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『ミノタウロス』その一

 佐藤亜紀著、講談社刊。再読。長文なんで分けます。

Ⅰ 人を人たらしめるもの 作中終盤の「人間を人間の格好にさせておくもの」に対する問いとは、やや異なる次元で。

 人間の暴力と他種の動物の暴力は明らかに違う。人間の暴力衝動が生得的なものかどうかについて、私は安易に結論付けたくない。「本能」という曖昧な言葉も、ここでは使わない。要するに暴力衝動が遺伝的に刷り込まれた先天的なものだろうが、社会的に刷り込まれた後天的なものだがどうでもいいんだが、本人がそれを言葉で説明するかしないかによって、その様相は異なったものになる、ということである。事象というものは常に揺れ動き、輪郭が曖昧であり、言葉もまた常に揺れ動き、輪郭が曖昧である(『小説のストラテジー』「精確なる一語」参照)。表現する言葉と、対象となる事物各々の揺れ、曖昧さがぴたりと重なることは絶対にありえないと私は思っている。言葉による表現は、表現したその瞬間から対象とずれを生じる。しかしまた、言葉による表現(説明)は、対象事物に多かれ少なかれ影響を及ぼし、変質させてしまう。対象は、言葉で表現され、意味を与えられることによって変化を被る。

 情動は本来、言葉から独立したものであるが、言葉で説明されることによって型に嵌められる。『戦争の法』には次の一文がある。「それもただ単に帰って来てくれて嬉しかったから、或いは腹が立ったから、と言うだけだ。これなら気が変わっても言い訳が利く。ところが頭のいい女という奴は、自分の感情をきちんと筋道立てて整理しておくから、後戻りが利かないのだ。」

 暴力衝動も、まあ情動の一種と呼んでいいだろう。先天後天はともかく、言葉より先に在るのは確かである。それを言葉で説明して型に嵌め、規定することによって、より後天的なもの、文化的(どれだけ「野蛮」であろうと)なものに変化する。ところで、暴力衝動とそこから発生する副次的な情動の諸々は、最も一般的には「マチスモ」という言葉を与えられている(「女の残忍さ」については、同じ暴力行為、例えば毒殺などを男女それぞれがやった場合、後者のほうがより残忍な印象を与えるというバイアスをまず除去しないことには論じられない。そして、今回それをやるつもりはない)。例えば「女を殴って犯す」という行為に、意味付けをしてみる。ただ単に「そうしたいから」としただけでも、その男はそういう行為が好きだということになり、ではなぜ好きなのかということになり、別の機会では偶々殴って犯さなかったら、なぜそうしなかったのか、という問いが生じる。もっと理屈っぽく、「女に従順さを教え込む」なり「男の優位を確認する」なりの意味付けを行うと、行為はさらに変質してしまう。「女に従順さを教え込む」(もしくは「男の優位を確認する」)ためには、毎回必ず女を殴って犯さなければならない、ということになる。それを実践したのが後半、妙に中間管理職的な地位に納まっていたグラバクであり、その陰惨さはさしもの主人公をして辟易させるほどである。

 もっとも、意味付けし規定することによって、その規定に従わない、という選択肢も可能になる(『戦争の法』の「頭のいい女」の場合は、言葉で筋道立てられた感情と行為があまりに限定されたものであったために、「後戻りが利かな」かったのである)。情動を言葉で説明したために、その情動とそれに基づく行為に乖離が生じる。乖離は客観性(第三者も同意見なのかどうかはともかく)であり、「その行為をしない」ことを選択できる余地でもある。情動とそこから生じる行為は一種の自動反応であるが、言葉という手綱を付けることによって、ある程度は制御できるのだ。

 つまり人間は言葉を使役し、言葉に使役される存在である。それが人間を他種の動物と隔てる。主人公が転落する以前の段階で唯一、「人間性を剥ぎ取られた存在」として登場するのが、兄のアレクサンドルである。作中、彼の台詞は一言もない。間接的にも、彼が言葉を発したことを示す記述は皆無である。元から話せないのでも、話せなくなったのでもない。顎の片側を丸々削ぎ取られたほどの重傷であれば少なからず発話に困難を来たしたはずだと思われるが、それについても(奇妙なことに)一切触れられていない。「人間を人間に見せる顔が削ぎ取られた今や、兄は剥き出しになった雄の本質」となった、と主人公は述べているが、顔を失くす前から、彼は言葉を持たない、つまり人間とは別の存在だったのである。

 で、「純化された本質を神性と呼ぶとしたら、雄の神性の具現だった」のであるが、生殖力の神性というのは、ある意味最も根源的なだけに、20世紀に於いてはあまりに身も蓋もない。この身も蓋もなさっぷりは、フィリップ・ホセ・ファーマーの『太陽神降臨』を思い出させられた。

 堂々たる体躯と顔ならぬ顔を持った兄が、牛頭人身のミノタウロスであるのは言うまでもない。このミノタウロスは、クレタ文明に於いてはおそらく豊穣の神だったが、現存するギリシア神話では英雄に退治されるただの怪物である。兄が最初からミノタウロス=神だったとすれば、転落した主人公はミノタウロス=怪物となる。彼以外のごろつきや頭目たちも同様である。なぜなら彼らはもはや言葉に使役されることもない代わりに言葉を使役することもできないが、かといって言葉を捨て切ってもいないのである。もはや人ではなくなったが、獣でもない(いかに作中でけだもの呼ばわりされようと)。人でも獣でもない彼らは、有象無象の怪物である。

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