« 2008年2月 | トップページ | 2008年4月 »

ハーフェズ ペルシャの詩

「ハーフェズ」とは、記憶する者、保管する者、保護する者、というような意味で、コーランをすべて暗誦できる者に与えられる称号である。いくら人種が入り混じった国だとはいえ、麻生久美子がイラン人というのはちょっと無理があるんじゃないかと思ったが、母親がチベット出身という設定だそうな。彼女が演じるナハードは、チベットで育ったためコーランの知識が乏しい。彼女の父親はイスラム法の師であり、神秘主義教団とは対立関係にあったが、娘の帰国を機に和解することにし、娘のための家庭教師を教団から招く。派遣されたのは、最近ハーフェズの称号を得た青年シャムセディンである。

 で、二人は恋に落ちたために引き離され、彼女は別の男の許に嫁がされる。夫となった青年もまたシャムセディンという名であった。ハーフェズのシャムセディンは、ナハードの父親に罪を許す代わりに「鏡の請願」という行を成し遂げるよう命じられる。七つの村の七人の処女に鏡を磨いてもらうというもので、本来は恋を叶えるために行うのだが、父親は恋を忘れるためにこれを行えと言う。ハーフェズは承諾し、行を開始するが、それを知った裁判官は「恋を忘れるために鏡の請願を行うのは掟に反する」として、ナハードの夫のシャムセディンにハーフェズを追って行を中止させるよう命じる。二人のシャムセディンの旅路は交錯し、やがて彼らの存在そのものも入り混じっていく。

 というストーリーは大変良いと思うんだけどね。いかんせん判りにくい。「難解」なんじゃなくて、技術上の問題だと思うよ、これは。撮影だけ取っても、1カットが短い上にカットとカットの繋がりが判りにくい。「型に捉われない」と「未熟」または「拙劣」は違うよね。

 舞台はイラン南部、パキスタンとの国境近くで、開発から取り残された因習的な地域だという。「鏡の請願」という迷信じみた儀式は監督の創作だが、映画を観たイラン人でさえ実在する信仰だと思い込んだという。つまり、そういうものがあってもおかしくない地域だと思われている、ということだ。神秘主義教団や律法の師といった権威に対する批判を含んでいるにもかかわらず検閲を通ったのも、頑迷固陋なその地に対する批判であって、「まともな」イスラムに対する批判ではないと受け止められたかもしらんなあ、とか余計な憶測をしてしまう。

 大地は乾き切って、村や家々はみすぼらしいが、女性の衣装は色鮮やかで美しい。イラン女性というと真っ黒なチャドルというイメージだが、やっぱりパキスタンに近いからなのか、服もヴェールも実に色とりどりで、見事な刺繍が全面に施されている。音楽もよい。イランの伝統楽器ドタール(二弦)の独奏は、CDで聴いたことはあっても映像で見るのは初めてだったんだが、たった二本の弦でよくあれだけ多彩な音が出るものだと驚嘆する。ちなみに麻生久美子の登場場面のBGMだけはチベットの音楽でした。南方だけあって、肌の色が濃い人が多かった。ハーフェズ役のメヒディ・モラディはテヘラン出身で色白なんだけど役のために肌を焼いたそうで、黒くなってるというよりは赤くなってて、ちょっと痛々しい。イケメンなんだけど声が高くて子供っぽいのが惜しいな。

 結婚式を控えたナバードが顔を糸で擦られてるんだが、あれは脱毛やね。日本人にはあんまり必要ないと思うんだけど。脱毛はイスラム全般の文化だが、未婚女性は顔の無駄毛処理はしないのが普通なんだそうな。ほかのカップルの結婚式のシーンもあるが、イランは性に関する表現の規制が非常に厳しいので、初夜の描写はもちろん省略される。寝床が映し出され、次のシーンは夫が川で水浴びをしている。ムスリムが沐浴する条件の一つが、「性交後の浄め」である。つまり事後ということだ。そして次のシーンでは、夫がハーフェズに「妻はもう処女ではなくなった」と告げる。

 ペルシア語の発音は、日本人にとっては結構簡単だ。実は文法もかなり規則的なので憶え易い。ほな、なんで私がペルシア語を習得できないかというと、文字がラテン文字でも漢字でもないのは、それだけでかなりの障害になるのですよ(ロシア語もな)。ペルシア語を生で聞いたことはないし、イラン映画もかれこれ数年観てないんだが、麻生久美子のペルシア語の発音はかなりきちんとしていたと思う。まあ台詞少ないし外国育ちという設定だから、多少ぎこちなくても不自然ではないんだろうけど。

 というか映画全体を通して、どの役者もえらくゆっくりはっきり喋ってて、非常に聞き取りやすかったのでした。『君のためなら千回でも』のダリー語は、ペルシア語に非常に近いんだが(だからイランで吹き替えられたペルシア語版『荒野の七人』が、そのままアフガニスタンで上映できる)、もっと早口で聞き取りにくかったぞ。『ハーフェズ』のペルシア語は、教材のCD並みに聞き取りやすかった。というか、私が持ってる教材でも、後ろのほうになってくるともっと早口で滑らかで抑揚が大きい、つまり「流暢」だ。役者たちの、ゆっくりはっきりした抑揚の乏しい喋りは方言なんだろうか。それとも演技が下手で台詞を棒読みしてただけなんだろうか。そんなことが観ていて気になってしまったのでした。

『ハーフィズ(ハーフェズ)詩集』感想

|

ラスト、コーション

 ネタバレ注意。身体を使って敵を陥れる任務の女スパイが標的を愛してしまう、という筋だけだと『ブラックブック』みたいなんだが、あっちのナチス将校が実は善人だったので心から愛し合えるようになるのに対し、こっちの特務機関幹部はあくまで任務に忠実で最後まで「敵」のままである。

 主演女優にすべてが掛かっている作品だ。違う女優が演じていたら、違う作品になっていただろう。タン・ウェイは二十代後半だが、ずいぶん童顔だな。美人じゃないとは言わんが「妖艶な美女」でないことは確かで、有閑夫人よりも学生の姿のほうがしっくりくる。しかしこの「なんとなくの似合ってなさ」が重要なのである。

 日本占領下の上海でタン・ウェイをはじめとする学生たちは、既存の抗日組織と接触することなく独自に活動を始めるのだが、熱意はあっても考えなしなのでいきなり大物を狙う。危なっかしいことこの上ない。それを一部始終監視していて、適度に痛い目を見たところで初めて手を差し伸べ、後始末をしてやって恩を着せる組織は結構世知辛い。タン・ウェイが抗日運動に足を踏み入れるきっかけは、男子学生への淡い恋慕である。この男子学生がまた絵に描いたような「熱意だけある使えないインテリ」なんだ。演じるワン・リーホンは人気アイドルだそうだが、この役ってどう見てもヘタレだよな。七三の髪型が似合いすぎる。インタビューによると1930年代の衣装を着たら「祖父にそっくりになった」そうだが、要するに古臭い顔してるんだろう。こういう男に憧れを抱いてしまうのも、それだけで引き返せないところまで行ってしまうのも、いかにも学生らしい。

 結局、タン・ウェイは演技の才能があり、かつ「敵を誘惑し陥れる役」にのめり込むのだが、どこか素人臭さが抜け切らない。彼女がスパイであることに、標的の特務機関幹部(トニー・レオン)がどこまで気づいていたかはともかく、この詰めの甘さに惹かれたのは確かだろう。彼女は任務に徹することはできなかったのだが、実際に戦時下ではよく訓練された工作員よりも、こういう素人同然の若者が多かったんだろうと思う。

 有閑夫人に扮したタン・ウェイの衣装が素晴らしい。いわゆるチャイナドレスが現在のデザインになったのは、この時代である。こればっかりは「妖艶な美女」が着てくれればもっとよかったんだけどね。体型には合ってるけどさ。童顔だから小柄に見えるけど170cm台だそうな。道理でトニー・レオンが小さく見えるはずだ。

|

レンブラントの夜警

 ピーター・グリーナウェイ監督作品。ベースとなっているレンブラントの代表作「夜警」は、実際には夜の場面を描いたのではなく、後にニスが変色して画面が黒ずんでしまったため、そう名付けられたらしい。しかしグリーナウェイは、敢えてこの絵を「夜警」として物語を展開させている。

 人気の絶頂にあった画家の転落のきっかけとなる出来事(出来事自体は史実だが、背景は監督の自由な創作)を扱った映画、というとデレク・ジャーマンの『カラヴァッジオ』が思い出される。光と影の映像、演劇的要素、活人画による絵画の再現等、共通点は多い。相違点を挙げるなら、カラヴァッジオを演じるのは画家本人の肖像より(まあ一般的に見て)いい男のナイジェル・テリーであり、しかも明らかにジャーマンの自己投影(とナルシズム)が見られるのに対し、レンブラントを演じるのは自画像に結構似た背が低くて太ったマーティン・フリーマンで、グリーナウェイは客観的に突き放して描いている。

 映画に演劇の手法が持ち込まれることに、特に違和感はない。但し画面構成が単調になりやすく、かつ閉塞感に陥りやすいとは思う。『カラヴァッジオ』くらいの小品(1時間半)ならそれでもいいんだけど、『夜警』は2時間以上あるからなあ。とはいえ画面が暗いわりには「暗いよ狭いよ怖いよ」とならなかったのは、やはり光の使い方が効果的で画が美しかったからだろう。私が演劇に対して抱いているイメージは、「とかく本筋から外れがち」という要するに小劇場系のものである。『夜警』はしばしば「本筋から外れがち」になりながらも、レンブラントが一つの事件を追うという筋は一貫しているので、「演劇的」ではあるけれどかなり解りやすい作品だった。

 レンブラントの人物造形もよくできていて感情移入しやすい。いい意味で小市民的なんだな。事件の解明にそこまで執着した理由も、「小市民のやや見当違いな正義感」ということで説得力がある。気丈で頭のよい妻、サスキア役のエヴァ・バーシッスルもよかった。ほかに四人の女性が登場するのだが、彼女たちは象徴的な役どころで、要するに演技力より容姿のほうが重要である。虐げられる二人の孤児や、レンブラントが最後に愛する侍女ヘンドリッケは、少女であることが重要な役なのに、なぜ成人にしか見えない女優をキャスティングしたんだろう。「幼い」「若い」と強調されるたびに違和感を覚えた。妻の死後にレンブラントを誘惑する侍女ヘールチェは、ごついわけでも太ってるわけでもないのに、がっしりとした見事な身体で、なんというか有無を言わさず役に相応しかった。

 作中、「夜警」だけでなくレンブラントの他作品や他の画家の作品が映像に引用されているとのことである。私が判ったのはリューベンスの「エレーヌ・フールマン」(毛皮を羽織った裸婦像)だけだったけど。しかし『夜警』も『カラヴァッジオ』も非常に計算された画面ではあるんだけど、絵画の再現と細部へこだわりがフェティシズムの域まで達している『真珠の耳飾りの少女』の執念深さには及ばないよな。

|

お引越し

 余裕を持って荷造りを始めたはずだったのに、結局時間に終われてます。いや、こんなに押してる理由は、先週末から映画を三本観に行ってたからでもあるんだけど。全国一斉公開じゃない作品は関東と関西では必然的に時差があるので、神奈川ではきっともう公開が終わってる。いや、探せばどこかでまだ上映してるかもしれないけど、きっとどこか判りにくい場所にある映画館で、一日に一回くらいしか上映していないだろう。私のことだから、道に迷ったり電車を乗り間違えたりして、上映時間までにその映画館に辿り着けないに違いない……というわけで、駆け込みで鑑賞してきたのでした。ちなみに映画の梯子は苦手なので、今回もやってない。

 この三本の感想は、明日書けたら書きます。無理だったら来月七日以降だ。ところで今日、荷造りのついでに映画のパンフレットを数えてみました。途中でどこまで数えたか判らなくなりました。とりあえず150冊以上あるのは確かだ。観た映画のパンフレットは必ず買うようになったのは七年ほど前からなので、まあ大して頻繁に観てきたわけじゃないな。

 自分がオタクとして薄いと思う根拠の一つは(薄いのがいいとか悪いとかの話ではない。逆もまた然り)、蒐集癖の欠如である。いやほんと、きれいさっぱり無い。基本的に、「使う物」しか買わないんだな。映画のパンフレットも資料として(或いは記憶の補助として)役立つから買ってるだけだし。こういう「薄さ」というのは小説家としてどうなんだろう、と偶に思わないでもないけど、とりあえず引越しは楽でいいよな。

|

梅と鶯

 先週、北野天満宮へ梅を観に行ってきました。二月二十五日の梅花祭に行きたかったんだけど、今年は開花が遅くてまだ五分咲きだったんだよな。ようやく満開になったのは今月半ばでした。

 本殿の裏手の一際見事な白梅の大樹に、鶯が二羽いました。写真を撮ろうとしている観光客が大勢いたけど、庭とも枝から枝へと忙しく飛び移っていたので、なかなか撮れなかったのではないかと。天神さんの梅を観るのはかれこれ七、八回目になるんだが、鶯は初めて見た。意外に小さいな、ってあれ? 鶯を生で見たこと自体、初めてか?

 その後、北大路の植物園に行く。こちらは十年振りくらいじゃなかろうか。学生時代は季節を問わず、何度も通ってたんだがね。南門から入ってすぐにある大温室では、毎回何かしら珍しいものが見られます。今回はジェイド・バインというオーストラリアの花。ほんとに見事なまでの翡翠色というかエメラルドグリーンで、なんというか天然の色とは思えないほどでしたよ。ほかにはカカオの実もあった。

 この植物園は、とにかく広い。何しろ一度、園内でピレネー犬(でかくて白いやつ)を三頭も目撃したことがある。いや、あれはたぶん誰かがこっそり捨てていったんだろうと思うけど。あの犬たち、どうなったんだろう。

 今年は梅の開花だけでなく、桜の開花も遅れるらしい。今年は京都の桜は見れないのか……。今週末、神奈川に引っ越します。また父と妹Ⅱと一緒です。父は六年前に神戸の会社に転職して以来、「辞める」が口癖で、そのたびに私は(去年からは妹Ⅱも)振り回されてきたのですが、今度こそ間違いありません。偶然、妹Ⅰ宅の近く(電車とバスで30分くらい)に住むことになったので、姪を観察する機会も増えるでしょう。

 先月末から規則正しい生活と運動を心掛けて、なんか身体が軽くなってきたなあ(実際の体重が軽くなったかはともかく)と喜んでいたのですが、引越しの荷造りを始めたら腰が痛いよ痛いよ。引越しに伴う面倒はほかにもいろいろあって、向こうに移ってから電話とネットを使えるようになるのが、四月七日ということになってしまいました。参ったね。携帯を持ってないのですよ、私は。まあ現在は特に電話が必要な生活はしてないし、メールはネットカフェでチェックできるけどさ。とりあえずこの期間で、自分のネット依存の度合いが測れるな……。

 というわけで、今月二十九日から来月七日までは確実にブログの更新が止まります。それまでにもう一、二回更新するかと思われます。

|

アポカリプト

 私が最初に中南米の先スペイン期文化に興味を持ったのは80年代初めで、その頃読んだ子供向けの資料では、マヤ文明というのはアステカと違って生贄の風習がないという説がまだ主流だったな。

 メル・ギブソン監督作品。メル・ギブソンの顔は嫌いなんだが(理由;でかいから)、本人は出演してないので鑑賞。ネタバレも何もない作品だが、一応ネタバレ注意。前半のうち半分はジャングルの中での奴隷狩りで、後半はひたすらジャングルの中で追いつ追われつの死闘が繰り広げられる。特に後半のカメラワークは圧巻だし、残虐描写もここまでくるといっそ爽快である(おいおい、眼球飛び出してるよ)。しかしそれらはジャングルであれば世界各地のどこでもいいようなものであって、ユカタン半島である必然性はまったくない。歴史的・文化的考証にしても、腹を立てるのは無論のことツッコミを入れるのも虚しくなるような代物である。しかしメル・ギブソンには、この作品の舞台を是が非でも16世紀初頭のユカタン半島に設定しなければならない理由があった。つまりラスト、スペインの帆船から上陸する、大西洋をわたってきたとは思えないほど小奇麗な西洋人たちと、彼らが掲げる十字架である。彼らが向かう先は、ソドムとゴモラさながらに頽廃したマヤの都だ。

 考証についてだが、まるっきりでたらめというわけではない。よく調べた痕跡はある。頭蓋変形によって後頭部が盛り上がっていたマヤ人たちのシルエットを、額を剃って髪を後頭部で高く結う髪型で再現しているのには、ちょっと感心した(狩猟民の間にまでそんな風習があったのかというツッコミはやめておく)。予言を行う少女が斜視気味だったのも、マヤ人が斜視を高貴な容姿だと見做していたのを踏まえているのだろうし(子供の両目の間に小さな球を垂らして斜視に矯正していた)。環境汚染の原因の一つは漆喰の生産だし、ピラミッドは赤く塗られてるし、壁画も実によくできている。主人公がスペイン船のことを「人を運ぶもの」と説明するのも、最初にユカタン半島にやってきたスペイン船を住民が「一夜で出現した巨大な暗礁だと思ったら人が乗っていて驚愕した」という逸話をおそらくは参考にしたのだろう。「水に浮かぶ巨大な家」と呼んだという記録もあるしな。

 つまりそれなりにきちんと考証をした上で、意図的に歪曲や捏造を行っているわけである。そしてマヤの文化や歴史に対する好意はまったく感じられない。生贄や環境汚染など負の面ばかりを恣意的に取り上げて、後はせいぜいエキゾティシズムに利用する程度だ。好意というよりは敬意の欠如であり、文化そのものだけでなく、それを地道に研究してきた先達たちに対しても及んでいる。

 こうした敬意の欠如と、単なる怠慢と傲慢による無知とどっちが癇に障るかと言ったら、それはもちろん前者だが、虚しいからツッコミはしない。いや、他山の石としないとね。という予想は最初からついてたので、「あーあ、しょうもねえなあ」と生温く見守ることができたんだが、一つだけ途轍もなくがっかりしたことがある。生贄の場にチャックモール像がなかったのである。チャックモールがないなら心臓はどうするんだろうと思ったら、炭で焼いていた。メソアメリカの生贄の儀式に、チャックモールを出さなくてどうする。がっかりだよ。

|

ハリウッドランド

 映画館で観たかったんだけど、上映期間が短くて気が付いたら終わってたんだよね。ネタバレ注意。

 TV版『スーパーマン』の俳優ジョージ・リーブスの自殺の謎を描くサスペンス。とは言うけど、実際に起きた未解決の事件を扱っているわけだから、『ゾディアック殺人事件』と同じく謎は謎のまま「真相の仄めかし」程度で終わらざるを得ない。要するにカタルシスのない作品になる。かといって『ブラックダリア』みたいに強引に「解決」されても釈然としないしね。

 というわけでオチはやや尻すぼみではあるものの、人間ドラマとしては充分楽しめた。『スーパーマン』をまともに観たのは06年の『リターンズ』が初めてという体たらくで、スーパーマン自体にはなんの思い入れもないんだが、ヒーローとなってしまった三流俳優の悲哀は、普遍性のある物語として興味深かった。ベン・アフレックは、あのぬぼーっとした顔と図体が好きじゃなかったんだが、三流から脱することのできない俳優という本作の役には非常に嵌まっていた。弟(『ジェシー・ジェームズの暗殺』のケイシー・アフレック)とは全然似てないと思ってたんだが、改めて見ると目がよく似ている。しがない探偵のエイドリアン・ブロディは髪型のせいもあって、なんかショーン・ペンみたいだった。役自体も、十年くらい前までだったらショーン・ペンがキャスティングされてそうだ。ブロディのほうがペンより繊細だが。

 作品の雰囲気は、『チャイナタウン』を髣髴とさせた。ロサンゼルスを舞台にした探偵ものという共通点だけじゃなくて、なんというか全体の物憂い感じが。ただ、構成には問題がある。謎を追う探偵と、死に至るまでのジョージ・リーブスという二つの時間軸が展開するんだが、過去のパートの一部には探偵の想像が混入している。それならそれで、過去パートはあくまで探偵が捜査と推理によって再構成したものとするべきだっただろう。「真相」なのか「推理」(想像)なのかはっきりしないまま過去パートが進み、結局未解決のままで終わるので、余計に肩透かし感がある。ジョージ・リーブスの関係者の中で、探偵が最も多く接触できたのが老いた母親だが、彼女とリーブスのシーンが一つもないのもな(明らかに母親はリーブスの人格形成に大きな影響を及ぼしていると思われるのに)。この母親役のロイス・スミスが非常に巧かっただけに残念だ。

『アルゴ』感想

|

君のためなら千回でも

 原作者のカーレド・ホッセイニは、少年時代にアフガニスタンからアメリカへ亡命している。作品の根底を流れているのは、作者自身の罪悪感であるように思う。祖国を離れ、安全な場所へ逃れたことに対する罪悪感である。イラン人のマルジャン・サトラピの自伝的作品『ペルセポリス』でも、この罪悪感について語られていた。

 だから『君のためなら千回でも』は、「贖罪」の物語になったのだろう。とはいえ、これは自伝でも自伝的小説でもない、まったくのフィクションである。通俗的で娯楽性の高い、よくできたフィクションだ。私はあらゆる意味でフィクションがノンフィクションに劣るとは思わない。また、「通俗的」とか「娯楽性」という言葉にも悪いイメージは持たないが、まあ何か語弊があるようだったら「エンターテイメント性」と言い換えてもいい。

 以下、小説と映画双方にネタバレ。そういえば小説では、ネタバレに対するアメリカとアフガニスタンの価値観の違いについてのエピソードがあったな。

 上記の理由で、主人公が償いのため、かつて裏切った友人の息子を助け出しに行く、という展開自体には、まったく問題がない。ただし映画では妙にアクション映画っぽくなってるのがなあ。音楽もそれまで抑制が効いてたのが、やたらと緊迫感を煽るようなものになって興醒めだ(でもアカデミー作曲賞ノミネートなんだよな)。映画は、前半と後半に明らかな落差がある。前半はカブールでの少年時代、とにかく丁寧に作られている。主人公のアミールが召使の少年ハッサンに抱く非常に複雑な感情を、限られた時間枠で鮮やかに描き出す。脚本も演出も、少年たちの演技も実に素晴らしい。凧上げのシーンは迫力があるし、古い文化と欧米文化が奇妙に融け合う国際都市カブールの描写も楽しい(ごく短いシーンだが、ペルシア語吹き替え版『荒野の七人』というすごいものも見られる)。

 しかし後半のアメリカでの青年時代になると、途端に平板になる。アフガン難民たちは、大した苦労もなしにアメリカ社会に溶け込んでいるように見えるし(将軍や富豪だった人たちがフリーマーケットで生計を立てるというのは確かに相当な凋落だが)、主人公も過去の罪にそれほど囚われていないかのようだ。小説では、友人の息子を助けに行くよう頼まれても、「そこまでする必要があるのか」と葛藤する弱さが描かれているが、映画ではその描写が皆無ではないが、かなり軽い。タリバンに手酷く痛め付けられるシーンでも、小説では主人公は苦痛の中で、自分が罰せられることをずっと願っていたことに気づき、そしてその罰がようやく与えられたのだと確信するのだが、映画ではそんな機微がまったく描かれない。

 主人公がたった一人の子供しか救っていないことに否定的な意見もあるようだが、実際のところ、個人でできるのはこれが限界だろう(それ以上は、それこそ絵空事だ)。現実的に考えるなら援助団体等に参加するというのが妥当であろうが、それでは別の物語になってしまう。戦火を逃れて亡命できても、ゼロから生活を築き上げなくてはならない苦労や、祖国に残った同胞に対する罪悪感があり、虐待から救い出された子供もPTSDに苦しむ。映画はその描写が浅いため、結末が安易であるような印象を受けかねない。まあともかく前半は素晴らしいし、後半でも「過去のシーンが繰り返しフラッシュバックする」というような安っぽい演出がないのはいいと思うんだけどね。

 サッカースタジアムでの公開処刑は、ヤスミナ・カドラの『カブールの燕たち』にもそのエピソードがある。タリバンは処刑を観に行くよう、市民に強制していたそうである。小説でも映画でも観衆は処刑から目を背けるんだが、そんなことが許されたんだろうか。いや、私がそんな疑問を持つのは去年の春からこっち、「スターリン時代のソ連では、例えば集会で最初に拍手をやめたというだけの理由でも収容所送りになった」というような話ばっかり読んでるからなんだけど。

 主人公の父の友人ラヒム・ハーンを演じたショーン・トーブは、ポール・ハギスの『クラッシュ』でイラン人店主役だった人だね。今回はいかにも欧化したインテリのムスリムといった風貌で、ずいぶん印象が違う。父親役のホマユーン・エルシャディは、アッバス・キアロスタミの『桜桃の味』に出てたそうだけど思い出せん。原作では190センチを超える大男なんだが、エルシャディはそこまで長身ではない。国外脱出時に横暴なソ連兵と対決するシーンで彼がトラックの荷台から降りなかったのは、ソ連兵役の役者が長身だから、並んで立たせるには構図的にちょっとあれだったかもしらんな。

 作中で主人公たちが喋っていたダリー語は、ペルシア語にずいぶん近い。私でも聞き取れる単語がちょこちょこあって、ちょっと嬉しかった。ペルシア語は母音が日本語に近いから、ヒアリングが楽なんだけどさ。

|

デイズ・オブ・グローリー

 えーと、日本未公開で販売元はアルバトロスですね。カンヌ男優賞受賞(主要キャスト5人)、セザール賞脚本賞受賞、アカデミー外国語映画賞ノミネート。

 第二次大戦中、フランスの植民地(モロッコやアルジェリアなど)の現地人部隊を描いた作品。1943年から始まるので、北アフリカ戦役ではなくイタリア以降。部隊は志願兵から成り、彼らの望みは「祖国(フランス)」のために戦い、自分たちの待遇をよくすることである。しかし至るところに差別は存在し、どれだけ戦ってもフランス人のように昇進はできず、装備もまともに与えられない(雪の中をサンダルで行軍する兵士もいる。観てるだけで痛くなる)。

『グローリー』みたいだなあ、と思いながら観た。以下、両作品ネタバレ。南北戦争に於ける初の黒人部隊の話を臆面もなく白人の視点から描いたもので、マシュー・ブロデリック演じる若き白人将校が黒人部隊を押し付けられて、権利は要求しても義務は嫌がる身勝手な黒人どもに愛の鞭をくれつつ彼らのために北軍の腐敗とも戦い、やがて黒人兵たちの忠誠を勝ち取り、彼らが白人に貢献できることを示すために玉砕へと導くのである。エドワード・ズウィックは玉砕が好きなんだろうか。好きなんだろうなあ。でも『ブラッド・ダイヤモンド』みたいなのも作ってるわけだから、才能にムラがある人なんだな。

『デイズ・オブ・グローリー』は勝手に付けられた邦題かと思ったら英題だった。なんにせよ『グローリー』を念頭に置いているものと思われる。有色人種が白人に対して自らの価値を示そうとするという構図は(玉砕に至るところまで)そっくりなわけだが、なんにも考えてないんじゃないかってくらいに無批判に讃美するズウィックと違い、アルジェリア系フランス人のラシッド・ブシャールは明らかにこの構図を批判的に捉えている。なのに『グローリー』とぴったり重なってしまうほどの凡庸な脚本(でもセザール賞受賞なんだよな)。意図的ならまだしも、どうもそうではないようである。で、しかもこの英題か。この「なんだかなあ」観が全編に漂う作品でした。ちなみに仏題(同じ単語は英語にもあるけど)は『INDIGENES』。indigeneは現地人、原住民といった意味で侮蔑的なニュアンスを含んでいるそうだ。

 そういうわけで脚本はいまいちだし、片手が不自由な兵卒が最前線で戦い続けられるものなんだろうかという疑問もあったりするが、見るべきところはそれなりにある。時々挿入されるちょっとしたユーモアも悪くない。「テロリスト」でも「剽悍なベドウィン」でも「貧しい移民(または難民)」でもないアラブ系というのは、ちょっと珍しかった。心理描写はほとんどないんだが、それでも各キャラクターの内面の複雑さが表現されているのは、それぞれの役者の演技力に負うところが大きいだろう。とはいえ、男優賞に値するほどとも思えないんだけど。

 功績が少しも評価されないことに苛立つインテリのアラブ兵は、昇進を確約され、決死隊に志願する。彼以外は全滅という代償を払って橋頭堡を守りきったが、称賛の言葉もなく、悲願の昇進は「じゃあ別の部隊の兵長が戦死したから代わりに」と、犬に食べ残しでも投げるように与えられる。その時の彼の呆然とした表情が印象的だ。この終盤ぎりぎりのシーンは演出も含めてすごくいいんだけどね、それまでがなあ。

|

仕切り直し

 1セット20分の運動を毎日3セット行う生活を何ヶ月も続けていると、ずいぶん健康になるもので、忙しさにかまけて運動をさぼっても、1ヶ月くらいならあまり影響が出ません。2ヶ月を過ぎる頃から、疲れ易くなったり頭痛・肩凝り等がひどくなったりしてきて、ますます不健康な生活を送るようになり、3ヶ月も過ぎる頃にはすっかり悪循環に陥り、当然ながら執筆にも影響してきます。

 ということを、ここ数年何度も繰り返しています。いい加減学習しろ……。先週以来、悪循環に陥っていることをようやく自覚し、仕切り直ししています。運動不足と不規則な生活の当然の結果にもずっと気が付かない振りをしてきましたが、これも認めました。でも何キロ増えたかは計ってません。そこまで現実と向き合う勇気はありません。うぐぐぐぐ。

|

シンドラーのリスト

 BS2でやってたので。

 十年ぶりくらいの再鑑賞。レイフ・ファインズ演じる鬼畜所長の登場以降はよく憶えているのだが、登場前はあまり記憶に残っていなかったことに気づく。しかし今回の鑑賞では、むしろ登場前のほうが観るべきものが多かった。レイフ・ファインズ登場(すなわち圧倒的な暴力が前面に出てくる)前はスピルバーグはユダヤ人たちを「個」として描こうと努め、成功している。しかし話が進むにつれて暴力があまりに巨大になっていくと、「個」の物語は圧殺されてしまう。それでも彼らを「個」として捉えようとする努力は続けられているのだが、効果は上がらず、終盤には完全に諦めてしまっているようである。

 人は心を乱された時に「物語」を求める。物語は「説明」であり、説明があれば人は多少なりとも安心できる。だがあまりに圧倒的で巨大な暴力(鬼畜所長はその一端でしかない)は、「個」の物語を圧殺してしまう。だからこそ人は余計切実に物語を求めるのだが、安寧を得られるとしたら「彼らは救われた」という物語くらしかなかろう。必然的に、それは紋切り型になってしまう。

 結局、スピルバーグは途中から易きに流れて、作品を「彼らは救われた」物語に落とし込んでしまったようだ。虐殺する者たちも、される者たちも、そして救う者も個人というよりは類型になる。というわけで抜け目のない男だったオスカー・シンドラーは、次第に心変わりしていくというよりは個性を失っていくのである。前回の鑑賞では、私自身が心の安寧のためにそういう物語を求めていたこともあって、作品の流れに乗ってしまい、その物語に収まらない前半部分の記憶が霞んでしまったようだ。という観方は、佐藤先生の講義で注意を喚起されてたからできたのであって、素で再鑑賞してたらどうだったかな。いや、でもやっぱり方向性のぶれに違和感くらいは覚えたかな。

|

« 2008年2月 | トップページ | 2008年4月 »