当たりにするとものすごいな。添付の解説は「油絵の具を惜しげもなく使い」云々とあったが……「惜しげもなく」ってゆーか。そんな中でセザンヌの「ジヴェルニーの冬景色」は、未完成であるがゆえに却って印象的だった。

 印象派以降の絵画展で思うのは、唯一無二の「個」を表現しようとした苦闘の結果も、こうして大量に並べられてしまうと埋もれてしまいかねない、没個性になりかねないということだ。レディメイドの背景にはそういう懸念もあったんじゃないかと思うんだが、それはともかく「便器の人」マルセル・デュシャンの絵画も二点あった。1911年の「チェスプレイヤーの肖像」はキュビスムの影響が露骨だが、その前年の「画家の父の肖像」は相当に写実的。大阪の国立国際美術館にはデュシャン作品が多く所蔵されているので、その時々の所蔵品展示で何点ずつか観ることができる。こないだは「L.H.O.O.Q」(髯のモナリザのあれ)を観た。個性の追及といういたちごっこを展望すると、やっぱりぐるっと戻って23歳の時に描かれた「画家の父の肖像」がいい、となる。

 四番めのシュルレアリスムは4点しか展示されてなくて、20世紀美術と分ける必要があったんだろうかと思う。ミロが2点、デ・キリコとマグリットが1点ずつ。マグリットはあんまり好きじゃないんだが、この「六大元素」は意味がありそうで実は全然なさそうなところが気に入った。隠喩に満ち満ちた手合いは「高尚ぶってる」と馬鹿にするが(その隠喩が自明のものである場合はともかく)、いかにも意味ありげな思わせぶりなものを作っておいて、ほんとは意味なんかないんだよーん、という舐めた態度を取られると結構喜ぶ私は、結構しょうもないと思う。「ちょっと意味ありげにしてみました、そのほうがかっこいいから」というのんは論外。

 アメリカ絵画をまとめて観るのは初めてだったんだが、ホーマーの写実主義に比べれば、20世紀絵画は遥かにおもしろい。オキーフの「ピンクの地の上の2本のカラ・リリー」は巨大な白い花弁の繊細な色の変化が素晴らしい。フローリン・ステットハイマー「ベンデルの春のセール」とドロテア・タニング「誕生日」もよかった。

 今回、バスという交通手段があったことを思い出したので、京都駅-岡崎公園はバスで移動。この日は陽射しも気温もそれほどではなかったので、岡崎-河原町間をうろうろする。京都の町家は間口が狭いけど、格子越しに垣間見える深い奥行きが結構好きだ。路地なんて、ちょっとした「異界」である。「間口は狭いけど、奥行きが深い」のは、グアナファトの街並も同じだ、そう言えば。グアナファトは山間なので街全体がミニチュア的なんだな。

 それにしても、河原町界隈はここ数年でどんどん本屋が減っていくなあ。大阪キタは、どこへ行ってもブック1stにぶつかるようになったが。

 

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