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殺伐とした恋愛小説

 そろそろ言ってもいいだろう、と思うので言う。『グアルディア』の文体は非常に不評であった。読み難い、というのである。それに比べて、ノベライズと『ラ・イストリア』の文体は読み易いとのことであった。担当の方たちにも言われたし、ネットでもそうした感想を見つけることができる。文体に読み難さ読み易さがあるということ自体はいいんだが、「第一作だから『グアルディア』の文章は下手」「二作目以降だから巧くなってきている」という評は、非常に心外である。確かに技術的に巧くなってる部分はあると思う(なければ困る)。しかし文体そのものについて言えば、あれはわざとだ。

 文明崩壊から数百年後の、変容し混沌としたラテンアメリカの異質な世界を描くために、あの混沌とした文体は必要だったのである。読み難いのは当然だ。いや、読者の方々には御面倒を掛けて申し訳ないと思いますし、何よりデビュー作でやるこっちゃないというのは解っています。要するに『グアルディア』という作品がデビュー作向きじゃなかったということですね。で、ノベライズはノベライズだからああいう文体にしたのだし、『ラ・イストリア』は『グアルディア』と同一世界だけれど、文明崩壊直後だし、作品世界の文化は現実世界(21世紀初頭)からそれほど掛け離れていないし、(現実の)現代メキシコの文化も北米の影響が強い(日本人にとってそれほど異質でない)から、比較的簡潔な(「読み易い」)文体にしたのです。『グアルディア』には未熟な部分が多々あるのは判ってるけど、文体だけに限って言えば、「初めてだから」「書き慣れてないから」ああなんだと思われるのは、ものすごく心外だ心外だ心外だ。

 しかし「処女小説」というのは「初めて書いた小説、もしくは初めて公表した小説」だからいいとして(それにしても気持ち悪い言葉だな)、『グアルディア』が「初めて書いた小説」だと思っている方たちが何人もいるようです。その情報はいったいどこから出てきたんでしょうか。『グアルディア』の前にも長編や短編を何作か書いてるし、作品ごとに文体は変えてきた。そのうちの一作、某新人賞で三次選考通過まで行った長編は、現代を舞台にした恋愛小説である。『グアルディア』の文体で「現代を舞台にした恋愛小説」を書くわけないやん。いや、それはそれですごいものになるかもしらんけどな、少なくとも小説す○○新人賞では下読み段階で落とされるやろ。

 私が初めて完成させた長編小説は、友人が作演出した舞台劇を基にしたものだった。友人との連名で日本ファンタジーノベル大賞に応募してみたところ、一次選考通過だった。ほかの年ではどうなのか知らないが、その時は一次選考の次は最終選考だった。それまで私は小説を書こうとしては挫折することの繰り返しだったので、いきなりの快挙に有頂天になった。しかしどう評価されたのかが判らない。当時、原作の友人も含めて、私の周囲には小説を読まない人ばかりだった。頼み込んで読んでもらっても、「意味不明」「難しくて最後まで読めなかった」等、散々であった。件の友人も、自分の過去の作品に対して完全に関心を失っており、上演時を懐かしむ以上のことはしなかった。ちなみに元になった芝居はかなり荒唐無稽であり、小説も敢えて整合性は無視した構成で、文体も『グアルディア』に輪を掛けて混沌としている。もちろん意図したものですよ。

「もっとわかり易いもの」を書くしかないんだろうか、ということで書いたのが、前述の恋愛小説である。三次選考止まりで終わった後(寸評なし)、別の二つの新人賞に(その都度リライトして)応募し、また数人の人に読んでもらったんだが、評価は真っ二つに分かれた。新人賞Aでは小説○○るよりいい線行ったんだが、落とされた理由というのが「あまりにも殺伐としている」。当時の友人たちの中で比較的本を読む三人(二十代半ば~三十代初め)も同様だった。主人公があまりにも冷酷だというのである。いみじくも一番若い一人は、感想を尋ねた私に開口一番叫んだ。「これ、恋愛小説じゃないじゃないですか!」 主人公が恋愛してないから、というのである。えーやん別に、主人公が恋愛しない恋愛小説があったって。主人公は16歳の少年で、恋愛感情というものが理解できていない。その彼を通して、「恋愛とは何か」というテーマを追求する。それは立派に恋愛小説だろー。

 もう一つの評価というのが、新人賞Bに代表される。Bマイナスという評価で、寸評が「御都合主義」。六十代男性の小説家二人も同じ評価だった。ちなみに新人賞Bで選考を担当したのは、B社の編集者だということであった。どこが「御都合主義」なのか。物語は主人公がある思惑を持って十以上年上の女を誘惑しようとする。年相応に非常に不器用な誘惑なのだが、そのために却って女は彼に興味を持ち、受け入れる……というものである。六十代男性小説家二人が異口同音に言うには(彼らは互いに接点はない)、「十五、六の若造が成熟した女を誘惑して、成功するはずがない」。そんな都合のいい展開があるものか、というのである。

 何を言ってるのか理解できなかったんだが、考えた末にはたと思い当たった。男が女を誘惑するという行為は、どれだけ手練手管を弄そうと、或いは本人に魅力があろうと、最終的に受け入れるか否かは女自身の決定である。無理やり従わせるのではない以上(それでは誘惑にならない)、決定権は常に誘惑される側にある。と私は思っており、作品もその前提に立っている。ところが六十代男性小説家二人(そしておそらくB社の編集者氏も)は、誘惑が成功するか否かは完全に男の側にあると思っているらしいのだ。要するに女はあくまで受身で、自由意志などないのである。そう思い当たった時には、ちょっと呆然としてしまいましたよ。あーびっくりした、すげーびっくりした。

 問題は彼らの読解力であって、私の筆力ではなかろう。主人公が恋愛感情を理解できないのは幼さゆえで、その幼さゆえの冷酷さを描こうという意図は、新人賞Aに代表されるもう一方の側に対してはかなり成功したと言える……いや、ある意味成功しすぎてしまったようだ。それが「あまりにも殺伐としている」という評であり、友人三人(彼らも互いに接点がない)のドン引きである。しかし当時の私は、意図が当たったことがとにかく嬉しくてたまらなかった。その様子に友人たちは、ますます引いていたようだった。それからしばらくして彼らからの連絡は途絶えがちになり、やがて完全に疎遠になってしまった。どうも「冷酷なキャラを書く奴」=「冷酷な奴」と思われたようなのである。そういうのはすごく困るんだけど。作品もしくはキャラクターと作者を同一視されるのは困る。同一視されたい作者もいるかもしれないけど、少なくとも私は困る。

 そんなこんなで、佐藤先生を訪ねた時、私はすっかり方向性を見失って途方に暮れていたのであった。だからその時の私の発言は、「(基本的なことは一応判っているので)、小説の書き方を教えてもらおうとは(御面倒をお掛けするのもなんですから)思いません。(道を見失って非常に困っているので)指針が欲しいのです」という意味だったのでした。それでもあんまり礼儀正しいとは言えんわな。ちなみにそのことをわざわざ『グアルディア』あとがきに書いたのは、どうも世間に流布する「佐藤亜紀」のイメージは「辛辣で怖い人」といったもののようなので、実際にはとても度量の広い人なのですよ、ということを知らしめたかったのでした。効果があったかどうかは知らん。ネタっぽく書いたのは、西の習慣に従ったまでです。

 先生は上記二作品を両方とも読んでくれた上で、ファンタジーノベル大賞応募作のほうがおもしろい、と言ってくれた。そーか好きなものを好きなように書いていいんだな、と大いに安心し、そのまま現在に至るのである。あ、でも恋愛小説も書きたくて書いたのには変わりないから、いつか気が向いたらまた書くかもしれません。殺伐としたのんを。

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