« ノーカントリー | トップページ | モンゴル »

ウルビーノのヴィーナス展

 十五分の遅れで上野に到着。待ち合わせ場所が駅から離れている場合、道に迷うことを想定して十五分以上の余裕を持たせるんだが、今回は改札前だったので電車に乗り遅れさえしなければ大丈夫、と思っていたら……「乗り換え駅を乗り過ごす」というのは想定外でした。電車の中での読書は危険だ。東京に住んでた頃、上野公園には何度か行ったことあるから大丈夫、と高を括ってたけど、今の住所から行くのは初めてだろうが。馬鹿だろ、おまえ馬鹿だろ。先日、携帯を持ってないとmixiに入れないことが判明し、持たざる者は住みにくい社会になってきてんなあ、とか思ったわけですが、社会がどうとかいう以前の問題で携帯は持つべきなのかもしれない。

 平日なのにかなりの入り。まずは古典古代のヴィーナス(アフロディテ)像から。彫像のほか、小さなブロンズ像や壷などの工芸品もある。壷は非常に状態がよく、アフロディテやニンフたちの装身具や周囲の植物文様に散りばめられた小さな金の粒までが残っている。海と関連したモチーフが多い。アフロディテが海(泡)と関連付けられたのは、音が似ていたからだ。ギリシャ神話に限らず音の類似から生まれた説明神話や習合は数多あるが、なぜ駄洒落は馬鹿にされるのに、こういうのは駄洒落だと誰も言わないんだろう。掛詞もそうだ。いや、別に駄洒落を擁護する気はないんだけど。

 続いて15世紀のヴィーナス像。製作年代不明の作品や、元の形態が不明な作品が多い。何点かは長持ちの蓋等に描かれていたと推定されており、つまり元は日用品だったわけだ(長持ちは嫁入り道具で寝室に置かれたからヴィーナスが描かれた)。で、16世紀に入り、ウルビーノのヴィーナスに続く。古典古代のヴィーナスは立っているか座っているもので、横たわるのはヘルマプロディトスだけだった、と新聞の特集記事にあった。横たわるヴィーナスは言うまでもなく官能的で、だからこそ寝室に飾られるために描かれたわけだが、それに先立って「長持ちの蓋に描かれたから」構図上の必然性としてヴィーナスは横たわるようになったかもしらんなあ、とふと思う。背景やら小道具やらにいろんな隠喩が籠められていて、当時はお約束で誰にでも判ったんだろうけど、無教養な現代人である私にはもはや意味不明である。解説が不親切だ。勉強しろってか。

 ヴィーナスを巡る神話。パリスの審判とアドニスのエピソードが多い。どちらも婚礼祝いに贈られることが多かったそうだが、あんまり縁起はよくないよな。アドニスの神話は元来は再生神話だそうだけど、ルネサンス時代にその解釈が一般的だったとも思えないし。アフロディテの神話といえば、誕生とそれから例のアレスとの浮気騒動が一番知られていると、なんとなく根拠もなしに思い込んでいたが(誕生はボッティチェリのんがあるからだけど)、そうでもないのかな。確かに前者は特に物語性もないし、後者はあまりにも不謹慎すぎるかもしれない。一点だけ浮気現場ではないけどアレスとアフロディテを描いたものがあって、解説にはこれも結婚式の贈り物で「軽率さへの戒め」だった、とあったような気がする。うろおぼえ。

 最後がマニエリスムからバロックまで。会場によっては照明がガラスや画面(特にバロックの真っ黒な背景)に反射して見られたものじゃないんだが、さすがと言うべきか、反射はほとんどない。それでもガラスに影が映るのはどうしようもないから、すべてガラスなしにしてほしかったなあ。今回の展示は、彫像や絵画(額入り)だけでなく、工芸品というか日用品が多かったのが興味深かった。長持ちをはじめ、写本や陶器、箪笥など。つまり大量生産品とまではいかないが、使うことを目的とした、「芸術家」というよりは「職人」によって作られた製品で、決して一流ではない、技量もセンスもいまいちの、そのいまいち加減がね。

|

« ノーカントリー | トップページ | モンゴル »

鑑賞記2008」カテゴリの記事