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原体験

 若い時期(とりあえず思春期以前とする)に出会い、以後の嗜好や志向に多大な影響を受けた「原体験」的作品がある人は多いだろう。私にとっては『火の鳥 黎明編』(5歳)、「ナルニア国物語」最終巻『さいごの戦い』(7歳)、『機動戦士ガンダム』1作目(9歳)がそれに当たる。特に前の2作は多大な影響どころか完全にトラウマだが、これらと出会っていなかったら私は小説家になっていなかった、少なくともこういう作品を書く小説家にはなっていなかったのは確かだ。それが幸か不幸かはともかくとして。

 そうした原体験的作品の衝撃というのは、出会った時の状況、特に年齢によるところが大きい。興奮冷めやらぬまま周囲に鑑賞を薦めても、相手が同じ感動を分かち合ってくれるとは限らないし、まして成長してからそれをやると、さらにがっかりする結果になりかねない。幼い心に刻まれた衝撃は歳月を経て一層強固なものになっており、相手がそれを共有してくれることは絶対にあり得ないからだ。

 学生時代、サークルにラヴクラフトのファンの先輩がいた。なんでも子供の頃からホラーが好きで、小学校高学年でラヴクラフトの子供向けリライトを読んで以来だそうな。彼が愛するのはラヴクラフト作品だけで派生的な作品には興味がなく、また小説全般もあまり読まない。で、私に1冊(創元推理文庫)貸してくれた。いや、私は貸してくださいと頼むどころか、読んでみたいとすら言ってないんだけど。ともかく借りたその日のうちに読み終わり、翌日返した。当然ながら、先輩は感想を尋ねた。

 ところで、私は小説の感想を述べるのが非常に苦手である。映画なり漫画なり、ほかの表現形態のフィクションの感想は別に苦手でもないのに、小説に限っては言葉が出てこなくなる(だからこのブログにも、小説の感想はあまり書かない)。理由は自分でもわからないのだが、たぶん学校で読書感想文を書かされたのが最大の要因だろう。何かを強制されるのは大嫌いである。読書以外で感想文を書かされることは、幸いにしてほとんどなかったからね。

 そういうわけで、先輩にラヴクラフト作品集の感想を訊かれても、ろくに答えられなかったのであった。先輩はやや失望を見せながらも、もう1冊を押し付け……もとい貸してくれた。それも私は翌日に返却した。先輩は再び感想を尋ね、再びまともな答えが得られないと、こう言った。「おまえ、読んでへんやろ」 そんなにも速く読めるはずがない、というのだ。小説読みとしては普通の速度だと思うのだが、読書をほとんどしない先輩にとっては、ありえないほどの速読であったらしい。私が否定すると、次に私が内容をきちんと把握しているかどうか質問を始めた。すべての問いに私がきちんと答えると、今度は明らかに侮蔑を含んだ眼差しを向けてきた。内容を把握しているにもかかわらず感想の一つも出てこないとは、なんと貧しい感性か、というわけである。いや、たとえ読書感想を述べるのが苦手だとか元々ホラーが苦手だというのを差し引いても、大学生の私が11歳かそこら当時の先輩と同じだけの感動やら衝撃やらの諸々を抱くことは絶対あり得ないから。

 先輩の落胆は理解できる。「原体験」を他人と共有できたとしたら、どんなにか嬉しいことだろう、とは私も思うのである。その件で人間関係にひびが入るようなことはなかったが、先輩がラヴクラフトを薦めてくることは二度となく、私もあれ以来読んでいないし今後も読まないだろう。それにあの「尋問」によって、先輩本人よりむしろ、ラヴクラフト作品に対して思い切り心証が悪くなってしまったのは確かだ。まあ、あの時読んでおいたお蔭で、『異国伝』の「大佐の報告」で笑えたけどさ。ほかによかったと思うことは…………ないな。さらにあれ以来、小説の感想を強要されることが、ますます嫌いになってしまったのでした。

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