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親密なお付き合いは遠慮させていただきます

 ノベライズを合わせても三作しか出してないわけですが、三作とも主人公が複数いるというか、誰が主人公なのかはっきりしないお話です。もともと小説に限らず、一人の主人公に沿って進む物語より、群像劇のほうが好きでした。そのほうが展開が多様になるから、というのが理由ですが、それだけじゃなくて、どうも私は一人のキャラクターだけと長く付き合い続けるのが苦手のようです。短編なら別に構わないんですけどね。

 そういうわけで、一人称の長篇小説を読むのはとりわけ苦手です。語り手が傍観者の位置にいる作品ならまだいいんですが、語り手が物語の中心となっている作品は読んでいてしんどい。著者の技巧が非常に優れている作品の、その技巧に感嘆することはあっても、それはそれ、これはこれで、一人の主人公に付き合うのはしんどいのです。

 何がしんどいのかというと、一人のキャラクターの「内面」に付き合わされることです。一人称の内面描写が下手くそだと、尖った石ころだらけの地面を裸足で歩くような苦痛を与えられますが、巧かったら巧かったで、粘性のプールに首まで浸かって歩く困難を覚えます。肌への感触は心地よいとも言えるけど、その中を進むのはものすごく疲れるし息苦しい。一人称ハードボイルドは内面描写が少ない、と言われますが、結局のところ主人公一人の視点に付き合わされることに変わりはない。ただし、パートごとに語り手が変わる一人称長篇はわりと好きです。一人と付き合い続けるのが苦手なのに加えて、物事を多方向から見るのが好きなので。もちろん下手なのは論外ですが。

 行動は思考や感情の結果であり、そして私は過程よりも結果を重視します。それは三人称小説でも同じです。人の数だけ物の見方がある、ということを表すため以外に用いられる内面描写は、なべて過程でしょう。

 過程(思考や感情)よりも結果(行動)を重視するのは、学生時代以来、「どんな作品を作りたいのか」「なぜ作品を作れない(完成できない)のか」を綿々と語り続ける(そして何も作らない/完成させない)人が周囲に多かったことが、おそらく関係しているのだろうと思います。いやほんとに、結果(作品の完成)は過程よりも重要ですね。

 以上は読み手としての意見ですが、書き手としても無論、過程(思考や感情)よりも結果(行動)を重視しています。なので、「愛憎劇」といった評をいただくと、正直なところ困惑します。状況が重いから当然のこととしてキャラクターの心理も重くなっているだけであって、重い心理を描くのが目的で重い状況を設定しているわけではありません。むしろ、一人の人間がどれほど強い愛や憎しみを抱こうと、それ自体が世界に与える影響は微々たるもの。例えば『グアルディア』では、圧倒的に強烈な個性を持つ(キャラ立ちしている)アンヘルは、実は「接続された女」の操作する側じゃなくて操作される側に過ぎない。しかし微々たる人間たちによる微々たる影響の集積が、世界を動かすこともある……と思っているのですよ。

 というわけで視点および内面描写をどう処理するかは、毎回悩みどころです。今回も悩んでます。でも過程よりも結果が大事だから、結果が出せるまではこれ以上言わない。えーと、とりあえず今回も群像劇です。

『ラ・イストリア』は群像劇とか複数主人公というよりは、主人公不在というべきかもしれません。本来は「パワードスーツ(=等身大モビルスーツ)を手に入れてヒーローになってしまった少年が、次第に壊れていく」物語だったんだけど、それは『グアルディア』で先にやってしまったので、重点を少年ヒーローからその周囲へと移動させたら、主人公がいないお話になってしまいましたよ。

 ノベライズは、主人公が雑賀じゃなくて水天宮になってると思われた方が多いようですが、勝手にそうしたわけではありません。最初に十話までのシナリオの初稿と最終話までのプロットをいただいて、それから制作スタッフの方々と打ち合わせをしたのですが、その際に「真の主人公は、雑賀じゃなくて水天宮ですね」と尋ねたところ、「そのつもりです」という返答をいただきました。だから、そういう枠組みでノベライズを書き上げたわけです。しかし水面下では「真の真の主人公は雑賀」という物語を同時進行させていて、だからノベライズのクライマックスは最後の闘いでも六本木崩壊でもなくて、その前の雑賀の人間廃業宣言なのでした。水面下だから、誰も気が付いてないかもしれない。

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