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趣味と実益

 保育園の年中組だった頃、一つ下の女の子の家に遊びにいった。その家はちょっと変わった造りで、後で知ったことだが、建築途中で父親が建設会社と揉めて追い払ってしまい、残りを自力で建てたのだという。全体に倉庫のような印象の家だったが、その子はそれが自慢のようだった。すべての部屋を案内してもらった私は、書物をまったく見掛けなかったことに気が付いた。それを指摘すると、彼女は言った。「うち、本は一冊もないよ」

 仰天した私は、なぜかと問うた。本は、それが子供には読めない内容だろうと、身近にあるのが当たり前だったからだ。彼女は答えた。

「本なんて、なんの役にも立たないじゃん」

 4歳かそこらの子供が、そんな考えを独自に持つわけがない。大方、親が一度ならず言ったのだ。

 私が住んでいた新興(当時)住宅地には、大人げない大人が大勢住んでいて、年端もいかない子供の読書好きを散々揶揄したものだった。遊び終わった玩具を片付けただけで、「本を読む子はお利口だねえ」とか。

 上の、「本なんて、なんの役にも」発言は、当時の私には目の前で卓袱台返しされたくらいの衝撃だった。読書が「何かの役に立つ」かどうかなんて、考えたこともなかったのだ。小学校入学以降は、読書の効用を説く大人たちに遭遇することになる。曰く、「読書は頭をよくする」「読書は心を豊かにする」。前者のほうがより頻繁に耳にした。「心を豊かに」より「頭をよく」のほうが具体的だもんな。求められる頭のよさとは、この場合、当然ながら学力だ。本読むだけで勉強ができるようになるなんて、そんなお手軽なことがあるものか。私がいい反証だ(勉強できるだろう、とも耳に胼胝ができるほど言われたが)。本ばかり読んで勉強せず、授業中も本のことばかり考えて上の空である。成績がいいはずもない。

 読書は、読書のためにすべきである。ほかの効用もなくはないが、それらを主目的にするなんて、さもしい考えだ。「本なんてなんの役にも立たないじゃん」と変わらない。求めるものが「教養」やら「心の豊かさ」やらであってもだ。読書に限らないが、それ自体を目的とせず何か「役に立つ」こと、すなわち実益を求める――確かに、実益は重要である。しかし、なんにでも実益を求める、実益がなければ価値がない、とする価値観はうんざりだ。そんなものは犬に食わせろ。

 ……と、幼い頃は悲憤慷慨してたんですけどね。現在の私は、読書のための読書をしていません。常に、それ以外の目的で読んでいます。どんな目的かというと、小説を書くためです。本を探し、選ぶ基準は、直接、資料として、或いは参考にするためです。活字中毒なので、ほかに読むものがない時はなんでも読みますが、そういう時でも小説を書くために何か得られるものはないかと、常に意識しています。

 読書に限りません。映画でも音楽でも舞台でも、主目的は鑑賞ではなく、小説創作に役立つことを拾い出すためです。音楽は、執筆時の気分高揚にも役立ちます。だから、わたしには趣味と呼べるものがありません。それ自体を楽しむこと以外を主目的とするのでは、趣味とはいえないでしょう。

 なんという堕落、と忸怩たる思いです。今の私にとっては、小説を書くことが至上の価値を持つので、現在と未来だけに目を向けている限りは、すべてを小説に奉仕させるのは大変結構なことです。しかし過去があるから現在があるわけで、阿呆な価値観に晒されて怒りと悲しみでいっぱいになっていた過去の自分に対しては、これは裏切りです。本を読むのが大好きだから本を書く人になりたくて、その夢が叶ったというのに、書くために読む大人になってしまったのでした。あーあ。

 で、小説を書くことが至上なわけですが、仕事じゃなかったら、ここまで一生懸命やりません。よく、「一番好きなことは仕事にしないほうがいい」と言う人いるし、私もそういう忠告を受けたことがありますが、人それぞれです。一番好きなことだから仕事にできるし、仕事だから、ここまで一生懸命できるのです。仕事だから責任を伴いますし、もちろん報酬もあるしな。労力に対して、明らかに割りに合わないけど。しかしもちろん、なんにも貰えないよりマシです。つまり、「実益」があるからこそ頑張れるのです。

 …………つまんない大人になっちゃったなあ。

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