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アンブレイカブル

 確か2002年にビデオ鑑賞。ネタばれ注意。

 一人のアメコミ・ヒーローの誕生を、まったくアメコミ・ヒーロー的でない手法で描いた傑作。主人公はブルース・ウィリスだし、タイトルのUnbreakable(壊れない)はDie Hard(死ににくい)を髣髴とさせるし、家族との間に溝はできてるし、そこへふざけたヅラをかぶったサミュエル・L・ジャクソンが登場して厳粛にオタク談義をするし、映像と演出はこれがまた極めて厳粛で格調高い。

 ジャクソンの役名はイライジャすなわち預言者エリヤである。単に運がいいとか勘がいい、で済まされる程度の主人公のささやかな「差異」を「超能力」であるとし、あらゆるものに徴を見出す彼は、あたかも救世主を導く預言者であるかのようだ。そしてその実、イライジャが「徴」とした出来事の一部は彼自身の作為なのである。
 霊能者を自称する人々の少なくとも一部は、自分が本当に力を持つと信じているという。なぜなら身近な人物が密かに「奇跡」を作り出し(多くは善意から)、自称霊能者は無邪気にもそれを信じてしまうからだ。

『アンブレイカブル』は、ヒーローを救世主と言い換えさえすれば、「人為的に造り出された救世主。彼は果たして本物(キリストの再来)か偽物(反キリスト)か?」という極めて宗教的な作品になっただろう。仮に「(現代に)救世主を造り出す」という話だったとしたら、やはりイライジャに当たる人物はキリストや数多の聖者たちの伝承を参考に「救世主ならこう在るべき」というマニュアルを作って、主人公がそれをなぞることを求めるだろう(で、最後には自ら主人公を誘惑する悪魔の役を演じ、主人公がそれを跳ね除ける、といったオチにでもなるか)。
 でも、あくまでも救世主じゃなくてアメコミのヒーローなんだよね。いや、まったく素晴らしい。

 そういった、いわば極めて厳粛に荘重に延々とネタ繰りを続けているのとはまた別に、映像は美しい。映像というより、光の使い方か。薄闇の中、微かな光を反射する水の表現が特に美しい。

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ハプニング

 M・ナイト・シャマラン最新作。

 私はホラー映画が嫌いだ。あー、怖がらせようとしてるなー、来るぞ来るぞ――とわかってるのに、律儀に怖がってしまう自分が腹立たしいのである。
 古典的な怖がらしがてんこ盛り、という点では『シックス・センス』よりホラーっぽい。ゆーっくりカメラが移動していって、あー、何か嫌な映像が来るぞ来るぞ来るぞ、ほら来たー、というのが延々繰り返される。で、それにいちいちびびる私。大きな音とかショッキングな映像でびっくりさせる稚拙な怖がらしじゃないだけ、まだマシだが。

 ホラーだというのを差し引いても、『アンブレイカブル』のように素晴らしくないし、『ヴィレッジ』のように美しくない。「隣人を覗くための双眼鏡」とか、微妙な引っ掛かりはあるんだけどね。

 一応、ネタばれ注意。パニックを起こしたり絶望の余り無気力になる人々がいなかったのは、異変が一日だけで終わってしまったから、ということでいいんだろう。どうやら植物が原因、という説が有力になっているようなので、異変が拡大していくと、「植物は敵だ!」「植物を焼き払え!」という『トリフィドの日』みたいな展開になるんだろうな。

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生体甲冑 Ⅱ

「生体甲冑 Ⅰ」の続き。

完全侵蝕体: 2540年、生体端末アンジェリカⅢが提唱した仮説的存在。すべての細胞が生体甲冑細胞に置き換わった着用者。JDがこれに該当する。限りなく不死身に近く、エネルギー補給は必要だが、不足すれば休眠状態に入ると推測される。ただし、元の擬似ウイルス形態および感染組織片での休眠(結晶化)は23世紀前半までには確認されているが、着用者の休眠は2643年の時点でも状況証拠しかない。

甲殻型と軟体型: 生体甲冑(変身した着用者)の行動原理は自己保存であり、それが「甲冑を纏ったような姿」にも表れている。その外見は金属的な光沢を持つ黒色の外殻(装甲)、体長2メートル強、四肢は長く、丸い頭部には目、耳、鼻などの感覚器官がなく、鋭い牙の並ぶ口は攻撃と摂食にのみ用いられる。呼吸は首と腰付近にある吸排気孔で行われ、衝撃波や音声もここから発する。感覚器は装甲の継ぎ目に集中し、特定の感覚に特化された器官ではなく、外部のあらゆる刺激を受容しているらしい。装甲はあらゆる攻撃に対し、非常に耐性が高い。そのほか、巨大な鉤爪、棘状の突起などの特徴があり、「巨大な昆虫か甲殻類」のように見える。
 2230年代、装甲を取り払ったタイプが開発された。これは「軟体型」と名付けられ、以後、装甲を持つ初期型を「甲殻型」と呼ぶ。
 体長やプロポーション、牙や鉤爪、吸排気孔などは甲殻型と変わらないが、装甲を失った表皮は、赤黒いケロイド状で、非常に無惨な印象がある。罅割れたゴムや樹皮のようにも見える。厚くて弾力があり、銃弾程度は跳ね返すが、甲殻型の装甲に比べれば遥かに脆弱である。また、感覚器も剥き出しで全身に分布するため、苦痛により鋭敏である。
 軟体型の開発目的は、凶暴性をより高めることであり、確かに目的どおり、より暴走しやすく、より大規模な破壊をもたらした。
 軟体型も甲殻型も、それぞれ個体差はないが、よく見れば微妙な違いはあるかもしれない。
 完全侵蝕体とされるJDは、通常時でも自らの遺伝子の発現を自在に操って外見を変えることができる。変身時も、目的(飛行など)に合わせて形態を変えることが可能。また、感染間もない(したがって能力が低い)着用者でも、二足歩行から四足歩行に切り替えた例があり(『グアルディア』第7章)、その際には骨格等、相応に変化していると思われる。

歴史: 1997年、遺伝子改造(組替)用の無害なレトロウイルスを開発中、偶然生み出されるが、当時は、宿主の細胞をコピーするだけの無用の長物だと見做され、そのまま埋もれる。2180年代に偶然、日の目を見、その驚異的な機能が明らかになる。兵士の戦闘力を増強する目的で実験が行われ、その過程でさらに変身能力が明らかになる。
 その力の解明は進まず、また暴走も制御できないまま、禁制兵器として封印された。しかし間もなく大災厄が始まり、なし崩し的に実戦に使用されようになる。研究された期間が短く、実際に使用された例も少ないため、データは非常に少ない。

 当初、着用者となったのは亜人(遺伝子改造によって生み出された奴隷種)のみだったが、秩序の崩壊とともに人間も着用者となる。
 実験も含め、着用者は一例残らず暴走し、大規模な破壊をもたらしている。彼らの末路についても、データは沈黙している。ただし2643年の時点では、唯一の「消滅」例として、2250年代のアジアでの核攻撃によるものが確認されている。なお、これは『ラ・イストリア』(2256年)より後のことである。

「生体甲冑 Ⅰ」 

関連記事: 「大災厄」 「ホアキン」 「亜人」

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以下、ネタばれ注意。

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めくるめく七日間

 山じゃなくて、ウィークリー・マンションに籠っていたのでした。電話もネットも繋がらない環境だったので(携帯電話は持ってない)、山にいたのも同然でしたけど。眉毛を剃ったというのも嘘です。金属アレルギーなので、剃刀の類は使えません。空手バカ一代も、実はよく知りません。

 どうにもこうにも筆が進まなくて、自分でも原因がわからなくて、やはり独りになれない環境がよくないんじゃないか、でも家族と同居はデビュー前の02年からで、以来『ラ・イストリア』までは書いてこれたじゃないか、本当に書けなくなってしまった事実を認められなくて責任転嫁をしたいだけなんじゃないか、とにかくゴチャゴチャ考えとらんと試しに一週間、独りになってみよう――と思い立ったのが6月末でした。

 これで書けないようだったら私はもうお終いだ、とまで思い詰めていて、しかしとりあえず一週間の退避を決めてから、それだけでストレスが軽減したらしく、かなり(それまでに比べれば)筆が進むようになっていたので、たぶんいけるだろう、とも思っていました。で、実際、部屋に着いて、荷物を解いて、ノートパソコンに向かった途端、

 すげー、何これ、嘘? 嘘みたいに進む? 今までの難渋が嘘? しかも長時間集中が途切れないし疲れない。というわけで、一週間書き続けてきました。肩凝りと腰痛は腕立て伏せとスクワットでしのぎ、六泊のうち二回しか外に出なかったし(ゴミ捨てを除く)、TVも点けなかった。本当に、夢のように幸せな七日間でした。

 ああ、やっぱり家族と同居が原因だったのか。いくら日中は独りでも、すべてを忘れて書き続けることができなくて、それがストレスになってたんか。

 いや、家族とは仲がいいです。しかしこういうのはやはり、折り合いとは別の次元の問題なのです。五年間はどうにかやってこられたのですが、その間ストレスが蓄積していって、気が付かないうちに限界を超えていたようです。薄々そうじゃないかなあと思っていて、でも独り暮らしするだけの経済的余裕がないので(まず引越し資金がない)、金が溜まるまで我慢して書き続けようと思っていたのですが、もう我慢していては書くことができなくなっていたのでした。

 とりあえず何が問題だったのか解明されたし(何がストレスになってたのか、そしてストレスは耐え忍ぶのではなく、解消するか回避するかしかないということ)、どうやら「ストレスを回避できる」ということが解っただけでストレスが軽減して、家でもそこそこ書き続けられるようになったらしいので、まあこれからも時々プチ家出をしながら、頑張って書いていきます。いや、これだけ書き進んで、まだ「めどが付いた」と言えないところが申し訳ないんですが。

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小説バカ一代

 眉毛を片方剃って、一週間ほど山に籠もってきます。

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生体甲冑 Ⅰ

『グアルディア』と『ラ・イストリア』に登場。スペイン語では「アルマドゥラ」armadura。これだけだと実際には、単に「甲冑」って意味なんだけど(英語だとarmor)、それはともかく。

「擬似ウイルス型の生体兵器」。感染によって宿主(人間限定)の身体能力を、飛躍的に増強する。感染者は中世ヨーロッパの甲冑のような姿に変身するので、「生体甲冑」の名がある。また、感染者は「着用者」と呼ばれる。変身した着用者を、生体甲冑と呼ぶこともある。

感染: この兵器の本来の形態は、RNA断片と蛋白質外被という、ウイルスによく似たものである。しかし最小のウイルスよりもさらに小さく、そのRNAはバラバラの断片状であって情報(遺伝子)を一切持たない。また、自己複製をしない。宿主の細胞に取り付くと、RNAのみを注入し、外被は捨てる。ここまでは通常のウイルスと同じ。しかし注入されるRNAが一定量に達するまで、感染は完了しない。入り込んだRNAは、宿主のDNA配列をコピーし、宿主の増殖機能を使ってそっくり同じ細胞を作り出す。

変身: コピー細胞(生体甲冑細胞)は元の宿主細胞と一見区別がつかないが、生化学反応が非常に高く、その結果、あらゆる機能が向上している。高速で増殖し、宿主細胞と置き換わっていく。全身に占める生体甲冑細胞の割合が一定に達すると、置換されていない元の細胞も生体甲冑細胞と同じ能力を示すようになる。すなわち、生体甲冑は人間の細胞を活性化させ、「本来の能力」を引き出す働きをするのだと解釈される。
 生体甲冑細胞への置換がさらに進むと、変身が可能になる。必要な時間は感染から約24時間とされるが、個人差がある。変身は血中のアドレナリンの上昇で喚起され、着用者が戦意を喪失すると解除される。
 変身時は、攻撃力・防御力のみならず治癒力も増大する。着用者個々人の性格とは無関係に攻撃性も高くなり、また攻撃に対しては自動的に反撃する。着用者の意志でこれを抑えるのは困難である。
 着用者の遺伝子に欠陥があったり、または正常な発現をしていなかった場合、生体甲冑によって修復される。そのため、着用者の姿形が変化することもある。

侵蝕: 細胞の置換が進むにつれて、兵器としての性能が向上する。変身がより速やかになり、また自らの意志で変身、解除が可能になる(逆に言えば、置換が進んでいない段階では、意のままに変身できない)。変身時の能力もより向上し、肉体による直接攻撃だけでなく、衝撃波による遠隔攻撃も(自らの意志で)可能になる。
 一方、攻撃の制御はますます困難になり、しばしば「暴走」と呼ばれる状態に陥るようになる。恐怖、不安などの負の感情、戦闘に対するストレスが薄れ、思考パターンも着用者本来のものから掛け離れていく。ただし、暴走中は攻撃に対して自動反撃するのみで、自ら攻撃を掛けることはない。その限りでは、暴走前より危険は少ないとも言える。
 さらには、通常時(変身していない状態)にも変化が現れる。恐怖、不安の低下は継続するが、攻撃性は感染以前より却って低下、変身時の記憶の想起に情動が伴わない、自己と周囲に対して関心が低下する、など(『ラ・イストリア』より)。
 この状態を「侵蝕」と呼ぶ。置換が進んだことによってもたらさられる状態を侵蝕と呼ぶのであって、どの段階からを侵蝕と呼ぶ、というような厳密な区分はない。侵蝕が進むと、ついには変身が解除できなくなり、永続的な暴走状態となる。攻撃してくる相手には徹底的に反撃し、完全破壊するまで止まらない。この段階が「侵蝕体」であり、着用者の人格も崩壊していると推測される。侵蝕が食い止められた例はない。
 侵蝕(置換)が進む条件は、感染からの時間および変身時間の長さ、肉体を損傷した度合い(通常時、変身時を問わない)に比例する。特に、変身時間が長いほど、変身時に肉体を損傷するほど進行する。

 23世紀前半には、着用者に強力な毒素や病原体を摂取させ、免疫機構を高めるとともに置換を促進する「強化」が行われていた。『グアルディア』第八章では週に二回の頻度だったが、これが23世紀前半当時と同じだったのかは不明。

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趣味と実益

 保育園の年中組だった頃、一つ下の女の子の家に遊びにいった。その家はちょっと変わった造りで、後で知ったことだが、建築途中で父親が建設会社と揉めて追い払ってしまい、残りを自力で建てたのだという。全体に倉庫のような印象の家だったが、その子はそれが自慢のようだった。すべての部屋を案内してもらった私は、書物をまったく見掛けなかったことに気が付いた。それを指摘すると、彼女は言った。「うち、本は一冊もないよ」

 仰天した私は、なぜかと問うた。本は、それが子供には読めない内容だろうと、身近にあるのが当たり前だったからだ。彼女は答えた。

「本なんて、なんの役にも立たないじゃん」

 4歳かそこらの子供が、そんな考えを独自に持つわけがない。大方、親が一度ならず言ったのだ。

 私が住んでいた新興(当時)住宅地には、大人げない大人が大勢住んでいて、年端もいかない子供の読書好きを散々揶揄したものだった。遊び終わった玩具を片付けただけで、「本を読む子はお利口だねえ」とか。

 上の、「本なんて、なんの役にも」発言は、当時の私には目の前で卓袱台返しされたくらいの衝撃だった。読書が「何かの役に立つ」かどうかなんて、考えたこともなかったのだ。小学校入学以降は、読書の効用を説く大人たちに遭遇することになる。曰く、「読書は頭をよくする」「読書は心を豊かにする」。前者のほうがより頻繁に耳にした。「心を豊かに」より「頭をよく」のほうが具体的だもんな。求められる頭のよさとは、この場合、当然ながら学力だ。本読むだけで勉強ができるようになるなんて、そんなお手軽なことがあるものか。私がいい反証だ(勉強できるだろう、とも耳に胼胝ができるほど言われたが)。本ばかり読んで勉強せず、授業中も本のことばかり考えて上の空である。成績がいいはずもない。

 読書は、読書のためにすべきである。ほかの効用もなくはないが、それらを主目的にするなんて、さもしい考えだ。「本なんてなんの役にも立たないじゃん」と変わらない。求めるものが「教養」やら「心の豊かさ」やらであってもだ。読書に限らないが、それ自体を目的とせず何か「役に立つ」こと、すなわち実益を求める――確かに、実益は重要である。しかし、なんにでも実益を求める、実益がなければ価値がない、とする価値観はうんざりだ。そんなものは犬に食わせろ。

 ……と、幼い頃は悲憤慷慨してたんですけどね。現在の私は、読書のための読書をしていません。常に、それ以外の目的で読んでいます。どんな目的かというと、小説を書くためです。本を探し、選ぶ基準は、直接、資料として、或いは参考にするためです。活字中毒なので、ほかに読むものがない時はなんでも読みますが、そういう時でも小説を書くために何か得られるものはないかと、常に意識しています。

 読書に限りません。映画でも音楽でも舞台でも、主目的は鑑賞ではなく、小説創作に役立つことを拾い出すためです。音楽は、執筆時の気分高揚にも役立ちます。だから、わたしには趣味と呼べるものがありません。それ自体を楽しむこと以外を主目的とするのでは、趣味とはいえないでしょう。

 なんという堕落、と忸怩たる思いです。今の私にとっては、小説を書くことが至上の価値を持つので、現在と未来だけに目を向けている限りは、すべてを小説に奉仕させるのは大変結構なことです。しかし過去があるから現在があるわけで、阿呆な価値観に晒されて怒りと悲しみでいっぱいになっていた過去の自分に対しては、これは裏切りです。本を読むのが大好きだから本を書く人になりたくて、その夢が叶ったというのに、書くために読む大人になってしまったのでした。あーあ。

 で、小説を書くことが至上なわけですが、仕事じゃなかったら、ここまで一生懸命やりません。よく、「一番好きなことは仕事にしないほうがいい」と言う人いるし、私もそういう忠告を受けたことがありますが、人それぞれです。一番好きなことだから仕事にできるし、仕事だから、ここまで一生懸命できるのです。仕事だから責任を伴いますし、もちろん報酬もあるしな。労力に対して、明らかに割りに合わないけど。しかしもちろん、なんにも貰えないよりマシです。つまり、「実益」があるからこそ頑張れるのです。

 …………つまんない大人になっちゃったなあ。

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ハイ・ファンタジーとか呼び方はどうでもええねんけど、

 いわゆる異世界ファンタジーについて。苦手である。何が苦手なのか一言で言うと、その世界設定である。つまり、「この世界の大地は球形で太陽の周りを回っているのか?」というところから気に掛かってしまうのだ。そうでないとすれば物理法則からして違うし、地形の一つとっても地殻運動に因らずに形成されたということになる。さらに主人公が現実世界からやってきたということになれば、「大気の組成は同じなのか」、「生物の化学的組成は同じなのか」(そうでなかったら食べ物が消化できないし薬も効かない)というところから気に掛かる。

 世界設定をそれほど問題としない性質の作品もあるが、とりあえず『指輪物語』の系譜にある異世界ファンタジーは、文化とか歴史とか種族とかの世界設定を綿密に作り込めば作り込むほどよいとされている。ところがそういった人文科学的な設定の作り込みに対し、自然科学的な設定はおざなりである。文化や歴史にマニアックな関心を持っている人間としては、実は人文科学的な設定にも引っ掛かりを感じてしまうことが多々あるのだが、しかしそれ以前に自然科学的な設定がおざなりであるほうが余程気になる。

 自然科学的、というと語弊があるかもしれない。科学考証云々ではなくて、文化とか国家とか以前の、風土とか動植物相のそのまた以前の、その世界の様態というか、そういう部分から気に掛かってしまうのである。だから、異世界ファンタジーを充分に楽しむことができない。最低限、というか三百歩くらい譲ってもタニス・リーの「平たい地球」レベルくらいには設定を作ってもらいたい。しかしそうした設定と物語のおもしろさは、また別物である。いくら緻密な世界設定がファンタジーの醍醐味の一つだからと言って、物理法則や化学組成、地形の成り立ちまでちまちま作り込んでおもしろくなるかというと、まずなるまい。

 しかしこれがSFなら、世界を作り込んであればあるほどおもしろくなる。ただしこれも、物語としてのおもしろさではない。細かすぎる設定は、物語のスムーズな進行の妨げになる。

 いや、SFとかファンタジーとか、ジャンルで語るとややこしくなりますね。例えば、ファンタジーとされる山尾悠子の作品の多くは、物語よりも世界の作り込みに魅力がある。つまりジャンルを問わず、世界の作り込みと物語とは、実は相容れないものだということなのでしょう。で、世に溢れる異世界ファンタジー、特に長編の多くは、やはり物語重視なわけで、だから世界の作り込みの最も基盤となるべき部分が重視されない。それが物足りないと感じる私は、物語より世界の作り込みを重視しているというわけだ。だから書き手としての私は、お蔵出し短編くらいの分量ならともかく、それ以上の広がりを描くなら、世界の作り込みをせざるを得ず、それをやるくらいだったらSFを書いていたい。

 読み手としての私は、ファンタジーでもSFでも、日常とは違った世界を舞台にした小説を読む時は、一生懸命「不信の停止」をしていて、物語やキャラクターや描写など、世界設定以外の部分がその努力を凌駕している作品ならいいんだけど、そうでないといろいろ限界なのでした。「日常とは違った世界」っていうことなら、外国や過去が舞台の小説でも同じことが言えるんだけどね。

 と、いろいろ述べてみたけど、異世界ファンタジー、特に70年代~80年代初めの海外女性作家の作品に通底する静謐な空気は、SFにも歴史小説にもないもので、私はそれがとても好きなのです。あと、「現実が舞台じゃないから」という理由で異世界ファンタジーを退ける意見には、猛然と反発しますよ。そういうことを言う人たちにとっての「現実」って、要するに「自分が知ってる世界」のことだろー。

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グッバイ、レーニン!

 今度の近所のレンタルビデオ屋は品揃えがいいし、手書きのポップを見る限り、映画が好きで知識もある店員もいるようだ。以前の近所の店に比べれば。あそこは品揃え云々以前に、「動物もの」(『フリー・ウィリー』とか『レーシング・ストライプス』とか)のコーナーに『二十日鼠と人間』が置いてある惨状だったからな。

 というわけで、前から観たかった『グッバイ、レーニン!』を借りる。ソ連の終焉は何かグダグダだったけど、東ドイツはまさに一夜にして覆った感じだった。でも東ドイツ国民にとっては、むしろその後の数ヶ月のほうが劇的だったはずだ。東西統一直前に昏睡状態に陥り、八ヵ月後に目覚めたとしたら、違う国どころか違う世界に放り出されたようなショックだろう。そのショックから母親を守ろうと、息子が周囲を巻き込んで奮闘する。

 娘もいるのだが、こちらは「何もそこまでやらなくても……」と非協力的だ。これは東ドイツ国民でない鑑賞者の意見を代弁する(と制作者が想定した)ものであると同時に、東ドイツ国民の感情の一つの側面なのだろう。過去は忘れて、現在と未来とだけに目を向けたいのだ。しかしそれは決して前向きな姿勢ではなく、むしろ過去と向き合うといろいろしんどくなってしまうからだろう。

 一方、東ドイツを「復元」しようとする息子の姿勢もまた、東ドイツ国民の感情の別の側面を表している。彼(と協力する旧東独の老人たち)は母親のためだけではなく、自分たちのためにも努力しているのだ。寝たきりの母親の部屋に彼らが作り上げた東ドイツは、在りし日の国家の真の姿ではなく、「かく在るべきだった」理想となる。それは単なるノスタルジーなどではない。部屋の外の変化を隠蔽しきれなくなってくると、その傾向はより顕著になる。

 東ドイツという国が終わってしまったことは、歓迎すべき、もしくは仕方ないこととして受け入れているが、それでも、「終わるなら、こういう形で終わってほしかった」という感情。それが、最終的に彼が作り上げた嘘に籠められたものである。

 社会主義から資本主義へ、という劇的な変化を、エピソードよりも映像で見せる手法がおもしろかった。タイトルの由来もエピソードというよりは一つの映像だ。「宙を飛ぶレーニン像」という物凄い光景は、当時は普通に見られたんだろう。それが普通だった、ということが、当時の状況の異様さを象徴している。20年近く経った現在、私たちは茶の間で笑い転げながら鑑賞したわけだけど。

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ドラムライン

 BSで放映。ニューヨークからスカウトされてアトランタの大学のマーチング・ドラムに入部(って言うのか?)した若者のお話。マーチング・ドラムを除けば何も残らない作品なんだが、そのマーチング・ドラムがとにかくかっこいい。変なユニフォームまでがかっこよく見えてくる。撮影もいいんだろうな。

 ところで、新人しごきの過程は様式美の域まで達した「モンタージュ」方式で綴られるのだが、新入生の一人が、「高校のバンドは軍隊式だったけど、ここは違う」みたいなことを言う。あれが軍隊式じゃなかったら、軍隊式ってどんなんだ。

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イースタン・プロミス

「クローネンバーグ監督、どんだけヴィゴ・モーテンセンが好きなんだ、っていう映画」だと先に観た友人に聞いていたんだが、本当にそういう映画でした。

 公開前、佐藤哲也氏が「だって『ヒストリー・オブ・バイオレンス』とどう違うんだ」と言わはって、確かに事前情報からするとそんな感じなんで返答に窮したのであるが、実際に観てみると別の意味で返答に窮する。えーと、つまり、『ヒストリー』の時は先にテーマやらストーリーがあって、そこにヴィゴ・モーテンセンという役者を当て嵌めたわけだが、今回は先にヴィゴ・モーテンセンありきだったのである。

 現代ロンドンのロシアン・マフィアの仁義とか血の絆とかいささか非合理的な暴力沙汰とか、民族色たっぷりの料理や音楽、といったものは、2、30年前のアメリカに於けるシシリアン・マフィアと同じ立ち位置で、要するにエキゾティシズム以外の何物でもないんだが、エキゾティシズムというのは考証が不正確だろうが偏見が先立っていようが、紛れもなく一種の魅力である。いくら異文化を「正しく」描いて(或いは、描こうと努力して)いようと、その魅力がなければエキゾティシズムとは呼べない。ここで言うエキゾティシズムとは、受け手にとって完全に未知な、したがってなんの先入観もない文化てはなく、わずかでも存する先入観のその最大公約数(まさしく偏見)を前提として発展させたものである。だから厳正さよりも誇張された、これ見よがしの、いかがわしくさえある魅力なのだ。しかしもちろん、正しくない上に魅力がないのは論外。

 というわけで、ロシアの貧困やら、どっぷりとした運命の重さやら、チェチェン人やらクルド人やらの錯綜といったものは、まあエキゾティシズムの一端でしかないと言える。しかし記憶にある限りではクローネンバーグ作品で料理がおいしそうなのは初めてなので、これはエキゾティシズムの効能であろう。

 ヴァンサン・カッセルは「いい齢して駄目な息子」の役だけど、いい齢といったって40歳よりはずっと若い設定だろうし、そう見える。若作りもしてるんだろうけど。彼のお陰でこの映画はいろいろ救われてる部分があると思う。とはいえ、彼もエキゾティシズムも暴力描写も含めて、すべてがヴィゴ・モーテンセンに奉仕するための機能しか持たされてないんじゃないか、と問われると、やはり返答に窮してしまうのであった。

 そして、そうなんだろうか、そうなんだろうなあ、と思いつつ、楽しく鑑賞してしまった自分に少々困惑している。なぜ楽しいのか、なぜ困惑しているのかよくわからないのも困惑の理由の一つである。今までのクローネンバーグ作品は、例えば『ヒストリー』の「使用前・使用後」みたいなセックスの対比とか、終盤のヴィゴ・モーテンセンの水浴びとか、テーマやらメタファーの描き方というか扱い方が鼻につくことが多かったんだが、今回はテーマもメタファーも何もなくてよかったんだけどね。それだけでこんなに楽しくはならないだろ。楽しそうやなあクローネンバーグ(これだけは確実だ)、と思うと私も楽しいんだろうか。いや、なんていうかその、えらいすんません。

『危険なメソッド』感想 クローネンバーグ、今度は冷静でした。

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