« 『ミノタウロス』その一 | トップページ | ナスカ展 »

『ミノタウロス』その二

 その一の続き。

Ⅱ 20世紀による19世紀の殺害

 当時のロシアで何歳からが成人とされていたのかは知らないが、1919年の時点で未成年だという主人公が20世紀生まれなのはまず間違いないだろう。その彼が冒頭、父親の半生を語る時、自分自身について語る時とは明らかに口調が異なっている。心理描写の分量が多く、しかも感情移入しているかのような語り口である。他人の心情などまるで顧みない彼が。あくまで20世紀生まれの主人公によって語られるとはいえ、このエピソードは19世紀の小説風なのだ。

 主人公は20世紀、親世代は19世紀の人間である。そして七つ年上の兄は、純化された本質云々は措いて「人物」として見た場合、まさに過渡期の人間である。第一次大戦の砲弾は、彼から顔すなわち「個」を剥ぎ取った。19世紀の小説的に転がり込んで来た幸運を失うことなく堅実で幸福な後半生を送った父親は、長男(これがまた19世紀の小説的に妻の不貞が絡んでいたりするのだが、父親自身は気に掛けていなかったらしい)の不幸に絶望し、死に至る。過渡期的人物である兄が、主人公の悪行が原因で19世紀(の小説)的に首を括った時点で、19世紀は実質的な死を迎えた。最も19世紀的人物であり、兄弟の実の父親であるかもしれないシチェルパートフはその直後に卒中で倒れる。なおしばらく永らえていた彼を殺したのは主人公だ。こうして、個人が個人であった「偉大な19世紀」は息の根を止められたのである。

 ありえないほどの幸運をオフチニコフに持ち掛けた男クルチツキーは、一切の代償を拒絶し、こう言う。君には無理だ、払えないよ。君の子供たちなら払ってくれるだろう。この予言とも呪いともつかない言葉を残し、彼は首を括る。オフチニコフの二人の息子のうち、兄は奇妙なまでにクルチツキーのそれと符合した死を迎え、弟は落ちるところまで落ちる。彼らの末路には因果応報などどこにもない。それもまた20世紀的だ。

Ⅲ そのほかいろいろ

 主人公はしばしば、何かを形容するのに書物からの引用を用いる。引用元が示されていないものの、そうかと思われる形容も多い。つまりは、主人公がどんな本を読んできたのか、どの程度の教養を身に着けているのか、何かの場面に遭遇した時、どんな想起をするのかまで考えた上で書かれているということだ。ところで、そうした書物と後はせいぜい映画程度でしか知らないくせに、世界中の国も人間もすべて同じだと決め付ける主人公のニヒリズムというよりは想像力の欠如は、どこまで行っても同じ光景が続くロシアの風土に、いくらかは根ざしているのかもしれない。いや、19世紀後半のロシア人による中央アジア探検記を読むと、揃って山脈の威容に驚嘆してるんだ。自分の故郷では「山」と言えば丘を指す、とか、農民の多くは一生山を見ずに終わる、とか。

 ウクライナの「田舎言葉」(ウクライナ語)に、新潟の方言が当てられている。『戦争の法』で、語り手は地元方言で記述しない理由を、読者には理解不能になるからとしてるけど……確かに解らんわ、これは。『ミノタウロス』で用いられている分量なら、理解できなくても支障は来さないけどさ。両親が新潟出身なんで、私は新潟方言については話せないものの、一度も耳にしたことがない人よりは馴染んでいるはずだ。それでも知らない語が幾つもあり、父に訳してもらいながら読む。父の実家は上越で、佐藤先生のところからはだいぶ離れていて言葉も違うから、父でも完全には解らなかったんだけど。母が家庭内での方言使用を禁止していたので、私は新潟だけでなく長野の言葉も話せない。後者については聞けば完璧に理解できるし、諏訪とか岡谷とか茅野といった地域ごとの微妙な違いもなんとなくだが聞き分けられる。それでも話せないし、まして文字での再現は不可能だ。ある方言の話者であっても、その言葉を書いて再現するのは困難だろう。先生も苦労したのではないかと思う。関西弁のように書き言葉としての定型がある程度出来上がっている言葉なら、まったくの無知でない限りそれらしきものは書けるけどさ。

 最後の数行によってもたらされる衝撃は、『鏡の影』のそれに似ている。『ミノタウロス』のほうが衝撃が強い、衝撃が衝撃であると解り易いのは、シンプルに「死」そのものが持つ衝撃と解り易さに因ると思われる。言うまでもないことだが、解り易いのがいいとか悪いとかはここでは問題にならない。まあその、『鏡の影』にもたらされるものは、すごく摑み難くて、たぶん私は未だに摑み切れていないと思うんだけど。しかし、これら最後の数行によって、それまで読み進む間、抱いてきた解釈が完全に覆されて呆然とする、という点で両者は共通している。

『激しく、速やかな死』感想

|

« 『ミノタウロス』その一 | トップページ | ナスカ展 »

鑑賞記」カテゴリの記事