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情婦

 フィクションの内容はよく憶えていられるほうだと思うが、アガサ・クリスティに限っては、読んだ端から忘れていく。高校時代、SFやファンタジー以外で読んだ小説はクリスティくらいなもので、かなりの数を読んだはずなのだが、読み返す機会があるたびに(妹Ⅰがクリスティ・ファンなので、それなりの冊数を所持している)、ストーリーやトリックをすっかり忘れていることに気づかされる。で、そういうのんとは関係ない細部(無関係なお喋りや登場人物の癖など)はピンポイントで憶えているのである。

 しかし、どういうわけか『検察側の証人』は細部は憶えてないのに、筋とトリックは憶えていたのであった。私が読んだのは戯曲じゃなくて短編のほうだけど。

 マレーネ・ディートリッヒは、十年以上前に観た『嘆きの天使』以来だ。あれは老教授のほうが印象が強かったし、ディートリッヒの曲線美も、『地獄に堕ちた勇者ども』のヘルムート・バーガーの物真似を先に観ちゃったからな。バーガーのんは、眉まで剃って作り込んでるのに地声のままで歌うんだな、とか思ったものだが、実際のディートリッヒの歌声もすごく低かったんで、ちょっとびっくりした。
 先日、同じビリー・ワイルダー作品の『サンセット大通り』(1950)で、50そこそこのグロリア・スワンソンが「老醜を晒す往年の大女優」扱いなのを観て、当時のハリウッド女優の賞味期限の短さに暗然となったものだが、2歳若いだけのディートリッヒは7年後の『情婦』でも全然、現役美人女優だ(さすがに『嘆きの天使』から27年も経ってるので、老けたな、というのが第一印象だったが)。この明暗はトーキー化を乗り越えられたか否かが大きいんだろうけど、スタイルの良し悪しもあったんじゃないかと。『サンセット大通り』でのスワンソンは、顔が老けてるというより、あのスタイルの悪さが……

 上述のとおり『検察側の証人』は詳しく憶えてないんだけど(どうせ忘れるなら、トリックを忘れたほうがよかったなあ)、『情婦』にはオリジナル部分が多く加えられているようだ。観ていて、「ここら辺、オリジナルだろうな」と思える部分がしばしばあったが、全体としてビリー・ワイルダーの作風とアガサ・クリスティの作風が巧く噛み合っていて悪くない。
 ディートリッヒ演じるヒロインのドイツ時代の回想シーンは、たぶん映画オリジナルだが、そのシーンの彼女は、なんだが『さらば、ベルリン』のケート・ブランシェットのようだった。いや、もちろん逆なんだけど。

 敗戦後のドイツの悲惨な状況を前提とすると、夫に対するヒロインの心情が重みを持つんだが、1957年当時のアメリカでは、どれだけ知られていたんだろうな、とか思ったのでした。ディートリッヒもずっとアメリカにいたしね。

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世界最大の翼竜展

 神戸にいた時、大阪で開催してたんだけど、長居公園は遠すぎたんで見送ったのでした。湘南からお台場も遠いんだけど。

 翼竜というと、コナン・ドイルの『失われた世界』ですね。ギアナ高地ですね。会場にはプテラノドンだけじゃなくて、20種を超える翼竜の化石(一部模型)が展示。翼竜の化石をきちんと見るのは初めてで、軽く衝撃だったのは、四足歩行をしていたこと。軽量化のために骨がかなり細いし、鳥と違って鉤爪も頑丈じゃないから、四つん這いにならないと身体が支えられないんだな。しかし四つん這いの体勢の骨格模型や、四足歩行のCG映像もあったんだが、かなり不気味だ。

「世界最大の翼竜」というタイトルどおり、展示の目玉はケツァルコアトルスの全身骨格模型。発見はテキサスだそうだけど、なかなか結構なネーミングですね。内モンゴル自治区で発見した亀の化石に「ガメラ」と名付けるカナダ人よりは(いくらファンだからって、よその国に埋まってた化石にそういうことをするのは如何なものかと)。
 白亜紀後期、翼竜は鳥類との競合によって巨大化していく傾向にあったそうだ。空気力学的には15メートルの翼でも飛行は可能だったそうだから、大絶滅が起こらなければそこまで大きくなったかもしれない。残念だなあ。いや、大きい動物が好きなんで。

 しかし、いくら種類が多いとはいえ(「世界最大」からハチドリサイズまで)、翼竜だけでもつものなのかと思っていたら、最後はやっぱり人工筋肉とかパーソナルジェットグライダー「メーヴェ」とかでお茶を濁していました。人工筋肉の翼(数センチ)の動きはウネウネして気持ち悪くてよかったし、メーヴェも子供たちに大人気だったけど。

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アンヘル

 知性機械サンティアゴの生体端末(の一人)。『グアルディア』の裏ヒロイン。なぜ裏なのかというと、悪役だから。作中では終始(回想シーンは除く)、悪役として自覚的に行動している。「自覚」の具体例を列挙すると、以下のようになる。

  1. 常に白いスーツを着用。サングラスを掛けていることも多い。中南米、南・東南アジア、アフリカなど熱帯・亜熱帯の植民地(元植民地)を舞台にした20世紀の映画では、しばしば白いスーツを着用した「悪い白人」が登場する。また、サングラスは20世紀後半の第三世界に於いて、しばしば「悪の象徴」である。ユカタン半島の先住民の祝祭では、悪魔の扮装にはサングラスが用いられる。或いはアフリカの内戦で自覚的に悪逆の限りを尽くす軍隊の指揮官の多くがサングラスを愛用する、という報告もある。それらの事例を踏まえた上でのコスチュームである。
  2. 彼女の軍の名称は「レコンキスタ」(再征服)である。史実を鑑みれば、ムスリムとユダヤ人を虐殺したイベリア半島のレコンキスタ(その余勢を駆って行われたのがコロンブスのアメリカ到達とそれに続くコンキスタ)、また十九世紀の南米独立戦争に於けるスペイン軍の一時的勝利もレコンキスタと呼ばれるなど、負のイメージが強い名称である。さらにシリーズに於いては、23世紀初頭、ヨーロッパから大量に押し寄せた難民が、中南米の政権を乗っ取って元からの住民を抑圧し、レコンキスタと称した歴史もある(『ラ・イストリア』)。
  3. 自らは「総統」を名乗る。要するに独裁者だと宣言しているのである。
  4. 現場に出たがる。地位の高い悪役が現場に出たがるのはお約束である。
  5. 第八、九章ではカルラにドレスをプレゼントする。捕らえた美少女にドレスをプレゼントするのは、悪役のお約束である。
  6. 第九章、ギアナ高地で現地民の集落の上をヘリで超低空飛行し、航空機を生まれて初めて目にして逃げ惑う住民たちを眺めながら、「ワルキューレの騎行」を口笛で吹く。言うまでもなく、『地獄の黙示録』のあのシーンである。

 ざっと挙げるとこれくらい。ほかにもいろいろやっている。
 キャラクター造型としては、「銀髪銀眼のクールな美形(悪役)キャラ」と「男装の麗人」のパロディを兼ねる。いや、とりあえずどんだけ顔が綺麗でも、髪が銀(白)で肌も白かったら、眉毛がないように見えると思うよ。さらに美男美女が異性装をしたら、まんま美女美男になるかというと、無論そんなことはない。だいたい、女が男みたいに男が女みたいになって、何がおもしろいんだ(中性的な魅力というのは、また別物であろう)。
『グアルディア』の舞台は服装の性差が明確な社会なので、男の服装をしている=男、という先入観がまずある。というわけで男装したアンヘルは一応、男と見做されるのだが、色素の薄さもあって脆弱な、なよなよした印象は否めない。また本人がおもしろがって、「天使のように性別がない」という噂をばら撒いている。

 一方、女の服装をするとどうなるかというと、これがなぜか「女装」になる。「アンジェリカ」であった時は、そんなことはなかったはずである。男性的な挙措にすっかり馴染んでいるので、「女らしさ」が演技過剰になってしまうのかもしれない。化粧も濃いしな。絶対、自前の胸よりでかいパッド入れてるだろうし。
 子宮切除と男性ホルモン投与という処置は延命のためだが、男装はただの酔狂、悪ふざけである。とはいえ、性別の曖昧さを前提としているのも確かだろう。彼女の性別については、読者の方々の判断にお任せします。

 暗くて重い過去があるのも美形敵キャラのお約束だが、それをも自覚し、自らを冷笑(自嘲ではない)している節がある。己が為そうとしていることが「悪」でしかないことを理解しているが故に、際限なく韜晦し続ける。
 実際、彼女は「悪」以外の何ものでもない。目的のためならどんな悪辣な手段も用いるし、その目的も単なる私怨なのかもしれない。しかしそうまでして勝利を得た時の台詞(独白)が「ざまあみろ」という辺り、いまいちクールな美形悪役になり切れていない。この柄の悪さは、幼馴染のユベールの影響である。
 彼女の目的を知るのは、ラウル・ドメニコただ一人だが、露悪的で冷笑的な「カッコつけ」はホアキンやユベールにも見抜かれていて、彼ら三人にしばしばツッコミを入れられる。また、本人も上述のようにボロを出す。

 2617年生まれ。自治都市エスペランサの科学技術庁所有の生体端末(コードネーム:アンジェリカ)の七代目であり、アンジェリカⅦ(セッティマ)AngelicaⅦと呼ばれた。彼女を殊更に「道具」「機械」と見做したがる者たちは、ラ・セッティマla settimaと番号で呼んでいた。養父であり愛人であったクリストフォロ・ドメニコを失った2638年以降はアンヘルÁngelと名乗る。

 姓を持たないが、そのこと自体は27世紀の中南米では珍しくない。先祖伝来の姓を持つ者以外は、適当な姓を名乗るか、出身地にde (英語でof, from)を付けて姓の代わりとする。アンヘルは自治都市エスペランサEsperanza(スペイン語で「希望」)の出身なので、Ángel de Esperanza、すなわち「希望の天使」となる。
 幼馴染のユベールはフランス語の影響が残るアンティリア島(要するにハイチ)出身で、アンヘルをアンジュAnge(フランス語で天使。男性名詞)と呼ぶ。Angelicaのフランス語形はアンジェリークAngéliqueだが、そのままアンジェリカと呼んでいた。発音が困難か否かという問題もあるが、彼にとって「アンジェリカ」は何人もいる生体端末の一人ではなく、幼馴染の少女ただ一人であり、また彼女が「アンヘル」となったことをどこか受け入れ難く感じているのかもしれない。

「絶対平和」(21、22世紀)の文化は、基本的に20世紀以前の文化の反復であり、アンジェリカたちもその影響を受けているが、各自、好みに違いがある。アンヘルが演じる「悪役」は、20世紀後半の大衆文化からの引用である。たぶんMANGAやANIMEも含む。音楽はクラシックよりタンゴ、それも伝統的なものよりピアソラを好む。アンジェリカⅤが好きだったオペラ『ラ・トラヴィアータ』については、「娼婦が一人死ぬだけの地味で暗い演し物」と言ってのけた。

 歩行の際、ステッキを用いるのは、生体端末の特徴の一つである肢体麻痺の名残。全般に運動障害が残るが、ごく軽症なので「単なる不器用」にしか見えないことが多い。

関連記事: 「生体端末」 「知性機械」 「亜人」 「ホアキン」 「カルラ」 

参考記事: 「アンブレイカブル」

 以下、ネタばれ注意。

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イブラヒムおじさんとコーランの花たち

 60年代、パリの裏通り。風景、ファッション、音楽。父親と二人で暮らすユダヤ人の少年は、豚の貯金箱に貯めたお金で娼婦を買い、「プレゼントを持ってくるものだ」と彼女に言われると、大事にしていた古びた縫いぐるみを贈る。

 少年のアパートの向かいで雑貨屋を営むトルコ人のイブラヒムはなんでもお見通しで、これは何やら意味不明の人生訓を垂れる「東洋の賢人」の系譜に連なるんだろうけれど、オマー・シャリフだから説得力がある。『スターダスト』でのピーター・オトゥールの邪悪な王様も素晴らしかったし、『アラビアのロレンス』組(二人とも1932年生まれ)には胡散臭くも素敵な老人として末永く活躍してほしい。
 ところで『オーシャン・オブ・ファイアー』の時も気になったのだが、いつから彼はすきっ歯になってしまったのだろう。

 イブラヒムおじさんは少年を「モモ」と呼ぶ。少年の正式な名はモイーズMoïse(モーセ)で、ユダヤ風の名前ということになるらしい。訪ねてきた母親に、彼は「名前はモモ。モハンマドだよ」と名乗り、母子の対面を拒む。モモMomoとはモーリスMauriceの愛称で、語源はムーア人、すなわちイスラム教徒であり暗示的なような気もするが、たぶん関係ないだろうな。

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アンダーグラウンド

 エミール・クストリッツァ監督作品。制作は1995年。97年か98年にビデオ鑑賞したんだが、どこでどんな情報を仕入れて手を出す気になったのか、さっぱり思い出せん。

 50年以上にわたるユーゴスラビアの現代史を描いた一大叙事詩……なのは間違いないんだが、それをスラップスティックかつ幻想的な手法で行っている。これは、マジックリアリズムと呼んでしまっていいんじゃないかな。マジックリアリズムは、何もラテンアメリカの専売特許ではない。東欧的(バルカン的)マジックリアリズムとでも言おうか。そして、ラテンアメリカの「現実」がマジックリアリズムでなければ描けなかったように、ユーゴスラビアの「現実」もこれ以外に描き出す手段がなかったのだ。内戦前に制作された『パパは出張中!』と比較してみれば、その違いは明らかである。

 ラストシーン、あれは、彼らの「国」は地上のどこにも存在しえない、ということなんだろうなあ、と思ったら泣けた。つっても涙が滲んだ程度だけど。

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生体端末

『グアルディア』と『ラ・イストリア』に登場。知性機械サンティアゴの、文字どおり「生きた端末」。ほかの知性機械は生体端末を持たない。23世紀初頭、遺伝子管理局の末端組織によって、ユカタン半島の地下施設「グロッタgrotta(洞窟/穴蔵)」で開発される。

 人間の女性の肉体を持つ。青白い肌や白に近い灰色の髪と瞳など、色素が非常に薄いがアルビノではなく、日光に当たっても平気である。顔立ちは整って美しいが、見る者の多くは美しさより奇異な印象を強く受ける(色素の濃い住民が圧倒的多数を占める中南米では、なおさらである)。

 約25年ごとに「世代交代」を行う。自らのクローンを身籠り(胎内クローニング)、出産と同時に死亡する。卵子を持たず、当然ながら月経もない。
 この寿命の短さと、華奢な身体つきや薄い色素などの外見から、何か儚げな印象があるが、実は彼女たちはものすごく頑丈である。生水を飲んでも腹を壊さないどころか、致死量の毒ガスを浴びても死なない。治癒力も高い。とはいえ損傷が甚だしい場合には、寿命に達していなくても世代交代が行われる。

 開発・製造された当初、生体端末は「植物状態」だった。音声や視覚(文字などを見せる)によるコマンド入力によって知性機械サンティアゴにアクセスする以外は、完全に意識がない。自発呼吸をし、口に食べ物を入れてやれば咀嚼、嚥下はするが、自力で動くことはできない(命令すれば手を動かす程度のことはできる)。
 この障害の原因は不明だが、知性機械から送られる情報が、一個の脳で処理するには膨大すぎるためであると推測されていた。

 病気の心配はほとんどないものの、メンテナンス(給餌や排泄物処理など)はあまりにも手間が掛かる。それでも電気的通信手段が完全に失われた条件下では、サンティアゴへの唯一のアクセス手段となる。また、サンティアゴの管轄下にあるコンピュータも操作可能。ただし、生体端末を介したサンティアゴの操作には制限が設けられている。
 なお、生体端末を介して情報を引き出す場合、その情報は生体端末が音声か筆記によって提示する。こうした行動はサンティアゴが生体端末の脳を介して肉体を操作するので、生体端末が乳幼児であっても問題ない。

 地下施設「グロッタ」は、2202年に建設が始まり、2年後に完成した。生体端末の開発完了は2219年だが、その時点での「完成品」は三十体だった(そこに至るまでに数多くの「試作品」が処分されたであろう)。2256年の時点では、生体端末は一体のみとなる。
「ブランカ」と呼ばれたこの一体の継代クローンは2491年の時点で、西シエラ・マドレ山中の小村で「ビルヒニア(聖処女)」として崇められていたが、村はメキシコ湾岸の自治都市エスペランサの科学技術庁によって襲撃され、ビルヒニアは捕獲される。以後、その能力を利用して、エスペランサは「科学都市」として繁栄する。

 科学技術庁所有の生体端末たちは「アンジェリカ」の名で呼ばれる。約150年の間に七人のアンジェリカたちが存在した。初期の生体端末たちが植物状態であったのに対し、一人目(Ⅰ、ラ・プリマ)=ビルヒニアは明らかに自己意識を持っていた。すなわち、自らの意思でサンティアゴへのアクセスが可能だった。ただし周囲の状況に対する反応は極端に乏しく、感情らしい感情も表さない。また下半身不随であり、時には全身が麻痺することもあった。
 この情緒障害は二人目(Ⅱ、ラ・セコンダ)以降は見られず、また麻痺も徐々に軽症になっていった。七人目(Ⅶ、ラ・セッティマ)が『グアルディア』のヒロインの一人、アンヘルである。

 なお、彼女たちの「白さ」は、「オリジナル」の形質をそのまま受け継いだものだが、遺伝子改造によるものなのか、まったくの天然であるのかは不明。遺伝子改造だとしたら、外見に顕著な特徴を付け加えるためだったと思われる。ちなみに生体端末たちは、「オリジナル」がどのような外見をしているかは知らなかった(情報がブロックされていたのか、元から保存されていなかったのかは不明である)。
「オリジナル」および生体端末たちは、コーカソイドの形質が優勢なのは確かだが、「白い」からといって北欧系というわけではないと思う。身長も特に高くはないし。

関連記事: 「知性機械」 「大災厄」 

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 以下、ネタばれ注意。

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女王陛下の戦士

 最近、映画を観に行く気が起きないのは、やはり夏の暑さのせいであろう。神戸よりはマシなんだが、家から駅までが遠いんだよ(十分足らずだったのが倍に)。そして横浜の映画館も川崎の映画館も、駅から数分とはいえ炎天下を歩いていかなきゃならないんだよ。
 もう一つの理由は、現在の近所のレンタルビデオ屋の品揃えが充実していることだろう。加えて、以前は父が「単純なアクション映画」ばかり観たがるので、毎週揉めていたんだが、本人が気づいていなかっただけで意外に嗜好の幅が広いことが判明し、本人も自覚するようになって私や妹Ⅱの選択に任せてくれるようになったのだ。
 というわけで、観たかったけど観られなかった作品が数多く観られるようになったので、つい新作から足が遠ざかってしまうのであった。

 ポール・ヴァーホーヴェンの1977年の作品。ヴァーホーヴェン作品でこれまで観たのは『スターシップ・トゥルーパーズ』と『ブラックブック』だけ。まあハリウッド時代のんは『ST』一作で充分な気がするが。
『ブラックブック』で描かれているのは第二次大戦中のオランダのレジスタンスの暗部だが、ヴァーホーヴェンがそれについて知ったのは『女王陛下の戦士』のリサーチ中である。しかし70年代当時、レジスタンスは絶対的なまでに英雄視されており、それに反する視点を作品に盛り込むのは不可能だったという。

 ということを予め知って観ると、『女王陛下の戦士』の妙にちぐはぐな不徹底振りが納得できる。以下、ネタばれ注意。

 原題は「オラニエ家の戦士」で、女王陛下というのはイギリスに亡命したベアトリクス女王のことだから、妥当な邦題だな。こういう勇ましいタイトル(原作は主人公エリックの自伝らしい)の割には、前半はナチス侵攻までのお気楽な学生生活と侵攻後のどたばた、後半、ようやく主人公がイギリスに亡命して、女王の指令による作戦に従事するんだが、これも主に要領の悪さから無惨な失敗に終わる。仲間が次々死んでくのに、主人公はイギリスの女性士官とうまいことやって(しかも作戦の失敗で殺された仲間の元恋人だ)、空襲に出撃(一回だけ?)しただけで英雄扱いとなる。何か釈然とせんぞ。

 まあその、自伝というのは生き延びた人間が書くものであって、それを映画化によって「他者」のフィルターを通すことで、多かれ少なかれ矛盾が見えてしまうものかもしらんな。これに限らず、自伝(戦争物に限らず)の映画化作品って、何か釈然としないものを感じてしまうのんが多いからな。

 長大であろう原作の、どこを取り上げるかは監督の裁量だったのか、ことさらにヒロイックでないエピソードばかりが取り上げられている気がする。侵略による悲惨な災禍と、対照的に直接被害を受けていない地域の他人事振りとか、レジスタンス活動を始めようとする主人公たちの要領の悪さが招く、コミカルな結末と悲惨な結末の対比とか。
 とにかく素人レジスタンスの危なっかしさは特筆に価する(『ラスト、コーション』を思い出した)。そして悲惨さをスラップスティックに描く手法、エログロ、さらにはスカトロジーはすでに全開である。というか、汚物に関しては『ブラックブック』と『ST』では全開じゃなかったんだね。いろんな意味で、『ブラックブック』へと繋がる作品なのでした。

 ルドガー・ハウアーが若い! そういえばオランダ時代の彼を見るのも初めてなんだった。なんかキラキラしてる。調べてみたら、何人かの役者が『ブラックブック』に出演してました。主人公の親友で、親衛隊に入ったはいいけど便所に入ってるところに手榴弾を投げ込まれて爆死した奴とか。

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パパは出張中!

 エミル・クストリッツァ監督作、1985年。日本で観られる一番古いのんかな。
 彼の作品は『アリゾナ・ドリーム』(1992)『アンダーグラウンド』(1995)としか観たことなかったんだけど、この二作に共通するスラップスティックな要素や幻想的な要素は、『パパは出張中』にはほとんど見られない。それを期待してたんで少々肩透かしの感はあるが、「体制VS無辜の市民」といった単純で解り易い構図に収まらないのは『アンダーグラウンド』と共通している。

 六歳の少年マリクの視点を一応の中心として展開していく。マリクの父メーシャはある日突然逮捕され、収容所に入れられる。本人にも周囲にも、なぜ逮捕されたのか解らない。それだけなら、よくある「巨大な機械のような非人間的な体制」不気味さを描いているかのようだが、実はものすごく人間的というかしょうもない理由によるものであることが、観客には明らかにされている。
 メーシャは出張を利用して愛人と逢引していたのだが、その時、彼女の前で体制批判と取られかねない言葉を口にしてしまう。それを彼女がメーシャの義理の兄に漏らし、その義兄が秘密警察だったので逮捕に繋がったのである。
 メーシャは結婚を餌に愛人を繋ぎ止めていたのだが、彼女はすでに弄ばれることに疲れ果てていた。だから、彼の「体制批判」を秘密警察に「ついうっかり」漏らしてしまったのは、意趣返しのつもりがあったのは確かだろう。最悪の結果に至る可能性には目を瞑ったのだ。
 一方、メーシャの義兄も、見逃してやるかもっと軽い処罰で済ませることもできたはずである。具体的なことは明らかにされていないが、彼は義弟を少々煙たく思っていたようだ。しかもメーシャの愛人に気があったので(その時点で二人の関係に気づいていたのかは不明だが)、彼女の「密告」に渡りに船とばかりに飛び付いたのだ。

 ほんの些細なことで一つの家族の生活を破壊してしまう体制は非人間的だが、それを動かし、支えているのはごく普通の人々なのである。その事実のほうが、なんだかわからない「巨悪」よりもよほど不気味で恐ろしい。
 そしてメーシャも、どうやら自分の女癖の悪さが絡んでいるらしいと薄々気づいていながら、喉元過ぎると女漁りを再開する。男も女も被害者も加害者も、皆しょうもない。ところで、メーシャの妻が、帰宅した彼のハンカチがなくなっているのを「浮気の証拠」とするのだが、やっぱり『ミノタウロス』と同じ使い方をしたんだろうか。

 民族や文化は非常に混沌としていて、マリクの一家はムスリムだが、それと気づかせる要素はほとんどない。民族が絡んだ問題も出てこない。流れ続ける音楽は、ジプシーブラスではなく、アコーディオンによる「美しき青きドナウ」である(ただし、少々エキゾチックなアレンジだ)。
 映像には、少々引っ掛かりが。なんていうんだろ、お手本どおりというか、並んで座る人々とか、走り出す引越しのトラックとか、情事とか、ことごとくの場面で「こう撮るだろうな」という予想どおりに撮られている。しかも全体にぎこちなさが透けて見えて、いっぱいいっぱいなのだろうな、と思わせる。長編二本目じゃ仕方ないんだろうけどね。

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緊急、近況

「暇だから」という理由で、妹Ⅰが姪を連れて襲来する。姪が来ると一緒に折り紙やお絵描きをしたり、DVDを鑑賞したり(アンパンマンとかサンリオキャラクターとか)、ディズニーのホームページにあるゲームをしたり、お風呂に入ったりする。当然、仕事はできない。

 そういう週末を過ごしたばかりなので、今回はネットカフェに緊急避難します。「難民化」があまり洒落にならなくなってきたな。

「夏休みの宿題」ブローデルの『地中海』を、2巻まで読み進む。10月の講義までにはなんとか読み終えられるだろう。もう少し早くから読み始めたかったのだが、誰か一人、私に先んじて図書館で借りている人がいるのだ。この人も佐藤先生の講義に出席しているのだろうか。神奈川だから、可能性はそれなりにあるな。

 16世紀の地中海世界について広く深く詳述されているので、小説の資料としてさぞかし役に立ちそうである。という発想しかできない。そして実際、「16世紀の地中海世界」を舞台にした小説を書くために読んでいるのだとしたら、さぞや内容を記憶に留めるだろうに、生憎そうではないので、読む端から脳みそを素通りしていく~。
 いや、全部素通りってことはないんだけど、目の粗いザル状態だ。ただしそれは地中海の北側に関する記述についてで、東と南については、すんなり頭に入るし、たぶんそのまま留まっている。アメリカ大陸についても同じく。

 たぶん、それらの地域について、イタリア以北、以西に比べれば知識があるし、ブローデルの記述も比較的簡略だからだろうと思う。イタリア以北、以西の記述が膨大すぎるし詳細すぎるんだよ。決して、私が無意識にヨーロッパに拒絶反応を起こしているわけではない、と思う。そらまあ西洋史じゃなくて東洋史を専攻したくらいだから、そういう傾向もないことはないかもしらんけどさ。

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崖の上のポニョ

 父と姪、妹ⅠおよびⅡと共に鑑賞。『千と千尋』、『ハウル』と、何か坂を下っていくようだったので、期待と関心は専ら4歳の姪がどんな反応を示すか、というかそれ以前に最後まで鑑賞しとおすことができるかに傾いてしまっていた。

 前日、お泊りにきた姪に、隣の席に座らせてもらう約束を取り付けるが、案の定、当日には忘れ去られ、彼女はさっさと妹Ⅰ(ママ)と妹Ⅱの間に納まってしまう。地元の映画館だったので、幼稚園から小学校低学年くらいの子供たちがいっぱいであった。
 古い劇場なので規模も小さく、クーラーがあまり効いておらず、スクリーンもなんとなく古臭い(演芸場を兼ねていたのか、ステージ状になっていて真っ赤なカーテン付き)。そこに子供たちの声が重なるので、まるで子供の頃、夏休みなどに公民館や市民会館で開催されていた映画鑑賞会のようだった。

 とはいえ、上映されたのはわけのわからん道徳映画などではなく、『崖の上のポニョ』なので、退屈してぐずったりする子は一人もおらず、ポニョが何かするたびに笑い声が上がる。姪は前日から著しく興奮状態にあって深夜まで眠らず、翌日も興奮が続いていたのだが、案の定、映画館に到着して並んでいる間にバッテリー切れを起こしてぐったりしていた。それが始まった途端に大喜びである。

 声優のメソッド(いわゆるアニメ声の喋り)が嫌だというのは解るが、声優を使わないデメリットはやはり滑舌と発声の悪さだ。今回はそれが特に顕著だった気がする。子供たちは立派に演技し喋ってたんだけど、大人たちがね。いや、所ジョージの演技はなかなか味があったが、それでもかなり聞き取りづらい。滑舌と発声に俳優もスタッフも無頓着という問題は邦画全般に見られ、だから私は邦画をあんまり観ないのである。
 しかし今回の観客は小さな子供たちばかりなので、台詞にはほとんど留意しない。変な絵、変な動き、変な音が出るだけで大喜びである。それに助けられたのと、『千と千尋』と『ハウル』に共通していた後半の失速が今回はそれほどではなかったので、かなり楽しく鑑賞することができた。ポニョが魚の波に乗って走るシーンでは心が躍った。「ワルキューレ」もどきの音楽はアレだが、子供たちの興奮した声に掻き消されて、ほとんど聞こえなかったのでした。全体に細部の描き込みが減っていたのは残念だが、やはり宮崎アニメの真髄は「動き」にあると言えるだろう。

『ハウル』に比べればまっとうにプロットが存在したので気楽に観ていられたが、後半のポニョと宗介がポンポン船を失ってからの「試練」が、見慣れたなんでもないはずの場所が不気味に感じられる、あのトンネルのようなポイントを幾つか経る冒険行だったらよかったのにと思う。ま、上映時間があれ以上延びていたら、お子様たちの集中が続かなかったと思うけど。

 というわけで、結構な体験でした。エンディング・テーマが「ポーニョ、ポニョ、ポニョ」と始まった途端、子供たちが大合唱を始めたのには感動すら覚えましたよ。
 今回は62歳の父(直前まで何度訂正されてもポニョを「プニョ」と言っていた)が楽しめるかどうかも懸念していたのだが、これも杞憂だった。海の描写にはかなり感心していた様子だ。ところで姪はポニョが半魚人化するたびに他の子たちと一緒になってケラケラ笑っていたのだが、後で聞いたところ、「ちょっと気持ち悪かった」そうである。子供って怖くても笑うんだよね、そういえば……

『ハウルの動く城』再鑑賞記

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ロシア・アヴァンギャルド展

 文化村ザ・ミュージアム。正式なタイトルは「青春のロシア・アヴァンギャルド シャガールからマレーヴィチまで」。何が青春なんかわからんが。

 視覚芸術の鑑賞の基準は、「色(明暗含む)と形(構成)がおもしろいかどうか」に尽きるので、なんたら主義とかなんたら派とかの名称やその理論とかはどうでもいい。それに分野を問わず作品を作ることと理論を捻り出すということは、まったく次元の違う作業だと思うんで、時代を問わずそういうことに一生懸命な人たちに対しては、「ご苦労さん」と言いたい。ようやらんよ私は。まあ方向性を定めるという利点はあるかもしらんけどね、それで自縄自縛に陥るのもしょうもない話だ。

 そういう一生懸命な人たちの作品の中で、異彩を放っていたのがニコ・ピロスマニの作品10点。1862年グルジア生まれ、独学で絵を学び、看板描きなどをやっていたところを、1910年代初め、偶々グルジアを訪れたロシアの画家たちに「発見」され、「ネオ・プリミティヴィズム」の新鋭として中央画壇で紹介された人。
 絵本のような絵、というのが第一印象で、実際、子供の頃こういう画風の絵本(主に外国の民話の翻訳だが挿絵はたぶん日本人)を幾つも読んだことがあるのだが、ピロスマニの絵がそれらの絵本のようなんじゃなくて、それらの絵本がピロスマニの影響を受けていた可能性はある。
「素朴」という言葉は、上から見下した物言いなので使わない。藍とか群青というよりは、ブルーブラックと呼ぶべき黒っぽい青が背景に多用されているが、暗い印象はなく美しい。今回の展覧会では、ほかの画家の作品でも青を使った絵が多かったな。

 ロシア・アヴァンギャルドの時代は、バレエ・リュスのディアギレフの活動時期と重なっている。彼は1906年にロシア絵画の展覧会をパリで開き、それをきっかけにフランスで活動するようになったそうだ。昨年行った展覧会では、ナターリヤ・ゴンチャーロヴァやアレクサンドラ・エクステルなど今回も出品されている画家の作品も展示されていた。
 そういえば、ロシア・アヴァンギャルドの特徴の一つは、女性画家が大きな役割を果たしたことかもしれない。

 バレエ・リュスの舞台美術は、東洋趣味と前衛のどちらか、もしくはその融合だが、ロシア・アヴァンギャルドにもその傾向は共通している。1924年のソ連SF映画『アエリータ』を三分間だけ上映してたんだけど、エクステルがデザインした火星人たちの衣装が実に……。『エピソードⅠ』のアミダラ姫のデザインとか、この系譜と言えるんだろうか。

 今回はロシア・ソ連の20世紀絵画の展示だったわけだけど、昨年はロシアの伝統工芸の展覧会も観た(ロシア皇帝の至宝展)。誰もそんなところまで見ないような細部は精緻極まりないのに全体のバランスが悪いという伝統工芸が、西欧の影響からなのか、18世紀以降は細部の作り込みが疎かになったのに全体のバランスが悪くなったようだ、というのがこの時の所感だったが、その大雑把さは今回観たロシア・アヴァンギャルドにも受け継がれているような気がする。そしてそのまま、ソ連の工業製品へと継承されるわけだな。戦車や人工衛星は作れても日用品はどないも、という。

 ロシア・アヴァンギャルドが頂点に達するのはやはり革命前後であって、つまりは『ミノタウロス』の時代である。同じ時代、同じ国で、一方ではマレーヴィチが白く塗った画面に白い十字架を描いていたりしたわけだ(しかも彼の故郷はウクライナの村である)。フィクションを引き合いに出す妥当性はさておき、この断絶が結局、社会主義リアリズムを生み出す一つの要因となったのは間違いない。

 展示は概ね時代別にⅢ部構成になっていて、最後はやはり「1920年代以降の絵画」ということで、ロシア・アヴァンギャルドの終焉が提示された。
 展示された画家たちの中で、粛清によって殺された人はいないようだが、収容所に入れられた人もいるし(誰だったか失念)、活動を妨害され続けた挙句、スターリングラード包囲戦の最中に餓死したパーヴェル・フィローノフのような人もいる。測量技師となったカジミール・マレーヴィチが33年に描いた具象画(自画像と妻の肖像。印象派風)が痛々しい。
 先に挙げたニコ・ピロスマニが批判に対して反撃せず、数年で画壇を去り、貧困のうちに死んでしまった例からも(1918年という没年は、やはり革命の混乱も関係していたのだろうか)、○○派や○○主義を標榜する画家たちの鬱陶しいほどの屁理屈は、結局それくらい理論武装しなければ、「好きなものを好きなように描く」ことも許されない状況に彼らが置かれていたということなのかもしれない。そして全体主義は、そんな必死の理論武装などいとも容易く圧殺するのである。

 なんの説明もなかったんだが、展示された画家の中に、フランスに亡命後、40年代にアウシュヴィッツで死んでいる人がいた。全体主義芸術の一方の雄が社会主義リアリズムなら、もう一方の雄は「大ドイツ芸術展」である。
 先日観た『アドルフの画集』の舞台も、まさに1918年だった。抽象芸術が繚乱というか爛熟の様相を呈する時代に、げっそりするほど凡庸な写実主義のヒトラーがうろちょろしている話だ。ヒトラーを演じるノア・テイラーが、頬をぴくぴくさせながら、「抽象絵画も描いてみるよ……実は、キュビズムが好きなんだ」と発言するシーンには、ああ、実際にヒトラーも「抽象芸術なんか全然解らん。意味不明だし美しくないじゃないか……でも、やっぱり受けるにはああいう絵を描いたほうがいいんだろうか、いいんだろうな」とか思ったに違いない、と頭を抱えたくなったものである。

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二日居続け

 ネットカフェで。

 自宅があるのにネットカフェで寝泊りするという状況は、何か無闇に切羽詰まった感じですね。もちろん、執筆してきたのでした。さすがにウィークリーマンションほどは書けませんでしたが、自宅よりは余程書けましたよ。いつもは(今現在も)ノートパソコンで書いてるのですが、ネットカフェのデスクトップはキーが少々硬かったので(途中、席替えもしたけれど)、両手が痛くなったのにはちょっと参りましたが。

 9月の連休にウィークリーマンションに籠るつもりなので、その前にもう一回くらいネットカフェ居続けしよう。

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