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ムンク展

 兵庫県立美術館。コンセプトは「装飾画家としてのムンク」。ムンクは自分の作品を連作と見做し、フリーズ(壁画というか壁面装飾)として建物を装飾する「芸術の礼拝堂」を構想していたそうだ。「叫び」「不安」「吸血鬼」といった代表的な作品が、これに含まれる。ただし絵の配置等の構想が予めあってそれに従って描いていた、というわけではなく、晩年に至るまでアトリエで繰り返し自作を並び替え、試行錯誤していた(で、結局構想は実現しなかったのである)。

 ムンクといえば頽廃的で見る者の不安を煽るような絵、という印象が強くて、装飾画家という彼自身の認識はひどく意外なのだが、当時の彼の社会的位置付けからはそう掛け離れたものではなかったようだ。事実、「生命のフリーズ」(「芸術の礼拝堂」)構想とは別に、個人住宅や劇場、大学、市庁舎など多くの建物の壁面装飾を手掛けている。それらはいずれも一点ものではなく、それぞれのテーマの下に構成されたシリーズであり、明らかにニーズに沿って画風を変えている。意外に器用な人だったんだなあ。

 画風という点から順番に見ていくと、全108点のうち前半の62点が第一章「生命のフリーズ」と題され、作品とその習作およびスケッチに大別される。スケッチには額縁のデザインや複数の作品の配置などもあり、ムンクが鑑賞される時のことまで考えて作品を描いていたことがわかる。ムンクの線画はクリムトに似ている。生と死、性といったテーマは共通しているけど、彩色画だとタッチも色使いも全然違うから、似てると思ったことはなかったんだが(でも「吸血鬼」の女性の赤毛はちょっとクリムトっぽいかも)。「吸血鬼」といえば、これは同時代の作家の命名で、ムンク自身は「文学的すぎるタイトルだ。これは単に女が男のうなじにキスしている絵に過ぎない」と述べたそうな。

 後半は依頼されて描いた壁面装飾。オスロ市庁舎の「労働者フリーズ」は、ムンクと聞いて思い浮かべるうねるような曲線や複雑な色彩とは異なり、直線的な構成で無彩色に近い。子供部屋のためのシリーズやチョコレート工場の社員食堂の壁画は明るい色彩が中心である。晩年、ナチスに「頽廃芸術」のレッテルを貼られてるし、現在でも頽廃的とか難解という評価が一般的だと思うが、実際には画風は多彩だし、当時の評価も多様だったんだろうな。壁画は持ってくるわけにもいかんから習作の展示だったんだが、ここでも彼は絵の配置を熟慮していたことが明らかだ。ムンクの作品は細部が描き込まれておらず、勢いだけで描いただけのように見えるものが多いが、実は綿密な計算の下に成るものである(完成作より緻密に描き込まれた習作も展示されていた)。

 美術館を出た後、神戸駅に移動。阪急1階にはいつも何やらいろいろオブジェが展示されてるんだが、今回は三国志の登場人物の巨大な像(高さ3mはある)が古代ギリシアの競技(槍投げとか円盤投げとか徒競争とか戦車競技とか)をやっていた。古代ギリシアの競技(=オリンピック)+三国志→北京オリンピックなのだと理解するのに数分を要する。

 東洋史専攻だが、三国時代にも『三国志演義』にも興味はない。しかし東洋史専攻なので一通りのことは知っている。像は12体で、4体ずつ衣装が紫、緑、赤に色分けされている。紫が蜀、緑が呉、赤が魏ということになってたんだが、魏に入れられてたのが曹操、司馬懿、呂布に董卓だった。入れるとしたら魏に入れとくしかないんだろうけど、曹操お気の毒。唯一の魏の人間も司馬懿だし。一緒にいた友人(アメリカ人)が「なんなんだ、このサムライは」と言うので訂正する。「いや、チャイニーズ・ウォリアーだよ。えーと、サンゴクシって知ってる?」 「あ、知ってる。サンゴクシタイセン」

 三国志大戦は知ってても、中国武将と侍の区別はつかないものなんだなあ、やっぱり……

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ジェシー・ジェームズの暗殺

 ちょっと久しぶりの鑑賞記ですが、どうもこれまでだけでも記事数が随分多くなってしまったので(ざっと数えたら50ほどあった)、カテゴリーを追加することにしました。映画も本も展覧会もコンサートも全部一つのカテゴリーに放り込むからこういうことになるのですが、だって細かく分類するのがめんどくさかったんだもん。一つの作品について原作と映画等の両方の感想書くこともあるし。鑑賞してもわざわざ感想を書くほどじゃない作品やイベントもあるから、大した数にはならないだろうとも予想してたんですがね。つまりそれだけ去年一年、感想を書くに足るものに出会えたということなのでしょう。今年もそうだといいな。

 原題は「卑怯者ロバート・フォードによるジェシー・ジェームズの暗殺」。過不足なくそのとおりの作品である。というわけでネタバレも何もないんだが、まさかこれを観て「ストーリーが予想できてしまい、つまらなかった」などと言う観客はいまい。映画に限らず、ストーリー(筋書き)は作品の一部でしかなく、より重要なのは「いかに語るか」である。映画で言えば演出、映像、音楽、役者の演技や容姿……情報量は筋書きそのものより途轍もなく多い。レンタルビデオ店などで「ああ、それオチを知ってるから観なくていい」という発言を時々耳にするが、確かにそういう人は映画など観るだけ無駄だろう。もちろんストーリーが重要ではないと言うつもりは毛頭ないが。

 ケイシー・アフレックが非常に良い。ジェシー・ジェームズを崇拝する若造ロバート・フォードの役である。憧れの対象を勝手に神格化し、実像がその期待にそぐわないと簡単に憎悪に転じる過程だけでなく、ロバート・フォードの人物造形そのものも実に巧みに演じている。単に年若いというだけでなく、末っ子で常に軽んじられてきた彼は、卑屈さと異常に高い自尊心と自己顕示欲とが同居し、頭が悪いくせに妙に計算高い。見ているほうはイライラしてきて、邪険に追い払うか、笑いものにして散々いたぶるかどちらかの行動に出てしまいかねない。まだ若いのにものすごく演技力があるなあと驚嘆してたら、ええっ、75年生まれ? 童顔な上に、「若造の演技」も巧いんだなあ。ベン・アフレックの弟だということだが、似てるのは口から下だけだな。ていうか私は兄貴のほうの個体識別ができない。こないだ『スモーキン・エース』を観た時も妹に指摘されるまで気が付かず、指摘されてからも「こんな顔だったっけ」と首を捻る有様でした(すごくしょぼいチョイ役だったしな)。

 冒頭でジェシーの兄フランクは初対面のロバートを速やかに追い払う。彼は堅実な人物で、強盗稼業が行き詰ってきたと判断するや足を洗い、その後も堅実な人生を送る。ロバートがいると苛立たされ、調子を狂わされることを早々に察し、そうなることを厭ったのだろう。対照的にジェシーはロバートを傍に置きたがり、彼の崇拝を享受すると同時にチクチクといたぶる嗜虐性を見せる。世間が作り上げた英雄「ジェシー・ジェームズ」の肥大化していく虚構と、落ちぶれつつある現実の自分とのギャップを埋めるためにロバートの憧憬を必要とする一方、その彼が「本当のジェシー」を受け入れようとしないことに怒りを募らせる。身勝手さではいい勝負だ。

 ブラッド・ピットは久々にカリスマ性のある演技だった。『テルマ&ルイーズ』(91年)や『トゥルー・ロマンス』(93年)ではチョイ役にもかかわらず非常に印象的で存在感があったのが(『トゥルー・ロマンス』なんて寝そべってTVを観てるだけ、総出演時間はせいぜい5分である)、その後は演技が大味だったり、悪くはないけど別にブラピじゃなくてもいい役が続いていた。似合う役が、実は意外に少ない役者なんだろうと思う。最大の理由は、やっぱり顔だろうな。整った顔立ちだが、眉がやや下がり気味ですぐにハの字になる。金髪だからあまり目立たないが、今回のように黒く染めると非常に目に付く。ハの字眉と厚くて柔らかそうな下唇(アンジェリーナ・ジョリーの唇も厚いが、やたら弾力がありそうだ)が相俟って柔弱な印象がある。しかしエラの張った輪郭と濃い髭(金髪なのに髭の剃り跡が青々としている)は、むしろ粗野な印象だ。だから繊細とマッチョのどちらの役も似合わない。両方を備えた役が一番相応しいんだろうが、なまじスターになっただけに、そういう役があまり回ってこなかったんだろうな。

 そういうわけで、カリスマはあるんだがいまいち大物になりきれない無法者ジェシー・ジェームズという役は、素晴らしくブラッド・ピットに似合っている。荒涼とした大平原にぽつんと佇んでいたり、揺るやかな丘を馬で下ってくるのをロングショットで捉えた画が多かったんだが、改めてスタイルと姿勢のよさに感心する。だからロングショットや後姿のシルエットは非常にかっこいいんだが、顔を見るとハの字眉である。それもまた、虚像と現実とのギャップが大きいジェシー・ジェームズという人物に相応しく思えるんだけど、どうでしょうか。

 映像が美しく、素晴らしかった。灰色がかった色調で映し出される荒涼とした自然、侘しい町や農場といった風景。歪んだガラス越しの映像が印象的だ。華々しい英雄譚としょぼい現実のギャップは全編にわたって演出されていて、登場人物がジェシー・ジェームズも含めて全員頭が悪そうなのもその一環だろう。単に無教養なだけでなく、どんな行動をすればどんな結果になるか想像できるだけの頭もない。犯罪も綿密な計画や知略を必要としない行き当たりばったりなものばかりだ。そういう連中の一人、ロバートの兄チャーリーを演じていたのがサム・ロックウェル。『キャメロット・ガーデンの少女』と『グリーン・マイル』しか観たことなかったんだが、やっぱり『キャメロット・ガーデン』の美青年役は最大瞬間風速だったんだなあ。

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魍魎の匣

 京極夏彦、講談社刊。初読が97年で、その後2回ほど再読している。以下、シリーズ全般ネタバレ注意。

 このシリーズは『陰摩羅鬼の瑕』までしか読んでないんだが、二作目の本作が最も優れている、と思う。薀蓄は膨大だが、物語に奉仕する機能をギリギリで逸脱していない。何より時代設定を最も活かせている。言い換えると、江戸川乱歩風なんだな。バラバラ殺人、旧日本軍の技術、謎の施設、マッドサイエンティスト、引退した女優、白い手袋の怪人と、おどろおどろしさはシリーズ随一。ただし乱歩だったら少女じゃなくて少年なんだろうけど。

 トリックや謎解きに関心が薄いので、昭和二十年代、巨大な建物まるまる一個が生命維持装置、と来るとSFとして読んでしまう(スチームパンク、ではないよな。なんて言うんだ、こういうの)。そしてこの作品はその設定が(SFとして)巧く活かされており、SFということになっている『ルー・ガルー』よりずっとSFらしい。ミステリとしてどうなのかは知らん。しかしシリーズのほかの作品に比べれば、作中当時より後代の知見を用いる度合いは少ないんじゃなかろうか。使用される知見にしても、それを知っている読者なら謎解きされるまでもなく気づくし、知らない読者なら「そんな都合のいい現象があるんだろうか」と思うだろうしなあ。『狂骨の夢』の先天性相貌失認なんて、その最たるものだろう。知っているとかいないとか以前の問題の『姑獲鳥の夏』については90年代末、東京の大型書店で店員二人(若い女性)が「見てるのに見えてないなんて、そんなことあるわけないじゃんねえ」と大声で話しているのを目撃したことがある。書店員だろうとなかろうと、ミステリのネタバレをその本が並ぶ書棚の前でするのはマナー違反ですね。

 時代設定を活かせているという点ではもう一つ、少女たちの存在がある。擬似同性愛的な友情を含め、少女たちが無垢で可憐で美しいもの、という幻想を成立させられるのは、昭和三十年代以前じゃないと無理だろう。作中でもその幻想は破綻してしまうわけだが、それでもなお、或いはそれゆえに彼女たちは悲しいまでに美しい。

 なんで今頃『魍魎の匣』かというと、映画を観たから、じゃなくてコミックを読んだから。コミックはまだ1巻しか出てないんで、原作のほうの「思い出し鑑賞記」になりました。志水アキの作品を読むのは初めてだけど、構成力のある人だなあと感心する。まあ、1巻では京極堂は最後の一コマに登場するだけなんで、怒涛の薀蓄をどう処理するかを見るまでは評価は保留といったところですが。絵柄もアナクロな感じでいいんだが、ただ頼子の表現がなあ。あれじゃほとんどホラーだよ(伊藤潤二……?)。小説での頼子の描写はある意味叙述トリックになってるのに、コミックではストレートすぎるっていうか、あれじゃ「ネタバレ」になってないか?

 映画は観るとしたらDVDになるんじゃないかな。『姑獲鳥の夏』はDVD鑑賞だが、前半はいろいろ努力したけど、後半諦めましたという感じだった。実相時昭雄の映像も、ファンにとっては中途半端だろうし、彼を知らない人にとっては「何この変な表現」でしかなかったろうし。総じて予想以上でも予想以下でもなかったんだが、妙に印象に残ったのが「眩暈坂」。コミック版も映画に準拠してるよな。小説で受けた印象より、えらく不整地で道幅も狭い。傾斜も急だし。今手許にないから比較できないんだが。もっとも私が抱く眩暈坂のイメージは、京都の坂道と被っている。いや、京都には何年も住んでたから、何度も道に迷っていて、特に東山の裾の狭くて(しかし映画の眩暈坂よりは広い)緩やかな坂道で、両側は土塀で、目的地に近いはずなのにいつまで経っても到達できない感覚が、すごく「眩暈」に似ていてね。

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笑いの構造

 四歳になる姪が「しゃーっ」と威嚇してくるので、「しゃーっ」と威嚇し返したら、きゃあきゃあ笑い転げて「もっかいやって」と言う。「しゃーっ」 「もっかいやって」 「しゃーっ」……三回目で大泣きされてしまいました。別に前の二回より怖くやったわけじゃないんだが。ママ(妹Ⅰ)の後ろに隠れて、私が宥めようと近寄るとさらに泣く。脅かされてドキドキするのが「怖さ」と紙一重で「楽しさ」になってたのが、三回目で「怖さ」のほうへ針が振り切れてしまったんだね。

 笑いは緊張を緩和するための反応だという説があるけど、姪を観察していると、その説は正しいんだろうなあ、とつくづく思う。びっくりした時、赤ちゃんは泣くけど、もう少し大きくなると笑うようにもなる。前者を負の反応、後者を正の反応とすると、負の反応のほうが先行するということだ。姪の場合、二歳くらいまでだと叱られたり宥められたりすると泣くより笑うことのほうが多かった。相手の言葉じゃなくて、いつもと違う態度に緊張し、それを緩和するために笑うんだろう。緊張がさらに大きくなり、笑いでは緩和できなくなると泣く。

 緊張を高められるような状況に対しては、まず反応(泣きか笑いか)がまずあって、それに情動が伴う(泣きなら恐怖や怒り、笑いなら楽しさや快感)のはある程度、生後一年とかそのくらいまで成長してからじゃなかろうか。もっと大きな子供や成人でも、緊張する状況に於いて負の反応が出れば恐怖や怒りを感じ、正の反応が出れば楽しいおもしろいと感じる。年齢が高くなると少々怖くても泣かなくなるのは、そこまで緊張が高くならないとか、泣くのはよくないことだと社会的に抑制されてるとかだからだろう。怖いから泣く(或いはぞっとする)とか、楽しいから笑うんじゃなくて、ぞっとしたから怖くなる、笑ったから楽しくなる、ということなのかもしれない。別におかしくないのに緊張のあまり笑ってしまった経験は、誰にでもあるんじゃないだろうか。

 緊張を緩和するために笑うだけでなく、緊張が緩和されたから笑うこともある。いわゆるお笑いも、この二つに分けることができる。意外なオチというのはカタルシスを生じる、ある意味緊張が緩和されたといえるから後者。パフォーマンスや下ネタは前者だな。姪がいよいよ、排泄物関係の言葉を叫んではげらげら笑う、という年頃に突入してしまったのでした。まあつまり、それが「言ってはいけないこと」だと理解できる年齢になったということなんだけど。禁忌に抵触することで緊張を生じさせる、という点では風刺と下ネタは共通してるかもしれない。

 私が姪の相手をする時は、積極的に遊んであげることは少なくて、一人遊びを観察しているか、提案や要求にいいなりに付き合ってるだけなんだが、妹Ⅰには「ほかの誰と遊んでいる時よりよく笑う」としばしば言われる。なぜそうなのかは解らないが、もしかして緊張させちゃっているんだろうか。なんにせよ、懐いてくれるのはありがたいんだが。

 

 

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盆も正月もあるものか

 ……と言いたいところなんですが、盆や正月は強制的に家族団欒期間となります。昨夜はとうとうストレスで沈没しました。「書くストレス」と「書けないストレス」では、前者はスポ根的というかマゾヒスティックな悦びを伴うのに対して、後者はひたすらつらいだけです。ま、こういう数日間が年に数回あるから、書ける時のありがたみを確認できるとも言えますね。よかった探し。

 この状況下でできる限り、仕事をしようとあがく。日中は資料を読んで、夜中に書く。今まで書いた分をプリントアウトして、喫茶店で推敲したり。しかし認知科学関係の本って、データに基づいた考察というより、単なる推論というかエッセイでしかないのが多いよなあ。年明け早々、二冊もそんなのに当たっちまった。

 そんなこんなですが、相変わらず姪は可愛い。行動や発言が非常に興味深いので、一緒にいると、遊んであげるというよりむしろ「観察者」の立場になってしまうのですが、それでも懐いてくれるのはありがたいことです。とりあえず、自分が「関心を持たれている」ことを解っているからなんだろうなあ。

「来年は5歳になるよ。そしたら、同じ大きさになるよ」 「えっ、私と同じ大きさになるの」 「そうだよ、比べてごらん」 というわけで背比べをすることになる。私は160センチ強、姪は100センチほどである。「ほらね」だって。姪の年頃から、さらに数年あとまで、自分のことをすごく大きくて不恰好だと思い込んでいたことを思い出す。だって親戚をはじめ周りの大人が、「まあ、大きくなったわねー」とか「重くなったなあ」とか言うから。実際には、クラスでも平均より少し低いくらいの身長だったし、太ってたわけでもなかったんだけどなあ。

 さて、あと2日の試練だ。

 

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