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突撃

 57年制作。これまで観たキューブリック作品の中では一番初期のだ。カーク・ダグラス主演の第一次大戦もの。他のキューブリック作品の幾つかと同様、二部構成になっており、前半は戦場、後半は軍法会議が中心となる。

 カーク・ダグラスといえば一ヶ月前、『炎の人ゴッホ』(56年)を観たんだが、同じ時代に作られたとは思えないくらい、手法がまったく違う。同時代の他の作品(まあ私が観たことのある50年代の作品は高が知れてるけど)に比べて、非常に「現代的」だ。演技も映像も音楽も(BGMや効果音が、皆無ではないが非常に少ない)、ついでに残酷描写も。つまり、後の時代へのキューブリックの影響力がそれだけ強いということなんだな。
 あー、でも『スパルタカス』(60年)はどうだっけか。何しろ観たのが高校生の時なんで、細かいところまで憶えてない。だいたい、あの頃は比較の材料(観た映画の本数)が少なかったしなあ。ジーン・シモンズの化粧が、歴史ものなのに60年代風なんだな、と思った覚えがあるが。

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アメリカン・ギャングスター

 近所のレンタル店が週一で200円セールやってるんで借りてみた。ネタばれ注意。

 1968年、ハーレムのボスである老いたギャングが忠実な運転手のデンゼル・ワシントンに向かって、ディスカウントショップ批判を披露する。「仲介業者を無視するとはけしからん」。さらに、「アジア人の作った製品が、アメリカ人から職を奪う」。老ギャングの死後、デンゼル・ワシントンは「アジア人が作った」ヘロインを「仲介業者を無視」して直接買い付け、やがてハーレムのみならずアメリカの麻薬業界を支配する。

 老ギャングのシーンを前置きとしたのはなかなか捻りがあるし、デンゼル・ワシントンの成り上がりをアメリカンドリームとして描くのもいい。ただ、観終わった後、「えーと、それで麻薬の犠牲になった人たちは?」
 そんな人々など存在しないかのように無視するわけでもなく(オーヴァードーズで死んだ母親の傍らで泣きじゃくる幼児、といった場面があったりする)、かといって誰もそのことを追及しない。いや、デンゼル・ワシントンに悔いたり居直ったりされても白けるけどさ。

 ラッセル・クロウは、いいと思う時もあるが、すごく暑苦しく鬱陶しげに見える時もあり、今回は後者。この差はなんだろう。単に脂肪増量とか髪型のせいなのかもしれないけど。
 デンゼル・ワシントンは今回もやはり「ヒーロー」で、代わり映えなし。まあ、彼はヒーローでなければいけない立場なんだろう。『トレーニングデイ』の悪徳刑事は素晴らしかったし、本人も楽しそうだったんだけどなあ。あの役で判るのは、彼のいつもの「いかにも誠実そうな態度」は別に人柄とかではなく完全に演技であり、つまり彼は演技が巧いということなのであった。

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カルラ

『グアルディア』の「表」ヒロイン。金髪碧眼、白皙の「天使のように」美しい少女。メキシコ北西部、西シエラ・マドレ東麓のサン・ヘロニモ村で生まれる。父の名はミゲル。2540年4月、北から訪れた青年「JD」と出会う。この時11歳だったので、生年は2528年か2529年。

 JDと共に北の荒野ガリシアへと赴き、消息を絶つ。2643年7月、二人はアンデス山脈の赤道地帯に姿を現す。JDは103年前と少しも変わらぬ姿であり、カルラは5、6歳の童女の姿で、彼を父と呼んでいた。この二ヵ月後から始まる『グアルディア』本編では、彼女は8歳の少女の姿をとっている。

 失踪した時点ではごく普通の少女だったはずだが、JDの「娘」となったカルラは高い戦闘力や不死身に近い再生力といった超常の力を持っていた。しかしその力は「父」であるJDには及ばず、常に守られる立場である。一方で、JDの力が暴走した時、制止できるのは彼女しかいない。また、JDが自らの遺伝子の発現を調節することによって容姿をある程度変化させる(色素を薄くするなど)ことができるのに対し、カルラは肉体年齢を変化させるのみで、容姿そのものは変わらない。年齢の変化も、0~11歳に限定される。
 肉体年齢の変化に精神年齢も対応する。記憶や知力はそのままだが、あまり影響はなく、やや大人びた印象を与える程度。

関連記事; 「JD」

 以下、ネタばれ注意。

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帰宅

 さすがに13日間は長すぎたらしく、11日目に眼精疲労から来る頭痛で沈没してしまいました。体力も限界に来てたんだろうな。

 しかし一人暮らしができるようになれば、私は速筆作家になれるであろう。ほんまかいな。

 籠もってる間に、夏が終わってました。彼岸花の赤が鮮やかだ。

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また山籠り

 24日まで籠ってきます。

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静物画の秘密展

 ウィーン美術史美術館所蔵品から、国立新美術館開催。

 二つの理由から、展覧会は空いているに越したことはない。まず、単純に物理的事実として、混雑していると鑑賞が困難である。第二の理由だが、世の中には周囲の人の話す内容が耳に入ってくる人と入ってこない人がいるらしいが、私は明らかに前者である。聞き耳など立てていないのに、注意が向いてしまうのだ(そうならないのは、読書中くらいなものである)。
 で、作品鑑賞中に「すごいわねえ、写真みたい」とか「これくらい、わたし(もしくは、うちの子)だって描けそうね」といった言葉が耳に入ってくると、まるで自分が性格の悪い人間になったような気がしてきて、精神衛生上あまりよろしくない。

 しかし今回はそういった善良な人々だけではなく、たいそう躾の悪いお子さん方の「美術鑑賞」の授業とかち合ってしまったのであった。とりあえず、与えられた時間のギリギリまで会場のベンチや休憩室を占拠し、後はひたすら出口に向かって突進するのを「授業」と呼べるとしたらだがな。しかもそれだけならまだ害は少ないが、時々作品に目を留めては、破壊力甚大な発言をかましてゲラゲラ笑いながら去っていく。引率者の姿が見当たらなかったが、いても大して変わらなかったかもな、あれじゃ。
 これまで展覧会で遭遇したお子さん方(児童・生徒・学生)の団体は概ね、行儀がよくて鑑賞態度も熱心だったから、今回のんが例外だったんだろうけど。

 肝心の展覧会だが、期待外れだった。「静物画の秘密」などと物々しいタイトルだから、どんだけアカデミックもしくは『ダ・ヴィンチ・コード』並みに無茶なイコノロジーを展開してくれるかと思ったら、寓意についてはほんのわずかしか触れておらず、しかも純粋に静物画と言える作品はたぶん半分くらい。
 まあつまり、この展覧会の本来の趣旨は、バロック絵画を並べて、「(静物画以外でも)背景の植物や動物、小道具に注意を向けてみましょう」というものであるらしい。何が「静物画の秘密」だよ。

 そういう見落としがちな要素への注意を喚起させよう、という試み自体は結構なことだと思うけどね。「静物画」と銘打つなんなら、もっと名品を持ってきてくれ。
 バロック期の静物画は凄いのになると、それこそ「写真みたい」なわけで、画家の執拗な情熱を思うと、ぞくぞくするほど嬉しくなるのだが、生憎今回はそのような作品にはほとんど出会えなかった。
「静物画」って銘打ってんのに(何度でも言うぞ)、展示された静物画は無名画家の作品ばっかりだしな。作者不詳や工房制作品が大半だ。ハプスブルク家のコレクションなのになあ。当時、フランス以外の国でも静物画の地位が低かったのか知らないし、無名画家の作品でも素晴らしいものはあるにはある。でも今回のんは……

 そう思ったのは私だけではなく、耳に入ってくる周囲の声も「写真みたい」「本物みたい」という意見は数えるほどしかなく(いや、数えてなんかいないけどさ)、「(果物を見て)あんまり美味しそうじゃないわねえ」とか「あの葡萄、色が変」といった具合でしたよ。

 今回、リューベンスが展示されていたが(「チモーネとイフィジェニア」)、さすがリューベンスだけあって、背景の果物やら動物やらは別人に描かせている……いや、そういう制作法がどうこうってんじゃないが、「静物」がメインの展覧会にそういう作品を持ってくるのはどうよ。

 佐藤先生が明治大学の講義で、ルーベンスを評して「寓意がすでに無効になっている時代に、寓意を多用している」と言わはったことがある。私はイコノロジーを体系的に捉えたことがなかったんだが、改めて考えみると、マニエリスム以前の寓意が解説なしではさっぱり解らない(そして大概、解説がない)のに対し、バロックの寓意は単純だよな。つまり、形骸化しているってことだ。

 とまあ、珍しく不満の多い展覧会だったが、それを確認できただけでも良しとしておくか(よかった探し)。ヤン・ステーンも観れたし。
 あと、妙に気になったのがヨハン・ケーニヒという人(Johann Königで検索したが、該当者は出てこなかった)の四季の連作。春(庭園の宴)、夏(小麦の収穫)、秋(葡萄酒造り)、冬(蕪の皮むきと亜麻糸造り)の登場人物たちが、すべてプットー(童子)であるらしいのだ。で、この時代の絵画では、子供は頭の大きさ以外、プロポーションや顔の造作が大人と区別が付けにくい。男は筋肉隆々としてるし、女は尻や太腿がリュベンス張りにむっちりしているから、子供ではなく4頭身の大人かもしれないとも思ったが、注意して眺めると、女は乳房がない。だから、やっぱりプットーなのである。
 この時代の小児愛については知らんのでなんとも言えんが、少々グロテスクっていうか、どうにも妙な作品でした。

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メトセラ種

『グアルディア』に登場。不老長生の遺伝子群「メトセラ因子」を持つ遺伝子改造体。単に「メトセラ」とも呼ばれる。テロメラーゼの活性によるテロメアの伸張(細胞の不老化)、神経細胞および筋細胞の再生、高い免疫力と治癒力といった特徴を持ち、治癒不能の損壊を受けない限り、理論上は不老不死とされる。
 成長速度は常人と変わらないが、成熟後は老化せず、20代初めの外見、身体的機能を保つ。ただし、生殖機能だけは年齢とともに低下する。

 なお、このシリーズでは「因子」「遺伝子」「遺伝子群」などの用語の使い分けは、かなり曖昧である。これは、そもそも現実に「遺伝子」の定義が曖昧なため。曖昧といっても、塩基配列上のどこからどこまでを「一個の遺伝子」として数えるか、といったあくまで生物学的定義上のことで、一般に流布する比喩的・疑似科学的用法は断固として排除しますよ。
 同一染色体上にある連鎖遺伝子群のうち、相関する形質に関わるものを、便宜的に「因子」と呼ぶことにしている。メトセラ「種」という呼び方も便宜的なもの。

「絶対平和」の時代(21、22世紀)、遺伝子改造は遺伝子管理局によって厳重に管理されており、規定値以上の改造は一代限りとされた。「規定値以上の改造を受けたヒト体細胞由来のクローン」は、人間ではない奴隷種とされ、「亜人」と呼ばれた。
 それが大災厄によって規制が崩壊、無数の改造遺伝子の情報が流出し、遺伝子改造は野放しになった。人工子宮によるクローンの大量生産が不可能になったため、やがて遺伝子改造体の増産を望む者たちは改造形質を遺伝可能にして「繁殖」を行うようになる。
 メトセラ因子を持つ「ドメニコ一族」は、そのようにして造り出された遺伝子改造体の末裔である。ただし不老長生のメトセラ因子は、法で規定された亜人のために開発されたものではない。

 メトセラ因子は、Y染色体上で発見された変異を元に、21世紀初頭に開発された(ちなみにY染色体は、他の染色体に比べて変異の頻度が非常に高い)。
 つまり、メトセラは男性のみということになる。しかも場合によっては、メトセラ因子が発現しない(常人と変わらない形質の)子供が生まれてしまう。彼らはメトセラ因子保有者ではあるが、メトセラとは呼ばれない。
 因子が発現しないのは、卵子提供者のX染色体上に発現を阻害する因子(遺伝子)が存在するためと推測されている。ドメニコ一族のデータから、阻害因子を持つ女性の割合は二人に一人、或いはそれ以上とされる。

 アンヘルによれば、メトセラ因子を常人に組み込めば、寿命が延びるし老化も止まるが若返り効果はない(第一章)。ただし発言時の状況からすると、どこまで事実かは不明。科学技術庁に於いて、そのような実験が行われたのかも不明だが、行われたとしても不成功に終わったと思われる。
 なお、『ラ・イストリア』でクラウディオの父親たちが行った「若返り」技術は、メトセラ因子とは無関係である。なんらかの方法で細胞を活性化させるが、延命効果はない(テロメアの伸張はない)。遺伝子管理局の支配下では、若返りの「やりすぎ」は禁じられていた。

関連記事: 「遺伝子管理局」 「大災厄」 「亜人」 

 以下、ネタばれ注意。

 

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ヴィオラ弾きのダニーロフ

 V・オルローフ作、1980年発表。邦訳は群像社から92年刊。

 悪魔をはじめとする魑魅魍魎の魔界(呼び方はいろいろだが)が人間界とリンクしていて、しかもお役所として機能している、という構図は、現代ロシア・ソ連文学では確固たる伝統となっているらしい。これまで読んだものだけでも、ストルガツキイ兄弟の『月曜日は土曜日に始まる』(60年代)、最近のではルキヤネンコの『ナイトウォッチ』シリーズがある。ペレーヴィンの短編「ゴスプランの王子様」も、この系列に加えていいだろう。
 お役所としての「魔界」は、言うまでもなくソ連の官僚機構のメタファーであり、それがソ連崩壊後も綿々と受け継がれているところを見ると、伝統というよりほとんどトラウマなんじゃないかと思われる。

 主人公のダニーロフは、モスクワの放送局のオーケストラに所属するヴィオラ奏者だが、実は追放された悪魔である。追放されたといっても、悪魔の力は好きなだけ使えるのだが、それを潔しとせず、借金や公共料金の払い込みや買い物の行列や前妻の厚かましい要求に甘んじている。
 そんな彼にある日、魔界からの呼び出しの通知がもたらされる。罪状も、いつ呼び出されるのかも不明である。そんな宙ぶらりんの状態で、彼は相変わらず借金や公共料金の払い込みや買い物の行列や前妻の厚かましい要求に甘んじる。苦労して手に入れた3千ルーブルもするヴィオラを、魔界からの嫌がらせで盗まれてしまうが、取り戻すために悪魔の力を使うこともなく、また警察に紛失届けを出すのもズルズルと先延ばしにする。クリーニングに出したズボンも、いつまでも取りに行かない。

 700頁にも及ぶ長編だが、構成にぶれがないし、細部の作り込みが非常に丁寧で飽きさせない。これまでに読んだ(つっても高が知れてる量だけど)20世紀以降ののロシア・ソ連文学の中では一番おもしろかった。
 官僚機構の陥穽に嵌まってしまった主人公の苦境だけでなく、彼の音楽家としての求道(悪魔ではなく、人間として)もなかなかおもしろかった。当然、音楽に関する記述が多いんだが、知らないロシア・オペラのタイトルがいっぱい出てくる。現在でもロシアで上演されているオペラのうち、日本で知られてるのはごくわずかだというのは本当なんだなあ。

 ところでこの作品には、ダニーロフの恋人の一人として「卑弥呼」というキャラクターが登場するんだが、明らかに作者は『魏志倭人伝』の内容を知っている。「持衰」まで登場するのである(訳では「犠牲」となっていたが。原文が「犠牲」だったんだろうけど、「ヒミコ」じゃなくて「卑弥呼」としてるんだから、「持衰」と訳してもよかったんじゃなかろうか)。
 それなりに知識がある上で敢えて歪曲したジャポニズムを展開する、という姿勢は、ペレーヴィンの『チャパーエフと空虚』にも見られる。どっから来てるんだろうか。まあペレーヴィンの「満開の桜の葉擦れ」とか、「十条から一条へ向かうと朱雀門が」というのはたぶん本気で間違えてるんだと思うけど。

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カンダハール

 2001年制作。監督はイラン人のモフセン・マフマルバフ。

 主人公ナファズ役は青い目をした綺麗な人だが、女優ではなく、役柄と同じくアフガンからカナダに亡命したジャーナリスト。アフガンの亡命者が一人の人間を救い出すために祖国に戻る、という物語は、カーレド・ホッセイニの『君のためなら千回でも』とも共通している。

 どちらの作品でも、主人公が祖国へ戻る行為は、贖罪の意味を持つ。誰かを「救い出す」という目的によってではなく、祖国へ戻るという行為そのものが贖罪なのである。『カンダハール』が主人公を演じたジャーナリストの実体験に基づいており、『君のためなら千回でも』がフィクションだという違いはあるが、それで一方が他方に優るというものではない。ただし、『君のためなら』は原作についてである。映画版では後半の主人公の行為から贖罪の意味合いが薄められ、別に亡命者ではなく「欧米人のヒーロー」でも構わないような役柄になってしまっている。

 背景は重苦しいが、至るところに(ややブラックな)笑いが『カンダハール』にはある。女性が医師(男性)の診察を受けるのはカーテン越しで、直接口を利いてもいけないから(互いの声は聞こえているのに)子供が取次ぎをするとか、医療キャンプに落下傘で投下されるたくさんの義足とか、「過酷な現実」が背後にあるのは確かなんだが、光景そのものは非常にシュールだ。

 劇中、登場する医師は、実はソ連と戦うためにアメリカから来て、そのまま留まったブラック・ムスリム、という設定なのだが、本人が名乗るまで黒人だということすら気づきにくい。それほど濃くない肌の色と付け髭のためというより、現地にすっかり溶け込んでいる印象――少なくとも仕草や表情がもはやアメリカ黒人ではない――なので、実際にアフガンに長く在留している人なんだろうな、と思ったんだが、この人も役柄と同じ経歴の持ち主なのだそうである(医者をやってるかどうかまでは不明だが)。世の中にはいろんな人がいるなあ。

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ホアキン

『グアルディア』の裏主人公。なぜ「裏」なのかというと、悪役だから。

 2627年8月、自治都市エスペランサ(現在のメキシコ・ベラクルス市の北)で生まれる。『グアルディア』第一章の時点(2643年9月)で16歳。父クリストフォロ・ドメニコは不老長生の遺伝子を持つ「メトセラ種」であり、エスペランサ市科学技術庁所有の「実験体」であると同時に、科学技術庁ひいてはエスペランサ市の影の支配者という奇妙な立場に在った。ホアキンもメトセラ因子を持つが、まだ16歳なので少なくとも不老長生の影響は現れていない(免疫力、治癒力等が非常に高く、人並み外れて頑強ではある)。

 メトセラの特徴の一つに不妊があり、年齢が高くなるほど生殖能力は低下する。そのため、クリストフォロ・ドメニコの息子たちはすべて凍結保存された精子から作られている。ホアキンの場合、卵子も凍結保存されていたものであり、体外受精によって代理母から産まれている。里親(おそらく代理母)によって、ごく普通の家庭で育てられたが、十歳の時に里親が死亡。実父クリストフォロに引き取られる。クリストフォロは、知性機械サンティアゴの生体端末アンジェリカたちの養父にして護衛、そして愛人だった。彼の許で幼いホアキンは、アンジェリカⅦと出会う。

 翌2638年、クリストフォロは息子の一人によって殺害される(享年160歳)。その際の経緯から、ホアキンは父の死に負い目を感じ続けることになる。
 クリストフォロの死後、アンジェリカⅦは「アンヘル」と名乗り、科学技術庁に叛旗を翻す。レコンキスタ軍総統として征服活動を進めていく過程で、彼女は幾度もホアキンを去らせようとする。2642年夏にグラナダ(現在のコロンビア北部およびパナマ)を征服した直後、クリストフォロの称号(非公式なものだが)だった「グアルディアguardia(守護者)」を名乗るよう命じたのも、14、5歳の少年が偉大すぎる父の称号を受け継ぐプレッシャーに負けることを期待したためであろう。

 アンヘルのそうした行動は、ホアキンを戦争や陰謀に巻き込みたくなかったためである。それは彼個人への好意からではなく、必要もないのに子供を巻き込むことへの嫌悪からだ(必要があれば躊躇わず行う)。それと、ホアキンの「父の死への負い目」が向けられる対象は必然的にアンヘル自身となるため、鬱陶しかったのだろう。少なくとも彼女自身は、そう解釈している。

 幼い少年の「負い目」は、やがてアンヘルへの忠誠とも恋慕ともつかない感情へと変わっていく。ユベールいわく、「まるで蹴飛ばされても付きまとう犬っころ」。しかし絶対服従の割には、しばしば口答えしたりツッコミを入れたりする(そしてまたいじめられる)。

 クリストフォロを知る者によれば、ホアキンは父と非常によく似た容姿を持つ。浅黒い肌、暗褐色の髪と瞳、長身など。イタリア系とはいえ混血は相当進んでいるはずだが、少なくとも地中海人種的な顔立ちだろう。幼少時は小柄だったが、16歳の時点では並みの大人より高くなっている。ただし、人種的にも栄養状態からいっても平均身長が低い社会なので、「長身」も相対的。「手脚ばかりひょろ長くて頼りない」印象がある。
 母親(卵子提供者)は白い肌、赤褐色の髪、榛色(緑褐色)の瞳など、北方系の形質が優勢だったが、顔立ちも含めて少しも似ていない。しかし同母兄のラウルによると、笑顔は父よりも母に似ているとのこと。不細工ではないけど美少年でもないと思う(が、読者の方々の判断にお任せします)。

 作中では、レコンキスタ軍の軍服(戦闘服ではなく常装タイプ)で登場することが多い。軍服(陸軍)の色はカーキ色と定められているが、ホアキンは一人だけ青灰色を着用している。作中、空軍や海軍(どちらも陸軍より規模が小さく、二次的な存在)の軍服の色には言及されていないが、全軍中、青灰色の軍服を着用するのはホアキン一人である。彼が軍を去ることを望むアンヘルが、より孤立感を深めさせようと行った配慮(嫌がらせ?)であろう。
 なお、総統アンヘルに次ぐ地位に在る総司令官ユベールは黒い軍服を着用するが、こちらは本人の権限(趣味)である。

 ホアキンJoaquínというスペイン語名は通称(愛称)で、正式な名はジョアッキーノ・ドメニコGiocchino Domenico。イタリア語名である。祖父グイド・ドメニコがアルゼンチン出身のイタリア系だったため、その血を引くメトセラはすべてイタリア語名を付けられる慣習となった。しかし26、27世紀のラティニダード地域(中米および南米北部)では、イタリア語はとうに消滅しており、これらメトセラたちのイタリア語名は、個人名というよりは実験体に付ける「個体識別名」の意味合いが強い。
 ユベールはフランス語訛りで「ジョアキンJoachim」と呼ぶ。

 クリストフォロの子や孫たちの中には、実母や里親によって普通の家庭で養育された者も少なくない。彼らはイタリア語名に対応するスペイン語名で呼ばれて育ったと思われる。だがクリストフォロは常に彼らに距離を置き、イタリア語名でしか呼ぶことはなかった(中にはラウルのように、イタリア語形でもスペイン語形でも発音が同じ名もあるが)。
 しかし末の息子に対しては、手許に引き取ってからはごく普通の父親のように接し、「ジョアッキーノ」ではなく「ホアキン」と呼んだ。

関連記事: 「アンヘル」 「メトセラ種」

 どの辺が悪役なのかというと、以下ネタばれ注意。

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リトル・ミス・サンシャイン

 一応、家族ロードムービーということになるんだろうけど、間違ってもレンタルショップで「ホーム・コメディ」の棚には置かないでほしい。コメディなのも間違いないんだけど。

 アリゾナからテキサスへと向かう家族を、次から次へと災難が襲う。そして、大概の映画では一発逆転となるところを、まったく何一つ解決しない。でも解決はしなくたって、なんとかやっていけるものなんだよね。それにしても、まさかああいうオチになるとは。ていうか、まさかあんな形で子供のミス・コンを風刺するとは。

 あのコンテストは実在のものに基づいているんだろうけど、アメリカはジョンベネ事件から何も学んでいないらしいな。映画ではそれと思われる描写はなかったが、実際の会場はペドフィルの巣窟になっていそうな気がするなあ(そうじゃないかと思える登場人物もいたんだが、結局違った。そうすると彼が会場にいた理由がよくわからないんだが)。

 しかし、オリーヴちゃんはアリゾナでの予選で一位の子が失格になったから繰り上げ、ということだったんだが、それはつまり二位にはなれてたということなんだよね。
 オリーヴ役のアビゲイル・ブレスリンは、調べたら『幸せのレシピ』でキャサリン・ゼタ・ジョーンズの姪役だった。二ヶ月ほど前に観たばかりなのに、全然気が付かなかったよ。『幸せのレシピ』の制作は『ミス・サンシャイン』のすぐ後だけど、ずいぶん大人びて見えた。巧かったけど、『ミス・サンシャイン』に比べて印象薄かったな。役自体のインパクトの差なんだろうけどさ。

 長男役は、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』でダニエル・デイ・ルイス相手に健闘していたポール・ダノ。牧師役では、好青年ぽい笑顔の下からネバネバしたものが滲み出てる気持ち悪さを怪演していた。今回はなんとなくネバっとして気持ち悪いが、それはせいぜい新陳代謝の高い若い子が、ちょっと入浴をさぼり気味なので髪の毛がべたついてます、という程度である。若いから仕方ないね、という程度。でも『ゼア・ウィル』まで、それほど間が開いてるわけじゃないんだよね。
 つまり、あの粘着質な気持ち悪さはポール・ダノ本人の資質なんだろうけど、かなり自在にコントロールできているわけだ。先が楽しみな役者である。下手したら、役柄が限定されてしまいそうでもあるけど。

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