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ハーフェズ ペルシャの詩

「ハーフェズ」とは、記憶する者、保管する者、保護する者、というような意味で、コーランをすべて暗誦できる者に与えられる称号である。いくら人種が入り混じった国だとはいえ、麻生久美子がイラン人というのはちょっと無理があるんじゃないかと思ったが、母親がチベット出身という設定だそうな。彼女が演じるナハードは、チベットで育ったためコーランの知識が乏しい。彼女の父親はイスラム法の師であり、神秘主義教団とは対立関係にあったが、娘の帰国を機に和解することにし、娘のための家庭教師を教団から招く。派遣されたのは、最近ハーフェズの称号を得た青年シャムセディンである。

 で、二人は恋に落ちたために引き離され、彼女は別の男の許に嫁がされる。夫となった青年もまたシャムセディンという名であった。ハーフェズのシャムセディンは、ナハードの父親に罪を許す代わりに「鏡の請願」という行を成し遂げるよう命じられる。七つの村の七人の処女に鏡を磨いてもらうというもので、本来は恋を叶えるために行うのだが、父親は恋を忘れるためにこれを行えと言う。ハーフェズは承諾し、行を開始するが、それを知った裁判官は「恋を忘れるために鏡の請願を行うのは掟に反する」として、ナハードの夫のシャムセディンにハーフェズを追って行を中止させるよう命じる。二人のシャムセディンの旅路は交錯し、やがて彼らの存在そのものも入り混じっていく。

 というストーリーは大変良いと思うんだけどね。いかんせん判りにくい。「難解」なんじゃなくて、技術上の問題だと思うよ、これは。撮影だけ取っても、1カットが短い上にカットとカットの繋がりが判りにくい。「型に捉われない」と「未熟」または「拙劣」は違うよね。

 舞台はイラン南部、パキスタンとの国境近くで、開発から取り残された因習的な地域だという。「鏡の請願」という迷信じみた儀式は監督の創作だが、映画を観たイラン人でさえ実在する信仰だと思い込んだという。つまり、そういうものがあってもおかしくない地域だと思われている、ということだ。神秘主義教団や律法の師といった権威に対する批判を含んでいるにもかかわらず検閲を通ったのも、頑迷固陋なその地に対する批判であって、「まともな」イスラムに対する批判ではないと受け止められたかもしらんなあ、とか余計な憶測をしてしまう。

 大地は乾き切って、村や家々はみすぼらしいが、女性の衣装は色鮮やかで美しい。イラン女性というと真っ黒なチャドルというイメージだが、やっぱりパキスタンに近いからなのか、服もヴェールも実に色とりどりで、見事な刺繍が全面に施されている。音楽もよい。イランの伝統楽器ドタール(二弦)の独奏は、CDで聴いたことはあっても映像で見るのは初めてだったんだが、たった二本の弦でよくあれだけ多彩な音が出るものだと驚嘆する。ちなみに麻生久美子の登場場面のBGMだけはチベットの音楽でした。南方だけあって、肌の色が濃い人が多かった。ハーフェズ役のメヒディ・モラディはテヘラン出身で色白なんだけど役のために肌を焼いたそうで、黒くなってるというよりは赤くなってて、ちょっと痛々しい。イケメンなんだけど声が高くて子供っぽいのが惜しいな。

 結婚式を控えたナバードが顔を糸で擦られてるんだが、あれは脱毛やね。日本人にはあんまり必要ないと思うんだけど。脱毛はイスラム全般の文化だが、未婚女性は顔の無駄毛処理はしないのが普通なんだそうな。ほかのカップルの結婚式のシーンもあるが、イランは性に関する表現の規制が非常に厳しいので、初夜の描写はもちろん省略される。寝床が映し出され、次のシーンは夫が川で水浴びをしている。ムスリムが沐浴する条件の一つが、「性交後の浄め」である。つまり事後ということだ。そして次のシーンでは、夫がハーフェズに「妻はもう処女ではなくなった」と告げる。

 ペルシア語の発音は、日本人にとっては結構簡単だ。実は文法もかなり規則的なので憶え易い。ほな、なんで私がペルシア語を習得できないかというと、文字がラテン文字でも漢字でもないのは、それだけでかなりの障害になるのですよ(ロシア語もな)。ペルシア語を生で聞いたことはないし、イラン映画もかれこれ数年観てないんだが、麻生久美子のペルシア語の発音はかなりきちんとしていたと思う。まあ台詞少ないし外国育ちという設定だから、多少ぎこちなくても不自然ではないんだろうけど。

 というか映画全体を通して、どの役者もえらくゆっくりはっきり喋ってて、非常に聞き取りやすかったのでした。『君のためなら千回でも』のダリー語は、ペルシア語に非常に近いんだが(だからイランで吹き替えられたペルシア語版『荒野の七人』が、そのままアフガニスタンで上映できる)、もっと早口で聞き取りにくかったぞ。『ハーフェズ』のペルシア語は、教材のCD並みに聞き取りやすかった。というか、私が持ってる教材でも、後ろのほうになってくるともっと早口で滑らかで抑揚が大きい、つまり「流暢」だ。役者たちの、ゆっくりはっきりした抑揚の乏しい喋りは方言なんだろうか。それとも演技が下手で台詞を棒読みしてただけなんだろうか。そんなことが観ていて気になってしまったのでした。

『ハーフィズ(ハーフェズ)詩集』感想

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