デス・プルーフinグラインドハウス
いつまで経っても涼しくなりません。でも街に出ると、女の子たちがすでに秋物を着ています。どんな服を着ようと本人の勝手だが、なんぼなんでも気温30℃超でファーのマフラーはやめてくれ。暑苦しい。
さて、『キル・ビル』で「次もこんなんやったら、もうタランティーノはやめよう」と思ったわけですが。基本的にはまた「こんなん」でしたね。それ自体がオマージュであること、音楽、ほとんど無意味に近い細部の作り込み、ひどい目に合わされる女と怒りの反撃をする女、そして脚。ただし趣味を詰め込んだというよりは垂れ流しただけの二部作とは違って、今回は一応まっとうに作品として成立している。
いや、単独で観た場合には、随分おもしろかったんだけどね。前回が前回だっただけに、どうしても以前のタランティーノ作品と比較してしまうのでした。とりあえず今回は「饒舌さ」が復活してたわけですが。うーん、何か違う。『ジャッキー・ブラウン』以前の喋りは、他人にはどうでもいいこだわりで、でも「ああ、いるよな、こういうどうでもいいことにこだわる奴」と思わせるものだったんだけど、今回は語り手のこだわりが見えてこない。女の子たち(つっても何人かは私と同年代だ。元気だなあ)の、こだわりも何もない、ほんとにどうでもいいダラダラした喋りが大半で、リアルと言えばリアルなんだけど、おもしろくない。スタントマン・マイクとかDJの女の子とかスタントウーマンたちとか、こだわりを語るキャラもいるんだけど、おもしろくないのは同じ。以前の作品のような、「ああ、こいつはこんなにもこだわってるんだな」というのんが、なぜか伝わってこない。
まあしかし、だらだらしたアクションよりは、だらだらした喋りのほうが遥かにマシです(vol.2はともかくvol.1はひどかった)。『プラネット・テラー』と二本立てだったアメリカでは最初の15分間がカットされていたそうで、日本でもそうだったらよかったのに。喋りのつまらなさも耐え難いほどではなく、テンポよく楽しめただろうな。でも構成の拙さというのはタランティーノ作品の特徴の一つでもあり、今回程度なら「しょーがねーなあ」で片付けられる許容範囲だ。
そういうわけでタランティーノ作品として観なければ、まずまずの出来なんだけど、その一方でやっぱりタランティーノ作品として観るからこそおもしろかったりもする。上映中は比較的静かで、THE ENDの文字が出た途端、場内に笑いが巻き起こる映画も珍しかろう。あれは明らかに、「しょーがねーなあ、タランティーノは」という笑いだった。私も涙が出るほど笑った。なんだかんだ言いつつ、ロザリオ・ドーソンの携帯の着メロがエル・ドライヴァーの口笛だったり、テキサスの親子保安官(キャスト名はマイケル・パークスとジェイムス・パークスだった。ほんとの親子か?)が再登場してたりで、結構喜んでたしね。日曜だってのに客の入りは少なかったけど、上映終了後はみんな幸せそうでした。そういう映画は良い映画だ。でも、次は違うのを作ってくれ。
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