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迷子の警察音楽隊

 イスラエル映画。一応ネタばれ注意。

 1990年代(と思われる)、エジプトの警察音楽隊が文化交流のためイスラエルに派遣される。空港に着いてみると、出迎えが来ていない。隊長のトゥフィーク以下、ヘブライ語は一言も話せない。トゥフィークは文化センターに英語で電話を掛けてみるのだが、あまりにも訛りが強すぎて英語だと判ってもらえず、切られてしまう。
 団員たちは大使館に連絡を取ることを提案するが、トゥフィークは自力で目的地の文化センターに行くことを決意。どうやら警察音楽隊は解散させられる瀬戸際にあり、トゥフィークとしては他人に極力頼りたくないらしい。

 トゥフィークは若いカーレドに命じて、文化センターのあるペタハ・ティクバまでの切符を買わせる。ところで、アラビア語はpの発音が無いから外国語のpはbに置き換えられる(例えばペテロは「ブトルス」になる)、とものの本には書いてあるが、少なくともエジプト方言ではpが無いというより、pとbの区別が無いみたいだな。音を聞き分けられないだけじゃなくて、発話でも区別してない。日本人が中国語の有気音と無気音を区別できないのと同じか。
 だからカーレドが「ペタハ・ティクバ」と言うのを、チケット売り場の職員は「ベイト・ティクバ?」と訊き返し、カーレドは「そう、ペタハ・ティクバ」。そして一行が到着したのは、荒野の町ベイト・ティクバだった。カーレドの責任だ、と激怒するトゥフィーク。

 楽器を担ぎ(もしくは引き摺り)、とぼとぼとバス停へ戻る水色の制服の警察音楽隊。しかし翌日までバスはなく、ホテルもない町で一晩過ごすことになる。食堂の女主人ディナは、親切にも彼らに宿を提供してくれる。総勢八人の隊員のうち、三人が食堂に、二人がディナのアパートに、三人が食堂の「客」イツィクの家に。

 ベイト・ティクバは町といっても荒野のど真ん中にぽつんと建つ団地群で、公園に樹木の一本も植えられていない、死んだような場所である。そこへ迷い込んできた「異人」たち……という発端から期待されるようなドラマは、何も起こらない。

 イツィクが妻の誕生日だというのに、ディナの要請を断れなかったのは、彼が一年も失業中で、毎日食堂に入り浸っているからである。押しかけてきた客に、家族は当然いい顔はしない。それでも双方、なんとか交流を試みるも、どこまでもぎこちない。男たちが皆で「サマータイム・ブルース」を口ずさんだり、隊員の一人が演奏を披露したりするのだが、そこから先がまったく盛り上がらない。単発なのである。まあ「冷戦中」のイスラエルとエジプトとで、そんなに都合よく「心温まる交流」が生まれるはずもないのだが。

 しかしディナは一人、ドラマチックな展開を期待していたのであった。同じ町に住む男と結婚して離婚し、前夫は別の女と結婚してまだ同じ町に住んでいる。それでも別の場所へ移り住むこともできない人生に、突如として異国の男たちが飛び込んでくる。しかもエジプト人である。彼女の娘時代、TVでは毎週エジプト映画の時間があったのだ。どうやらエジプト映画はやたらとドラマチックで異国情緒たっぷりであり(主演はオマー・シャリフ)、イスラエルで絶大な人気を博していたらしい。

 そんなドラマを期待して、彼女はトゥフィークにあからさまな誘いを掛ける。若くて二枚目のカーレドではなく、初老のトゥフィークを狙ったのは、美人だが中年の自分に自信がなかったからだろう。しかしトゥフィークはあくまで堅苦しく、礼儀正しい。
 それでも少しずつ二人は打ち解けるのだが、食事の後、トゥフィークはディナに、息子と妻の死に責任を感じていることを告白する。つまり、彼女の誘いには乗れない、と告げるのである。

 ドラマチックな展開は起こらない。「交流」らしい交流も生まれない。それでも、この「接触」によって、双方に変化は生じるである。食堂従業員の青年はカーレドのアドヴァイス(言葉によらない)によって女の子の扱い方を学び、反目していたトゥフィークとカーレドは共にチェット・ベイカーのファンであることを発見し、二十年間も協奏曲を完成できずにいるクラリネット奏者はイツィクのアドヴァイスでほんの少し作曲を進めることができる。

 難を言うなら、食堂に泊まった三人に、ほとんどスポットが当てられなかったので、多少バランスが悪い。一人ひとりの「人間ドラマ」は別にいらんけど、ただバランスの問題として。

 この警察音楽隊のレパートリーは、「伝統的なアラブ音楽」なのであった。しかし民族楽器はカーヌーンぽい弦楽器(しかし伝統的なカーヌーンよりかなり小さく、装飾もない)くらいで、ほかはヴァイオリンにクラリネットやトランペット、チェロなどまったくの西洋楽器である(打楽器はどうだったけな)。トルコの軍楽みたいな折衷っぽいアレンジをしているのかと思ったが、これが「伝統的なアラブ音楽」なのであった。なかなか興味深かったんだけど、演奏シーンはとても短くて、これもまた残念。

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大琳派展

 東京上野。なんじゃこりゃっていうくらい混んでいる。いや、観に来たくて観に来てる人ばっかりだから、いいんだけどね。開催期間が短いのも、仕方ないことだし。しかしあれだけ混んでると、やはり作品よりも人混みの印象ばかりが残ってしまうのであった。

 一番観たかった光琳の燕子花図屏風の公開が、知らぬうちに終わっていてものすごくがっかりする。酒井抱一の燕子花図もあったけど、うぬー、劣化コピーとまでは言わんけどさ……
 先代の作品を模倣しつつ独自のアレンジを加える、という作法をよく示したのが、宗達、光琳、抱一、鈴木其一の「風神雷神図」。光琳は忠実な模写なので、描線に勢いがない。抱一はコミカルにアレンジし、其一まで行くと洗練の域まで達してるわけだが、やっぱりオリジナルが一番いいのでありました。

 偶々小耳に挟んだ女性客二人組の「フェルメール展に比べたら、これでもまだ空いてる」という言葉に、暗澹とした気分になる。

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ブーリン家の姉妹

 ナタリー・ポートマンとスカーレット・ヨハンソンは、どっちもスタイルがあまり良くないから、こういうゴテっとした衣装のほうが似合うよな。

 夏以来、どうにも映画館まで映画を観に行く気力が沸かないのだが、先日、ヘンリー八世梅毒説を検証した本を読んだためか、なんとなく観に行って参りました。
 この『歴史を変えた病』という本、著者のフレデリック・フォックス・カートライトはイギリス人で日本語訳こそ96年刊行だけど、原著が出たのはその20年も前である。どうも当時のイギリスでは、ヘンリー八世梅毒説は否定される傾向にあったらしい(現在は知らん)。で、著者は「限りなく黒に近い灰色」として断定を避けた上で、6人の王妃たちの流産、死産、子供の早世の多さを挙げ、「彼が罹っていた病気(一つではなかった)がなんだったのかということより、健康な子供を儲けられなかったということが、その後の歴史に及ぼした影響は大きい」と結論している。

 ナタリー・ポートマンは、下手ではないと思うんだが、激情の表現がかなり単調だ。単純に叫んだり泣いたりするだけでもそうだから、表面的には平静だけどその下から押し殺した激情が透けて見える、なんてのは言わずもがな。つまり演技の幅が狭いんだよな。『V フォー・ヴェンデッタ』に比べれば、今回はまだましだったけど。

 ポートマンが演じたアン・ブーリンは、作中では男勝りで野心家の女として描かれる。頭がよくて美人だけど、他人の心理(特に男の)がよく解ってないので、「王にいいところを見せろ」という父親の言い付けに頑張って応えようとして、乗馬の技術で王を負かした上に怪我までさせてしまう。
 それじゃ駄目だ、ということを学んで、「女の手練手管」を身に着けるんだけど(頭はいいので、そういう技術もすぐ習得する)、結局表面的なものに過ぎず、根本的な部分は変わっていないので、せっかく勝ち取った王妃の座を維持できずに転落する。

 最初の失敗の後、王の関心を引くところまでと、王妃の座を手に入れた後の絵に描いたような転落振りはいいんだけどね。王妃との離婚まで漕ぎ着けさせたほど王を魅了し続けた、という点に説得力がない。そこまで魅力的に見えないのである。もっともこれはポートマン一人の問題じゃなくて、脚本や演出、エリック・バナの演技にも難があったのかもしらんけどさ。

 それにしても、『レオン』の奇跡的なまでの魅力は、ほんとにあれ限定だったんだなあ。12、3歳という年齢の極めて限定的な魅力に、リュック・ベッソンという極めて限定的な才能が出会ったからこそ最大限に引き出された、まさに奇跡的な魅力とゆーか。

 ヨハンソンは巧いとは思うんだが、なんかなんでもそつなくこなしちゃってる感じで、観ていてあまり興味が惹かれない。

 エリック・バナの出演作は『トロイ』と『ミュンヘン』と、後は印象に残っていない『ブラックホーク・ダウン』(あれは作品そのもののインパクトに比べて、どの俳優の印象も異様に薄いんだが)にあまりのひどさに最初の15分で挫折した『ハルク』しか観たことがない。
『トロイ』と『ミュンヘン』ではどっちも「真面目な苦労人」という役柄が嵌まっていたが、今回は絶対君主ヘンリー八世である。彼が登場する映画っていうと、『わが命つきるとも』しか観たことない。ロバート・ショウのヘンリー八世と比べたら、エリック・バナはどうしたって分が悪いよな。

 絶対君主や独裁者は、個人ではなく「気象現象」として描いたほうがいい、と思う。実際にそう見做されたか、というのは大して問題ではない。少なくとも、一個の人間と同じく気紛れだが、その影響力は一個の人間(普通の意味での)より遥かに甚大、という点では正しかろう。「現象」として余さず描けばいいのである。下手に「一個の人間として」描こうとすれば、ステレオタイプと同じくらい安っぽくなるだけだ。
 あの物凄い肩パッド入りの衣装をまともに着こなせる、という点に於いては、エリック・バナはミスキャストじゃなかったけどさ。

 キャサリン王妃役はアナ・トレントでした。『ミツバチのささやき』のアナ・トレントだよ。34年も経ってるんだけど、面影がちゃんと残ってる。特に目の辺り。作中でしばしば「善良な」と形容されるとおり近寄りがたさはないのに、気品に満ちた王妃を演じていた。2歳年下でしかないエリック・バナが完全に貫禄負けしてる。てゆうか、エリック・バナに重量感がなさすぎるのか。

 姉妹の母方の叔父役のデヴィッド・モリッシー。最初っから姪を王に差し出そうと目論んでたんだが、義兄が自分の意思で決定したと思い込ませるのである。酷薄そうな目が、ちょっとピーター・サースガードに似ている。

『ブラックスワン』感想

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キルケー・ウイルス

 基本設定の一つ。大災厄の元凶とされる。

 22世紀末から、世界各地に新種の病原体が次々と出現する。それらはいずれも感染性と病原性が高く、また変異の速度が非常に速かった。治療も予防も追いつかず、社会は混乱に陥る。やがて、病原体の変異がウイルスによってもたらされていることが明らかになる。そのウイルスは種の壁を易々と越えて感染対象を拡大し、宿主の遺伝子を取り込んで自らも変異しながら、宿主の遺伝子を変異させる。さらには異種のウイルスの遺伝子組換えも行う。

 2139年、遺伝子管理局は最高権力組織である「管理者たち」の名義で、この「変異をもたらすウイルス」の存在を発表。ただし上述の特質から、「変異をもたらすウイルス」の祖型(野生株)を突き止めることは、もはや不可能となっていた。管理者たちは、想定される祖ウイルスを「キルケー・ウイルス」と名付けた。厳密には、キルケー・ウイルスは仮説的存在に過ぎないと言える。

 キルケーKirkeはギリシア神話に登場する魔女で、太陽神ヘリオスの娘。同母姉妹はミノタウロスの母パシパエ、姪はメディアである。『オデュッセイア』ではアイアイエ島に住み、人間を豚などの動物に変える。

 キルケー・ウイルスという名が、生物を変異させる、という意味で付けられたのは確かである。2139年の時点ではせいぜい微生物間の遺伝子攪拌が確認されているだけだったが、おそらく管理者たちは遺伝子攪拌が高等動植物にも及ぶこと、すなわち人間の遺伝子に異種生物の遺伝子が混入されることをも見越していたのだろう。
「人が人でなくなる」ことへの恐怖は、やがて人類に浸透し、際限ない殺し合いへと発展していく。

『グアルディア』でも『ラ・イストリア』でも、シンクレティズムについてあれこれ与太を飛ばしている。シンクレティズムsyncretismというのは重層信仰と訳されるけど、「共に」「同時に」といった意味を付与する接頭辞syn-が示すように、要するにちょっとでも似たところのあるもの(神格)は、文化や時代の違いなど無視してどんどん結び付けよう、という思考様式である。属性が似てるくらいならまだしも、まったくの偶然で名前が似てるから、という語呂合わせで結び付けられる場合もあって、どこまで本気で信心してたのか疑いたくなる事例が多い。だから、作品中の記述も与太以外の何ものでもないのである。
「一にして多、多にして一」、彼我の境界をも曖昧にするシンクレティズムは、このシリーズに於ける通奏低音ともいうべき現象であり、キルケー・ウイルスはシンクレティズムを生物学的に実践する媒介物といってもよい。

 またシンクレティズムに於いては、結び付けられるのは「似たもの同士」に限らない。正反対の要素を持つもの同士は表裏一体、すなわち一つであると見做される。
 絶対平和すなわち人類の黄金時代を支えたのは、知性機械と人工子宮である。知性機械が天空から人類を見守り(=監視し)、管理してきたのに対し、人工子宮は地上にあって人類を育み慈しんできた。22世紀後半には、「市民」たちの出産も母体ではなく人工子宮からが一般的になっており、人工子宮は文字どおり人類の母となっていた。
 コンセプシオンの名で呼ばれた人工子宮はキルケー・ウイルスによって喰らい尽くされ、絶対平和は終焉した。清らかな(何しろ「処女懐胎」する)慈母コンセプシオンと、貪欲な魔女キルケーは、まったく正反対な存在である。すなわち、彼女たちは表裏一体だとする見方も可能になる。

関連記事: 「遺伝子管理局」 「大災厄」 「絶対平和」 「知性機械」 「コンセプシオン」

       「封じ込めプログラム」 「変異体」 

       「コンセプシオン、疫病の王、生体甲冑、そしてキルケー・ウイルス」 

設定集コンテンツ 

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デイウォッチ

 原作は『ナイトウォッチ』しか読んでないんだが、エピソードはそっちから主に採ってるようだな。
 やろうとしてること、言わんとしてることは解んねんけど、もう少し簡潔に表現できないものか。「すごくてかっこいい表現」をひたすら追求した結果、悪い意味でアホっぽくなってしまう、というのはワイヤーアクションとCGを多用した近年の中国映画に通じるものがある。もっとも『デイ・ウォッチ』の場合は、「いい意味でのアホっぽさ」へと向いている部分もある。ところどころ微妙だが。悪い意味でのアホっぽさへ完全に振り切れているのが中国映画。

 この差は、己を顧みることができるかどうか、に掛かっているだろう。『デイ・ウォッチ』のスタッフは、アホなことをやってるという自覚が、多少なりともある。
 それにしても何につけてもゴテゴテしく、そして全般に大味なのは、ソ連時代というよりロマノフ朝時代から変わってないんだなあ。そこにアジアン・テイストが加わっているのは、監督が中央アジアの人だからなのか。

 前作の成功のお蔭か、役者たちが全般に垢抜けていた。特にヒロイン役の女優がきれいになってたんで驚いた。イゴール役の少年は、前作と同じだね。2年しか経ってないのに、白人の子供って成長が早いなあ。
 それにしても雪が降ってるのに屋内ではタンクトップと短パンで過ごしたり、おねーさんたちがミニスカートにハイヒールで雪道を闊歩したりしてたんだが、モスクワではあれが普通なんだろうか。

 DVDの特典映像では、「中身が男になった」女を演じた女優のインタビューがおもしろかったけど、ほかに「城壁を突き破る騎兵」のシーンを撮るために、箱を積んだ壁を突き破る訓練をされた馬の話が、なんとなくツボでした。

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