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佐藤亜紀明治大学特別講義Ⅲ-2

 では国民とは何か。
 動員には、それに先立ってある組織化が必要である。一般にフランス革命戦争は、「正しい戦争」とされる。どういう戦争なら正しいかというと、正当防衛である。
 しかし革命戦争が始まった時、フランスはまだ侵略されていなかった。つまりは動員のためのプロパガンダだったのである。しかし煽られたからといって、なぜフランス人は立ち上がったのか。ライン川を越える直前の連合軍は3万だった。それに対し、フランス軍は最終的に20万人にまで膨れ上がる。「正当防衛」で済まされる数ではない。

 ところで、戦争の一年目は徴兵ではなく募集だけでかなりの人数が集まった。農家の次男坊や三男坊、商家の丁稚といった連中が、乗せられてその気になったのである。しかし二年目からは人が集まらなくなる。そういう連中がすでに払底していただけでなく、「戦争に行くと死ぬ」ということが解ったからである。
 そこで葡萄積みの季節に季節労働者を捕まえ、男だけ選り分けて軍隊に放り込む、ということをする。そんなもんだよね。

 兵隊だけでは戦争に勝てない。財源の確保も必要である。すなわち、産業の動員である。そうやって産業の動員を徹底しすぎたことが、ナポレオン帝国の解体に繋がってしまうわけだが。
 例えば、帝国に組み込まれたドイツやイタリアの商人たちは、当初喜んだ。国が一つになってしまえば、関税が掛からなくなるからである。しかしそうすると、フランスにドイツやイタリアからの関税が入ってこなくなる。フランスに金が流れ込んでくるよう、二重に税金が掛けられた。

 産業の動員に加えて、文化的・政治的な動員も行われた。
「我々は兵隊の額の汗を拭うために存在する」――ある上院議員。
「我々にはもはや内輪の静かな生活というものがない」――タレーラン。

 フランス軍が勝つと、家々の窓に蝋燭を点させる(イルミネーション)といったイベントが強要される一方、言論も統制される。休暇中の兵士が、居酒屋で戦争の実情を漏らすと、その日のうちに憲兵がドアを叩く。フランスは一個の兵営であった。

 徴兵制というものには利点もあって、兵隊になってもらう代わりに、国家は国民の面倒を見てくれるのである。それはつまり、兵士になることが市民権の条件という『スターシップ・トゥルーパーズ』みたいな方向へと容易に展開するわけだが、じゃあ徴兵制がなくなれば国民というだけで無条件に国家が面倒を見てくれるようになる、というより面倒を見る義務を放棄するほうが、確かにありそうな話である。

 ナポレオン戦争はフランスに国民を生み出したが、反作用で「ドイツ人」も生み出した。
 それまでも「ドイツ人」という意識はあった。例えばメッテルニヒは、ナポレオンの「ロシア戦役で死んだのはドイツ人ばっかりだから屁でもない」という放言に、「私もドイツ人です」と激昂したという。
「イタリアというのは地理的概念に過ぎない」とはメッテルニヒの発言だが、その言い方に従えば、「ドイツというのは文化的な概念にすぎない」ということになる。

 ドイツがナポレオンを追い出した戦争を、ドイツでは「解放戦争」と呼ぶ。ドイツが統一されたのは1870年だが、ドイツという国家が始まったのは、この解放戦争からである。
 統一には文化が役割を果たした。共通の「ドイツ性」というものが作り上げられたのである。
 以来ドイツは一般市民に至るまで非常に高い教養を誇る。それはナチスの台頭まで続く。かくも教養の高い人々が、なぜあんなことができたのか。
 なぜあんな恥ずかしい音楽や祭典に耐えられたのか、という問題はさておき、「蛮行」についてならば、なんの不思議もない。文化というものはある集団の統一性を高めるために作用してきたものであるから、排他的なのは当然と言える。

 文化というものは、犬に薬を飲ませるための肉団子である。見極めないと、どんな薬を飲ませられるか、わかったものではない。
 文化的な統一が為されて初めて、政治的な統一が為される。「歴史」(カギ括弧付き)とは文化の産物である。実体の歴史は、漫然としたもの。共通の歴史認識、最初の例で言えば「フランス革命は啓蒙思想が広まった結果起こった」というような歴史認識とは文化の産物であり、実体の歴史とはなんの関係もない
 というのが、今回の結論。

 講義中、ヨハネ・パウロ2世に言及が為された。彼は始終各地を訪問してたんだが、行く先々で「御当地聖人」を列聖してたそうだ。
 ヨハネ・パウロ2世が1999年にグアダルーペの聖母を「全アメリカ大陸の守護者」とし、2002年にはそのグアダルーペの聖母の目撃者であるフアン・ディエゴを列聖したことについて、『ラ・イストリア』で触れた。これについて調べた資料では、どんな状況でそうなったのか判らなかったんだけど、上の話を聞いてもしかしてと思ってググってみました。
 フアン・ディエゴは確かに2002年のメキシコ訪問の際に列聖されてますね。グアダルーペについては判らなかったけど、1999年にメキシコ訪問してるのでやはりこの時でしょう。

 講義で言及された、ヨハネ・パウロ2世が列聖したフランスの聖人について調べようとしたけど無理だった。だって1978~2005年の在位期間に482人が列聖、1338人が列福されてるんだもん……

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佐藤亜紀明治大学特別講義Ⅲ-1

 今回は夏休みの宿題に関連したお話にまでは到達しませんでした。『地中海』は第一巻は分厚いし、内容も気候とか地理とか、すごく細分化されて無味乾燥ともいえる記述でしんどいですが、巻を追って薄くなるし、事件や人物(何しろ、そもそも原題は「フェリペ2世時代の地中海と地中海世界」だ)が中心となるので、まだしも読みやすかったです。第五巻なんて本文は100頁くらいしかないし(残りは註)。
 次回は11月下旬なんで、一巻で挫折した人は二巻から再挑戦してみてはどうでしょうか、と言ってみる。

 今回は体調が悪いとのことで、いつも以上に話があっちこっちに飛びましたが、どっちせよおもしろい話が聞けたので問題なし。今回は「国民」のお話でした。

「近代」はフランス革命(1789)と共に始まる。ギゾーによる「国民」の定義(1822)
peuple: ある主権の領域に住み、同一の法に服す。
nation: ある主権の領域に住み、同一の法に服し、なおかつ出自を同じくする。

 フランス革命は「啓蒙主義によって起こった」ことになっている。本当にそうなのか?という疑問を解くべく、アメリカの研究者ロバート・ダーントンは革命直前の貸し本屋の目録を調べた。
 たぶんこれだな。『禁じられたベストセラー 革命前のフランス人は何を読んでいたか』(新曜社) あと、これもかも。『革命前夜の地下出版』(岩波書店) amazonで検索してみたら、ほかにもいろいろおもしろうそうな本が出てますね。
 で、ダーントンによると、いわゆる啓蒙思想の本は、まったくといっていいほど借りられていなかったそうである。じゃあどんな本が借りられていたかというと、ポルノグラフィー。特に「マリー・アントワネットもの」。
 残っている貸し本屋目録自体が少ないので、これだけで「啓蒙主義は普及していなかった」とは言い切れない、とダーントンは結論しているとのことだが、とりあえず教科書で言われてるほど普及してなかったことだけは確かである。

 革命だろうとなんだろうと、事件というものが何によって起きるのか。なんとなくの「微妙な空気」としか呼べないものであろう。

 今回使用された絵画は二点だけ。20080930200904 まずはリューベンス(1577-1640)。

 女性君主は静止したポーズで、真っ直ぐ鑑賞者を見詰めている。馬も動いていない(左前足を上げているのは見た目のバランスであり、動きではない)。この頃から、「君主の美徳」とは、「動かないこと」となっていた。どっしり座って動かない君主のほうが、臣下たち(各分野の専門家たち)はやりやすい。軽挙妄動されては下が困るのである。

悪い例: フランツ2世(1768-1835)。他人の意見に左右され易く、一度決めたことをすぐに翻す。

良い例: マリア・テレジア(1717-1780)。一度決めたことは最後まで遣り通す。6歳で一目ぼれした相手と結婚まで漕ぎ着ける、七年戦争を戦い抜く、など。

 A国の領土がB国に割譲されたら、元の住民は追い出され、その「新領土」にはB国の行政が持ち込まれる。現代の感覚ではそうなる。しかし1789年以前は、住民たちも行政もそのまま残った。会社の社長が交替するようなものだった。

Jacqueslouis_david_007

 続いてダヴィッド(1748-1825)。
 まず馬の描かれ方の違いに注目。躍動的で表情もあり、しかも追い風で尾と鬣は前方へ。馬上の君主はこちらを振り返るが、その手は前方を示し、もちろんマントは前方へと翻っている。
 ナポレオンが誰かということをまったく知らない鑑賞者でさえ、「ダイナミズム」を感じるはずだ。そのダイナミズムは、ナポレオンのものではなく、「歴史」のダイナミズムである。

 我々が「歴史のダイナミズム」を求めた瞬間はいつか。フランス革命からナポレオン戦争までの間の、ある瞬間である。

 ナポレオンが掲げた右手が象徴するもの。この絵を見る者、すなわち「国民」を先導する「指導者」としての役割である。主役は彼ではない。導かれる者、すなわち我々が指導者についていくことで状況が動く。それが「歴史」なのである。
 主役は国民であり、指導者はその意思を体現しているに過ぎない、と言える。
 その土地に住んでいるだけの「人民 peuple」を国家に組み込み、「国民 nation」とする。それが「動員」である。

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ジョットとその遺産展

 損保ジャパン東郷青児美術館。ジョット・ディ・ボンドーネ(1267頃‐1337)本人の作品はテンペラ画二点とフレスコ画、ステンドグラスが各一点の計四点だけだったっけな。後は弟子たちの作品や彼に影響を受けたルネサンス初期の画家まで。
 規模の小さい展覧会だったので、客数もそれなり。エレベーターの前で、年配の修道女二人と行き違いました。なるほど、そういう客層もありか。

 この時代の西洋絵画を観るのは初めて。作品ごとの保存状態の違いがかなり大きい。
 サン・フランチェスコ大聖堂やスクロヴェーニ礼拝堂の壁画は、持って来るわけにいかんので写真のパネルが展示されていたが、これらの写真はかなり鮮明で悪くなかった。スクロヴェーニ礼拝堂にはラピスラズリの青顔料が大量に使われている。当時のイタリアがそれだけ豊かだったということである。

 ジョットもその弟子たちも、作品は絵それ自体がメインではなく、あくまでほかの何かを飾る役割しか持っていない。ほかの何かというのは、もちろんキリスト教に関係した建築や小道具だ。祭壇画でいえば、祭壇の形状とか枠の装飾とかと一体になって、初めて一個の作品となっているわけだ。絵本体でも、金箔部分に微細な線刻がびっしり施されてたりして工芸的だ。
 建物や風景は画面に小さく押し込まれていて、なんとなく絵本っぽい。子供の頃読んだ絵本の挿絵って、今思い返してみると初期ルネサンス以前か20世紀絵画の影響を受けたものが多かった気がする。
 ジョットの「革新的な表現」も、人物の個性を表すところまでは行ってないんだが、イエス誕生の場面の父ヨセフだけは、憮然とした様子なのがおもしろい。
 タッデオ・ガッディをはじめとする弟子たちの作品では、表現がさらに多様になってくるんだが、1340年代のペスト禍以降は再び硬直した画風が支配的になってしまう。

 1380年代になるとジョットの画風が復権し、ルネサンスの開始ということになる。一番最後はマゾリーノ・ダ・パニカーレ(1383‐1447)。

 しばらくブログの更新がやや間遠になるかと思います。あんまり時間がなくなってきた、というとまるで今まで暇だったみたいだから、そういうことは言わない。

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ククーシュカ

 サブタイトルはスルー。フィンランドがナチス・ドイツと組んでソ連と戦っていたラップランド戦争(1944-45)の最中。夫を軍に連れて行かれ、一人で暮らしている先住民女性の許へ、フィンランド人とソ連人の兵士が転がり込む。彼らは互いにまったく言葉が通じない。

 兵士二人は、どちらも主人公足りうる資質を備えている。ソ連兵はメランコリックな性格の中年で、タクシー運転手の息子だが、詩を書いたりするインテリで、階級は大尉だが肺(たぶん)を病んでおり、離婚暦も含めて女にはふられてばかりで、若造の中尉がでっち上げた罪状により逮捕され、人生に絶望しきっている。連行される途中で車が自軍の飛行機に誤爆され、先住民女性アンニに救出される。悲劇的でロシア的な主人公の条件を満たしていると言える。

 一方、フィンランドの若い兵士は、ノルウェーの大学に在籍していた平和主義者で、徴兵されたものの非協力的なので、制裁として岩に鎖で繋がれ置き去りにされる。その際、御丁寧にもナチの軍服を着せられる。ソ連軍はフィンランド兵の投降は受け入れるが、ドイツ兵は問答無用で撃ち殺すらしい。
 ただし仲間たちは狙撃銃と銃弾数発、若干の水と食糧を置いていってくれたので、彼は絶望に沈むことなく、早速自力救済に取り掛かる。眼鏡のレンズを外して松脂で貼り合わせ、隙間に水を入れた即席の発火装置で植物を燃やし、鎖を繋ぐ鉄の杭を打ち込んだ岩を熱する。そこへ水を掛けると、岩が薄く板状に割れる。その作業を丸一昼夜、根気よく繰り返し、最後には銃弾の火薬も使って、杭を抜くのに成功する。
 鎖を足から外す道具を借りるため、偶々見つけたアンニの家に立ち寄り、件のソ連兵と鉢合わせになる。敵意を剥き出しにするソ連兵(軍服のせいでドイツ兵だと思っているので)にナイフで切り掛かられても遣り返したりせず、トルストイやドストエフスキーを引用して友好を説き、本で読んだだけの知識で(岩を割った遣り方もそうなのであろう)、立派にサウナをこしらえる。人徳と知性と実行力とを兼ね備えた、申し分ないヒーロー像である。

 どちらか一人だけがアンニと出会う物語だったら、「文明の男」と「野生の女」の正統的な上にも正統的なラブロマンスが成立しただろう。言葉が通じないというのは、この場合まったく問題にならない。それが言葉の通じない男がもう一人増えた途端、間抜けな上にも間抜けな状況が出現するのである。

 アンニは小柄な可愛らしい女性で、とにかくよく働く。フィンランド兵は、乏しいはずのアンニの蓄えを心配したりするものの、サウナを造るのに彼女の貴重なドラム缶を使ってしまい、怒られているのにも気づかず得意満面である。仕事を手伝おうとするのはいいが、彼女が苦労して運んだ丸太をどこかへ持っていってしまったりと、役に立たないこと甚だしい。
 ソ連兵はというと毒茸を大量に採ってきて(ロシア人は茸が大好物なのだそうだ)、アンニの制止を聞かずに、というか制止だと気づきもせずに食べてしまう。アンニが作ってくれた解毒剤が効いて腹を下し、自分が危ない目に遭ったことも気づかないまま、彼女が憎きナチ野郎といい仲になっていることと自らの人生を果てしなく嘆き悲しむ。これってロシア制作だから、セルフ・パロディだよな。

 男が二人に増えたことによって引き起こされた間抜けな事態もあるにはあるが、むしろ二人に増えたことで状況が相対化され、「文明の男」の無能振りが顕在したと言える。
 だからつまり、『ダンス・ウィズ・ウルブス』とか、未見だけと『ポカホンタス』(『ニュー・ワールド』も)とかも、よりリアルに表現すればこんな感じだったってことだろうね。

『収容所群島』によると、フィンランド帰りの兵士たちの多くが収容所送りにされたそうだから、フィクションとはいえソ連兵イヴァンのその後が気に掛かるところである。

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ジョン・エヴァレット・ミレイ展

 観たい映画はあるのに映画館まで行く気が一向に起きないのは、夏の暑さのせいだと思っていたんだが、涼しくなったというのに気が向かないままである。
 しかし展覧会には足を運ぶのであった。その理由が、「動くものより動かないものを観たい」というあたり、やはりいろいろと疲れているのだろうか。長時間歩き回る展覧会のほうが、少なくとも体力は遥かに要するはずなんだけどね。

 というわけで、「オフィーリア」のミレイ(1829~1896)。文化村ザ・ミュージアムにて。
 七部構成で、第一部はラファエル前派時代として17点。9歳頃に描いたデッサン1点も含まれるんだが、これがどうも、子供が描いたにしては異様に巧いが、妙にマンガっぽい。それも日本のマンガっぽいのである。タッチというか、特に顔のパーツの描き方に表れる描き手の癖が、マンガのいわゆる「絵柄」になっているのである。
 続いて、十代後半から二十代初め(1847~1852)の作品が展示される。うち何点かは線画であり、それらもやはりマンガっぽいタッチである。描線がすっきりしすぎているのも理由の一つだろうけれど、それだけではない。

「両親の家のキリスト」(1849)や「マリアナ」(1850)は、細部の描き込みが非常に精緻だが、写実的な精緻さとはやや違い、絵画というよりは工芸品的である。

Millais_christ011

Millais_mariana011_2 ラファエル前派が理想としたのは、芸術と工芸の境界が曖昧な中世の芸術だから当然だが、それに加えて物語性の高さと上で言及した「マンガっぽさ」から、イラスト的でもある。まあ芸術と工芸の違いとか、さらにイラストとの違いとか言い出すと話がややこしくなるから、これ以上は突っ込まないでおくけど。

800pxsir_john_everett_millais_0031 「オフィーリア」(1851)は、上の2点に比べて工芸品的、イラスト的な要素が薄れつつある。その傾向は以後顕著になり、ミレイはラファエル前派から離脱することになる。ラファエル前派の一員としての最高傑作が離脱の先駆けとなったわけだ。

 第二部「物語と新しい風俗」は、1853~1864年までの19点。ある風刺画家と仲良くなり、非常に影響を受けたそうだが、残虐だからという理由で毛嫌いしていた狐狩りに熱中するようにまでなるってのは、影響受けすぎなんじゃあるまいか。それは線画に顕著に現れていて、(日本の)マンガ・イラスト的なすっきりしすぎた描線やプロポーションが、いかにも当時の風刺画っぽいものに変わっている。油彩は工芸品的な精緻さから、写実的な精緻さへと変わる。

 第三部以降は描かれた時期に関係なく、1850年代後半から晩年までの作品をテーマごとに。時代の趨勢で、精緻な描き込みは次第に薄れる。風俗画や肖像画は、子供は可愛く、女性は美しく描いているだけなんだが、ぱっと見、印象的ではある。長く立ち止まって眺めていたい気にさせられるのは、老いた国王衛士の肖像くらいだったけど。
 晩年の風景画は、「露に濡れたハリエニシダ」がなかなかよかった。

 ところで、ジャレト・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』の表紙に使われてる絵って、ミレイが17歳の時の「インカ国王を捕らえるピサロ」なのな。今回は出展されてないけど。

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JD(2190~)

『グアルディア』の「表」主人公。

 2540年、メキシコ北部の東シエラ・マドレ山中に、「北」から現れる。「JD」という名以外、自身に関する記憶をすべて失っていた。黒い髪と瞳、赤銅色の肌を持つ20代半ばの青年。中南米の住民は、その容貌から彼を先住民(作中ではインディオと呼ばれる)と白人の混血と見做すが、実際のところは不明。
 サン・ヘロニモ村の農夫ミゲルの家に招かれ、ミゲルの娘で十一歳のカルラと出会う。しかし間もなく、村を逐われることになる。サン・ヘロニモ村より北には、災厄で荒廃した不毛の沙漠が広がり、そこを越えてやってくるものは、人の形をしていようと獣の形をしていようと、すべて怪物だと信じられていたからである。

 JDはカルラとともに北へ向かい、消息を絶つ。それから103年後の2643年、少しも変わらない青年の姿のまま、5、6歳の少女カルラとともにアンデスの赤道地帯に姿を現す。

『グアルディア』の世界では、「正常」の基準から外れた外見や能力を持つ人や獣を「変異体(ムタシオン、mutacion)と総称する。「変異体」の中には、大災厄以前に造られた遺伝子改造体の末裔で、特異な能力を持つ者も少なからずいる。しかしJDとその「娘」となったカルラは、そうした異能の変異体たちを遥かに凌駕する力を持つ。

 2540年以前の記憶を失っているとはいえ、それ以降の百年以上にわたる記憶は、彼の人格にほとんど影響を及ぼしていない。そのため肉体同様、精神も老いることがない。言い方を換えると、成長しないのである。
 物事をあまり深く考えない性格で、これは「娘」のカルラも同様。ただしカルラのほうが主体性があり、どこへ行き、何をするかを決めるのはほとんどの場合、彼女である。唯一、JDの主体的な望みといえるのが、己の過去の探索である。レコンキスタ軍総統アンヘルが「知性機械」サンティアゴを降臨させるという噂を聞き、過去への手掛かりが得られるのではないかと期待する。
 しかし切実に過去を追い求める一方で恐れているようでもあり、そのため直接アンヘルを訪ねるのではなく、サンティアゴが降臨するというギアナ高地へ向かうという迂遠な手段を取ることになる。

関連記事: 「知性機械」 「アンヘル」 「カルラ」 

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 以下、ネタばれ注意。

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ハウルの動く城

 姪(5歳)と一緒にTVで鑑賞。

 劇場で観た時は今ひとつだった。プロットの破綻にばかり気を取られていたためである。今回、宮崎アニメにとってプロットとは、絵と動きを見せるための方便でしかないことを改めて認識する。プロットではなく「絵・動き・音」に反応する5歳児と一緒に鑑賞したお蔭かもしれない。
 普段は夜8時半に就寝する子が、お泊りで興奮していたとはいえ、9時から2時間半、集中を途切れさすことなく観続けてたからなあ(CMの間は、私が貸したパンフレットを眺めていた)。もっとも、「『ポニョ』のほうがおもしろい」とのことだったが。
 ちなみに2、3ヶ月前に『ゲド』が放映された時は、始まって5分と経たないうちに「もういい」と言いましたよ(というわけで、私もそこから先は観ていない)。

 とにかく細部の作り込みが凄まじく素晴らしい。そこんとこが『ポニョ』では物足りなかったんだよな。行き当たりばったりの展開も、その場その場の「絵と動き」を見せるための役割は、充分に果たしている。いろいろなものがあっさりと片付いてしまう結末は、宮崎監督の「さあ、充分楽しんだからもう終わりにしよう」という声が聞こえてくるかのようだった。ほんと、充分堪能させてもらいました。一度目の鑑賞でそれができなかった私は、鑑賞者としてはまだまだ修養が足らん。

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対極――デーモンの幻想

「天山山脈」のキーワードで見つけた小説。著者は「青騎士」の一員で、版画家・素描家のアルフレート・クービン。彼の唯一の小説だそうである。挿絵も本人が手がけている。

 物語の舞台は、一人の富豪がヨーロッパから遠く離れた秘境に建設した、閉ざされた小国である。明らかに著者は、天山にも中央アジアにもまったく関心はなく、「アジアの秘境」ならどこでもよかったようだ。天山および中央アジアへの言及が非常に少ないにもかかわらず、いろいろ間違いだらけなのも、無知や怠慢以上に無関心が主たる原因だろう。天山を「ミュンヘンと同緯度」とするような間違い方からすると、確信犯的にやったとも思えない。

 どこでもよかったんだが取り合えず天山を選んだ理由は、これが発表された1908年(執筆と挿絵に掛けた期間は約4ヶ月)は、ちょうどドイツのトルファン探検隊派遣(1902~)の最中だったからだろう。報告書等は読んでなさそうだ。

 作品全体の印象は、山尾悠子を思わせた。閉鎖的な国/街を舞台にした幻想小説、というだけでなく、意外にグロテスク且つスラップスティックであることも。翻訳文をリライトするんだったら、『白い果実』よりこっちのほうが合ってると思う。

 日本語訳の初版は、1971年。訳文自体は問題があるわけではないが、前半のひたひたと迫ってくる異様さ、後半の狂騒を伝えるには少々物足りない(だから、山尾悠子の文体だったら、と思わずにはいられない)。それと、翻訳者に原著者以上の知識を常に求めるのは酷かもしれないが、だからといって原著者の無知と怠慢に翻訳者が倣っていいということはない。
 この訳者がそうだとは言わないが、とりあえず「ジョージア人」はないんじゃないの、と思うのであった。

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カロリーヌ・ティシエ

 Caroline Tissier。『ラ・イストリア』に登場。

 23世紀半ばの北米では、白人至上主義と原理主義とを掲げるネオピューリタンが、異人種と異文化に対する迫害を強めていた。メキシコには迫害を逃れて多くの有色人種が不法入国していたが、2256年、バハ・カリフォルニア(カリフォルニア半島)に白人のグループが不法入国する。カロリーヌはその代表者で、30代後半、金髪碧眼、白皙の小柄な女性。両親はヨーロッパからの難民でフランス系。カトリックを信奉する。

 カロリーヌたちは人種主義からすると紛れもない白人であり、ネオピューリタンに同化しさえすれば支配層の一員となれる。しかし彼らは同化を善しとせず、その一方で有色人種たちからは白人というだけで憎悪を向けられたため、メキシコに逃れる。東シエラ・マドレ山中にコミュニティを建設し、いずれは同じ思想的立場の北米白人たちを受け入れたいと望む。そんな彼らは、密入国仲介業者のアロンソの目には薄甘い理想主義者と映る。

 ネオピューリタンの同化政策で、非英語圏の白人は英語の使用や英語風の改名を強制されていたようだ。カロリーヌはそれに抵抗してフランス語名を名乗り続けていた。ただし「両親の死後はフランス語をほとんど使ったことがない」とのことで、フランス語よりも英語の使用に慣れており、仲間たちとも英語で会話する(しかし生体甲冑の力を目の当たりにし、驚愕に打たれて呟くのはフランス語である)。

 Carolineの英語形は、スペルは同じでキャロラインもしくはキャロリン。英語形の愛称はキャリーCarrieが一般的だが、仲間たちは彼女をカーラCarlaと呼ぶ。
 CarolineもCarlaもCarlの派生形、つまり同じ名である。カロリーヌたちのコミュニティは『グアルディア』のカルラCarlaの故郷、サン・ヘロニモ村の原型となっており、またアンヘルの祖クローンであるブランカが東シエラ・マドレへと赴く経緯にも多少の関わりを持つ。「グアルディア伝説」は、彼らから広まったのであろう。
 つまりカロリーヌは、カルラ、アンヘル、そして生体甲冑(というガジェット)を結び付ける役割を持ったキャラクターである。その象徴として、カルラに関連した名と容姿(金髪碧眼、白皙)を持ち、また生体甲冑をシリーズで初めて「守護者」と呼ぶ。

 ただしカロリーヌとカルラの繋がりは、上記のとおり、あくまで間接的なものである。このシリーズに於いて、血縁関係というものは共有遺伝子の有無を基本とし、いわゆる「血の絆」といった観念上の繋がりは、近親ならともかく、何世代も離れてしまえば意味を持たない。したがって、カルラがカロリーヌの子孫であるか否かという追究も無意味である。まあ、カロリーヌは一人くらいなら産めそうな年齢ではあるが。
 カロリーヌたちのコミュニティも、その後、集合離散を繰り返したであろうから(グアルディア伝説が広範囲に伝わっているのも、その裏付けと言える)、カロリーヌと同行した白人たちの誰一人としてカルラの祖先ではない可能性も、ないことはない。そのくらい、先祖‐子孫の関係は重要性が薄いということ。
 カルラとカロリーヌが同じ名なのは、物語上では単なる偶然である。ただ、村の始祖たちの一人としてCarlaの名が後代に伝わり、サン・ヘロニモ村の伝統的な名となった可能性はある。いずれにせよ、26世紀の時点でサン・ヘロニモ村の「始祖たち」が完全に忘れ去られていたのは確かだが。

関連記事: 「カルラ」 「生体端末」 「異形の守護者」 「大災厄」

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