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戦争と平和

 ソ連製(1967年)のほう。父が観たいというので、誕生日プレゼントに。五日間ほどかけて鑑賞。

 7時間超と聞くと凄まじく長く感じるが、本来は四部作として公開されたものだし、『ロード・オブ・ザ・リング』だって三部を合計したら軽く7時間を超える(近年の三部作ものは大概そうだろう)。そして近年のハリウッド大作に慣れた身として、鑑賞中にしばしば頭に浮かんだのは、「すげーな、これCGじゃないんだろ」という阿呆な感嘆であった。

 確かにこれはソ連という国家でしか作れない規模の作品であり、つまり文字どおり空前絶後の映画ということになる。戦闘シーンでは、しきりと「人海戦術」という言葉が脳裏を過った(遠景で立ってるだけの部隊なんかは案山子を使ってたらしいが)。そしてソ連というと大味というか無骨というか、戦車やミサイルは作れても精密機械は作れないといったイメージだが、この作品はむしろ、ぱっと見は大味でも細部は精緻の極みという、前近代のロシア工芸的である。

 残念なことにフィルムの状態があまりよくなくて、修復でもう少しどうにかならなかったものかと思う。この作品で重要なのはストーリーでも俳優たちでもない。ストーリーは至って単純だし、俳優に注目すると男優たちの目張りのくどさは笑いどころになってしまう。最も重要なのは、「光景」である。戦争に関わるすべての場面、舞踏会、そしてロシアの自然が、これでもかとばかりに延々と映し出される。それなのに画質が劣化してるんだから、もったいないことこの上ない。あと、「実験的」な映像が時々うっとうしかったりする。全体の価値を損ねるほどではないけど。音楽は多少音が割れていたりしたが、充分素晴らしい。サントラはどうも発売してないようだ。戦闘や舞踏会のオーケストラは別にいいんだが、ロシアの民族音楽や男声合唱がとにかく素晴らしい。

 原作は未読。人生やら祖国愛やら人間愛やらについてのお説教は映画版でもかなりくどいが、それでも原作より相当削られているのであろう。『戦争と平和』の「戦争」はロシア戦役すなわち祖国戦争で、映画が制作されたのは独ソ戦すなわち大祖国戦争の記憶も生々しい1950-60年代である。終盤、敗残のナポレオン軍が地平から地平まで切れ切れに続く映像のバックに、敗北前のナポレオンの勇ましい演説が虚しく流れるんだが、その音声がなんというか、映画制作時より一つ前の時代の録音ぽい感じに加工してある。口調もその当時の演説っぽいし。憶測に過ぎないんだが、ヒトラーの演説を投影してるのではなかろうか。

 で、敗軍の将兵に襲い掛かる農民たちも、ちらっと登場するわけだが、こういう「農民の怒り」みたいなのんは別に社会主義者ならずとも喜んで飛び付きそうな題材である。だけどこれって要するに、あれと一緒でしょ。落ち武者狩り。復讐という動機があるのは確かだけど、無論それだけのはずがない。ロシア軍に従軍した外国人たちの報告によると、敗走するナポレオン軍に対する農民とコサック騎兵の略奪はひどいものだったそうだ。クラウゼヴィッツは怖気を奮ってコサック騎兵をクソミソに罵倒しているし(徒歩の少人数を騎馬集団で襲って身ぐるみ剥ぐが、ちょっとでも反撃されるとすぐ逃げる)、英軍将校のロバート・ウィルソンによると農民は農民で無抵抗の捕虜を棍棒や殻棹で滅多打ちにし、「ロシア婦人は特に凶暴であった」。ソ連映画でそんな場面が描かれるはずがないとは思ってたけどね、コサック騎兵は登場すらしなかったなあ。因みに監督はウクライナ出身で、コサックの血を引いているそうだ。

『戦争と平和』原作と佐藤亜紀氏「アナトーリとぼく」の読み比べ

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言語問題

 先日、『ラ・トラヴィアータ』(バーデン市立劇場)を観た。アルフレードのおとん役のゲオルグ・ティヒー以外はみんな声量が不充分だったなあ。そしてこの人は非常にゆっくり歌うので、オーケストラが合わせづらそうだった。演出は一切捻りがなく、オーソドックスというか無難というか。

 この上演で最も特異だったのが字幕。努めて視界から締め出してたんだが、チラチラと見た限りでは、え、そう訳すん?みたいな。いや、訳の正誤は云々しないにしても、日本語として微妙におかしい。そして何より、固有名詞の表記。「原音に忠実な表記」なんだそうである。外国語の音写は、突き詰めて言えば好み(こだわり)の問題だが、フローラFloraがフォロォーラァだったりフロォラァだったり、アンニーナAnninaがアンニィーナァだったりアンイナァだったり(字幕担当者による解説書では、さらにアnイナaが加わる)するのは、一体どういうこだわりなのでありましょうか。そういうわけで、つい字幕に気を取られてしまい、いまいち舞台に集中しきれなかったのでした。あーあ。

 外国語の音写について私自身は、所詮カタカナ表記で「原音に忠実」も何もあるかい、という考えである。あまりにも掛け離れているのは問題外として、後は好みと簡便さの兼ね合いだろう。それに同じ綴りでも、言語によって発音が違う場合も多いしね。

 ある事象が言葉で語られることによってその相を変えてしまう、同様に異なる名前で呼ばれることによって異なる相を与えられる、というのは私が関心を持っているテーマの一つだが、それに先立って人名そのものへの関心があるのは確かだ。要するに、同じ名前が言語や文化によって変わる、例えばヨハネがジョンだったりフアンだったりヤンだったりハンスだったりイワンだったりアイヴァンだったりするのがおもしろい、それだけである。

 出発点がそれなんで、語学自体にも興味はあるがマニアというほどではない。才能もないし。『グアルディア』で使われるスペイン語やイタリア語、フランス語等が現代のものなのは、「便宜上」です。27世紀、それも文明崩壊後の世界だったら、言語は相当に変化を被っているはずだけど、幸か不幸かそこまで設定するほどの言語マニアではありません。「簡便さ」との兼ね合いもありますし。22世紀末までは20世紀以前の文化が保存されているということになっているので、23世紀半ばの『ラ・イストリア』では言語は21世紀初めのこの世界で使われているものと、あまり変わらないでしょう。

 『グアルディア』と『ラ・イストリア』に引用した歌詞は、自力で訳したものである。引用部分だけでなく、一曲分すべて(『ラ・トラヴィアータ』は全幕分)訳している。歌詞カード等、既存の訳詩を参照したので、それほどひどい間違いはしていない、と思う。ただしピアソラの『南へ帰る VUELVO AL SUR』だけは原詩が入手できなかったので、CDから根性で聴き取った歌詞を訳しています。『ラ・トラヴィアータ』が擬古文というか似非古文調になっているのは、執筆当時、現代スペイン語(ほか)は「古語」という扱いにするつもりだったからです。19世紀のイタリア語だから、ということでコテコテの似非古文にしたわけだが、ピアソラのタンゴも当初は、より口語に近い古文調にしていた。佐藤先生が、「読者はそんなところまで気に留めない」と言わはったのでやめました。そのとおりですね、やりすぎでした。

 時代ごとの変遷とか考え出したらきりがないんで、現代語を古語とする設定はやめました。というわけで、25世紀初めの『ミカイールの階梯』で現代ロシア語と現代ペルシア語が使われているのも、「便宜上」です。

 今回もロシア語を0から始めたわけですが、ロシア語はカタカナ表記が難しい。発音自体はそれほど難しくないんだけど、カタカナで表せない音ばかりだ。しかも教材のテキストには発音がルビで書かれてたりするんだが、CDで実際の発音を聞いてみると、明らかにルビとは違う。というわけで、ロシア語のカタカナ表記は、慣用+簡便さ+私の好み、で行きます。要するに、セルゲイをスィルギェイと書いたりしない、ということです。よくロシアの人名はややこしいと言われるけど、あれは姓と父称が面倒なだけであって、個人名はそうでもないと思う。

 一方、ペルシア語(これは学生時代に少しだけ勉強したことがあるので、「0」からではないです。えーと、「1」くらいからかな……)はスペイン語ほどではないけれど、かなり日本語に近い音なのでカタカナ表記は楽です。母音はほぼアイウエオだし、子音もカタカナ表記が困難な音は少ない。ただ、長母音が多いのが多少煩雑と言えば煩雑です。でもこれも教材CDを聞く限りでは、長母音と短母音の区別はかなり曖昧なので、適宜省略しています。例えばペルシア語表記に忠実に音写すると「ミールザー」となる人名は、「ミルザ」とするといった具合に。

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スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ

 おもしろかった。こういう和製○○みたいなのんは演劇や自主制作映画なんかでやると、その「ばったもん臭さ」が大変よろしかったりするわけだけど、商業映画でやると、ひたすら滑って寒いものになりかねない。『ジャンゴ』はキャストもスタッフも、全力を挙げて「ばったもん臭さ」を作り上げようとし、成功している商業映画だと思う。刀で銃弾跳ね返すのは、日本人ならやってみたいよね。

 脚本はマカロニ・ウエスタンに忠実だし、美術や衣装もきっちり統一感を出せている。ただ、癖のあるキャラクターが多い割には活かしきれてないし、盛り込まれてる小ネタが、思い付きで放り込んだだけの、その場限りのものばかりだったのが、難と言えば難だ。例えば『ヘンリー六世』は、薔薇戦争を引き合いにして源平合戦の構図を欧米人に理解し易くするために出されたとしか思えない。ネタを出したからには、平清盛やその手下たちをキャラ立ちさせるのに、もうちょっと活用できなかったものか。ほかにも『アキラ』とか、香川照之の「ゴラムごっこ」とか、「……だから?」という感じ。いや、ゴラムごっこは、ごっこ呼ばわりが失礼なくらいの「芸」の域に達していたが、でも、「……だから?」。「なんじゃ、こりゃあ!」も笑いはしたけど、でもなあ。それと、弁慶を立ち往生させなくてどうする。

 この作品は、衣装とメイクがキャラクター作りにかなり貢献している。ああいう衣装を、しょぼいコスプレみたいにせずに、ちゃんと役者に着せて、それを各々のキャラクターの要素としている、つまりアニメや漫画みたいにキャラクターデザインができているということだ。もちろん悪い意味でアニメや漫画みたいと言っているのではない。役者自身の容姿、衣装、メイクを含めたデザインは、確実にそのキャラクターを構成する要素だし、映像を構成する要素でもある。その辺が無自覚な映画が多いような気がする。

 で、役者もそれぞれの衣装に見合った演技をしてるわけだが、肝心の脚本がそれらキャラクターを活かせてないんで、もったいないんだよなあ。

 しかし何はともあれ、キャストがみんな力一杯なので観ていて楽しかったです。私は、役者が普段やらないような役に挑んでいるとそれだけで評価が高くなるんだが、たぶん、いや間違いなくキャストたちが『ジャンゴ』と同じような役をやる機会はもう二度とない。タランティーノは、ちゃぶ台返しがさまになってたなあ。木村佳乃はああいう衣装で「妖艶な女」を演じるにはちょっと痩せすぎだが、とにかく身体を張って頑張ってるし、そういう似合ってなさが「ばったもん臭さ」の要素になってるとも言える。桃井かおりがかっこよかった。

 

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デス・プルーフinグラインドハウス

 いつまで経っても涼しくなりません。でも街に出ると、女の子たちがすでに秋物を着ています。どんな服を着ようと本人の勝手だが、なんぼなんでも気温30℃超でファーのマフラーはやめてくれ。暑苦しい。

 さて、『キル・ビル』で「次もこんなんやったら、もうタランティーノはやめよう」と思ったわけですが。基本的にはまた「こんなん」でしたね。それ自体がオマージュであること、音楽、ほとんど無意味に近い細部の作り込み、ひどい目に合わされる女と怒りの反撃をする女、そして脚。ただし趣味を詰め込んだというよりは垂れ流しただけの二部作とは違って、今回は一応まっとうに作品として成立している。

 いや、単独で観た場合には、随分おもしろかったんだけどね。前回が前回だっただけに、どうしても以前のタランティーノ作品と比較してしまうのでした。とりあえず今回は「饒舌さ」が復活してたわけですが。うーん、何か違う。『ジャッキー・ブラウン』以前の喋りは、他人にはどうでもいいこだわりで、でも「ああ、いるよな、こういうどうでもいいことにこだわる奴」と思わせるものだったんだけど、今回は語り手のこだわりが見えてこない。女の子たち(つっても何人かは私と同年代だ。元気だなあ)の、こだわりも何もない、ほんとにどうでもいいダラダラした喋りが大半で、リアルと言えばリアルなんだけど、おもしろくない。スタントマン・マイクとかDJの女の子とかスタントウーマンたちとか、こだわりを語るキャラもいるんだけど、おもしろくないのは同じ。以前の作品のような、「ああ、こいつはこんなにもこだわってるんだな」というのんが、なぜか伝わってこない。

 まあしかし、だらだらしたアクションよりは、だらだらした喋りのほうが遥かにマシです(vol.2はともかくvol.1はひどかった)。『プラネット・テラー』と二本立てだったアメリカでは最初の15分間がカットされていたそうで、日本でもそうだったらよかったのに。喋りのつまらなさも耐え難いほどではなく、テンポよく楽しめただろうな。でも構成の拙さというのはタランティーノ作品の特徴の一つでもあり、今回程度なら「しょーがねーなあ」で片付けられる許容範囲だ。

 そういうわけでタランティーノ作品として観なければ、まずまずの出来なんだけど、その一方でやっぱりタランティーノ作品として観るからこそおもしろかったりもする。上映中は比較的静かで、THE ENDの文字が出た途端、場内に笑いが巻き起こる映画も珍しかろう。あれは明らかに、「しょーがねーなあ、タランティーノは」という笑いだった。私も涙が出るほど笑った。なんだかんだ言いつつ、ロザリオ・ドーソンの携帯の着メロがエル・ドライヴァーの口笛だったり、テキサスの親子保安官(キャスト名はマイケル・パークスとジェイムス・パークスだった。ほんとの親子か?)が再登場してたりで、結構喜んでたしね。日曜だってのに客の入りは少なかったけど、上映終了後はみんな幸せそうでした。そういう映画は良い映画だ。でも、次は違うのを作ってくれ。

『キル・ビル』感想

『プラネット・テラーinグラインドハウス』感想

『イングロリアス・バスターズ』感想

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事実だけとは限りません

「仁木稔」で検索しても、このブログにはなかなか辿り着けないことに気が付いたので、トップにちょびっと補足しました。

 気が付けば、ブログもそろそろ半年になります。始めた目的は自己管理の一環。自己管理の目的は、もちろん順調に仕事を進めるためです。変わり映えがしなくても、日々を過ごしていれば落ち込んだり怒り狂ったりすることもあるわけですが、そんな時でもブログ上では平静を装います(だからブログのタイトルは……)。それによって、実際にかなり平静を取り戻すことができるので、少なくとも自己管理には有効だと言えます。

 で、肝心の仕事には……う、有効です。たぶん。

 

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ナスカ展

 京都文化博物館。平日なのに混んでたなー。やっぱミイラがあるからなのか。

 地上絵のナスカです。アンデス文明と中央アメリカ文明はほとんど交流がなかったんだけど、図像が幾何学的で抽象的でデザイン性が高いのは共通してるんだよな。前半は土器や織物。アンデスは乾燥してるから織物の保存状態がいいなあ。土器に描かれた図像は、メソアメリカのものより遥かにカラフル。織物も非常にカラフルで技術が高い。

 中盤はミイラと頭蓋骨。ミイラは子供と成人の二体でした。自然乾燥ミイラですね。アンデスは乾燥してるから死体の保存状態もいいなあ。子供のは乾燥する前にいったん凍結したために、眼球まで残ってます。黒目が見えるよ怖いよ。成人のミイラは両手で頬を押さえた姿勢で埋葬されていて、しかも頭蓋を変形させられてるんで、まるっきりムンクの「叫び」だ。

 人為的な頭蓋変形と頭蓋穿孔手術、それに首級(敵の首をトロフィーにする)は世界各地に見られる風習だけど、これが三つ揃ってるのはナスカ文化だけなんだそうです。しかし、やたらと血生臭いという点でも、アンデスとメソアメリカは共通してるなあ。アンデスはメソアメリカほど血そのものには固執してなかったみたいだけどね。ナスカ文化は好戦的で、戦争の目的は首狩り。首は持ち運び可能に加工して装飾品のようにしたり、神殿や畑に埋めて豊穣を祈ったりしたという。アンデスでもメソアメリカでも土地の生産性が限られてるから、人口がある程度増えてくると、間引きのために生贄の風習が発達するんだろうな。

 黄金の工芸品も数点ありました。薄ーく延ばしたペラペラの奴。ナスカが衰退した後に発展したシカン文化の金細工に似ている。シカン文化展に行ったのは十年以上前。「黄金」が売りだったんだけどね。解説では金を薄く薄く延ばしたり、銅を混ぜて微妙な色の変化を付けたりする技術の高さが称賛されてたんだが、それって要するに金の産出量が少なかったからじゃねーかと思ったものです。今回の展覧会では展示品の素材が一切表示されてなかったんだが、金細工品のうち少なくとも2、3点は色合いからして、銅がかなり混ぜてあるようでした。つまりシカンの金細工の技術は、ナスカから受け継いだものだったということですね。シカンも生贄やら殉葬やらが多かったらしい。

 最後は地上絵。幅十メートルの巨大スクリーンに、地上絵を俯瞰するCGが上映される。こういう技術が発達したからこそ、ナスカ展というものが開催可能になったわけだよな。ところで、地上絵って地面をたった数センチ~数十センチ掘っただけのものだったんだね。知らなかった。有効な保存策は実質的には無いんだそうな。世界遺産なのに。

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『ミノタウロス』その二

 その一の続き。

Ⅱ 20世紀による19世紀の殺害

 当時のロシアで何歳からが成人とされていたのかは知らないが、1919年の時点で未成年だという主人公が20世紀生まれなのはまず間違いないだろう。その彼が冒頭、父親の半生を語る時、自分自身について語る時とは明らかに口調が異なっている。心理描写の分量が多く、しかも感情移入しているかのような語り口である。他人の心情などまるで顧みない彼が。あくまで20世紀生まれの主人公によって語られるとはいえ、このエピソードは19世紀の小説風なのだ。

 主人公は20世紀、親世代は19世紀の人間である。そして七つ年上の兄は、純化された本質云々は措いて「人物」として見た場合、まさに過渡期の人間である。第一次大戦の砲弾は、彼から顔すなわち「個」を剥ぎ取った。19世紀の小説的に転がり込んで来た幸運を失うことなく堅実で幸福な後半生を送った父親は、長男(これがまた19世紀の小説的に妻の不貞が絡んでいたりするのだが、父親自身は気に掛けていなかったらしい)の不幸に絶望し、死に至る。過渡期的人物である兄が、主人公の悪行が原因で19世紀(の小説)的に首を括った時点で、19世紀は実質的な死を迎えた。最も19世紀的人物であり、兄弟の実の父親であるかもしれないシチェルパートフはその直後に卒中で倒れる。なおしばらく永らえていた彼を殺したのは主人公だ。こうして、個人が個人であった「偉大な19世紀」は息の根を止められたのである。

 ありえないほどの幸運をオフチニコフに持ち掛けた男クルチツキーは、一切の代償を拒絶し、こう言う。君には無理だ、払えないよ。君の子供たちなら払ってくれるだろう。この予言とも呪いともつかない言葉を残し、彼は首を括る。オフチニコフの二人の息子のうち、兄は奇妙なまでにクルチツキーのそれと符合した死を迎え、弟は落ちるところまで落ちる。彼らの末路には因果応報などどこにもない。それもまた20世紀的だ。

Ⅲ そのほかいろいろ

 主人公はしばしば、何かを形容するのに書物からの引用を用いる。引用元が示されていないものの、そうかと思われる形容も多い。つまりは、主人公がどんな本を読んできたのか、どの程度の教養を身に着けているのか、何かの場面に遭遇した時、どんな想起をするのかまで考えた上で書かれているということだ。ところで、そうした書物と後はせいぜい映画程度でしか知らないくせに、世界中の国も人間もすべて同じだと決め付ける主人公のニヒリズムというよりは想像力の欠如は、どこまで行っても同じ光景が続くロシアの風土に、いくらかは根ざしているのかもしれない。いや、19世紀後半のロシア人による中央アジア探検記を読むと、揃って山脈の威容に驚嘆してるんだ。自分の故郷では「山」と言えば丘を指す、とか、農民の多くは一生山を見ずに終わる、とか。

 ウクライナの「田舎言葉」(ウクライナ語)に、新潟の方言が当てられている。『戦争の法』で、語り手は地元方言で記述しない理由を、読者には理解不能になるからとしてるけど……確かに解らんわ、これは。『ミノタウロス』で用いられている分量なら、理解できなくても支障は来さないけどさ。両親が新潟出身なんで、私は新潟方言については話せないものの、一度も耳にしたことがない人よりは馴染んでいるはずだ。それでも知らない語が幾つもあり、父に訳してもらいながら読む。父の実家は上越で、佐藤先生のところからはだいぶ離れていて言葉も違うから、父でも完全には解らなかったんだけど。母が家庭内での方言使用を禁止していたので、私は新潟だけでなく長野の言葉も話せない。後者については聞けば完璧に理解できるし、諏訪とか岡谷とか茅野といった地域ごとの微妙な違いもなんとなくだが聞き分けられる。それでも話せないし、まして文字での再現は不可能だ。ある方言の話者であっても、その言葉を書いて再現するのは困難だろう。先生も苦労したのではないかと思う。関西弁のように書き言葉としての定型がある程度出来上がっている言葉なら、まったくの無知でない限りそれらしきものは書けるけどさ。

 最後の数行によってもたらされる衝撃は、『鏡の影』のそれに似ている。『ミノタウロス』のほうが衝撃が強い、衝撃が衝撃であると解り易いのは、シンプルに「死」そのものが持つ衝撃と解り易さに因ると思われる。言うまでもないことだが、解り易いのがいいとか悪いとかはここでは問題にならない。まあその、『鏡の影』にもたらされるものは、すごく摑み難くて、たぶん私は未だに摑み切れていないと思うんだけど。しかし、これら最後の数行によって、それまで読み進む間、抱いてきた解釈が完全に覆されて呆然とする、という点で両者は共通している。

『激しく、速やかな死』感想

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『ミノタウロス』その一

 佐藤亜紀著、講談社刊。再読。長文なんで分けます。

Ⅰ 人を人たらしめるもの 作中終盤の「人間を人間の格好にさせておくもの」に対する問いとは、やや異なる次元で。

 人間の暴力と他種の動物の暴力は明らかに違う。人間の暴力衝動が生得的なものかどうかについて、私は安易に結論付けたくない。「本能」という曖昧な言葉も、ここでは使わない。要するに暴力衝動が遺伝的に刷り込まれた先天的なものだろうが、社会的に刷り込まれた後天的なものだがどうでもいいんだが、本人がそれを言葉で説明するかしないかによって、その様相は異なったものになる、ということである。事象というものは常に揺れ動き、輪郭が曖昧であり、言葉もまた常に揺れ動き、輪郭が曖昧である(『小説のストラテジー』「精確なる一語」参照)。表現する言葉と、対象となる事物各々の揺れ、曖昧さがぴたりと重なることは絶対にありえないと私は思っている。言葉による表現は、表現したその瞬間から対象とずれを生じる。しかしまた、言葉による表現(説明)は、対象事物に多かれ少なかれ影響を及ぼし、変質させてしまう。対象は、言葉で表現され、意味を与えられることによって変化を被る。

 情動は本来、言葉から独立したものであるが、言葉で説明されることによって型に嵌められる。『戦争の法』には次の一文がある。「それもただ単に帰って来てくれて嬉しかったから、或いは腹が立ったから、と言うだけだ。これなら気が変わっても言い訳が利く。ところが頭のいい女という奴は、自分の感情をきちんと筋道立てて整理しておくから、後戻りが利かないのだ。」

 暴力衝動も、まあ情動の一種と呼んでいいだろう。先天後天はともかく、言葉より先に在るのは確かである。それを言葉で説明して型に嵌め、規定することによって、より後天的なもの、文化的(どれだけ「野蛮」であろうと)なものに変化する。ところで、暴力衝動とそこから発生する副次的な情動の諸々は、最も一般的には「マチスモ」という言葉を与えられている(「女の残忍さ」については、同じ暴力行為、例えば毒殺などを男女それぞれがやった場合、後者のほうがより残忍な印象を与えるというバイアスをまず除去しないことには論じられない。そして、今回それをやるつもりはない)。例えば「女を殴って犯す」という行為に、意味付けをしてみる。ただ単に「そうしたいから」としただけでも、その男はそういう行為が好きだということになり、ではなぜ好きなのかということになり、別の機会では偶々殴って犯さなかったら、なぜそうしなかったのか、という問いが生じる。もっと理屈っぽく、「女に従順さを教え込む」なり「男の優位を確認する」なりの意味付けを行うと、行為はさらに変質してしまう。「女に従順さを教え込む」(もしくは「男の優位を確認する」)ためには、毎回必ず女を殴って犯さなければならない、ということになる。それを実践したのが後半、妙に中間管理職的な地位に納まっていたグラバクであり、その陰惨さはさしもの主人公をして辟易させるほどである。

 もっとも、意味付けし規定することによって、その規定に従わない、という選択肢も可能になる(『戦争の法』の「頭のいい女」の場合は、言葉で筋道立てられた感情と行為があまりに限定されたものであったために、「後戻りが利かな」かったのである)。情動を言葉で説明したために、その情動とそれに基づく行為に乖離が生じる。乖離は客観性(第三者も同意見なのかどうかはともかく)であり、「その行為をしない」ことを選択できる余地でもある。情動とそこから生じる行為は一種の自動反応であるが、言葉という手綱を付けることによって、ある程度は制御できるのだ。

 つまり人間は言葉を使役し、言葉に使役される存在である。それが人間を他種の動物と隔てる。主人公が転落する以前の段階で唯一、「人間性を剥ぎ取られた存在」として登場するのが、兄のアレクサンドルである。作中、彼の台詞は一言もない。間接的にも、彼が言葉を発したことを示す記述は皆無である。元から話せないのでも、話せなくなったのでもない。顎の片側を丸々削ぎ取られたほどの重傷であれば少なからず発話に困難を来たしたはずだと思われるが、それについても(奇妙なことに)一切触れられていない。「人間を人間に見せる顔が削ぎ取られた今や、兄は剥き出しになった雄の本質」となった、と主人公は述べているが、顔を失くす前から、彼は言葉を持たない、つまり人間とは別の存在だったのである。

 で、「純化された本質を神性と呼ぶとしたら、雄の神性の具現だった」のであるが、生殖力の神性というのは、ある意味最も根源的なだけに、20世紀に於いてはあまりに身も蓋もない。この身も蓋もなさっぷりは、フィリップ・ホセ・ファーマーの『太陽神降臨』を思い出させられた。

 堂々たる体躯と顔ならぬ顔を持った兄が、牛頭人身のミノタウロスであるのは言うまでもない。このミノタウロスは、クレタ文明に於いてはおそらく豊穣の神だったが、現存するギリシア神話では英雄に退治されるただの怪物である。兄が最初からミノタウロス=神だったとすれば、転落した主人公はミノタウロス=怪物となる。彼以外のごろつきや頭目たちも同様である。なぜなら彼らはもはや言葉に使役されることもない代わりに言葉を使役することもできないが、かといって言葉を捨て切ってもいないのである。もはや人ではなくなったが、獣でもない(いかに作中でけだもの呼ばわりされようと)。人でも獣でもない彼らは、有象無象の怪物である。

『ミノタウロス』その二へ

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ワールドコン萩尾望都企画

 横浜はあんなに涼しかったのに、神戸は相変わらず暑いよ。

 本人を迎えて、2時間のパネルディスカッション。パネリストはほかに小谷真理と島田喜美子(敬称略)。あまり広くない会場に、200人超の入り。15分前から並んだけど、後ろのほうにしか座れなかった。立ち見もたくさん。ワールドコンの企画は大概、男性客ばっかりだったんだが、これはさすがに女性が多い。男性も2、3割はいたけど。えーと、萩尾望都の各作品について、以下ネタバレがあるかと思われます。

 企画名は「『バルバラ異界』と『ポーの一族』のはざま~はるかなる不死の夢によせて」。後者では不老不死の一族が描かれるのに対し、前者では非常に短命な一族として生まれたため不老不死の夢を追う科学者が物語を背後で操る。両作品は実は合わせ鏡のような構造をしているのではないか? という島田の問い掛けから立てられたこの企画だったんだが。作者は「いえ、そのようなことは全然考えてませんでした」とあっさり粉砕する。ま、それでお終いということはもちろんなくて、『バルバラ異界』を皮切りにこれまでの作品がどのように作られてきたか、パネリストやオーディエンスからの質問に答える形で語られた。

 聞いていて思ったことは、どうもこの人は自分の作品について(テーマ、構造、制作過程等をひっくるめて)、言語化して説明するのが苦手なようだ。「引き込まれるような画面構成は、意識的に描いているのか」という質問には、「もちろん意図したもの。ただ、言葉では説明できない」とはっきり答えていたが、そのほかの質問には「あまり考えていなくて……」という答えが多く、途中で「だいたい何も考えずに描いていて、後で評論家の皆さんに解説してもらって、ああそういうことだったのか、と感心しています」という発言も。

 全部言葉で説明できるなら、漫画という表現形態を取る意味がなくなるので、当然と言えば当然である(それを敢えて言葉で解析するのが、評論家の仕事だろう)。この場合、思考過程を本人が言語化できないというだけであって、思考過程が「無い」のではない。そういうわけで「考えていなかった」に加えて「行き当たりばったりだった」という恐ろしい発言もぽんぽん飛び出した『バルバラ』は、萩尾作品の中でもとりわけ制作過程の言語化が困難な作品のようである。「行き当たりばったり」とする理由の一つとして、作者は短編でも長篇でも常に結末をきっちり決めてから描き始めるのだが、『バルバラ』は結末を決めずに描き始めた数少ない例外だとしている。それで完成したのがあれほどの傑作だったのは、持って生まれた才能と長年培われた技巧の為せる技であって、余人が真似できることではない。いや、真似しちゃいかんよ。

 結末を決めずに描き始めた数少ない例外は、『バルバラ』ともう一作『スター・レッド』だけだそうである。両作品とも「世界の修復」(この言葉は本人談)という結末を迎えたのは、たぶん意図してのことではないだろう。さて「世界の修復」という結末はもう一つ、作者は言及しなかったが『銀の三角』がある。私はこれがすべてのSF(漫画・小説・映画等を含めて)で五指に入るくらい好きだが、それはさておきこの三作品とも「修復後の世界」は完全ではない。つまり完全なハッピーエンドではない。嫌なこと、悪いことはすべて消え去りました、では単なる絵空事になってしまうから、私はこうした「不完全な修復」を良しとしてきたし、作者もそうなのだろうと思っていた。ただし『バルバラ』の「修復後の世界」は、物語が終わった時点ではよいのだが、さらにその先に想定されている未来は納得できないものだった。「みんな一つになる」世界なんて、どうにも気持ち悪くて嫌だ。

 で、作者自身もやっぱり『バルバラ』の未来は嫌なんだそうである。すべての人間が精神を共有してしまえば憎しみなど決して起こらなくなるだろうし、そういう世界が楽で心地よいだろうとは思うけれど、それでも嫌だという。そう聞けただけでも、この企画に行った甲斐があるというものだが、ほな『スター・レッド』と『銀の三角』の修復後の世界とその未来について作者はどう捉えているのか、質問したかったんだけど当ててもらえなかったんだよ後ろの席だったから。これと後もう一つ、『銀の三角』の続編を考えている、という古いインタビュー記事をどこかで読んだことがあるんだが、まだその意志はあるのか、もうなくなっているとしたら当時はどんな構想を持っていたのか、是非とも訊きたかったんだけどなあ。無念だ。すごく無念だ。もっともその記事についてはもはや記憶も曖昧で、ひょっとしたら『銀の三角』があまりに好きだったから願望が記憶を捏造してるんじゃないかって気までしてるんだけど。

 因みに『グアルディア』には萩尾望都作品へのオマージュとなる二つのエピソードがあります。それぞれ『スター・レッド』と『半神』だ。

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ワールドコン

 行ったのは9月の1日と2日。横浜は涼しいのを通り越して肌寒いくらいだったが、どの企画も部屋が満員で空気が籠っていたせいか、1日の午後からひどい頭痛が始まり翌日も続く。頭痛に負けて、一番行きたかった企画、1日の「SFにおける宗教」と2日の「SF、ファンタジーにおける科学と宗教の統合」(どちらも英語のみ)は諦める。

 あー、でも全体としては楽しかったです。いろいろ興味深い話が聞けて、たくさんメモを取ったんだけど、見返したら案の定、判読不能だ。いや、メモを取ったのは記憶の補強のためであって、後で読むためじゃないんだけどさ。しかし改めて自分の字の汚さに呆れる。行った企画の一つ、萩尾望都のパネルについては、次回「鑑賞記」で書きます。

 そういうわけで、英語強化月間の成果は専ら海外からの参加者との会話に振り向けられたわけですが、しかしアメリカ人のオタクってすげーな。聞きしに優る。もちろん、日本のアニメ・コミックのんですよ。私のような半端なオタクは、話についていくことすらできない。つまりいかに翻訳ビジネスが盛んかということだけど、それだって需要があるから成り立ってるわけで。

 渋谷で佐藤先生とお会いする。前回(昨年11月)は夏の疲れからまだ回復していないとのことで、あまり顔色もよくなかったが、今回はだいぶお元気そうで何より。『オー・ブラザー』のジョン・タトゥーロは駄目だったの?と訊かれる。あれ自体は悪くなかったけど、いつもどおりという以上のものではなかったし、その前が『耳に残るは君の歌声』と『天井桟敷のみだらな人々』だったから相対的に評価が下がってしまったんです、と答える。『耳に残るは』はジョン・タトゥーロだけじゃなくて全員が駄目だっだし、『天井桟敷』は「そういう役」だったから、とのこと。それはそうなんですけどね。

 それから、佐藤家の過去二、三代に纏わる遠野物語的というか、ほとんどマジックリアリズムめいた逸話を幾つか聞かせてもらう。どこの家でも、三代も遡ればそういう逸話の一つくらいは出てくるはずだ、と思う。佐藤家の場合は一つじゃ済まなかったわけですが。

 横浜の妹Ⅰ宅に泊めてもらったので、その返礼として子守を丸一日引き受ける。もうじき四歳になる姪が現在一番好きな遊びは、「お話」を人に聞かせることである。こちらは相槌を打ったり、時々質問を挟んだりするだけでいいので非常に楽。一人で四役も五役も、口調や声色まで使い分けて一時間でも二時間でも途切れることなく話し続ける。内容はと言うと、まったく意味不明なんだけど。

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