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花の影

 ここ半月ほど体調がよろしくなくて映画にも展覧会にも行ってません(DVDは観てるんだけど、ここに感想書くほどのものには当たらなかった)。なので、思い出し。好きな映画のベスト3に入る作品である(ほかの2つは順不同で『アマデウス』と『デッドマン』)。チェン・カイコーの代表作と言えば『覇王別姫』なんだろうけど、私はこっち。96年の作品だが、鑑賞は97年か98年にビデオで。

 やや記憶が曖昧なんだが、監督は『始皇帝暗殺』(98)のインタビューで『花の影』について、「何を作っても当局から横槍が入るので、毒にも薬にもならない恋愛ドラマにした」というようなことを言っていた。確かに同じ近過去の中国を舞台にした恋愛ものなら、『覇王別姫』のほうがよほど優れている。主演はレスリー・チャンとコン・リー、撮影はクリストファー・ドイルと豪華だが、ストーリーは徹底して凡庸だ。20年代の上海。心に傷を持ち、愛を知らないジゴロが、幼馴染である蘇州の名家の女主人を誘惑しようとし、逆に深みに嵌まる……主演二人がね、どうにもチグハグでね。レスリー・チャンは徹底してナルシスト演技で、コン・リーとの絡みはとにかくやる気が見られない。『覇王別姫』(93)の時点ですでに徴候があった額がもう、ああっ危なーい、という状態だし。『ブエノスアイレス』(99)の時にはそれが愛嬌になってたんだが、「冷徹なジゴロ」役にはちょっとなあ。

 コン・リーはコン・リーで、「無垢なお嬢様」役がなあ。せいぜい20歳くらいの設定だと思うんだが、すでに30になってるはずである。いや、ほんとに20歳くらいに見えるから、逆に怖いんだ。そして終始うっすら口を開けっ放しなのが、気になってしょうがない。だいたい彼女はほかの作品でも大概、口をうっすら開けているが、この作品では終始である。口呼吸は口臭がひどくなるぞ、とか余計なことが気になってしまう。しかしマフィアのボスの女を演じた『マイアミ・バイス』では口を閉じていることが多かったから、やはりあれは「無垢で無防備」なことを表すメソッドなのであろう。このことからも判るように、この作品での彼女の演技も、レスリー・チャンほどではないにしろ単調だ。因みに最近ではスカーレット・ヨハンソンも終始うっすら口を開けっ放しだが、『真珠の耳飾の少女』では閉じていることが多かった。いやはや。

 クリストファー・ドイルによる映像は、ウォン・カーワイ作品等に見られるすかした実験的手法(スタイリッシュとも言う)は影を潜め、非常に美しく見事だ。しかしそれだけで作品を保たせるほどではない。表面だけ眺めれば、『花の影』はひたすら凡庸なメロドラマだ。

 しかし、ここで脇役のケヴィン・リンに注目すると、まったく異なる様相を帯びてくるのである。彼の役はコン・リー演じる女主人の遠縁の青年で、彼女をはじめ家の者全員に召使扱いされているが、その立場を疑問も持たずに受け入れている。女主人にひたすら忠実で、ジゴロに夢中になった彼女が、無垢ゆえに「処女はセックスが下手だから嫌われる」と思い込み、「練習台になって」と命じればおとなしく従う(こういう役を自然に演じられるから、やっぱりコン・リーは巧いんだなあと思う)。上海へ戻ったジゴロを追い掛けて彼女が家出すれば、荷物持ちとしてついていく。そうやって引っ張り回されているうちに、次第に自分の意思に目覚めていくのだが、だからと言って対等な扱いを要求したりはしない。自分はあくまで召使だが、居場所は常に彼女の隣だということを心得ているのである。彼女が誰と寝ようと、追い掛けて家出しようと、嫁に行こうと、常に隣にいるのは自分である、と。

 そういうわけで、私にとって『花の影』の主役はケヴィン・リンである。彼がまた、最初はもっさりして間抜けな見た目なんだが、どんどんかっこよくなっていくんだ。髪型とか体型も変えてるんだが、やはり演技力であろう。『プロミス』のインタビューによると、監督はニコラス・ツェーの役を本当はレスリー・チャンに演じてもらいたかったそうだから、もしかすると『花の影』は本気でレスリーのプロモーション・ビデオのつもりで撮ったのかもしれないんだが、監督の意思はこの際どうでもいい。ケヴィン・リンが主役だと思って観ると、この映画はほんとにおもしろいです。以下は一応ネタバレ。

 最後に彼は、すべてを手に入れる。本当に欲しかったものも含めた、すべてである。どうも世間では心と身体は別物で、しかも心のほうが上位にあるという二元論が支配的なようだ(だから、「身体は汚されても心は汚されていない」等の台詞が成立し得る)。しかし心と身体は本来、不可分であろう。それを別物として、しかも身体のほうが価値が劣ると見做すのも妙な話である。青年は愛する女を手に入れた。心を失い廃人になった彼女でも、彼女であることには変わりがない。「心だけを手に入れる」ことが美しい愛として称賛されるなら、身体だけを手に入れることが、どうして愛でないと言えるだろうか。もちろん、彼の愛は非常に肯定し難いものだし、まして共感は到底できないのだけれど。

 彼はすべてを手に入れた――そのことを、最後のワンショットだけで表現し得たのは、やはり映画の力だ。小説だと、どうしても説明が必要になり、あの一瞬がもたらす衝撃と深い感動を表現するのは不可能だ。感動どころか、非常に後味が悪くなってしまうだろう。漫画でも難しいと思う。『覇王別姫』の映画版のラストでは(えーと、これもネタバレです)、レスリー・チャン演じる蝶衣は虞美人の役に殉じて自殺するが、原作では死には至らない。舞台で演じる役と同じく、自分の愛もかりそめのものに過ぎない、と悟るシニカルな結末で、それゆえに哀切だが、映画で同じ結末にしたらカタルシスが薄れてしまうだろう。以上、映画と小説という表現形態の違いについての考察でした。

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