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キル・ビル

「『プラネット・テラー』を観られなかった記念」に思い出し(観に行くだけは行ったんだけど、下りる駅を間違えて間に合わなかったのでした。なんで一日に三回しか上映しないんだ)。

 オタク男子の夢を叶えた映画である。作品自体ではなく制作過程が、である。想像してみていただきたい。理想の女優たちが連日、「彼」のオタク談義に耳を傾け、一緒にビデオを観てくれる。しかも「ああ、そういうのが好きなのね。しょうがないわね、はいはい」という態度ではなく、彼の言葉を一言一句理解しようとし、彼が差し出す物を同じ目線で眺めようとし、自らリサーチまでする。さらには、彼が頭の中だけで思い描いていた光景を現実に於いて再現するために、身体を張ってスタントまでこなしてくれるのだ。まさに夢の実現(無論、彼女たちが真剣なのは役作りのためであるが)。

『キル・ビル』はタランティーノにとってそういう作品であるわけだから、観客置いてけぼりなのはむしろ当然である。特にvol.1が酷い。出だしは悪くないんだ。ヴァニータ・グリーンとのお茶の間とキッチンで繰り広げられる殺し合いとか、病院でのダリル・ハンナとか。しかし中盤、日本編に入るとぐだぐだ。「外人から見た間違った日本」像をやるなら、もっと徹底的にやらんかい。つまり、「シートに日本刀用ホルダーの付いた旅客機」のレベルでやり通してほしかったのである。どうにも半端。

 そして青葉屋でのダラダラした殺陣には、心底うんざりした。もっとも、映画館で観た時には起伏も何もない弛緩したシークエンスだと思ってたのが、DVDで観直したら一応いくつかのパートに分かれていて、そのたびごとに音楽やアクションの様式、カメラワーク等を変えているのに気が付いた。だからと言ってダラダラには変わりないんだけど。

 ユマ・サーマンの殺陣は、刀をぶんぶん振り回しているだけ。手脚が長すぎるせいでもあるんだろうけど、もう少しなんとかならなかったものか。対してルーシー・リューは、挙措から表情までちゃんと任侠映画の姐さんになってるのに感心した。日本語は……まあ、ユマはともかくルーシーは頑張ってたし、あれは母音の発音が曖昧なのにイントネーションだけはかなり正確だから却って聞き取りづらかったんだと思う(いわゆる「ガイジンの日本語」は、不明瞭な母音を大袈裟なイントネーションでカバーしている)。それより私は日本人の親分の皆さんの日本語が全然聞き取れなくて難儀しました。

 4年間の昏睡で脚が萎えていたユマ・サーマンが13時間で立ち上がれるようになるシーン、車から降りる彼女の足首をわざわざ捉えるショットにも微妙な気分になったが、片腕を切り落とされたジュリー・ドレフュスが血と黒服の海の中でのた打ち回るシーンには、「……この脚フェチ野郎」。視覚的にかなり来ます。もう変態の域にまで行っちゃってるよ。衣装デザインの小川久美子のインタビューによると、タランティーノからの指示では「つま先の見えるパンプス」となっていたのをブーツに変更したら、タランティーノは一度は了解しておきながら、実際に衣装合わせしたのを見て、「それじゃあ脚が見えないじゃないか!」と激怒したんだそうです。へー……

 vol.2は、まあおもしろかったけど、それはあくまでvol.1に比べての話である。タランティーノだったら、これくらい出来て当然だろうというレベルだ。演出や話のまとめ方も、そこそこよくできてはいるんだけど、彼のこれまでの作品を超えるものではなく、もうすでにインプットされてるスキルだけで作ったような。役者たちに関して言えば、脚本や演出がましになった分、演技も活かされている。そう言えばエンドクレジットで「怨み節」が流れ始めた途端、場内に爆笑が起きたのだった。まあ、2の観客は1でタランティーノを見捨てなかった人たちばかりだったろうしね……

 2005年春にDVDで再鑑賞したのは、ノベライズの参考にするためです。だって復讐譚だから。

「マダ勝負ハ、ツイチャイナイヨー」「ヤッチマイナー」

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