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ゾディアック

 デヴィッド・フィンチャー監督作品全般ネタバレ注意。ゾディアック殺人事件を初めて知ったのは、97年の神戸連続児童殺傷事件の報道によってだ。類似が指摘されてたんだが、その無茶なこじつけぶりに、却って記憶に残ったのである。

 未解決の事件である。監督が描きたかったのは、フィクションのようにきれいに解決しない現実のもどかしさ、そして事件に魅入られて人生を狂わされた人々、といったものであろう。フィクションならこれだけ状況証拠が揃えば、そのまま逮捕、有罪確定になるだろうにね。いや、現実でそんなんじゃ困るけどさ。劇中、刑事が『ダーティーハリー』(事件をモデルにしている)を観て憮然とするシーンがある。しかしその一方で前半、事件の猟奇性や謎解きのサスペンスもクローズアップしているので、どうも焦点がぼやけている。予告では猟奇性やサスペンス要素を煽っていたし、そういう方向を期待した観客は肩透かしを食らうのではないだろうか。

 また、「事件自体ではなく、その周辺」の描き方にしても焦点を当てられているのは、犯人から手紙を送りつけられた複数の新聞社のうち、たった一社の二人の社員、事件を担当した複数の警察署のうち、たった一署の一人の刑事だけである。後半、たびたび「あれほど大きな事件だったのに、世間はもう忘れてしまっている」というような台詞が出てくるが、「世間」が事件当時どのように騒いだのかも、その後の忘却振りについてもあまり描かれていない。刑事や新聞記者などよりよほど事件を引き摺るはずの、生き残った被害者や残された家族にもほとんど触れられていない。ではその分、焦点を当てられている人々の描写を掘り下げているかというと、そんなこともない。

 なんとなく成り行きで、この監督の作品は全部観てしまっているのだが、『エイリアン3』から『パニック・ルーム』までに共通するのは「閉塞感」である。これは『エイリアン3』に於いてはリドリー・スコットの一作目の閉塞感に通じるという点で好感が持てた。しかし『セブン』では安っぽい似非黙示録的説教と相俟って、最悪の結果を生んでいる。アメリカの一都市の、それも白人キリスト教徒の目に映る光景を「世界」と断じるみみっちさ。その作品世界の閉塞感と、映像がもたらす閉塞感が相乗効果をもたらしている。「狭くて暗い場所」は大嫌いなんだよ私は。しかし作品以上にげんなりさせられたのは、公開当時、日本の観客の多くがこんなものを真に受けて、すっかり感服していたことだった。

 何、この「僕はここにいていいんだ!」「おめでとう!」的なラストは、の『ゲーム』。いや、あの最終話は実は未見なんだけどさ。ショーン・ペンと説教の組み合わせは最悪だな(説教がなければ悪くない。『Uターン』とか)。この自己啓発セミナーっぽさは『ファイトクラブ』にも共通している。『セブン』から『パニックルーム』まで、どうも説教(現代文明批判)もしくは思い付きのネタがまずあって、それに物語も設定も人物造形も無理やり当て嵌めようとしているフシがある。しかし『ファイトクラブ』では人物を魅力的に描けているし、『パニックルーム』は説教がない分マシである。

 で、『ゾディアック』に戻る。実際にあった事件を、説教のダシにするのではなく、丹念なリサーチによって実像に迫ろうとしている。その手法から見えてくるのは、監督の視野の狭さである。社会や個人への事件の影響の大きさや深さを充分に描くことができない。もしかして、これまでの作品に共通していた「閉塞感」は意図して作ったものではなく、監督自身の視野の狭さに因るものだったのではあるまいか。

 とはいえ、これまで目を向けようともしなかった部分を描こうとしている(不充分ではあるが)のは、大いに結構である。ま、こちらが社会への影響や報道という観点に注目しがちなのは、神戸の事件との関連からだろう。『セブン』や『ファイトクラブ』に見られる、現代文明批判のダシとして反社会的な人間や行為を賛美する傾向も今回はない。主演のジェイク・ギレンホールは、何かに夢中になるとほかのことが目に入らなくなるオタク的なキャラクターを好演していた。なぜそこまで事件に取り付かれたのかいまいち曖昧なのは、本人じゃなくて脚本の問題だろう。あと、60年代末から80年代初めまでにわたる時間の変遷、本人の生活等の変化がメイクや衣装で表現されてないのもな。ロバート・ダウニーJrやマーク・ラファロのメイク、衣装には、そういう演出が行き届いてたんだが。

 ロバート・ダウニーJrが演じる新聞記者は、事件を担当する過程で犯人に殺人予告をされ、それですっかり自分が事件の中心人物だと思い込んでしまう(殺人予告の原因は、いい加減な「犯人同性愛説」の記事だったらしい)。事件がなかなか解決せず、やがて忘れ去られていくことに焦り、迷走し、挙句に身を滅ぼす。そういうわけで作中では途中退場してしまうんだが、もっと大きく扱ったほうがおもしろかったんじゃないかと思う。でもそうしたら『ナチュラル・ボーン・キラーズ』で演じた役と被るか。

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