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 一本の小説が、ネタとか構成とか設定とかガジェットとかテーマとかいろんな要素の集積であるのは、どの作者でも同じなんだろうけど、私の場合、「光景」が占める割合がかなり多いんじゃないかと思う。書こうとしている作品の中の場面が、文字どおり「見える」のである。たいていは設定やプロット、キャラクターが頭の中である程度決まってから「見えて」くるものなんだけど、時にはまったく想定していなかったキャラクターたちのシーンが、いきなり「見える」こともある。彼らはいったい誰なのか、どういう状況でそんなことをしているのか、そういった疑問から新たなキャラクター、エピソード、設定が生まれる。その結果、さらに新たな光景が見えるようになる。

 断片的だった光景を一本の物語として繋げ、且つそれを文章に起こす。それが執筆過程の基本である(もちろん、すべてではないが)。いずれにせよ、光景を「見える」ようにすることと、「見続ける」ことが最も重要である。見えているものを文章にするわけだから、私の作品に対する「映像的」という評は、的確なのだと思う。いや、ノベライズのオリジナルの場面(アニメにはない場面)について、アニメを観ていないという人たちが「アニメのノベライズだけあって、目に浮かぶようだ」とか「アニメのシナリオをそのまま文章にしたような感じでつまらない」といった評を述べているくらいだから、実に良くも悪くも私の文章は映像的だということなのだろう。

「見る」ためには、脳の容量を膨大に必要とする。喩えて言うなら(喩えて、である。あくまで)脳の一部が、あっちの世界と繋がって映像を受信している状態である。接続領域が大きくなればなるほど、より鮮やかに詳細に見えるようになるのだが、当然ながら日常生活には支障が出てくる。炊事や洗濯、食器洗い、食料等の買い物といった家事は、半ば自動で行えるのであまり問題はない。掃除は苦手なので自動では行えず、それでいて家が汚いとストレスが溜まるので非常に問題がある。しかし今年から同居している妹Ⅱが掃除を担当してくれているので、これについてはもはや解決済みだ。困るのは家事以外で、例えば映画を観に行くだけでも、上映時間を間違える、映画館を間違える、電車に乗り間違える、道に迷うといったあらゆる間抜けな行動を取りかねない(さすがに全部いっぺんにやったことはない)。加えて、作品とは直接関わりのない事物に対する関心が、どんどん低下していく。低下というか、回路が閉じていく感じだ。

『ラ・イストリア』完成後、こういう書き方はもうやめようと、つくづく思ったのである。執筆に必要な、つまり常時「見えて」いる状態を保つには、少なくとも70%以上接続していなければならず、最終的には95%以上あっちの世界に行ったままになる。つまり5%未満で正気を維持することになるわけで、そういうのはあまり正気ではないと思う。そうなるのは最後の数日間だけだが、終わった後はしばらく抜け殻である。

 まっとうな人というのを私は尊敬していて、そういう人になりたいと切実に願っているのである。だから3月以来、まっとうに生活を送りつつ、まっとうに仕事をする人間を目指して努力してきたんだが…………無理でした。まっとうに生活しようとすると「見る」ことはできず、見えなければ書くことはできないのでした。もっと早くに諦めていれば(悟っていれば)、文字どおり無駄なあがきに時間を浪費せずに済んだと思います。どうもすみません。遅れと言っても、1ヶ月分程度だとは思いますが。

 と言いつつ、今日は70%未満なのであった。家族が休みの日に70%以上でいると、いろいろと不都合が起こるので、努めて受信レベルを下げています。どのみち、調べ物をするにはこれくらいがちょうどいいし。それに、まだまだ先が長いので(『グアルディア』と同じくらいの長さになると予想される)、気力体力を維持するためにも、今から80%以上でぶっちぎっしまわないように制御する必要があるのです。これが時間単位で受信をコントロールできるんだったら、望みどおりまっとうな生活を送れるはずなんだが。

 そういうわけで、しばらくはブログがやや間遠になると思います。とりあえず、週1回くらいに。あ、念のため今一度。「受信」「接続」「あっちの世界」等の表現は、あくまで比喩ですよ。「見える」のは本当だけど。それと私は基本的に、自分のキャラクターに感情移入はしません。小説家全般が、どの程度感情移入して書くものかは知らないんだが。私にとって「あっちの世界」の住人は、「見る」ものであって「成る」ものじゃないから。

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