お蔵出し6
鴉の右目の物語 6
「女に魔術の心得は無かった。妖魔を想う一念が、宝珠と己が身を繋いだのだ。妖魔は女の胸を裂き、心臓ごと宝珠を取り出した。女は翌日発見された。町の役人は単純な殺人と判断し、それ以上の捜査は行わなかった。亡骸は共同墓地に葬られた」
黒マントの青年は口を閉ざし、わずかに身じろぎした。それきり言葉は発せられず、理髪師は物語が終わったことを察した。
「なかなか興味深い話だった」禿頭を一つ撫で、理髪師は感想を述べた。「つまり妖魔と契約を結ぶのは愚か、情を求めるのはもっと愚かだというのだな。しかしその女も、愚かだが哀れだな。最初から村人たちが親切にしてやれば、馬鹿な考えなど起こさなかっただろうにな」
語り手は沈黙を守った。理髪師は続ける。
「で、その妖魔はどうなった? 徳の高い神官にでも調伏されたのだろう?」
「いいや」
やわらかい声音で、語り手は答えた。
「その妖魔を知っていたのは、殺された薬師の女のみ。事の顛末を知る者は誰もいない」
「では、なぜあんたは知っている? ただの作り話か、これは?」
「いいや」
再びやわらかな声音が発せられる。
「この山を越え二里ほど南へ向かうと、薬師の夫婦が住んでいた村がある。村人たちのなかには、まだ彼らを覚えている者もいる」
……では、なぜあんたは知っている?
理髪師は、口をわずかに開いたまま絶句した。悪寒めいたものが背筋に忍び寄る。
そうだ、鴉だ――物語の最初に登場したきりの青い隻眼の鴉。妖魔が獣に姿を変えるのはよく聞く話だ。あれは妖魔だったに違いない。
大樹の下に駆け込んで一息ついていた時、理髪師は奇妙な物音を耳にした。まるで巨大な鳥が羽ばたいたかのような……振り返ると、そこに黒マントの人物が佇んでいたのだ。
巨大な鴉のように。
思わず頭を振る。まさか、そんな馬鹿なことが。先刻、語り手が身体の向きを変えた際、フードの下の顔がちらりと覗いた。白い貌は彫像のように整っていたが、確かに両目とも揃っていた。
「雨が上がったな」
その声に、理髪師はびくりとした。彼の狼狽ぶりなど意に介さず、語り手は立ち上がった。空を覆う雲は、光を白く滲ませている。だが雨は霧に変わり、面紗のように周囲を包み始めていた。
「人間の情など妖魔は持たぬ」
空を仰ぎ、独りごちるように彼は呟いた。一陣の風が吹き、フードを撥ね除ける。肩に背に、黒髪が流れ落ちた。
「青い宝珠は女の血に染まり、色を変えていた。元に戻すのは妖魔にとって造作も無いことであったが……」
振り返り、彼は理髪師に面を晒した。非人間的なまでに美しい白皙に光る双眸。
左は青、右は紫。
「……っ」
理髪師は立ち上がろうとした。逃げるつもりだったのか、逆に相手に詰め寄ろうとしたのかは彼自身にも定かではなかった。どのみち腰を抜かしていたのだ。
もはや理髪師には一瞥もくれず、青年――もしくは妖魔は歩きだした。黒い衣と黒い髪が、翼のように翻る。その姿は霧に飲み込まれ、たちまちのうちに見えなくなった。
(了)
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