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パンズ・ラビリンス

 ちゃんと時間までに映画館に辿り着けました。

「ダーク・ファンタジー」ということなんだが、ダークさが半端ではない。平明に解釈すれば、少女オフェリアが入り込んだお伽の国は、つらい現実から逃避するために彼女自身が生み出した空想、ということになるのだろう。だがそうであれば、せめて空想の世界くらいは明るく美しく、優しい世界であってもいいはずだ。この暗く残酷なお伽の国は、オフェリアが認識する現実の過酷さの反映なのかもしれない。彼女と母親が置かれた状況や1944年当時のスペインの混沌だけでなく、義父の残虐な行為をも彼女は薄々気づいていただろうから。

 ギジェルモ・デル・トロ(Guillermoはギジェルモでもギリェルモでもギイェルモでもいいけど、ギレルモじゃないわな)監督作品は『ヘル・ボーイ』しか観たことがない。「不気味なクリーチャー」は覚悟してたんだが、始まってすぐにでっかい虫が登場し、「しまった、監督は『クロノス』や『ミミック』の人だった」と後悔する。どっちもホラー好きの友人に観ようと誘われたが、「虫が出るから嫌」と断った過去がある。思い出すの遅すぎ。

 でかい昆虫はしばらくして妖精に変身する。およそ可愛いとも美しいとも言い難いデザインだが、とにかく虫よりはマシである。その妖精に導かれ、オフェリアは古代の遺跡の迷宮に足を踏み入れる。そこで出会った守護神パンに三つの試練を与えられるのだが、第一の試練では、泥の中をでかいダンゴムシがうぞうぞ這い回るシーンが続く。第二、第三のシーンもこの調子だったら、最後まで鑑賞し通すのは無理かもしれんと思い始める。幸いにして虫は第一の試練で終わりでした。

 現実世界の「恐怖」は、「苦痛」で表現される。苦痛と、苦痛への予感は最も端的な恐怖のかたちだ。無残な傷口を丹念に映すショットや、拷問に使われる金槌やペンチの禍々しさ。しかし壊死した脚を切り落とすシーンはまだしも、オフェリアの義父が自分の傷を自分で縫うシーンまで丁寧に映すのは、なんぼなんでもやりすぎな気がした。

 以下はネタバレ。えーと、『パンズ・ラビリンス』だけじゃなくて、『ナルニア国物語』のネタバレもあります。

 現実で死を迎えた少女は、お伽の国で「末永く幸せに暮らしました」。この結末に、否応なしに『さいごの戦い』を思い出させられた。『ナルニア』に出会ったのは7、8歳の頃である。あのシリーズで特に気に入っていたのは、現実世界を単に嫌な場所、退屈な場所とするのではなく、ナルニアへ行き、そして帰ってくることで現実を生きていく力を与えられるという点だった。当時の私が求めていたのも、まさに、「行きて帰りし」物語だったのだ。いっとき、お伽の国へ足を運ぶことで、現実を生きていくための力を得る。それを逃避と呼ぶ人もいるだろうが、子供の頃の私には、生きるためにこそ必要な行為だった。

 だから『さいごの戦い』で、「行きて帰りし」物語が、「行きっぱなしで帰らない」物語になってしまった時には愕然とした。空想と現実を往還する生き方を否定された気がした。空想をきっぱり否定して生きていくか、さもなくば死ねと言われたも同然で、本当に手酷い裏切りだった。もちろん私は死は選ばなかったわけだが、「物語」に対する不信感ははっきりと刻み付けられた(それから十年近く後に「前世自殺ごっこ」事件が起きた時には、記憶の蓋が開いて何やらいろいろ出てきたものである)。結局、その不信感を解消することができなかったために物語の受け手のままでいることができなくなって、しかし物語を捨て去ることもできなかったから、物語の創り手になったのかもしれない。

『パンズ・ラビリンス』の終盤、オフェリアは現実を捨ててお伽の国へ逃げ込もうとする。だがそのためには弟を犠牲にする必要があると告げられる。オフェリアは弟を犠牲にするより、現実に留まることを選択する。その直後に、死が訪れるのである。現実は、彼女が生きていくことを許さないほど過酷だった。それならばせめて、お伽の国で「末永く幸せに暮らし」たのだと信じたい。そうでなければ、この物語はあまりにも現実に似て残酷である。

 

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