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魂の所在

 結合性双生児を洗礼させる時、何人と見做せばいいのか――聖職者たちの積年の疑問を解決したのは、トマス・アクィナスである。「心臓と頭の両方の数」で決まる。もっとも、頭はともかく心臓の数の確認は難しいわけだが。

『ヒトの変異――人体の遺伝的多様性について』(アルマン・マリー・ルロワ、みすず書房、原著は2003年刊)は動物、特にヒトの肉体に現れる変異について、発生生物学の見地から書かれた読み物である。一方で、「奇形」とされる症例の蒐集と研究の歴史についても詳しく述べられている。

 結合性双生児の原因は胚の「不完全な分裂」である、という説が一般的で、医学書でもそう説明されているが、それだけでは説明がつかないことも多いという。一方の身体から片割れの身体の一部が「生えている」状態の結合性双生児や、奇形腫(ピノコですな)なんかはそう。
 片割れから「生えている」部分があまりに不完全な場合は、「パラサイト」とも呼ばれる。

「1982年、頭の右側にパラサイトの頭がしっかりついた35歳の中国人男性が報告された。この頭には、小さな脳、二つの弱々しい眼、二本の眉、一つの鼻、十二本の歯、一つの舌、ふさふさした髪がついていた。本体の頭が唇をすぼめたり、舌を突き出したり、まばたきしたりすると、パラサイトも同じことをする。本体の頭が食事をすると、パラサイトはよだれを垂らす。神経外科医たちは、このパラサイトの頭を除去した。」

 記憶に誤りがなければ大学一回生だった91年、私は大学図書館で人体の障害について書かれた一冊の本を読んだ。ほかの症例はもはや忘却の彼方だが、「もう一つの小さな頭」を持つ中国人男性の症例だけは非常に強烈な印象を焼き付けられた。それから十年以上も経って、その本を探そうとしたのだが、タイトルは憶えておらず、91年に大学図書館で読んだ、という記憶も曖昧で、結局見つけることができなかった。
 その症例が、上記の『ヒトの変異』中の報告と同一であると見て間違いあるまい。十数年前に読んだ報告は、この男性についてもう少し詳しく書かれており、私が激しい衝撃を受けたのはその部分である。

 彼が30代になるまで除去手術を受けなかったのは、辺鄙な村の出身だからだった。都市の病院で受けた手術が成功し、医者に「気分はどうか」と問われると、「大変よい。村に帰って結婚する」と答えた(つまり、これから結婚相手を探すのである)。

 当時私は大学一回生かそこらで、そして高校時代には萩尾望都の「半神」で衝撃を受け、かつ深く感動していたのである。あの16頁で描かれた愛と憎しみ、魂の所在と行方、といった深奥かつ繊細な苦悩をぶっ飛ばす即物性! 「村に帰って結婚する」。いくら彼の場合は、片割れに意思はなさそうだからって……いや、「半神」は傑作です。傑作ですが。

 なんというか、この時受けた衝撃はある意味「半神」を超えていた。もちろん、この衝撃は「唖然とした」「呆気にとられた」という類のものであって、感動などではないが。右側頭部を殴られて、その余韻でまだフラフラしてたところを、左側頭部に回し蹴りを喰らって引っ繰り返った感じ。「……はい!?」というか「えええええええ!?」みたいな。

 この中国人男性の症例が、『グアルディア』のあるキャラクターの(というか、その「身の上話」の)モデルである。いや、こんなところで巡り合うとはね。

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マキリップ2本

『チェンジリング・シー』(小学館ルルル文庫)、『ホアズブレスの龍追い人』(創元推理文庫)。

 マキリップの新刊が2冊も、日を置かずして刊行される(原著はどっちもかなり前だが)という、ファンにとってみれば信じ難い事態。あまりに信じ難いので、嬉しいというよりは、「ほな、次は当分先になるんだろうな……」とか構えてしまう。しかし、来年早々にも長編が一冊出るらしい。いったい何が起きてるんだ。

 それはともかく、『チェンジリング・シー』は590円+税、『ホアズブレスの龍追い人』は1100円+税。どちらも値段に見合った内容でした。
 こういう理由から異世界ファンタジーは苦手なんだが、『チェンジリング・シー』くらいのこじんまりとした小品なら、世界設定がなんたらとかはあんまり気にせずに済む。原著はジュヴナイルらしいな。暗い古城の一室で、古びたタペストリーに燭火を翳すと、豊かな色彩とともに物語が浮かび上がる――或いは荒野の岩陰に咲き乱れる小さな花々、といったマキリップ特有の地味だけど美しい世界が、ジュヴナイルなりに楽しめます。話もすっきりまとまってるしな。ただし、そういう「マキリップらしさ」にレセプターを持っていない人も楽しめるかどうかは知らん。

『チェンジリング・シー』くらいの長さとまとまり具合だと、鑑賞対象となるのは雰囲気とか情景描写で、物語はその外枠として機能してりゃいい、ってなもんだが、『影のオンブリア』や『オドの魔法学校』くらいの長さ、広がりになると、物語の展開に物足りなさを感じる……鑑賞対象が物語なのかイメージなのか、分かれ目はやっぱり長さということになるんだろうか。そしてあんまり長くなると、世界設定に対して「不信の停止」が必要になってくるしな。『イルスの竪琴』くらいの長さが、物語を楽しむにはちょうどいいのかな。でもあれは、「マキリップらしさ」すなわちイメージの多彩さでもってるところがあるからな。それがない作品だと、もっと早く飽きがくるかも。

 SFについては、求めてるのは物語ではなくてイメージやアイディアであり、だから短編のほうが好きなんだという自覚は前からあったんだが(自分は完全に長編型なのにな……)、どうやら異世界ファンタジーに対しても、求めているのは物語ではなかったらしい。この場合、アイディアは特に問題ではなくて、イメージ、特に「異世界の光景」なんだな。
 と気づくのが遅かったのは、異世界ファンタジーの短編ってあんまり読んだことなかったからだな。長編の外伝とか、或いは「異世界ファンタジー」とは特に認識せずに読んだりとか(山尾悠子とか佐藤哲也氏の『異国伝』とか)。

 というわけで15の短編が収録されている『ホアズブレスの龍追い人』もまた、値段に見合った買い物だったのでした。異世界ファンタジーじゃないのも何篇かあるけど。点描というか、大きな物語から切り出してきた一片というか、イマジネーションが喚起されて、断片じゃなくて全体像を知りたくなる物語ばかりだけど、いや、これで我慢しておくのがいいんだろうな……

 ところで『チェンジリング・シー』のキール王子の、人間界と海という二つの世界に引き裂かれた人物像、というのは『イルスの竪琴』のイロンの延長かな、とか思ったのでした。

『イルスの竪琴』感想

『バジリスクの魔法の歌』感想

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佐藤亜紀明治大学特別講義Ⅳ-2

「歴史とは何かと」と問うた時、答えは二つある。第一の答えが、為されたことの総体としての歴史である。意味づけはされない、剥き出しの「事」自体。しかしおそらく、我々はそのようなものを認識できない(なぜなら、人間は何かに意味づけせずにはいられないからである)。

 第二の答え、第二の歴史は、「事」自体を、ある文脈に沿って切り出し、並べ直したものである。これが一般に言うところの歴史である。
「文脈」とはすなわち、何も意味を持たないものに意味を与える。つまり、どんな意味でも捏造してしまえるということである。

「歴史とは物語に過ぎない」というのは、まるっきり間違いとは言えないが、短絡的な言説である。何しろ過去のできごとだから、「事実か否か」を証明できないことのほうが多い。しかし、「かなり事実」か否か、というのは検証できる。最近では、この実証の手順を平気で無視する研究者が多い。なるほど、下手に「歴史は物語である」と発言すると、そういう輩と同類だと思われる可能性があるのか。気をつけよう。

 では、絶対に「歴史は物語ではない」のか。
「文脈」を与えるということは、物語化であるとは言える。そして、トラウマを言葉にする時、物語化によって合理化し、「鎮める」という行動もある。それが嵩じると、ある種の健忘症が起こることもある。

 雑居して共存してきた者たちを、グループ分けして境界線を引くと、それまでどれだけうまくいっていたにもかかわらず、必ず争いが起こる。イギリス人は、そのことをカトリックとプロテスタントの争いから、いやというほど知っていたはずなのに、『指輪物語』のような作品が書かれ、人気を博したりする。別々の種族が、文化も血統も交えることなく別々の状態のまま共存できるはずがないのである。
 一例が、ルワンダのツチ族とフツ族である。平和に住んでいた人々のところに、ベルギー人がやってきて、背の高い人々と低い人々を分けた。「エルフ」と「ドワーフ」に分けたのである。しかも背の高いほうを「高貴」であるとした。その結果が、あの大虐殺である。
 同じ事をアメリカ人もやっていて、冷戦後に「民族自決」とか言い出したから、今こんなことになっている。

 そもそも、一つの国家に一つの文化、ときれいに区分けできるものではない。例えばウクライナ独立後、同国のイディッシュ文学の研究が困難になった。国内の「非ウクライナ文学」を「なかったこと」にしたい動向があるようである。さらには、ウクライナ出身のロシア文学者をどう扱うか、という問題もでてきている。

 上記の「第二の歴史」の一傾向として、歴史を「自分たちで運命を定めることのできる目覚めた人間たち」のもの、とする史観がある。全体主義的歴史がまさにそれで、人間は自分の運命を切り開いてきた、とするのである。ここでは、虐殺された人々を完全に切り捨てている。

 ユダヤ人が大量虐殺されたことは、よく知られている。それは彼らがその歴史を語るからである。彼らはその受難をどうにか意味づけしようと努力してきた。語ったり、国を建てたりするのが、その努力の一環である。
 収容所を生き延びた人たちの中には、ものすごくポジティヴな思考の持ち主がいる。当時のことを尋ねると、「あれは私の人生に於いて、非常に貴重な体験でした」などと言う。そんなふうに「物語化」することができるから、収容所もその後も生き延びられてきたのである。ポジティヴな物語化ができない人は、収容所を生き延びられないか、もしくはせっかく生き延びられたのに、その後自殺してしまったりする。

 他人からすると、あまりにもポジティヴすぎて却って深淵を覗いてしまったような、空恐ろしさすら感じる「物語」なのであるが、本人たちの生存には必須なのである。民族としてのユダヤ人たちも、受難がイスラエル建国へと昇華される物語を必要としたのだろう。これも他者からすると無理のある物語で、だから実際面倒なことになっている。

 ユダヤ人と同様に大量虐殺されたが、あまり知られていない民族に、ロマがいる。知られていないのは、彼らが語らないからである。そんな彼らに、「なぜあんなことが起きたと思うか」と尋ねると、「運が悪かったから」という答えが返ってきたという。

 彼らは、「第二の歴史」を語らない。身を守るための物語を持っていないし、必要ともしていないらしい。そうして、「世界の絶対的怪異性」をまともに受け止め、「運が悪かったから」としか言いようがないのだろう。そんな状態で、彼らは生きている。

 今回、冒頭に先生が「陰気な話」と言わはったが、そういう感じは受けなかった。陰気な内容ではあったんだが、ここ2、3年、強制収容所だとか大量虐殺だとか自爆テロだとか少年兵だとか優生学だとかそんな資料ばっかり読んできて、ずっとグロッキー状態で、それが先生の講義のお陰を聞くと、どうにか受け止められる(「物語」に落とすのではない形で)ような気になれるので。気のせいに過ぎないかもしれないけど。

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佐藤亜紀明治大学特別講義Ⅳ-1

 今回も『地中海』に関する話題には至らず。せっかく読んだ内容を忘れてしまいそうだ……

 お話は「世界の絶対的怪異性」について。我々が慣れ親しんでいる世界は、我々と関連を持っている世界である。つまりなんらかの法則にしたがって運行し、その規則を守っていれば幸せになれるし、規則を破れば不幸になる、といった因果応報の原理が働いている世界だ。
 しかしそうした自分と世界との因果関係など実は存在しないことが、明らかになる瞬間がある。世界と我々の間の「絶縁状態」が明らかになる。その時垣間見える「我々にとって他者である世界」が、「世界の絶対的怪異性」である。「カフカ的」とも言える。

 稀に、多くの人間が同時にそれを体験することがある。9.11は、その一例である。あれは、あまりにも馬鹿馬鹿しくて笑える光景。「笑える」ということが認められない人たちは、「非現実的」という表現を使う。
「ハリウッド的」という表現もあったが、あんな杜撰な光景はハリウッド映画にはないわけで、映画を観ていない(本数を観ていないか、中身をきちんと観ていない)ことを露呈する発言である。
 それはさておき、「非現実的」とはどういうことか、というと、実はあまりにも「現実」であるため、それを認めるのを拒む、一種の防衛反応として「非現実的」に見えるのである。

 我々は、世界の絶対的怪異性を「飼い慣らす」ため、努力し続けている。

「falling man」という映画がある。監督はイギリス人。9.11で、ビルが倒壊する前に、発生した火災に追われて窓から飛び降りた人たちが少なからずいた。その落下する人々を撮影した写真がある。ドキュメンタリーであるからには起承転結がなければならないから、「落下した人々を特定し、遺族に取材する」という構成になっている。

 手始めに当局に問い合わせたところ、「飛び降りた人などいません」という返答だった。仕方がないので独自に調査し、遺族に連絡をしたところ、皆一様に怒りとともに取材を拒否する。どうにか一人だけ取材に漕ぎ付けると、写真を見て言うのが「きっと覚悟の上で、心安らかに死んでいったのね」。

「飛び降りた人などいない」も、怒りとともに取材を拒否するのも、勝手に「お話」を作って勝手に心安らかになるのも、すべて事実否認の反応である。人間は、この世界がコントロール不能なのだという事実を突き付けられた時、それを否定するものである。
 破綻した世界に、もう一度「文脈」を与え、元通り安心できる場所にしようとするのである。「フィクションによる癒し」も、その一つである。現実を「お話」に仕立て上げて、それにそぐわない部分には目を瞑るのである。

 何がしかの災厄に襲われた共同体が、「悪魔祓い」をするのもまた「物語化」であると言える。しかしあまりにも災厄が大きすぎて、物語化が不可能なこともある。例えば広島・長崎には、どんな因果応報も見出せない。国民総動員の状態の国家には「非戦闘員」は存在しない、という理屈が成立し得たとしても、広島・長崎が「当然の報い」という物語は成立し得ない。しかし、人間の剥き出しの残虐と差別を直視しては生きていけない。そのギリギリのところでかろうじて成立する物語が「あやまちは二度と繰り返しません」という碑文である。

 人類の歴史とは、トラウマ的状況の積み重ねであり、世界の絶対的怪異性を突き付けられる繰り返しであったと言える。

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