« ドラムライン | トップページ | ハイ・ファンタジーとか呼び方はどうでもええねんけど、 »

グッバイ、レーニン!

 今度の近所のレンタルビデオ屋は品揃えがいいし、手書きのポップを見る限り、映画が好きで知識もある店員もいるようだ。以前の近所の店に比べれば。あそこは品揃え云々以前に、「動物もの」(『フリー・ウィリー』とか『レーシング・ストライプス』とか)のコーナーに『二十日鼠と人間』が置いてある惨状だったからな。

 というわけで、前から観たかった『グッバイ、レーニン!』を借りる。ソ連の終焉は何かグダグダだったけど、東ドイツはまさに一夜にして覆った感じだった。でも東ドイツ国民にとっては、むしろその後の数ヶ月のほうが劇的だったはずだ。東西統一直前に昏睡状態に陥り、八ヵ月後に目覚めたとしたら、違う国どころか違う世界に放り出されたようなショックだろう。そのショックから母親を守ろうと、息子が周囲を巻き込んで奮闘する。

 娘もいるのだが、こちらは「何もそこまでやらなくても……」と非協力的だ。これは東ドイツ国民でない鑑賞者の意見を代弁する(と制作者が想定した)ものであると同時に、東ドイツ国民の感情の一つの側面なのだろう。過去は忘れて、現在と未来とだけに目を向けたいのだ。しかしそれは決して前向きな姿勢ではなく、むしろ過去と向き合うといろいろしんどくなってしまうからだろう。

 一方、東ドイツを「復元」しようとする息子の姿勢もまた、東ドイツ国民の感情の別の側面を表している。彼(と協力する旧東独の老人たち)は母親のためだけではなく、自分たちのためにも努力しているのだ。寝たきりの母親の部屋に彼らが作り上げた東ドイツは、在りし日の国家の真の姿ではなく、「かく在るべきだった」理想となる。それは単なるノスタルジーなどではない。部屋の外の変化を隠蔽しきれなくなってくると、その傾向はより顕著になる。

 東ドイツという国が終わってしまったことは、歓迎すべき、もしくは仕方ないこととして受け入れているが、それでも、「終わるなら、こういう形で終わってほしかった」という感情。それが、最終的に彼が作り上げた嘘に籠められたものである。

 社会主義から資本主義へ、という劇的な変化を、エピソードよりも映像で見せる手法がおもしろかった。タイトルの由来もエピソードというよりは一つの映像だ。「宙を飛ぶレーニン像」という物凄い光景は、当時は普通に見られたんだろう。それが普通だった、ということが、当時の状況の異様さを象徴している。20年近く経った現在、私たちは茶の間で笑い転げながら鑑賞したわけだけど。

|

« ドラムライン | トップページ | ハイ・ファンタジーとか呼び方はどうでもええねんけど、 »

鑑賞記2008」カテゴリの記事