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ゼア・ウィル・ビー・ブラッド

 久し振りに父と映画を観に行くことになる。で、これが観たかったわけだが、還暦を過ぎた父に2時間45分はつらかろうと思い、「2時間のん(『フィクサー』)とどっちがいい?」と尋ねたところ、「同じ金額だったら長いほうがいい」。そういう基準?

 ポール・トーマス・アンダーソンは『ブギーナイツ』と『マグノリア』を観たが、それほど感心はしなかった。私は長編の小説や漫画は群像劇のほうが好きだが(少数の人物に長く付き合うのがしんどいから)、映画はメインキャラクターに的が絞られていたほうがいいようだ。尺の問題だろうな。それにいつも同じようなことをやっている人が違うことに挑んでいると、それだけで評価が高くなる。

 というわけで、一人の男に焦点を当てた『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』。私利私欲だけに衝き動かされるこの男を、ダニエル・デイ・ルイスが演じている。彼一人でこの作品は成り立っており、ほかの登場人物はほとんど背景に過ぎない。ダニエル・デイ・ルイス以外の俳優が演じていたら、作品として成立し得なかっただろう。若い時から醜男なんだか美男なんだかよく判らない顔だったが、ここではもはや非人間的ですらある魁偉な風貌となっている。しかし後姿とか手とかは相変わらず美しいんだけどね、まあそれはともかく。

 ある意味、これは一人の男の作品だとすら言えないかもしれない。主人公は、20世紀初頭の上昇しつつあるアメリカであり、ダニエル・デイ・ルイスはその権化を演じているのだ。彼の行動原理は欲望である。愛も欲望の一種だが、彼に愛はない。他者は利用するか屈服させるかどちらかである。彼には敵も含めて、対等と言える人間はいない。第一次大戦が完全にスルーされているのも、そういう理由からだろう。アメリカに敵はいないからだ。

 彼が唯一、無関心でいられない相手がポール・ダノ演じる若い牧師だが、敵というにはあまりに小粒である。むしろ同類嫌悪に近い。彼らは二人とも他人を支配したいという欲望を共有しているのだ。違いは支配の方法が物質的か精神的か、というものである。これを単純にアメリカに置き換えてみれば、ファンダメンタリズムは「内なる敵」と言える。現代ではファンダメンタリズムは物質主義と手を携えて歩んできているようだが、その結果がこのていたらくなわけだから、やっぱり内なる敵だろう。

 しかし主人公が完全に人間性を失っているかというと、そんなことはない。息子や弟に対しては、意外なほど弱さを見せる。聴覚を失って苦しむ息子を遠方の学校へ送ってしまうのは、冷酷な行動のようだが、実際には彼は息子と向き合うことができなくて逃げ出したのだ。ただ、自分ではそうと気づくことができない。成人した息子が当然の自立心を示した時も、憎しみを向けられたとしか解釈できない。監督は半分冗談で(しかし半分本気で)「ホラー映画」と称したそうだが、確かにこれは単に一人の男にアメリカを投影した物語というより、アメリカにとり憑かれて怪物と化した男の物語なのかもしれない。

 音楽が素晴らしかった。弦楽器を中心に、美しいんだがどこか神経に障る。この世の果てのようなカリフォルニアの風景と相俟って、素晴らしい効果を上げていた。

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