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ハイ・ファンタジーとか呼び方はどうでもええねんけど、

 いわゆる異世界ファンタジーについて。苦手である。何が苦手なのか一言で言うと、その世界設定である。つまり、「この世界の大地は球形で太陽の周りを回っているのか?」というところから気に掛かってしまうのだ。そうでないとすれば物理法則からして違うし、地形の一つとっても地殻運動に因らずに形成されたということになる。さらに主人公が現実世界からやってきたということになれば、「大気の組成は同じなのか」、「生物の化学的組成は同じなのか」(そうでなかったら食べ物が消化できないし薬も効かない)というところから気に掛かる。

 世界設定をそれほど問題としない性質の作品もあるが、とりあえず『指輪物語』の系譜にある異世界ファンタジーは、文化とか歴史とか種族とかの世界設定を綿密に作り込めば作り込むほどよいとされている。ところがそういった人文科学的な設定の作り込みに対し、自然科学的な設定はおざなりである。文化や歴史にマニアックな関心を持っている人間としては、実は人文科学的な設定にも引っ掛かりを感じてしまうことが多々あるのだが、しかしそれ以前に自然科学的な設定がおざなりであるほうが余程気になる。

 自然科学的、というと語弊があるかもしれない。科学考証云々ではなくて、文化とか国家とか以前の、風土とか動植物相のそのまた以前の、その世界の様態というか、そういう部分から気に掛かってしまうのである。だから、異世界ファンタジーを充分に楽しむことができない。最低限、というか三百歩くらい譲ってもタニス・リーの「平たい地球」レベルくらいには設定を作ってもらいたい。しかしそうした設定と物語のおもしろさは、また別物である。いくら緻密な世界設定がファンタジーの醍醐味の一つだからと言って、物理法則や化学組成、地形の成り立ちまでちまちま作り込んでおもしろくなるかというと、まずなるまい。

 しかしこれがSFなら、世界を作り込んであればあるほどおもしろくなる。ただしこれも、物語としてのおもしろさではない。細かすぎる設定は、物語のスムーズな進行の妨げになる。

 いや、SFとかファンタジーとか、ジャンルで語るとややこしくなりますね。例えば、ファンタジーとされる山尾悠子の作品の多くは、物語よりも世界の作り込みに魅力がある。つまりジャンルを問わず、世界の作り込みと物語とは、実は相容れないものだということなのでしょう。で、世に溢れる異世界ファンタジー、特に長編の多くは、やはり物語重視なわけで、だから世界の作り込みの最も基盤となるべき部分が重視されない。それが物足りないと感じる私は、物語より世界の作り込みを重視しているというわけだ。だから書き手としての私は、お蔵出し短編くらいの分量ならともかく、それ以上の広がりを描くなら、世界の作り込みをせざるを得ず、それをやるくらいだったらSFを書いていたい。

 読み手としての私は、ファンタジーでもSFでも、日常とは違った世界を舞台にした小説を読む時は、一生懸命「不信の停止」をしていて、物語やキャラクターや描写など、世界設定以外の部分がその努力を凌駕している作品ならいいんだけど、そうでないといろいろ限界なのでした。「日常とは違った世界」っていうことなら、外国や過去が舞台の小説でも同じことが言えるんだけどね。

 と、いろいろ述べてみたけど、異世界ファンタジー、特に70年代~80年代初めの海外女性作家の作品に通底する静謐な空気は、SFにも歴史小説にもないもので、私はそれがとても好きなのです。あと、「現実が舞台じゃないから」という理由で異世界ファンタジーを退ける意見には、猛然と反発しますよ。そういうことを言う人たちにとっての「現実」って、要するに「自分が知ってる世界」のことだろー。

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