« マリー・アントワネット | トップページ | スウィーニー・トッド »

パラダイス・ナウ

 自爆攻撃の実行者に選ばれた二人のパレスチナ青年の物語。

 極言すると自爆攻撃という行為(とその実行者)には悪いイメージと良いイメージがあって、前者ならまともな感覚では理解できない狂信、後者なら崇高な自己犠牲ということになる。どちらのイメージにせよ共通しているのは、実行者は自爆を手段と見做して揺ぎ無い、ということである。決断から実行までたとえ迷いがあっても、それは恐怖や罪悪感、或いは本当にこの遣り方でいいのかという疑問によるものであり、自爆はなんらかの目的を果たすための手段という大前提は一貫している、と私たちは考える。

 しかし何か困難な手段(自爆、特攻はその最たるものだ)を遂行しようとする人は、次第にその手段自体が目的になってしまうのではないだろうか。親友同士のサイードとハーレドは自爆攻撃者となることを承諾するが、そこから一直線に決行へと突き進むのではない。途中、頭が冷える瞬間が何度でも訪れる。まずハーレドがカメラの前で小銃を片手に声明文を読み上げる。両親へ別れの言葉も告げ、感極まったところで撮影係が言う。「ごめん、撮れてなかった」。もう一度重い銃を掲げてポーズを付け、声明文を最初から読み始めたところで、「ごめん、また動いてない」。撮影を見守っていた同志たちは、飽きてきてピタサンドを食べ始める。テルアビブへ出稼ぎに行く、というハーレドの言葉を信じる母親が作ってくれた弁当である。冷静にもなろうというものだ。

 いよいよ封鎖線を越える段階で、来ないはずのパトロールがやってきて、二人は逃げ戻ることになる。ハーレドは同志たちと合流できるが、サイードははぐれてしまう。案内人はイスラエル人で、状況からすると二人を売る気だったようである。明らかに作戦の不備だが、組織の幹部は「作戦は綿密だった。おまえたちの落ち度だ」とハーレドを責め、次いでサイードを裏切り者だと決め付ける。ハーレドは自分にサイードを探させてくれ、と頼み込み、承諾されるが尾行が付けられる。

 ハーレドが必死に探し回る間、サイードは一人で封鎖線を越えてテルアビブへ向かうバスに乗りかけるところまで行くが、乗客たちの中に幼い子供の姿を見て躊躇し、パレスチナへ戻る。組織のアジトに戻るが、そこはすでにもぬけの空である。ハーレドの家や共通の知り合いの居場所などへ行ってみるが、ことごとく擦れ違う。

 その過程で、彼らが本当は自爆が「世界を変える手段」だなどとは信じていないことが明らかになる。一見単純に見えるハーレドが天国について何度も言及していたのは、信じているからではなく信じたかったからに過ぎない。ハーレドの父はイスラエル兵によって片脚を切り落とされており、サイードの父は家族を養うため密告者となって処刑されている。生活は貧しく、まともな職もなく、常に統制され、希望はどこにも見出せない。つまりは彼らにとって自爆攻撃は報復であると同時に、「死んだほうがマシ」な人生から脱け出すための手段だったとも言える。

 無論、到底肯定できない考えだが、そこまで追い詰められてしまうほどに彼らの人生には希望がない。殉教した英雄の娘だがヨーロッパで育ったスーハは「ほかにも道はあるはずだ」と言う。確かに道はあるが、閉ざされた道でしかないのなら、頭の中の天国以上に絵空事だ。

 自爆攻撃を決断する以前から袋小路に追い込まれていた彼らだが、一度失敗して頭が冷えたことで、却って自分自身を追い込んでいくことになる。遣り遂げられなかったら恥だとか、もうほかに道はないとか、自爆すること自体が目的と化していく。自爆は組織からの命令ではなく依頼だというのも、逃げ場を失わせる一因だろう。強制ではなく自分の意思なのだから、余計に面子の問題になってくる。視野狭窄に陥ってはいるものの、狂信とはほど遠い、自爆という行為を除けばむしろ日常的な感覚だ。

 髭を生やし、よれよれの服装をした二人は、イスラエルに侵入するにあたって髭を剃り、髪を刈り、黒いスーツに身を包む。事情を知らない知人が「入植者(イスラエル人)みたいだな」と評するシーンもあって偽装が目的だということが判るが、それだけならもっとカジュアルな服装で充分だ。監督の意図は、二人を「いかにも非合理な暴力を振るいそうな輩」に見えないようにすることだったのだろうと思う。いかにも非合理な暴力を振るいそうな輩、というのは髭を生やして民族衣装を着た原理主義者や、みすぼらしい姿の難民、或いはだらしない服装の若者といったところだ。スーツ姿の二人は欧米人の若者といっても通りそうなだけでなく、「文明的」で洗練されているようにさえ見える。実際、彼らはイスラム教徒だから、難民だから、自爆テロの実行者になるのではない。どんな人間も、希望のない状況に追い込まれれば、彼らと同じ選択をしてしまいかねないのだろう。

|

« マリー・アントワネット | トップページ | スウィーニー・トッド »

鑑賞記2008」カテゴリの記事