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ノーカントリー

 神戸を去る直前に駆け込みで三本観てきておいて、本当によかった。引っ越してからこっち、とにかく余計な用事が次から次へと出てきて、『ノーカントリー』でさえようやく観に行くていたらくですよ。近場ではすでに公開終了していて、横浜まで行く。駅から映画館まで十分以内のはずなのに、電車を下りた途端、出口を間違えて道に迷う。もちろん迷うことを見越して、上映開始時間の四十分前に横浜に着いたのに、映画館に着いたのは五分前でした……なぜ?(帰路は迷わなかったので十分以内でしたよ) そして窓口には長蛇の列。この映画館に限らないんだが、どうしてシネコンって客が大勢並んでるのに窓口を二つも三つも閉めておくんだろう。なんのための窓口だ。しかも上映開始直前の作品があってもお構いなしだ。予告が長かったから、なんとか間に合ったけどな。

 同じ題材(物語)が表現形態によってどう変わるか、ということに興味があるので、映画と原作の双方を鑑賞することもある。『ノーカントリー』も映画がおもしろかったら原作を読むつもりでいたんだが、あまりのコーエン兄弟節に読みたくなくなってしまった。数年して余韻が冷めたら読んでみよう。

 後先考えない行動が、どんどん悪い方向へ転がっていく、というお馴染みの展開である。ハビエル・バデム演じる殺し屋は理不尽で怪物的、まさに「暴力」の象徴であるが、こうしたキャラクターもコーエン兄弟作品にしばしば登場する(『オー・ブラザー』の聖書セールスマンとか、『赤ちゃん泥棒』の賞金稼ぎとか)。ただし今回はユーモアが排除され、完全に怪物と化している。で、そのあまりの怪物ぶりが馬鹿馬鹿しく、ブラックユーモアになっているという妙。殺し屋が使っている謎の武器は、原作と同じだそうである。コーエン兄弟が原作を採用した最大の理由は、この武器が気に入ったからなんじゃあるまいか。これがただの銃だったら、怪物的でも馬鹿馬鹿しくもなくなってしまう。

 原題はNO COUNTRY FOR OLD MENであり、そのとおりに老いた保安官が合間合間に「理解できない犯罪が増えた」「この国は変わってしまった」と愚痴を零すのだが、これはあんまり真に受けないほうがいいと思う。キャラクターとしては『ファーゴ』の女性署長と同じ立ち位置である。『ファーゴ』では滑稽さの集積から生まれる陰惨な犯罪に、この女性署長の健全さが素晴らしいバランスを与えている。観ているほうも、次第に陰鬱になってくる気分が完全に落ち込む間際で彼女によって引き上げられ、安堵できる。しかしコーエン兄弟は、観客の気分なんて考えてくれてないと思う。彼らが考えているのは、ただただ作品のバランスのことだけだろう。女性署長の健全さについても、「こういう人もいる」くらいにしか捉えてないんじゃないか?

 で、『ノーカントリー』の老保安官だが、彼の愚痴に共感する人もいれば、違和感を覚える人もいるだろう。しかしこれはコーエン兄弟にしてみれば、「原作がそうだから」という以上の意味はないと思う。原作ではメッセージだったかもしれないが、映画ではメッセージでもなんでもない(それを確認するには原作を読むべきなんだが、今はまだコーエン兄弟節にどっぷり浸かっていたい)。そもそもキャストがトミー・リー・ジョーンズという時点で、ある種のパロディになっている。予告でトミー・リー・ジョーンズが愚痴ってるのを観て、コーエン兄弟はあのCMを知ってるのかと思いましたよ。そうでなくても、あのCMはジョーンズのこれまでの役のパロディで、つまりは彼がああいう役をやればもはやパロディになるという共通認識が出来上がっているのである。

 コーエン兄弟の言うことは、真に受けないほうがいい(例;「『ファーゴ』は実際に起きた事件に基づいている」「『オー・ブラザー』は『オデュッセイア』にインスパイアされた」)。作品にも、メッセージなんてないのである。彼らは映画に最大級の敬意を払っている。それだけは疑いようがない。しかし観客には、あんまり敬意を払っていないと思う。彼らがああやって技巧の限りを尽くした作品を作るのは、映画への敬意とはまた別に、ひたすら観客を煙に巻くためだけなんじゃなかろうか。彼らの作品を誉める人も貶す人も(そして、「『○○○』はいいけど『×××』は駄目」とか言う人も)、すべての観客は等しく煙に巻かれているのだ。そして私は、手抜きには腹を立てるけど、ただ他人を舐めた真似をするためだけに才能と手間を費やし、心血注ぐような態度を取られるのは大好きなのである。

 なんでもない動作や遣り取りのちょっとしたもたつきを微妙にいやーな感じに撮るのが、なんであんなに巧いんだろう。壁の汚れとかシャツの汗染みとかの撮り方も相変わらず巧かった。今回は音楽が一切なしだが、音の緊迫感がすごい。ハビエル・バデムのキモさについては今さら言うまでもない。あの異質さはアメリカ人には演じられないと思うが、ああいった異質さを抱え込んでいるのが、アメリカという国の特質であろう。ウッディ・ハレルソンが、物々しく登場しておいて期待どおりあっさり殺されてくれるのも、ある種のパロディだよな。いやほんとに期待どおりでした。ケリー・マクドナルドは巧いが印象は薄い。女性がともすれば印象薄くなりがちになるのが(そうでない作品も多いが)、コーエン兄弟の唯一の弱点と言えるかもしれない。

 しかしブラッド・ピットが殺人鬼を演じる企画が流れてしまって残念だ。非常に残念だ。コーエン兄弟がブラピをどう料理するか、ものすごく楽しみだったのに。しかも「第二次大戦中、東京大空襲に行った爆撃が撃墜され、一人の米兵が敵地日本に取り残される。彼はアラスカを目指して東京から東北、北海道へとたった一人で日本を縦断する。その間、出会った人間を一人残らず殺すんだ」「しかも彼は一言も喋らない。日本語がわからないから」(コーエン兄弟インタビューより)。ぐわー、すごく観たかった。

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殺伐とした恋愛小説

 そろそろ言ってもいいだろう、と思うので言う。『グアルディア』の文体は非常に不評であった。読み難い、というのである。それに比べて、ノベライズと『ラ・イストリア』の文体は読み易いとのことであった。担当の方たちにも言われたし、ネットでもそうした感想を見つけることができる。文体に読み難さ読み易さがあるということ自体はいいんだが、「第一作だから『グアルディア』の文章は下手」「二作目以降だから巧くなってきている」という評は、非常に心外である。確かに技術的に巧くなってる部分はあると思う(なければ困る)。しかし文体そのものについて言えば、あれはわざとだ。

 文明崩壊から数百年後の、変容し混沌としたラテンアメリカの異質な世界を描くために、あの混沌とした文体は必要だったのである。読み難いのは当然だ。いや、読者の方々には御面倒を掛けて申し訳ないと思いますし、何よりデビュー作でやるこっちゃないというのは解っています。要するに『グアルディア』という作品がデビュー作向きじゃなかったということですね。で、ノベライズはノベライズだからああいう文体にしたのだし、『ラ・イストリア』は『グアルディア』と同一世界だけれど、文明崩壊直後だし、作品世界の文化は現実世界(21世紀初頭)からそれほど掛け離れていないし、(現実の)現代メキシコの文化も北米の影響が強い(日本人にとってそれほど異質でない)から、比較的簡潔な(「読み易い」)文体にしたのです。『グアルディア』には未熟な部分が多々あるのは判ってるけど、文体だけに限って言えば、「初めてだから」「書き慣れてないから」ああなんだと思われるのは、ものすごく心外だ心外だ心外だ。

 しかし「処女小説」というのは「初めて書いた小説、もしくは初めて公表した小説」だからいいとして(それにしても気持ち悪い言葉だな)、『グアルディア』が「初めて書いた小説」だと思っている方たちが何人もいるようです。その情報はいったいどこから出てきたんでしょうか。『グアルディア』の前にも長編や短編を何作か書いてるし、作品ごとに文体は変えてきた。そのうちの一作、某新人賞で三次選考通過まで行った長編は、現代を舞台にした恋愛小説である。『グアルディア』の文体で「現代を舞台にした恋愛小説」を書くわけないやん。いや、それはそれですごいものになるかもしらんけどな、少なくとも小説す○○新人賞では下読み段階で落とされるやろ。

 私が初めて完成させた長編小説は、友人が作演出した舞台劇を基にしたものだった。友人との連名で日本ファンタジーノベル大賞に応募してみたところ、一次選考通過だった。ほかの年ではどうなのか知らないが、その時は一次選考の次は最終選考だった。それまで私は小説を書こうとしては挫折することの繰り返しだったので、いきなりの快挙に有頂天になった。しかしどう評価されたのかが判らない。当時、原作の友人も含めて、私の周囲には小説を読まない人ばかりだった。頼み込んで読んでもらっても、「意味不明」「難しくて最後まで読めなかった」等、散々であった。件の友人も、自分の過去の作品に対して完全に関心を失っており、上演時を懐かしむ以上のことはしなかった。ちなみに元になった芝居はかなり荒唐無稽であり、小説も敢えて整合性は無視した構成で、文体も『グアルディア』に輪を掛けて混沌としている。もちろん意図したものですよ。

「もっとわかり易いもの」を書くしかないんだろうか、ということで書いたのが、前述の恋愛小説である。三次選考止まりで終わった後(寸評なし)、別の二つの新人賞に(その都度リライトして)応募し、また数人の人に読んでもらったんだが、評価は真っ二つに分かれた。新人賞Aでは小説○○るよりいい線行ったんだが、落とされた理由というのが「あまりにも殺伐としている」。当時の友人たちの中で比較的本を読む三人(二十代半ば~三十代初め)も同様だった。主人公があまりにも冷酷だというのである。いみじくも一番若い一人は、感想を尋ねた私に開口一番叫んだ。「これ、恋愛小説じゃないじゃないですか!」 主人公が恋愛してないから、というのである。えーやん別に、主人公が恋愛しない恋愛小説があったって。主人公は16歳の少年で、恋愛感情というものが理解できていない。その彼を通して、「恋愛とは何か」というテーマを追求する。それは立派に恋愛小説だろー。

 もう一つの評価というのが、新人賞Bに代表される。Bマイナスという評価で、寸評が「御都合主義」。六十代男性の小説家二人も同じ評価だった。ちなみに新人賞Bで選考を担当したのは、B社の編集者だということであった。どこが「御都合主義」なのか。物語は主人公がある思惑を持って十以上年上の女を誘惑しようとする。年相応に非常に不器用な誘惑なのだが、そのために却って女は彼に興味を持ち、受け入れる……というものである。六十代男性小説家二人が異口同音に言うには(彼らは互いに接点はない)、「十五、六の若造が成熟した女を誘惑して、成功するはずがない」。そんな都合のいい展開があるものか、というのである。

 何を言ってるのか理解できなかったんだが、考えた末にはたと思い当たった。男が女を誘惑するという行為は、どれだけ手練手管を弄そうと、或いは本人に魅力があろうと、最終的に受け入れるか否かは女自身の決定である。無理やり従わせるのではない以上(それでは誘惑にならない)、決定権は常に誘惑される側にある。と私は思っており、作品もその前提に立っている。ところが六十代男性小説家二人(そしておそらくB社の編集者氏も)は、誘惑が成功するか否かは完全に男の側にあると思っているらしいのだ。要するに女はあくまで受身で、自由意志などないのである。そう思い当たった時には、ちょっと呆然としてしまいましたよ。あーびっくりした、すげーびっくりした。

 問題は彼らの読解力であって、私の筆力ではなかろう。主人公が恋愛感情を理解できないのは幼さゆえで、その幼さゆえの冷酷さを描こうという意図は、新人賞Aに代表されるもう一方の側に対してはかなり成功したと言える……いや、ある意味成功しすぎてしまったようだ。それが「あまりにも殺伐としている」という評であり、友人三人(彼らも互いに接点がない)のドン引きである。しかし当時の私は、意図が当たったことがとにかく嬉しくてたまらなかった。その様子に友人たちは、ますます引いていたようだった。それからしばらくして彼らからの連絡は途絶えがちになり、やがて完全に疎遠になってしまった。どうも「冷酷なキャラを書く奴」=「冷酷な奴」と思われたようなのである。そういうのはすごく困るんだけど。作品もしくはキャラクターと作者を同一視されるのは困る。同一視されたい作者もいるかもしれないけど、少なくとも私は困る。

 そんなこんなで、佐藤先生を訪ねた時、私はすっかり方向性を見失って途方に暮れていたのであった。だからその時の私の発言は、「(基本的なことは一応判っているので)、小説の書き方を教えてもらおうとは(御面倒をお掛けするのもなんですから)思いません。(道を見失って非常に困っているので)指針が欲しいのです」という意味だったのでした。それでもあんまり礼儀正しいとは言えんわな。ちなみにそのことをわざわざ『グアルディア』あとがきに書いたのは、どうも世間に流布する「佐藤亜紀」のイメージは「辛辣で怖い人」といったもののようなので、実際にはとても度量の広い人なのですよ、ということを知らしめたかったのでした。効果があったかどうかは知らん。ネタっぽく書いたのは、西の習慣に従ったまでです。

 先生は上記二作品を両方とも読んでくれた上で、ファンタジーノベル大賞応募作のほうがおもしろい、と言ってくれた。そーか好きなものを好きなように書いていいんだな、と大いに安心し、そのまま現在に至るのである。あ、でも恋愛小説も書きたくて書いたのには変わりないから、いつか気が向いたらまた書くかもしれません。殺伐としたのんを。

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沙漠に花が咲くこともある

 吉川英治賞授賞式に呼んでいただいたので、行って参りました。佐藤先生がこういった大きな賞を獲るというのは当然で必然のことで、獲らなかった今までがおかしかった、やっと状況が正常になったというかなりつつあるんだなあ、というのが今回の受賞に関する私の感想です。無論これは佐藤亜紀のファンになって数年しか経ってない人間だからこその感想であります。

「砂地に水を撒くような」とは先生自身の言葉ですが、「投げても投げても打ち返してくれる人がほとんどいない」という状況が十七年も続くというのは、ほんまに想像を絶するつらさやろなあ、それなのに愚痴も零さんとよう今まで……と深く深く感じ入るのでした。まあ砂地どころか沙漠にだって花が咲くこともあって、それは貴重であると同時にとても美しいものなのです。そして選考委員代表の伊集院静氏の「すごい新人が出てきた。(中略)この人は筆一本で食っていけるでしょう」という途轍もない評には、もはや言葉もありません。あ、念のために言うと、この意見が選考委員の方々全員の意見を代表しているわけではありませんよ。

 授賞式の後は祝賀会で、二時間余り続いたのですが、佐藤先生とその周囲に集う人たちを眺めたり、お話をしたりしているうちに、あっという間に過ぎてしまいました。帝国ホテルで何かいろいろ御馳走も出てたけど、ほとんど食っとらん。二次会三次会と参加して、気がついたら終電に間に合いませんでした。空いてた店で始発まで時間を潰しました。ゲロの臭気が漂う朝の繁華街を帰るなんて、何年ぶりだろう。

 伊藤計劃氏が来ていらして、紹介していただきました。話しやすい良い方でした。気を使ってくれたのかな。で、伊藤氏が言ってはったのですが、「小説家になれてとにかく嬉しかったのは、自分が読んでる本の作者に実際に会えるようになったことだ」。……なんだろう、それに比べて私のこのテンションの低さは。もちろん私にとっても良い作品を書く作者と知り合えるというのはとても嬉しいことだけど、それはその出会いによって得られるものの価値の高さに対する喜びであって、それに伴う感動というか高揚というかは……ほぼない。祝賀会会場には生浅田次郎とか生宮部みゆきとか生大沢在昌とかおって、間近で見てしまったりしたわけですが、「わーすげー(棒読み)」以上の感慨が湧いてこない。先生の受賞、式に参加できたこと、いろんな人と知り合えたことはとっても嬉しかったわけですが、なんでこんなにテンションが低いんだろう、ほんま私ってつまらん人間やな、とか思ってたりしたのですが。

 話は変わりますが、私は徹夜ができません。執筆も終盤に差し掛かってくると、むちゃむちゃテンションが上がって、一日二、三時間しか睡眠が必要なくなるのですが、それでも二、三時間は眠らないと駄目なのです。しかしこの日は、「なんか相変わらずテンション低いなあ」とか思いつつ、帰路に就くまで眠気どころか疲労もまったく感じませんでした。要するに、自覚がないだけで実はめちゃめちゃテンションが高かったようなのでした。やっぱりいろいろ嬉しかったからだろうな。先生、ありがとうございました。改めて、おめでとうございます。

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お引越しその後

 いやはや大学入学以来、引越しは何度も体験しているんだが、今回はトラブルにトラブルが重なって、かつてない面倒な引越しになってしまいました。入居から一週間も経ってようやく生活が平常化しつつある(したのではなく、しつつある)有様です。今まで比較的小さな駅周辺(京都深草、東京阿佐ヶ谷、神戸垂水など)にしか住んだことがなかったのですが、今度の最寄の駅はとても大きいです。大きすぎて、周辺の街も店が多すぎ道が込み入りすぎて、どこに何があるのかさっぱりわかりません。すでに何度か道に迷いました。うう。

『ミカイールの階梯』ですが、申し訳ありません。遅れています。理由はいくつかあります。一つは「アポカリプス以後の中央アジア」の世界観の構築に当初の予定より手間取ってしまったことですが、これは概ね片付きました。ほかに大きな理由として、内輪のことで本当に申し訳ないんですが、なんというかその、私は経済上の事情から家族と同居しているのですが、「家にいる=暇」と思われがちで、どうにもその誤解を解くことができないのです。それは以前からだったのですが、困ったことにその誤解からくる干渉が次第に大きくなりつつあります。同居している以上は已むを得ないといえばそうなので、とにかく環境への適応に努めてきたのですが、一日でも早い脱稿を目指すなら適応より避難の努力をすべきだ、という結論に先月ようやく達しました。幸い今度の住所は近辺に一時避難に適した場所がたくさんあります。

 というわけで、「『ミカイールの階梯』はどうなってるんだ」と思っておいでの方がおられましたら、申し訳ありません。もうしばらくお待ちください。

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