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魍魎の匣

 京極夏彦、講談社刊。初読が97年で、その後2回ほど再読している。以下、シリーズ全般ネタバレ注意。

 このシリーズは『陰摩羅鬼の瑕』までしか読んでないんだが、二作目の本作が最も優れている、と思う。薀蓄は膨大だが、物語に奉仕する機能をギリギリで逸脱していない。何より時代設定を最も活かせている。言い換えると、江戸川乱歩風なんだな。バラバラ殺人、旧日本軍の技術、謎の施設、マッドサイエンティスト、引退した女優、白い手袋の怪人と、おどろおどろしさはシリーズ随一。ただし乱歩だったら少女じゃなくて少年なんだろうけど。

 トリックや謎解きに関心が薄いので、昭和二十年代、巨大な建物まるまる一個が生命維持装置、と来るとSFとして読んでしまう(スチームパンク、ではないよな。なんて言うんだ、こういうの)。そしてこの作品はその設定が(SFとして)巧く活かされており、SFということになっている『ルー・ガルー』よりずっとSFらしい。ミステリとしてどうなのかは知らん。しかしシリーズのほかの作品に比べれば、作中当時より後代の知見を用いる度合いは少ないんじゃなかろうか。使用される知見にしても、それを知っている読者なら謎解きされるまでもなく気づくし、知らない読者なら「そんな都合のいい現象があるんだろうか」と思うだろうしなあ。『狂骨の夢』の先天性相貌失認なんて、その最たるものだろう。知っているとかいないとか以前の問題の『姑獲鳥の夏』については90年代末、東京の大型書店で店員二人(若い女性)が「見てるのに見えてないなんて、そんなことあるわけないじゃんねえ」と大声で話しているのを目撃したことがある。書店員だろうとなかろうと、ミステリのネタバレをその本が並ぶ書棚の前でするのはマナー違反ですね。

 時代設定を活かせているという点ではもう一つ、少女たちの存在がある。擬似同性愛的な友情を含め、少女たちが無垢で可憐で美しいもの、という幻想を成立させられるのは、昭和三十年代以前じゃないと無理だろう。作中でもその幻想は破綻してしまうわけだが、それでもなお、或いはそれゆえに彼女たちは悲しいまでに美しい。

 なんで今頃『魍魎の匣』かというと、映画を観たから、じゃなくてコミックを読んだから。コミックはまだ1巻しか出てないんで、原作のほうの「思い出し鑑賞記」になりました。志水アキの作品を読むのは初めてだけど、構成力のある人だなあと感心する。まあ、1巻では京極堂は最後の一コマに登場するだけなんで、怒涛の薀蓄をどう処理するかを見るまでは評価は保留といったところですが。絵柄もアナクロな感じでいいんだが、ただ頼子の表現がなあ。あれじゃほとんどホラーだよ(伊藤潤二……?)。小説での頼子の描写はある意味叙述トリックになってるのに、コミックではストレートすぎるっていうか、あれじゃ「ネタバレ」になってないか?

 映画は観るとしたらDVDになるんじゃないかな。『姑獲鳥の夏』はDVD鑑賞だが、前半はいろいろ努力したけど、後半諦めましたという感じだった。実相時昭雄の映像も、ファンにとっては中途半端だろうし、彼を知らない人にとっては「何この変な表現」でしかなかったろうし。総じて予想以上でも予想以下でもなかったんだが、妙に印象に残ったのが「眩暈坂」。コミック版も映画に準拠してるよな。小説で受けた印象より、えらく不整地で道幅も狭い。傾斜も急だし。今手許にないから比較できないんだが。もっとも私が抱く眩暈坂のイメージは、京都の坂道と被っている。いや、京都には何年も住んでたから、何度も道に迷っていて、特に東山の裾の狭くて(しかし映画の眩暈坂よりは広い)緩やかな坂道で、両側は土塀で、目的地に近いはずなのにいつまで経っても到達できない感覚が、すごく「眩暈」に似ていてね。

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