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佐藤亜紀明治大学特別講義Ⅱ-1

 前置きはGTA4およびピクサーアニメのクオリティの高さと、現代アートについて。サブカルチャーという扱いでアートとは認められない場所からの挑戦に、現代アートは応えられなくなっている。その理由の一部は、単純に物量の問題である。ゲームやアニメ一本に注ぎ込まれる金銭と人材は、個人で太刀打ちできるようなものではない。

 話を聞いていて、すごくGTA4がやりたくなり、悲しくなる。しゃれにならないくらい不器用なので、アクションゲームには手が出せないのである。一番いいのは、誰か上手な人がプレイしてるのを見物させてもらうことだが、生憎、現在はそういう相手がいない。

 本題はアングル(1780-1867)を俎上に、「『歴史』による顔の剥奪」。カギ括弧付きの「歴史」である。最初の画像は、「ベルタン氏の肖像」。089  新聞社の社長だそうだけど、そんな来歴を知らなくても個人の歴史(カギ括弧付ではない)が凝縮された顔である。ただし、こういった肖像はアングルの作品ではむしろ珍しい。彼がどういったものを「美」と捉えていたのか、ということで出されたのが、女性の顔を真正面から描いた肖像。完全な左右対称の顔で、顔の片側に影さえ付けていないので、かなり異様な印象である。同じ女性を後に別の画家が描いた肖像があるが、確かに美人とはいえ、当然ながらアングルが描いたほど左右対称ではない。この完全左右対称の肖像と非常によく似た完全左右対称の女神(大きな絵の一部と思われる)もある。

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 完全左右対称の女性像というのがもう一つある。一見するとラファエロ風なんだが、 聖餅がこんなふうに立つわけがないし、こんなふうに真円なのも妙である。しかしアングルにとっては、こうでなくてはならなかった。それと同じ理屈で聖母の顔は完全左右対称で、指は長過ぎ、首の角度もちょっとおかしくなければならなかった、ということ。

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 聖性を表現というより、彼にとっての「完璧な美」を表現するには、そうでなければならなかったのである。というわけで、出てきたのが「グランド・オダリスク」。

 背骨の数が多すぎるという批判は、アングルにとっては的外れもいいところである。美しい背中を描くためには、解剖学なんかどうでもよかったのだ。なんか三十二相みたいだな、と思う。あれは聖性を表現するためのものだが、それと視覚表現とを摺り合わせた結果、写実性は無視しているが美しい仏像が生まれたわけだ。アングルも、まず「完璧な美とはこうでなければならない」という理念があって、それに適合させるために写実性を無視している。で、その理念というのはどこから来たのか、という話。

 アングルというと、古典主義の人、ということになっているが、それは当時、ロマン主義に対抗できる人材がいなかったので、アカデミーの連中が勝手に担ぎ上げただけであって、アングル自身はずっとイタリアにいて、母国の論争にはまったく無関心だったそうである。彼の絵からして、古典主義とは明らかにずれがある。その彼が、初めてイタリアに行った時の言葉が、「私は騙されていた」。何について騙されていたのか、説明はない。とりあえず、母国で習ったイタリア絵画論と、実際に現地で眺めたものとの食い違い、というのは推測できる。

 上の「聖母と聖餅」が出た時、首と身体の捻りの角度が「あれ」にそっくりだなあと思ったのだが、ここでやはり出ました。Parmigianino_003

 手の形にも共通点がありますね。つまりアングルはイタリアで、マニエリスムを発見したのではないか。画家というのはそれぞれ「ベラ・マニエラ」(美しい手法)を持っていて、それらを寄せ集めたら「完璧の美」が出来上がる――という理念に端的に示されるように、マニエリストたちは自然ではない美しさを追求した。一方、「自然というものは美しい。その自然を完璧に模写したら、完璧の美が出来上がる」という素朴な理念を持つ新古典主義は、当然ながらマニエリスムとは相容れない。

 アングルの美は自然から切り離されたものであり、まさにマニエリスムだ。その彼の影響は、19世紀ではなく20世紀の画家たちに強く及んでいる。彼らの試みを一言で言うなら、芸術を自然から切り離そうというものである。

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