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ペルセポリス

 1969年生まれのイラン人女性がその半生を綴るのに、なぜグラフィック・ノベルという手法を選んだのか、なぜ実写ではなくアニメ化、それもモノクロのままにしたのか疑問だったんだが、実際に鑑賞して、エキゾティシズムの排除と普遍性の獲得が目的だったんだな、と納得する。シンプルであるということは、想像の余地があるということだ。ユーモアも普遍性の要因の一つだろう。自伝の映画化は多いが、自分をここまで戯画化できているのは珍しい。

 上映時間は1時間半余りしかないのに、大量の情報が解り易く処理されている。イランについてまったく知識のない人でも、問題なく鑑賞できるだろう。主人公(作者)が、祖父はパーレヴィ朝の前のカジャール朝の王子にして共産主義者、おじは反政府主義者で革命後に処刑、というイランの近現代史を凝縮したような人であることも大きいんだろうけど。いや、すごい家系だな。

 革命後のイランで『ゴジラ』が上映されてたってのは、結構意外だった。どういう基準で許可されたんだろう。80年代後半、帰国したマルジが自宅で怪しげな「日本風」ドラマを観ている。江戸時代風の着物と髪型の女が二人、年配のほうが若いほうに「髪結いなんぞに息子はやれないよ。出てお行き!」とか言ってるんだが、これたぶん『おしん』だ。「全アジアが泣いた」『おしん』だけど、イランに在っては検閲で削除と修正だらけで、話の辻褄がほとんど合わなくなってる有様だったらしい。しかし見えないものに対して妄想たくましくするのが人間というもので、「『おしん』は実はポルノだ」「原題は『貧乏と売春』」「ドバイでノーカット版を観た友人によると、あんなシーンやこんなシーンが」等々、妄想が妄想を呼び、デマが飛び交い、半ば都市伝説状態だったそうですよ。

 性的幻想を投影しているという点を含めて、イランに於ける『おしん』像は紛れもなくオリエンタリズムである(当時のイランでは「ジャポニズム」と呼べるほどの日本像は確立されていなかっただろう。『おしん』によって確立されたかもしらんが)。マルジャン・サトラピがこのオリエンタリズムを共有していたか否かはともかく、彼女が描いた『おしん』は性的幻想込みのジャポニズム(しかもフランス風)そのものである。キモノや髪型がそれなりに正確(ほかの外国人が描くであろうものに比べれば)という辺りが、「フランス風」だよね。

 欧米人による先入観にうんざりし続けてきた彼女も、自分がよく知らない異文化については、ばっちり先入観に囚われているのがおもしろい。
 それが悪いとか、『ペルセポリス』の価値を損なうというつもりはない。彼女のような背景を持つ人が「異文化理解の旗手」でなければならない必要はないし、図らずも「人間ってそういうものだよね」という事実を表現していることで、むしろ作品の多義性が増している、と思う。

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