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無伴奏ソナタ

 オースン・スコット・カードの初期短編集。先日、母校の図書館に立ち寄った際に、表題作だけ18年振りに再読。ネタバレ注意。

 ちょうど今頃の季節だった。読書の秋ということで、図書館司書のA氏が放課後、生徒たちにお薦めの本を何冊か紹介する集まりを開くことになった。初めての試みであり、人が集まらないことが予想されたので、我々図書委員がサクラとして動員された。どんな本が紹介されるかは、委員たちも前もって知らされてはいなかったのだが、その中にはこの短編集も含まれていた。それは最近、図書館に入ったばかりの本で、もちろん私は書架に並ぶ前に読み終えていた。

 A氏が選んだのは、表題作「無伴奏ソナタ」だった。それは、概ね次のように紹介された。

「未来のある国に、一人の音楽家がいました。彼の音楽はとても美しいけれど、人々を悲しい気持ちにさせるものでした。そこで政府は彼に音楽を奏でることを禁じました。しかし彼は音楽への情熱を消すことができず、ある日、ピアノを弾いてしまいます。政府は彼の指を切り落としてしまいました。それでも彼の情熱は消えず、歌うことで音楽を作り続けます。ついに彼は殺されてしまうのですが、人々は彼の音楽を愛し、決して忘れなかったのでした」

 その後、情熱とか芸術とかについてのコメントが続いたのだが、私は呆然としていた。なぜなら、私が読んだ「無伴奏ソナタ」はまったく違う物語だったからである。私が読んだのは、以下のような物語だ。

「未来の管理社会、人々は生まれた時から素質に見合った職業を割り当てられ、分不相応は重大な犯罪とされていた。生まれながらに音楽家の天分を見出された主人公は、幼いうちに社会から完全に隔離され、他人が作った音楽を一切聴くことを禁じられ、完全にオリジナルな音楽だけを作り、演奏し続けた。彼の音楽を聴けるのもまた、選ばれた聴衆のみだった。ある日彼は聴衆の一人に、バッハのテープを渡される。興味を惹かれた彼はテープを聴いてしまい、結果、音楽にバッハの影響が現れ、当局に知られることになる。

 法律を破った彼は、音楽活動を禁じられ、肉体労働者となる。彼は音楽から遠ざかろうとするが、音楽が彼を離してくれない。他人の音楽を奏でようとしても、それは必ず彼自身の音楽となってしまい、当局に知られることとなる。監視者がやってきて、彼に刑罰を与える。一度目はピアノを弾いて指を切り落とされ、二度目は歌を歌って声を奪われる。二度目の違反の時、監視者は彼に言う。法律は皆を幸せにするためにあるが、きみの音楽は皆を悲しくさせる。指も声も失った彼は、刑罰として彼自身が監視者の任に就かされる。何年も後、刑期を終えて街に出た彼は、人々が彼の音楽を奏で、歌っているのを知る」

「他者の影響を一切受けない、完全にオリジナルで斬新な才能」というのは、未熟な人間が抱きがちな観念だ。「無伴奏ソナタ」の管理社会が規定するところの「才能」はこの手の観念であるようなのだが、いまいち曖昧である(別にカード自身がこの観念の持ち主だと言っているわけではない)。法律違反の主旨も、他人の影響を受けて「純粋」でなくなってしまった才能を行使し続けることに対してなのか、単に音楽活動をする資格がないのに続けているからなのか、曖昧である。「きみの音楽は人を悲しくさせる」という台詞は最後のほうになって初めて出てきて、どうも後付け的だ。

 と、いまいち設定に詰めが欠けるし、指を切り落とすシーンなど、著者が嬉々として書いているのが丸わかりで辟易させられたが、なかなかおもしろく読めた。というわけでA氏が読んだのは同じタイトルの別の作品としか思えず、日を置かず再読してみたんだが、最初に読んだとおりの内容だった。18年振りに読んでみても、さすがに細部は忘れていたが、大筋は記憶どおりだった。

 読者の数だけ解釈があるというのは当然のことだが、A氏と私との食い違いは解釈以前の問題であろう。つまりどちらか一方、もしくは双方が誤読している可能性である。しかし、A氏は資格を持った学校司書である。それが誤読って……。かと言って、この私が読解力に問題ありというのも、それはそれで問題だろう。

 結局、氏は「無伴奏ソナタ」に感動したらしい、少なくとも生徒に紹介したいと思うくらいには良作だと思ったのだし、私もそれなりにおもしろい作品だと思ったのだから、それでいいじゃないか、と無理やり自分を納得させた。A氏に意見を求めたりしないだけの分別は、当時の私にもあったのである。しかし当然ながら、モヤモヤが残った。

 小説好きとしては、ある作品が読者によっておもしろかったりおもしろくなかったりするのは、あくまで嗜好の違いだと思いたい。字が読める人間が小説を読めるとは限らない、という考え方は、できればしたくないのである。というわけで、この再読によっても18年前と同じ結論を出さざるを得ず、18年経ってもモヤモヤは少しも解決できなかったのであった。

 時間がなかったんで表題作しか読めなかったんだが、収録作品はどれも結構気に入っていた。その次に読んだ長編『エンダーのゲーム』は、私のSF離れ、ひいては小説離れのきっかけになった作品だが、長編に於いてはどうしても好きになれないこの著者の数々の特徴も、短編ではそれほど鼻につかない。SF以外のジャンルだと、短編より長編のほうが断然好きなのだが、SFはやはり短編である。長編はあまり好きになれなくても、短編集は楽しめる著者が多い(というか、短編で気に入って、長編を読んでがっかりするというか)。つまり私がSFに求めているのは、物語ではないということになるのだろう。そして、SF以外の小説に求めているのは、なんだかんだ言いつつ物語である、ということになる。さらに言うなら、短編を書くのが苦手な私はSF作家として……いや、まあその。

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帰省

 先週、実家にちょっとだけ帰ってきました。去年の夏以来です。春夏以外の季節に帰るのは四年振りくらいだ。さ、寒かった。コート用意して正解だったというか、マフラー用意しなくて失敗だったというか。実家は山の中にあるので、平地よりさらに寒いです。家の中で吐く息が白いよ。

『グアルディア』と『ラ・イストリア』を母校の図書館と市立図書館に寄贈してきました。ノベライズも持っていくつもりだったんだけど、すっかり忘れてた。まあいいや。高校のほうは司書の先生がお休みやったんで、図書委員長さんに渡しましたが、何か戸惑ってるようでしたよ。そらま、そうやろな。高校では2年と3年の時に図書委員でした。でも私が入学する前年に校舎を建て替えたばかりで図書の整理が完全でないこともあって、文庫以外の本はあんまり読まなかったな。それに3年になる頃にはもうあまり小説を読まなくなってたし。今は書架の位置とか本の並びとかだいぶ変わってて、コンピュータで検索もできるようになってました。作業はさぞ大変だったろうなあ。

 市立図書館では……本人だと名乗らないつもりだったんだが、「もう書架がいっぱいなので、リユースさせていただくかもしれません」と言わはるんで、慌てて「著作なんで、よろしくお願いします」と付け足す。そしたら入れてくれはるということになりましたがね。いやほんま、お願いしますよ。市立図書館は毎週土曜日、家族で通ってました。で、日曜は10畳の居間のそれぞれの場所に陣取って、黙々と読書。それが一家団欒だ。ここ十年ばかり年に一、二度家族旅行をしてるけど、宿に着いて荷物を解くと、一斉に読書を始めます。

 地元の女子高生たち、制服のスカートが短かったなあ(母校は制服ないけど)。神戸とその周辺の女子高生はスカートが長いので、よその地方へ行くと違和感を覚えます。いや、たぶん全国的に見れば神戸が特異なんだろうけど。京都まで行くと普通に短くて、大阪は長い(膝下丈)のから、もう少し短いのまで。神戸に引っ越した五年前は、長いといっても膝下丈くらいで、短いスカートの子もちらほらいたけど、現在では膝下丈より短いスカートを履いてる子はまったく見かけません。今年の春辺りからさらに長いスカートの子が目に付くようになってきたんだが、あれはどうも普通の長さ(膝下丈)のスカートを、腰履きしてるらしい。ホックを外して、安全ピンか何かで留めているようです。いやま、好きな格好をしたらええねんとは思うんだけど、ああいうのって誰が最初にやり始めて、どんな経路で伝播していくんだろうか。

 今日は県立図書館で調べ物をしてました。大きくて重い辞書を散々持ったから、明日はたぶん腱鞘炎だ。大学では学部でも院でも文化史が専門だったから、大きくて重い図録を散々持ったのに、それで腱鞘炎になったことはありませんでした。今ではちょっと重い本で調べ物をしただけで、すぐ手が痛くなります。握力がだいぶ落ちてるんだろうな。

 エクステですが……案の定というべきか、持て余してます。邪魔だ。ケアは今のところそれほど面倒でもないんだが、絡まりやすいし、長すぎるからまとめても崩れやすいし、しかも肌に当たるとチクチクする。私の髪より固くて太いからなのか、それとも「擬似キューティクル」が悪いのか。頭皮が引っ張られる痛みはもうないんだけど、相変わらず引っ張られ続けているわけで、頭皮の一部が軽く炎症を起こしてます。ほんとに軽いんだけどね。悪化するようなら考えものだなあ。2ヶ月もつというなら、もたせてみようじゃないかと思ってるんだけど、さてどうなりますやら。

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パンズ・ラビリンス

 ちゃんと時間までに映画館に辿り着けました。

「ダーク・ファンタジー」ということなんだが、ダークさが半端ではない。平明に解釈すれば、少女オフェリアが入り込んだお伽の国は、つらい現実から逃避するために彼女自身が生み出した空想、ということになるのだろう。だがそうであれば、せめて空想の世界くらいは明るく美しく、優しい世界であってもいいはずだ。この暗く残酷なお伽の国は、オフェリアが認識する現実の過酷さの反映なのかもしれない。彼女と母親が置かれた状況や1944年当時のスペインの混沌だけでなく、義父の残虐な行為をも彼女は薄々気づいていただろうから。

 ギジェルモ・デル・トロ(Guillermoはギジェルモでもギリェルモでもギイェルモでもいいけど、ギレルモじゃないわな)監督作品は『ヘル・ボーイ』しか観たことがない。「不気味なクリーチャー」は覚悟してたんだが、始まってすぐにでっかい虫が登場し、「しまった、監督は『クロノス』や『ミミック』の人だった」と後悔する。どっちもホラー好きの友人に観ようと誘われたが、「虫が出るから嫌」と断った過去がある。思い出すの遅すぎ。

 でかい昆虫はしばらくして妖精に変身する。およそ可愛いとも美しいとも言い難いデザインだが、とにかく虫よりはマシである。その妖精に導かれ、オフェリアは古代の遺跡の迷宮に足を踏み入れる。そこで出会った守護神パンに三つの試練を与えられるのだが、第一の試練では、泥の中をでかいダンゴムシがうぞうぞ這い回るシーンが続く。第二、第三のシーンもこの調子だったら、最後まで鑑賞し通すのは無理かもしれんと思い始める。幸いにして虫は第一の試練で終わりでした。

 現実世界の「恐怖」は、「苦痛」で表現される。苦痛と、苦痛への予感は最も端的な恐怖のかたちだ。無残な傷口を丹念に映すショットや、拷問に使われる金槌やペンチの禍々しさ。しかし壊死した脚を切り落とすシーンはまだしも、オフェリアの義父が自分の傷を自分で縫うシーンまで丁寧に映すのは、なんぼなんでもやりすぎな気がした。

 以下はネタバレ。えーと、『パンズ・ラビリンス』だけじゃなくて、『ナルニア国物語』のネタバレもあります。

 現実で死を迎えた少女は、お伽の国で「末永く幸せに暮らしました」。この結末に、否応なしに『さいごの戦い』を思い出させられた。『ナルニア』に出会ったのは7、8歳の頃である。あのシリーズで特に気に入っていたのは、現実世界を単に嫌な場所、退屈な場所とするのではなく、ナルニアへ行き、そして帰ってくることで現実を生きていく力を与えられるという点だった。当時の私が求めていたのも、まさに、「行きて帰りし」物語だったのだ。いっとき、お伽の国へ足を運ぶことで、現実を生きていくための力を得る。それを逃避と呼ぶ人もいるだろうが、子供の頃の私には、生きるためにこそ必要な行為だった。

 だから『さいごの戦い』で、「行きて帰りし」物語が、「行きっぱなしで帰らない」物語になってしまった時には愕然とした。空想と現実を往還する生き方を否定された気がした。空想をきっぱり否定して生きていくか、さもなくば死ねと言われたも同然で、本当に手酷い裏切りだった。もちろん私は死は選ばなかったわけだが、「物語」に対する不信感ははっきりと刻み付けられた(それから十年近く後に「前世自殺ごっこ」事件が起きた時には、記憶の蓋が開いて何やらいろいろ出てきたものである)。結局、その不信感を解消することができなかったために物語の受け手のままでいることができなくなって、しかし物語を捨て去ることもできなかったから、物語の創り手になったのかもしれない。

『パンズ・ラビリンス』の終盤、オフェリアは現実を捨ててお伽の国へ逃げ込もうとする。だがそのためには弟を犠牲にする必要があると告げられる。オフェリアは弟を犠牲にするより、現実に留まることを選択する。その直後に、死が訪れるのである。現実は、彼女が生きていくことを許さないほど過酷だった。それならばせめて、お伽の国で「末永く幸せに暮らし」たのだと信じたい。そうでなければ、この物語はあまりにも現実に似て残酷である。

 

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初エクステ

 現在の髪の長さは肩甲骨が隠れるくらいなんだけど、これにエクステを足して腰までの長さにする。地毛に編み込んで付けるタイプを22束、美容師さん二人掛かりで1時間半(準備その他を入れると2時間)。1束500円。

 どんなものか試してみたかっただけなので、担当のお兄さんの「どんな感じにしますか」「こんな感じでいいですか」等々の質問に、すごく適当に答えてたらこうなりました。髪の長さが腰までなんて、15年振りくらいだ。どこの国の人の髪なのかは考えないことにする。もらった説明書によると、品質保持のため「擬似キューティクル」をコーティングしてあるそうな。擬似……なんかSFチックだ。ちゃんとケアすれば2ヶ月もつそうだけど、私にできるだろうか。それ以前の問題として、付けた直後はなんともなかったのに、時間が経つにつれて地肌が引っ張られて痛くなってきました。困ったな。

 そしてなぜエクステを試したかったかと言うと、取材です。25世紀の中央アジアを舞台にしたSF長編小説『ミカイールの階梯』の。いやマジで。

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キル・ビル

「『プラネット・テラー』を観られなかった記念」に思い出し(観に行くだけは行ったんだけど、下りる駅を間違えて間に合わなかったのでした。なんで一日に三回しか上映しないんだ)。

 オタク男子の夢を叶えた映画である。作品自体ではなく制作過程が、である。想像してみていただきたい。理想の女優たちが連日、「彼」のオタク談義に耳を傾け、一緒にビデオを観てくれる。しかも「ああ、そういうのが好きなのね。しょうがないわね、はいはい」という態度ではなく、彼の言葉を一言一句理解しようとし、彼が差し出す物を同じ目線で眺めようとし、自らリサーチまでする。さらには、彼が頭の中だけで思い描いていた光景を現実に於いて再現するために、身体を張ってスタントまでこなしてくれるのだ。まさに夢の実現(無論、彼女たちが真剣なのは役作りのためであるが)。

『キル・ビル』はタランティーノにとってそういう作品であるわけだから、観客置いてけぼりなのはむしろ当然である。特にvol.1が酷い。出だしは悪くないんだ。ヴァニータ・グリーンとのお茶の間とキッチンで繰り広げられる殺し合いとか、病院でのダリル・ハンナとか。しかし中盤、日本編に入るとぐだぐだ。「外人から見た間違った日本」像をやるなら、もっと徹底的にやらんかい。つまり、「シートに日本刀用ホルダーの付いた旅客機」のレベルでやり通してほしかったのである。どうにも半端。

 そして青葉屋でのダラダラした殺陣には、心底うんざりした。もっとも、映画館で観た時には起伏も何もない弛緩したシークエンスだと思ってたのが、DVDで観直したら一応いくつかのパートに分かれていて、そのたびごとに音楽やアクションの様式、カメラワーク等を変えているのに気が付いた。だからと言ってダラダラには変わりないんだけど。

 ユマ・サーマンの殺陣は、刀をぶんぶん振り回しているだけ。手脚が長すぎるせいでもあるんだろうけど、もう少しなんとかならなかったものか。対してルーシー・リューは、挙措から表情までちゃんと任侠映画の姐さんになってるのに感心した。日本語は……まあ、ユマはともかくルーシーは頑張ってたし、あれは母音の発音が曖昧なのにイントネーションだけはかなり正確だから却って聞き取りづらかったんだと思う(いわゆる「ガイジンの日本語」は、不明瞭な母音を大袈裟なイントネーションでカバーしている)。それより私は日本人の親分の皆さんの日本語が全然聞き取れなくて難儀しました。

 4年間の昏睡で脚が萎えていたユマ・サーマンが13時間で立ち上がれるようになるシーン、車から降りる彼女の足首をわざわざ捉えるショットにも微妙な気分になったが、片腕を切り落とされたジュリー・ドレフュスが血と黒服の海の中でのた打ち回るシーンには、「……この脚フェチ野郎」。視覚的にかなり来ます。もう変態の域にまで行っちゃってるよ。衣装デザインの小川久美子のインタビューによると、タランティーノからの指示では「つま先の見えるパンプス」となっていたのをブーツに変更したら、タランティーノは一度は了解しておきながら、実際に衣装合わせしたのを見て、「それじゃあ脚が見えないじゃないか!」と激怒したんだそうです。へー……

 vol.2は、まあおもしろかったけど、それはあくまでvol.1に比べての話である。タランティーノだったら、これくらい出来て当然だろうというレベルだ。演出や話のまとめ方も、そこそこよくできてはいるんだけど、彼のこれまでの作品を超えるものではなく、もうすでにインプットされてるスキルだけで作ったような。役者たちに関して言えば、脚本や演出がましになった分、演技も活かされている。そう言えばエンドクレジットで「怨み節」が流れ始めた途端、場内に爆笑が起きたのだった。まあ、2の観客は1でタランティーノを見捨てなかった人たちばかりだったろうしね……

 2005年春にDVDで再鑑賞したのは、ノベライズの参考にするためです。だって復讐譚だから。

「マダ勝負ハ、ツイチャイナイヨー」「ヤッチマイナー」

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何かいろいろと……

 私の家族は現在、結婚した妹Ⅰが横浜に、母が長野の実家に、そして父と私と妹Ⅱが関西で一緒に住んでいます。住んでるマンションが父の社宅なので、持ち回りで自治会役員を務めないといけません。で、我が家ではいつも家にいる私の役目、ということに当然のようになるわけです。何かなあ。

 先日、半年の任期が終わりました。3年ほど前に会計をやったんで、今回は会長でした。仕事自体はそれほど大変ではないし、空き巣とか車上荒らしとかの警察沙汰もなく、無事にやってこれたんですが、最後の引継ぎの際の書類作成が、しょうもないミスを連発して、ものすごく時間が掛かってしまいました。すでに脳の一部があっちの世界と繫がってしまっているので、創作とは関係のない事項を記憶しておくのが困難になっているのです。自治会の古い資料を整理しているうちに何をしようとしているのか忘れたりとか、日付の記入を間違えたりとか、何かいろいろとやばかったです。

 でも、とにかく無事終わりました。後から大きなミスが発見されたりなんてことは……あったらどないしょう。

 私は必要があると判断した時以外、自分の職業を人に言いません。社宅の奥さん方にも、訊かれた時だけ正直に、「家でパソコンを使った仕事をしています」と答えています。会長の任期中、奥さん方の一人に、「回覧のお知らせの文章が上手ですね」と言われました。的確でわかりやすい、のだそうです。

 一応、研究者の端くれ(つまり、レポートとかレジュメとか論文を大量に書かないといけない)だったこともありますし、エディター(という肩書きで、兼ライター、兼校正、兼使い走り)をやっていたこともありますし、現在は小説家ですが、これまでの人生で文章が巧いと言われたことがほとんどありません。学校でも小学5年の時に一度、作文が県のコンクールに出されたことがあるだけです。各クラスから1名ずつ選ばれるのですが、私が選ばれた理由は、「いつも同じ人ばかり選ばれるから、偶には違う人を」という消極的なものでした。うちの小学校では、なぜか1度もクラス替えがありませんでした(児童数が少ないからではない)。そうすると6年間ずっと同じ面子で過ごすわけで、作文なり絵画なりのコンクールに出される顔ぶれは自ずから固定してくるのです。

 その最初で最後だった作文コンクールも結局、入選止まりでしたしね。そういうわけで、先入観のない人から「自治会のお知らせ」という、ある意味非常に基本的な文章を誉めてもらって、ちょっと、いやかなり嬉しかったのでした。

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花の影

 ここ半月ほど体調がよろしくなくて映画にも展覧会にも行ってません(DVDは観てるんだけど、ここに感想書くほどのものには当たらなかった)。なので、思い出し。好きな映画のベスト3に入る作品である(ほかの2つは順不同で『アマデウス』と『デッドマン』)。チェン・カイコーの代表作と言えば『覇王別姫』なんだろうけど、私はこっち。96年の作品だが、鑑賞は97年か98年にビデオで。

 やや記憶が曖昧なんだが、監督は『始皇帝暗殺』(98)のインタビューで『花の影』について、「何を作っても当局から横槍が入るので、毒にも薬にもならない恋愛ドラマにした」というようなことを言っていた。確かに同じ近過去の中国を舞台にした恋愛ものなら、『覇王別姫』のほうがよほど優れている。主演はレスリー・チャンとコン・リー、撮影はクリストファー・ドイルと豪華だが、ストーリーは徹底して凡庸だ。20年代の上海。心に傷を持ち、愛を知らないジゴロが、幼馴染である蘇州の名家の女主人を誘惑しようとし、逆に深みに嵌まる……主演二人がね、どうにもチグハグでね。レスリー・チャンは徹底してナルシスト演技で、コン・リーとの絡みはとにかくやる気が見られない。『覇王別姫』(93)の時点ですでに徴候があった額がもう、ああっ危なーい、という状態だし。『ブエノスアイレス』(99)の時にはそれが愛嬌になってたんだが、「冷徹なジゴロ」役にはちょっとなあ。

 コン・リーはコン・リーで、「無垢なお嬢様」役がなあ。せいぜい20歳くらいの設定だと思うんだが、すでに30になってるはずである。いや、ほんとに20歳くらいに見えるから、逆に怖いんだ。そして終始うっすら口を開けっ放しなのが、気になってしょうがない。だいたい彼女はほかの作品でも大概、口をうっすら開けているが、この作品では終始である。口呼吸は口臭がひどくなるぞ、とか余計なことが気になってしまう。しかしマフィアのボスの女を演じた『マイアミ・バイス』では口を閉じていることが多かったから、やはりあれは「無垢で無防備」なことを表すメソッドなのであろう。このことからも判るように、この作品での彼女の演技も、レスリー・チャンほどではないにしろ単調だ。因みに最近ではスカーレット・ヨハンソンも終始うっすら口を開けっ放しだが、『真珠の耳飾の少女』では閉じていることが多かった。いやはや。

 クリストファー・ドイルによる映像は、ウォン・カーワイ作品等に見られるすかした実験的手法(スタイリッシュとも言う)は影を潜め、非常に美しく見事だ。しかしそれだけで作品を保たせるほどではない。表面だけ眺めれば、『花の影』はひたすら凡庸なメロドラマだ。

 しかし、ここで脇役のケヴィン・リンに注目すると、まったく異なる様相を帯びてくるのである。彼の役はコン・リー演じる女主人の遠縁の青年で、彼女をはじめ家の者全員に召使扱いされているが、その立場を疑問も持たずに受け入れている。女主人にひたすら忠実で、ジゴロに夢中になった彼女が、無垢ゆえに「処女はセックスが下手だから嫌われる」と思い込み、「練習台になって」と命じればおとなしく従う(こういう役を自然に演じられるから、やっぱりコン・リーは巧いんだなあと思う)。上海へ戻ったジゴロを追い掛けて彼女が家出すれば、荷物持ちとしてついていく。そうやって引っ張り回されているうちに、次第に自分の意思に目覚めていくのだが、だからと言って対等な扱いを要求したりはしない。自分はあくまで召使だが、居場所は常に彼女の隣だということを心得ているのである。彼女が誰と寝ようと、追い掛けて家出しようと、嫁に行こうと、常に隣にいるのは自分である、と。

 そういうわけで、私にとって『花の影』の主役はケヴィン・リンである。彼がまた、最初はもっさりして間抜けな見た目なんだが、どんどんかっこよくなっていくんだ。髪型とか体型も変えてるんだが、やはり演技力であろう。『プロミス』のインタビューによると、監督はニコラス・ツェーの役を本当はレスリー・チャンに演じてもらいたかったそうだから、もしかすると『花の影』は本気でレスリーのプロモーション・ビデオのつもりで撮ったのかもしれないんだが、監督の意思はこの際どうでもいい。ケヴィン・リンが主役だと思って観ると、この映画はほんとにおもしろいです。以下は一応ネタバレ。

 最後に彼は、すべてを手に入れる。本当に欲しかったものも含めた、すべてである。どうも世間では心と身体は別物で、しかも心のほうが上位にあるという二元論が支配的なようだ(だから、「身体は汚されても心は汚されていない」等の台詞が成立し得る)。しかし心と身体は本来、不可分であろう。それを別物として、しかも身体のほうが価値が劣ると見做すのも妙な話である。青年は愛する女を手に入れた。心を失い廃人になった彼女でも、彼女であることには変わりがない。「心だけを手に入れる」ことが美しい愛として称賛されるなら、身体だけを手に入れることが、どうして愛でないと言えるだろうか。もちろん、彼の愛は非常に肯定し難いものだし、まして共感は到底できないのだけれど。

 彼はすべてを手に入れた――そのことを、最後のワンショットだけで表現し得たのは、やはり映画の力だ。小説だと、どうしても説明が必要になり、あの一瞬がもたらす衝撃と深い感動を表現するのは不可能だ。感動どころか、非常に後味が悪くなってしまうだろう。漫画でも難しいと思う。『覇王別姫』の映画版のラストでは(えーと、これもネタバレです)、レスリー・チャン演じる蝶衣は虞美人の役に殉じて自殺するが、原作では死には至らない。舞台で演じる役と同じく、自分の愛もかりそめのものに過ぎない、と悟るシニカルな結末で、それゆえに哀切だが、映画で同じ結末にしたらカタルシスが薄れてしまうだろう。以上、映画と小説という表現形態の違いについての考察でした。

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親密なお付き合いは遠慮させていただきます

 ノベライズを合わせても三作しか出してないわけですが、三作とも主人公が複数いるというか、誰が主人公なのかはっきりしないお話です。もともと小説に限らず、一人の主人公に沿って進む物語より、群像劇のほうが好きでした。そのほうが展開が多様になるから、というのが理由ですが、それだけじゃなくて、どうも私は一人のキャラクターだけと長く付き合い続けるのが苦手のようです。短編なら別に構わないんですけどね。

 そういうわけで、一人称の長篇小説を読むのはとりわけ苦手です。語り手が傍観者の位置にいる作品ならまだいいんですが、語り手が物語の中心となっている作品は読んでいてしんどい。著者の技巧が非常に優れている作品の、その技巧に感嘆することはあっても、それはそれ、これはこれで、一人の主人公に付き合うのはしんどいのです。

 何がしんどいのかというと、一人のキャラクターの「内面」に付き合わされることです。一人称の内面描写が下手くそだと、尖った石ころだらけの地面を裸足で歩くような苦痛を与えられますが、巧かったら巧かったで、粘性のプールに首まで浸かって歩く困難を覚えます。肌への感触は心地よいとも言えるけど、その中を進むのはものすごく疲れるし息苦しい。一人称ハードボイルドは内面描写が少ない、と言われますが、結局のところ主人公一人の視点に付き合わされることに変わりはない。ただし、パートごとに語り手が変わる一人称長篇はわりと好きです。一人と付き合い続けるのが苦手なのに加えて、物事を多方向から見るのが好きなので。もちろん下手なのは論外ですが。

 行動は思考や感情の結果であり、そして私は過程よりも結果を重視します。それは三人称小説でも同じです。人の数だけ物の見方がある、ということを表すため以外に用いられる内面描写は、なべて過程でしょう。

 過程(思考や感情)よりも結果(行動)を重視するのは、学生時代以来、「どんな作品を作りたいのか」「なぜ作品を作れない(完成できない)のか」を綿々と語り続ける(そして何も作らない/完成させない)人が周囲に多かったことが、おそらく関係しているのだろうと思います。いやほんとに、結果(作品の完成)は過程よりも重要ですね。

 以上は読み手としての意見ですが、書き手としても無論、過程(思考や感情)よりも結果(行動)を重視しています。なので、「愛憎劇」といった評をいただくと、正直なところ困惑します。状況が重いから当然のこととしてキャラクターの心理も重くなっているだけであって、重い心理を描くのが目的で重い状況を設定しているわけではありません。むしろ、一人の人間がどれほど強い愛や憎しみを抱こうと、それ自体が世界に与える影響は微々たるもの。例えば『グアルディア』では、圧倒的に強烈な個性を持つ(キャラ立ちしている)アンヘルは、実は「接続された女」の操作する側じゃなくて操作される側に過ぎない。しかし微々たる人間たちによる微々たる影響の集積が、世界を動かすこともある……と思っているのですよ。

 というわけで視点および内面描写をどう処理するかは、毎回悩みどころです。今回も悩んでます。でも過程よりも結果が大事だから、結果が出せるまではこれ以上言わない。えーと、とりあえず今回も群像劇です。

『ラ・イストリア』は群像劇とか複数主人公というよりは、主人公不在というべきかもしれません。本来は「パワードスーツ(=等身大モビルスーツ)を手に入れてヒーローになってしまった少年が、次第に壊れていく」物語だったんだけど、それは『グアルディア』で先にやってしまったので、重点を少年ヒーローからその周囲へと移動させたら、主人公がいないお話になってしまいましたよ。

 ノベライズは、主人公が雑賀じゃなくて水天宮になってると思われた方が多いようですが、勝手にそうしたわけではありません。最初に十話までのシナリオの初稿と最終話までのプロットをいただいて、それから制作スタッフの方々と打ち合わせをしたのですが、その際に「真の主人公は、雑賀じゃなくて水天宮ですね」と尋ねたところ、「そのつもりです」という返答をいただきました。だから、そういう枠組みでノベライズを書き上げたわけです。しかし水面下では「真の真の主人公は雑賀」という物語を同時進行させていて、だからノベライズのクライマックスは最後の闘いでも六本木崩壊でもなくて、その前の雑賀の人間廃業宣言なのでした。水面下だから、誰も気が付いてないかもしれない。

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