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火の鳥・黎明編

 風邪は治ったけど調子が悪いです。ここ2、3ヶ月の運動不足も祟ってるんだろうな。というわけで、観に行くつもりだったあの映画もこの映画も観てないので思い出し。

 5歳の夏から秋にかけての3ヶ月間、私は妹Ⅰとともに母に連れられ、親戚の家を渡り歩いていた。母は妊娠中で2歳の妹Ⅰの面倒で手一杯だし、夏休みが終われば齢の近い親戚の子らは幼稚園や学校へ行ってしまうしで、必然的に私はその期間の大半を一人で本を読んで過ごすことになった。母は両親をすでに亡くしている上に兄弟もいない。一番長く滞在することになったのは、本家の屋敷だった。江戸時代に建てられたというその屋敷は、広い上に建て増しと改築を重ねて迷路のような様相を呈しており、当時の私には非常に怖い場所だった。その一角に、縁側付きの書斎があった。書斎自体は昼でも薄暗くて怖いし、私が読めるような本もなかったので立ち入らなかったが、日当たりがよくてソファも置いてある縁側ではよく読書をした。黙読ができるようになったというか、自分が黙読ができることに気づいたのはこの場所でだ。

 ある日、縁側のテーブルに1冊の漫画が置かれていた。当時、私は漫画というものはもっと大きな子供が読むものだと思っていたので、手を出さずにいたのだが、それはそのまま何日もの間、放置されていた。で、つい手に取って最後まで読んでしまったわけである。

『黎明編』は、私の人生を決定付けた1冊だ。という言い方はアレだが、とにかく強烈なトラウマを植え付けられたのは確かである。その2年後に読んだ『ナルニア』最終巻でも相当な衝撃(悪い意味の)を受けたが、比ではない。私は死を恐れる子供になった。死だけではなく、生きる上での苦しみも恐れるようになった。妹Ⅱが生まれても、自分の家に帰っても、そのことばかり考えているようになった。母と一緒に美容院に行けば、そこで売られているアクセサリーを見て、「ああ、こういうものでおしゃれをしたって、いずれみんな齢を取って死んでしまうんだなあ」とため息をつく……嫌な5歳児だな。

 まあつまり、北門から出る直前のシッダールタみたいな状態だったのだが、どういうわけかかなり早い段階から、思想(宗教を含む)は救いにならない、という結論に達していた。性格だろうな。科学についても同様で、どれだけ科学が進歩しても苦しみを完全に取り除くことが可能になるとは思えなかった。そうなると後はひたすら恐れ続けるしかないわけで、それが何年も続いた。ちなみにシリーズのほかの作品(『未来編』~『復活編』あたりまで)は7、8歳の頃、図書館で読んでいる。

 結局、恐れ続けるのに疲れてしまって10歳くらいまでには思考を封印したのだが、その間に一つ身についた習性がある。体験はすべて、直接的なものだろうが間接的なものだろうが、或いは自分のことだろうが他人のことだろうが、客観的な叙述でもって反応してしまうのだ。叙述といっても頭の中でのことで、換言すると思考の言語化か。客観的というのはもちろん、客観性を装うに過ぎないんだが、要するに何事に対しても観察者の態度を取ってしまうのである。体験が恐怖と結び付くのを避けようとしているうちに、こういう反応が身についてしまったのだった。

  というわけで、ある意味自衛策ではあるんだが、困ったことに何事に対しても自動的に行われてしまうのである。怖い悲しいといった負の体験だけでなく、嬉しい楽しいという正の体験まで「客観的な叙述」が間に挟まる。それだけならもう慣れてるから別にいいんだが、偶に人から「冷めてる」とか「他人事だと思ってるだろう」と批判されることがある。他人事も何も、自分自身のことでさえ、それ以外の反応ができないのだから困ったものである。冷めてるからって、冷静で適切な対応ができるというわけでもないしな。むしろ手を拱いてるだけで終わることが多々ある。駄目じゃん。

 自分自身の身の処し方に於いても他人との関係に於いても、利より害のほうが多いこの反応だが、小説を書くという行為に於いてだけはかなり役に立ってるんじゃないかと思う。或いは、この「(擬似)客観性」が私の文体の基本になっているというか。だから作者と語り手の距離が曖昧な小説って苦手だしな。

 それもこれもみんな、『火の鳥』のお蔭。

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一般論ですよ

 松山で風邪を拾ってきてしまいました。てゆうか拾ったのは妹Ⅰで、それがうつった。風邪らしい風邪をひいたのは五、六年ぶりです。それだけに薬がよく効いて、寝込んだのは二日間だけで済みましたが、風邪の症状というのがどんなものだったかすっかり忘れていたので、発熱に先立って全身が激しく痛み始めた時には、いったい何事かと思いましたよ。

 大学の論文提出や文化系サークルの作品発表などの際、「手抜き申告」をする人に幾度も遭遇してきました。「もうこんなん全然手抜き。○日(或いは○時間)でやった」みたいな。いや、こういう人は一回だけじゃなくて毎回のように言うものなんですが。弁解するのではなく、手抜きだ、やっつけだ、と堂々と申告してるわけです。本気を出せばもっとすごいものができると言いたいんでしょうか。言いたいんでしょうね。或いは「手抜きなのにこれだけのものができるなんてすごい」と褒められたいんでしょうか。褒められたいんでしょうね。少なくとも私は褒めてやらんけどな。

 ま、学業も趣味の活動も本人の意思でやってるわけですから、手抜きをしようがそれを自慢の種にしようが本人の自由です。そんなんで楽しいのか、と思うのは余計なお世話というものでしょう。共同制作の場合、手抜きという行為自体が迷惑な上に、自慢の種にされた日には腹も立ちますが、やはり当人同士で解決すべき問題なのでしょう。デビューの三、四年前、小説講座なんてものに通ったこともありますが(某大学のんとは別)、そこでも「手抜き自慢」に遭遇しました。受講料を払ってまで御苦労様です。巧くなりたくないのかな、と思うのも余計なお世話。

 しかし仕事に於いてまで「手抜き自慢」をするのは、信用問題にかかわるし、倫理的にも問題があるでしょう。やっつけ仕事が褒められたことでないのはもちろんですが、できあがったものがやっつけに見えない仕上がりだったら、黙っていればいいのです。わざわざ申告して、言外に「本気を出せばもっとすごいの」と匂わすのは、依頼主にも購買者にも無礼極まりないことです。だからって、どれだけ苦労したか、どれだけ努力したかを(嘘だろうと本当だろうと)申告すべき、とは思いませんけどね。それだって自慢の一種ではあるし。ただ手抜き自慢と苦労自慢とでは、前者のほうが無礼の度合いが大きいとは思います。あ、そういえば「努力したけど実力を出せなかった」自慢というパターンもあるなあ。実力はもっとすごい、って言いたいのは一緒という。でも実力を出せないのも、実力のうちだと思いますよ。

 結局これも、当事者(本人と制作から販売に関わるすべての人、および購買者)同士の問題、と言われればそれまでなんですけどね。でももし仮に(あくまで仮に、ですが)私が依頼した仕事を、(実際に手抜きをされるのはもちろん)「本気を出せばもっとすごいの」という自慢のダシにされたら……絶対ゆるさん。

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誕生日

 今月の10日は誕生日の上に三連休と重なったので、誕生日祝いの名目で家族で松山に旅行に行ってきたのでした。今の時期は何もしないでほしかったなあ……。でも家族旅行がイベントじゃなくて義務と化したのは遥か昔の思春期の頃からだし、姪に一ヶ月以上会わないでいるとまたリセットされてまうし。書かない期間が長ければ長いほど再び書き始めるのが困難になるのですが、二、三日くらいなら大丈夫です。大丈夫。

 姪は喋るし歌うし踊るし、読み書きまでできるようになりつつありますが、人を叩いたら痛がるということが、明らかにまだ理解できていない。そしてママに叱られても叱られても、鼻をほじったり袖で鼻水や食べこぼしを拭いたりするのだが、時にはママの手を摑んでその袖で自分の鼻水を拭いたり、その指で自分の鼻をほじったりする。無意識でやってるらしいので、自分と母親の分離がまだできていないのだろう。観察は続く。

『SFが読みたい!2008年版』、『ラ・イストリア』はランク外でしたが、SFマガジン読者アンケートでは10位にランクインしました。ありがとうございます、嬉しいです。

 

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スウィーニー・トッド

 暗い色調の映画は苦手なんだけど、ティム・バートンのはそうでもない。閉塞感が少ないのと、色のバランスがいいからかな。それにバートンが画面を明るくカラフルにするのは、『ビッグ・フィッシュ』のように美しい場合でも、『シザー・ハンズ』や『マーズ・アタック』のように悪意に満ちた場合でも、表面的であることの描写に限られるからなあ。

 シリアル・キラーを讃美したり擁護したりする思想は、フィクションであっても一切受け付けない。こらえ性のなさを美学やらトラウマやらで正当化されると、ものすごくげんなりする。一言、楽しいから、で済ませろよ。もしも欲求の充足と生計手段の双方を兼ねる連続殺人というものがあれば、少なくともその創意工夫は認めてあげてもいいけどね。

 元々の都市伝説は、そういう話だったらしい。理髪師が客の喉を掻き切っては懐から盗み、愛人が死体をパイにして売る。単なるタブロイドネタだったのが、「社会への復讐」と「個人への復讐」が加わって、なんだがちぐはぐなものになってしまった。生計という身も蓋もない目的のため殺人を繰り返す残忍で狡猾な理髪師と、それを追うちょっと間抜けな警官、という構図のほうがおもしろいと思うんだが、とにかく原作があることだし、その構図だと『スリーピー・ホロウ』と被るし、やっぱり陰惨さを出すなら救いのない復讐劇が最適だし、とも思うのであった。

 そういうわけで、復讐を果たせなかったトッドが連続殺人鬼へと変貌する過程はかなり無理やりっぽいんだが、二階の理髪店から地下の厨房までが一個の「人肉パイ工場」として稼動していくのは楽しい。チョコレート工場には及ばないけどね(さすがに製造工程を詳細に描くわけにはいかんしな)。そして上の空のトッドにラベット夫人が熱心に夢を語る場面は、相変わらず悪意が冴え渡っている。

 ミュージカル映画というのは、観客の情動を煽ってどっぷり感情移入させるのではなく、距離を置いて鑑賞させることを目指すべきだと思うし、観客もそう心得るべきだろう。作り手や観客が、どっぷり感情移入を目指せば、ミュージカルという表現形態との間に齟齬を来たすことになる。「いきなり歌ったり踊ったりして不自然だからミュージカルは苦手」とかさ。『スウィーニー・トッド』はミュージカルだからこそ、共感するには無理のあるトッドやラベット夫人を滑稽で憐れだと思えるし、本来は正視に堪えない人肉パイ工場も素敵で楽しい。いや、舞台版ではどうなのか知らないんだけど。

 トッドの娘のジェイン・ワイズナーは、なんだか『スリーピー・ホロウ』の時のクリスティーナ・リッチみたいだな。金髪で顔が小さくて逆三角形で、眉も金髪だから薄くて目がでかくて、小柄で痩せてるけど胸がでかい。ヘレナ・ボナム・カーターも金髪以外は条件に当て嵌まるから(『ビッグ・フィッシュ』の時は金髪だったし)、こういうタイプがバートンの好みなんだろうな。

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パラダイス・ナウ

 自爆攻撃の実行者に選ばれた二人のパレスチナ青年の物語。

 極言すると自爆攻撃という行為(とその実行者)には悪いイメージと良いイメージがあって、前者ならまともな感覚では理解できない狂信、後者なら崇高な自己犠牲ということになる。どちらのイメージにせよ共通しているのは、実行者は自爆を手段と見做して揺ぎ無い、ということである。決断から実行までたとえ迷いがあっても、それは恐怖や罪悪感、或いは本当にこの遣り方でいいのかという疑問によるものであり、自爆はなんらかの目的を果たすための手段という大前提は一貫している、と私たちは考える。

 しかし何か困難な手段(自爆、特攻はその最たるものだ)を遂行しようとする人は、次第にその手段自体が目的になってしまうのではないだろうか。親友同士のサイードとハーレドは自爆攻撃者となることを承諾するが、そこから一直線に決行へと突き進むのではない。途中、頭が冷える瞬間が何度でも訪れる。まずハーレドがカメラの前で小銃を片手に声明文を読み上げる。両親へ別れの言葉も告げ、感極まったところで撮影係が言う。「ごめん、撮れてなかった」。もう一度重い銃を掲げてポーズを付け、声明文を最初から読み始めたところで、「ごめん、また動いてない」。撮影を見守っていた同志たちは、飽きてきてピタサンドを食べ始める。テルアビブへ出稼ぎに行く、というハーレドの言葉を信じる母親が作ってくれた弁当である。冷静にもなろうというものだ。

 いよいよ封鎖線を越える段階で、来ないはずのパトロールがやってきて、二人は逃げ戻ることになる。ハーレドは同志たちと合流できるが、サイードははぐれてしまう。案内人はイスラエル人で、状況からすると二人を売る気だったようである。明らかに作戦の不備だが、組織の幹部は「作戦は綿密だった。おまえたちの落ち度だ」とハーレドを責め、次いでサイードを裏切り者だと決め付ける。ハーレドは自分にサイードを探させてくれ、と頼み込み、承諾されるが尾行が付けられる。

 ハーレドが必死に探し回る間、サイードは一人で封鎖線を越えてテルアビブへ向かうバスに乗りかけるところまで行くが、乗客たちの中に幼い子供の姿を見て躊躇し、パレスチナへ戻る。組織のアジトに戻るが、そこはすでにもぬけの空である。ハーレドの家や共通の知り合いの居場所などへ行ってみるが、ことごとく擦れ違う。

 その過程で、彼らが本当は自爆が「世界を変える手段」だなどとは信じていないことが明らかになる。一見単純に見えるハーレドが天国について何度も言及していたのは、信じているからではなく信じたかったからに過ぎない。ハーレドの父はイスラエル兵によって片脚を切り落とされており、サイードの父は家族を養うため密告者となって処刑されている。生活は貧しく、まともな職もなく、常に統制され、希望はどこにも見出せない。つまりは彼らにとって自爆攻撃は報復であると同時に、「死んだほうがマシ」な人生から脱け出すための手段だったとも言える。

 無論、到底肯定できない考えだが、そこまで追い詰められてしまうほどに彼らの人生には希望がない。殉教した英雄の娘だがヨーロッパで育ったスーハは「ほかにも道はあるはずだ」と言う。確かに道はあるが、閉ざされた道でしかないのなら、頭の中の天国以上に絵空事だ。

 自爆攻撃を決断する以前から袋小路に追い込まれていた彼らだが、一度失敗して頭が冷えたことで、却って自分自身を追い込んでいくことになる。遣り遂げられなかったら恥だとか、もうほかに道はないとか、自爆すること自体が目的と化していく。自爆は組織からの命令ではなく依頼だというのも、逃げ場を失わせる一因だろう。強制ではなく自分の意思なのだから、余計に面子の問題になってくる。視野狭窄に陥ってはいるものの、狂信とはほど遠い、自爆という行為を除けばむしろ日常的な感覚だ。

 髭を生やし、よれよれの服装をした二人は、イスラエルに侵入するにあたって髭を剃り、髪を刈り、黒いスーツに身を包む。事情を知らない知人が「入植者(イスラエル人)みたいだな」と評するシーンもあって偽装が目的だということが判るが、それだけならもっとカジュアルな服装で充分だ。監督の意図は、二人を「いかにも非合理な暴力を振るいそうな輩」に見えないようにすることだったのだろうと思う。いかにも非合理な暴力を振るいそうな輩、というのは髭を生やして民族衣装を着た原理主義者や、みすぼらしい姿の難民、或いはだらしない服装の若者といったところだ。スーツ姿の二人は欧米人の若者といっても通りそうなだけでなく、「文明的」で洗練されているようにさえ見える。実際、彼らはイスラム教徒だから、難民だから、自爆テロの実行者になるのではない。どんな人間も、希望のない状況に追い込まれれば、彼らと同じ選択をしてしまいかねないのだろう。

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マリー・アントワネット

 キルスティン・ダンストがマリー・アントワネットだという問題については、だってソフィア・コッポラだしね、で済むと思う。最初から史劇ではなく、史劇ごっこ、なんちゃって史劇として作っているのであり、真面目な史劇だと期待した真面目な人が失望したり憤ったりしないための予防線として、キルスティン・ダンストは機能している。

 というわけで特に期待もせずに観始めたんだが、思いのほかよくできていた。前半は。ごっこ遊びだろうがガーリーだろうが、徹底して作り込めばひとかどの作品として昇華されるものである、と言ったら言い過ぎか。マリー・アントワネットを中心に、画面いっぱいに溢れるドレス、アクセサリー、小物、お菓子、室内装飾、ペットの小犬といった無数のアイテムの映像は非常に丹念だし、宮廷儀礼の馬鹿馬鹿しさや貴族たちの俗物ぶりの描写も秀逸だ。ごっこ遊びであるがゆえに、対象から距離を置くことができていると言えるだろう。

 しかし「ポップでキュート」を標榜する割りには、音楽がなあ。イントロのポップスは悪くない。その後しばらくはバロックが続き、これも悪くない。で、四分の一ほど進んだところから、ところどころポップスが挿入されるようになるんだが、バロック音楽との切り替えが唐突で違和感がある。もう少し工夫はできなかったんだろうか。

 前述のように、こまごまとした物が画面いっぱいに溢れている、といった映像はとてもいいんだが、広い場所の映像になると途端に退屈になる。屋外はもちろん、屋内でも例えば巨大な広間とかでは同様だ。広い場所が苦手なのは映像だけじゃなくて演出や脚本にまで共通していて、前半だけでも例えばパリの仮面舞踏会に行ってもパリの街並がまったく描かれなかったりするが、中盤以降はその欠点がもろに露呈してくる。マリー・アントワネットは相変わらず遊びほうけているんだが、室内だけの映像ではさすがに飽きが来ると思ったのか、宮殿の庭園や周辺での野遊びのシーンが多くなる。というわけで弛緩した退屈な映像がダラダラと続く。またドレスや小物も地味になってくる。流行の変化(または財政難)のためなのか、それともマリー・アントワネットの人生に影が差してきたことの演出なのかは判らないんだが、どちらにせよこれで映像の見栄えがますます悪くなっている。

 後半のめぼしいエピソードはフェルゼンとの情事だけで、アメリカへの派兵も財政破綻もバスティーユ襲撃もすべて台詞のみで映像はまったくない。エピソードとして折り込み且つ映像化する能力がなかったのか、宮殿や劇場以外の場所は「ポップでキュート」に反するとでも思ったのか。首飾り事件への言及すらなかったことからすると、やっぱり前者なんじゃなかろうか。ストーリーが盛り上がらなくてはいけないということはないけど、めりはりは必要だよね。貴族たちの俗物ぶりを描けたのなら、ブルジョアや下層民の俗物ぶりを描けてもよさそうなものなのにな。

 そんなこんなで、前半は観る価値のある映画でした。ところで『スパイダーマン2』までは姿勢が悪かったキルスティン・ダンストが3では姿勢がよくなっていたのは、間にこれが入ったからかな。コルセットをずっと着けてれば、いやでも姿勢はよくなるよね。

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紆余曲折

 年末から十日間にわたり、家族サービスのため執筆中断、1月8日から執筆再開して結構調子よく書き進んだと思ったら、一週間後にいきなり「接続」が切れて書けなくなってしまいました。二週間掛かってようやく持ち直しましたが、その間、何をしてたかというと、資料を読んだり、今まで書いた分を推敲したり、設定を練り直したりしていました。で、その結果、大幅にリライトする必要が出てきてしまったのでした。400字詰め換算で150枚分くらい。うげあ。

 いや、前半部のリライトはいつものことです。事前にあまり設定を詰めずに書き始め、書きながらいろいろ決めていくからです。書いていくうちに見えてくるものが多いからな。というわけで、どうせ変更点はまだまだ出てくるだろうから、リライトは後回しにして先に進みます。頑張れ頑張れ。

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ペルセポリス

 1969年生まれのイラン人女性がその半生を綴るのに、なぜグラフィック・ノベルという手法を選んだのか、なぜ実写ではなくアニメ化、それもモノクロのままにしたのか疑問だったんだが、実際に鑑賞して、エキゾティシズムの排除と普遍性の獲得が目的だったんだな、と納得する。シンプルであるということは、想像の余地があるということだ。ユーモアも普遍性の要因の一つだろう。自伝の映画化は多いが、自分をここまで戯画化できているのは珍しい。

 上映時間は1時間半余りしかないのに、大量の情報が解り易く処理されている。イランについてまったく知識のない人でも、問題なく鑑賞できるだろう。主人公(作者)が、祖父はパーレヴィ朝の前のカジャール朝の王子にして共産主義者、おじは反政府主義者で革命後に処刑、というイランの近現代史を凝縮したような人であることも大きいんだろうけど。いや、すごい家系だな。

 革命後のイランで『ゴジラ』が上映されてたってのは、結構意外だった。どういう基準で許可されたんだろう。80年代後半、帰国したマルジが自宅で怪しげな「日本風」ドラマを観ている。江戸時代風の着物と髪型の女が二人、年配のほうが若いほうに「髪結いなんぞに息子はやれないよ。出てお行き!」とか言ってるんだが、これたぶん『おしん』だ。「全アジアが泣いた」『おしん』だけど、イランに在っては検閲で削除と修正だらけで、話の辻褄がほとんど合わなくなってる有様だったらしい。しかし見えないものに対して妄想たくましくするのが人間というもので、「『おしん』は実はポルノだ」「原題は『貧乏と売春』」「ドバイでノーカット版を観た友人によると、あんなシーンやこんなシーンが」等々、妄想が妄想を呼び、デマが飛び交い、半ば都市伝説状態だったそうですよ。

 性的幻想を投影しているという点を含めて、イランに於ける『おしん』像は紛れもなくオリエンタリズムである(当時のイランでは「ジャポニズム」と呼べるほどの日本像は確立されていなかっただろう。『おしん』によって確立されたかもしらんが)。マルジャン・サトラピがこのオリエンタリズムを共有していたか否かはともかく、彼女が描いた『おしん』は性的幻想込みのジャポニズム(しかもフランス風)そのものである。キモノや髪型がそれなりに正確(ほかの外国人が描くであろうものに比べれば)という辺りが、「フランス風」だよね。

 欧米人による先入観にうんざりし続けてきた彼女も、自分がよく知らない異文化については、ばっちり先入観に囚われているのがおもしろい。
 それが悪いとか、『ペルセポリス』の価値を損なうというつもりはない。彼女のような背景を持つ人が「異文化理解の旗手」でなければならない必要はないし、図らずも「人間ってそういうものだよね」という事実を表現していることで、むしろ作品の多義性が増している、と思う。

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ゾディアック

 デヴィッド・フィンチャー監督作品全般ネタバレ注意。ゾディアック殺人事件を初めて知ったのは、97年の神戸連続児童殺傷事件の報道によってだ。類似が指摘されてたんだが、その無茶なこじつけぶりに、却って記憶に残ったのである。

 未解決の事件である。監督が描きたかったのは、フィクションのようにきれいに解決しない現実のもどかしさ、そして事件に魅入られて人生を狂わされた人々、といったものであろう。フィクションならこれだけ状況証拠が揃えば、そのまま逮捕、有罪確定になるだろうにね。いや、現実でそんなんじゃ困るけどさ。劇中、刑事が『ダーティーハリー』(事件をモデルにしている)を観て憮然とするシーンがある。しかしその一方で前半、事件の猟奇性や謎解きのサスペンスもクローズアップしているので、どうも焦点がぼやけている。予告では猟奇性やサスペンス要素を煽っていたし、そういう方向を期待した観客は肩透かしを食らうのではないだろうか。

 また、「事件自体ではなく、その周辺」の描き方にしても焦点を当てられているのは、犯人から手紙を送りつけられた複数の新聞社のうち、たった一社の二人の社員、事件を担当した複数の警察署のうち、たった一署の一人の刑事だけである。後半、たびたび「あれほど大きな事件だったのに、世間はもう忘れてしまっている」というような台詞が出てくるが、「世間」が事件当時どのように騒いだのかも、その後の忘却振りについてもあまり描かれていない。刑事や新聞記者などよりよほど事件を引き摺るはずの、生き残った被害者や残された家族にもほとんど触れられていない。ではその分、焦点を当てられている人々の描写を掘り下げているかというと、そんなこともない。

 なんとなく成り行きで、この監督の作品は全部観てしまっているのだが、『エイリアン3』から『パニック・ルーム』までに共通するのは「閉塞感」である。これは『エイリアン3』に於いてはリドリー・スコットの一作目の閉塞感に通じるという点で好感が持てた。しかし『セブン』では安っぽい似非黙示録的説教と相俟って、最悪の結果を生んでいる。アメリカの一都市の、それも白人キリスト教徒の目に映る光景を「世界」と断じるみみっちさ。その作品世界の閉塞感と、映像がもたらす閉塞感が相乗効果をもたらしている。「狭くて暗い場所」は大嫌いなんだよ私は。しかし作品以上にげんなりさせられたのは、公開当時、日本の観客の多くがこんなものを真に受けて、すっかり感服していたことだった。

 何、この「僕はここにいていいんだ!」「おめでとう!」的なラストは、の『ゲーム』。いや、あの最終話は実は未見なんだけどさ。ショーン・ペンと説教の組み合わせは最悪だな(説教がなければ悪くない。『Uターン』とか)。この自己啓発セミナーっぽさは『ファイトクラブ』にも共通している。『セブン』から『パニックルーム』まで、どうも説教(現代文明批判)もしくは思い付きのネタがまずあって、それに物語も設定も人物造形も無理やり当て嵌めようとしているフシがある。しかし『ファイトクラブ』では人物を魅力的に描けているし、『パニックルーム』は説教がない分マシである。

 で、『ゾディアック』に戻る。実際にあった事件を、説教のダシにするのではなく、丹念なリサーチによって実像に迫ろうとしている。その手法から見えてくるのは、監督の視野の狭さである。社会や個人への事件の影響の大きさや深さを充分に描くことができない。もしかして、これまでの作品に共通していた「閉塞感」は意図して作ったものではなく、監督自身の視野の狭さに因るものだったのではあるまいか。

 とはいえ、これまで目を向けようともしなかった部分を描こうとしている(不充分ではあるが)のは、大いに結構である。ま、こちらが社会への影響や報道という観点に注目しがちなのは、神戸の事件との関連からだろう。『セブン』や『ファイトクラブ』に見られる、現代文明批判のダシとして反社会的な人間や行為を賛美する傾向も今回はない。主演のジェイク・ギレンホールは、何かに夢中になるとほかのことが目に入らなくなるオタク的なキャラクターを好演していた。なぜそこまで事件に取り付かれたのかいまいち曖昧なのは、本人じゃなくて脚本の問題だろう。あと、60年代末から80年代初めまでにわたる時間の変遷、本人の生活等の変化がメイクや衣装で表現されてないのもな。ロバート・ダウニーJrやマーク・ラファロのメイク、衣装には、そういう演出が行き届いてたんだが。

 ロバート・ダウニーJrが演じる新聞記者は、事件を担当する過程で犯人に殺人予告をされ、それですっかり自分が事件の中心人物だと思い込んでしまう(殺人予告の原因は、いい加減な「犯人同性愛説」の記事だったらしい)。事件がなかなか解決せず、やがて忘れ去られていくことに焦り、迷走し、挙句に身を滅ぼす。そういうわけで作中では途中退場してしまうんだが、もっと大きく扱ったほうがおもしろかったんじゃないかと思う。でもそうしたら『ナチュラル・ボーン・キラーズ』で演じた役と被るか。

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