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佐藤亜紀明治大学特別講義Ⅳ-2

「歴史とは何かと」と問うた時、答えは二つある。第一の答えが、為されたことの総体としての歴史である。意味づけはされない、剥き出しの「事」自体。しかしおそらく、我々はそのようなものを認識できない(なぜなら、人間は何かに意味づけせずにはいられないからである)。

 第二の答え、第二の歴史は、「事」自体を、ある文脈に沿って切り出し、並べ直したものである。これが一般に言うところの歴史である。
「文脈」とはすなわち、何も意味を持たないものに意味を与える。つまり、どんな意味でも捏造してしまえるということである。

「歴史とは物語に過ぎない」というのは、まるっきり間違いとは言えないが、短絡的な言説である。何しろ過去のできごとだから、「事実か否か」を証明できないことのほうが多い。しかし、「かなり事実」か否か、というのは検証できる。最近では、この実証の手順を平気で無視する研究者が多い。なるほど、下手に「歴史は物語である」と発言すると、そういう輩と同類だと思われる可能性があるのか。気をつけよう。

 では、絶対に「歴史は物語ではない」のか。
「文脈」を与えるということは、物語化であるとは言える。そして、トラウマを言葉にする時、物語化によって合理化し、「鎮める」という行動もある。それが嵩じると、ある種の健忘症が起こることもある。

 雑居して共存してきた者たちを、グループ分けして境界線を引くと、それまでどれだけうまくいっていたにもかかわらず、必ず争いが起こる。イギリス人は、そのことをカトリックとプロテスタントの争いから、いやというほど知っていたはずなのに、『指輪物語』のような作品が書かれ、人気を博したりする。別々の種族が、文化も血統も交えることなく別々の状態のまま共存できるはずがないのである。
 一例が、ルワンダのツチ族とフツ族である。平和に住んでいた人々のところに、ベルギー人がやってきて、背の高い人々と低い人々を分けた。「エルフ」と「ドワーフ」に分けたのである。しかも背の高いほうを「高貴」であるとした。その結果が、あの大虐殺である。
 同じ事をアメリカ人もやっていて、冷戦後に「民族自決」とか言い出したから、今こんなことになっている。

 そもそも、一つの国家に一つの文化、ときれいに区分けできるものではない。例えばウクライナ独立後、同国のイディッシュ文学の研究が困難になった。国内の「非ウクライナ文学」を「なかったこと」にしたい動向があるようである。さらには、ウクライナ出身のロシア文学者をどう扱うか、という問題もでてきている。

 上記の「第二の歴史」の一傾向として、歴史を「自分たちで運命を定めることのできる目覚めた人間たち」のもの、とする史観がある。全体主義的歴史がまさにそれで、人間は自分の運命を切り開いてきた、とするのである。ここでは、虐殺された人々を完全に切り捨てている。

 ユダヤ人が大量虐殺されたことは、よく知られている。それは彼らがその歴史を語るからである。彼らはその受難をどうにか意味づけしようと努力してきた。語ったり、国を建てたりするのが、その努力の一環である。
 収容所を生き延びた人たちの中には、ものすごくポジティヴな思考の持ち主がいる。当時のことを尋ねると、「あれは私の人生に於いて、非常に貴重な体験でした」などと言う。そんなふうに「物語化」することができるから、収容所もその後も生き延びられてきたのである。ポジティヴな物語化ができない人は、収容所を生き延びられないか、もしくはせっかく生き延びられたのに、その後自殺してしまったりする。

 他人からすると、あまりにもポジティヴすぎて却って深淵を覗いてしまったような、空恐ろしさすら感じる「物語」なのであるが、本人たちの生存には必須なのである。民族としてのユダヤ人たちも、受難がイスラエル建国へと昇華される物語を必要としたのだろう。これも他者からすると無理のある物語で、だから実際面倒なことになっている。

 ユダヤ人と同様に大量虐殺されたが、あまり知られていない民族に、ロマがいる。知られていないのは、彼らが語らないからである。そんな彼らに、「なぜあんなことが起きたと思うか」と尋ねると、「運が悪かったから」という答えが返ってきたという。

 彼らは、「第二の歴史」を語らない。身を守るための物語を持っていないし、必要ともしていないらしい。そうして、「世界の絶対的怪異性」をまともに受け止め、「運が悪かったから」としか言いようがないのだろう。そんな状態で、彼らは生きている。

 今回、冒頭に先生が「陰気な話」と言わはったが、そういう感じは受けなかった。陰気な内容ではあったんだが、ここ2、3年、強制収容所だとか大量虐殺だとか自爆テロだとか少年兵だとか優生学だとかそんな資料ばっかり読んできて、ずっとグロッキー状態で、それが先生の講義のお陰を聞くと、どうにか受け止められる(「物語」に落とすのではない形で)ような気になれるので。気のせいに過ぎないかもしれないけど。

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