マキリップ2本

『チェンジリング・シー』(小学館ルルル文庫)、『ホアズブレスの龍追い人』(創元推理文庫)。

 マキリップの新刊が2冊も、日を置かずして刊行される(原著はどっちもかなり前だが)という、ファンにとってみれば信じ難い事態。あまりに信じ難いので、嬉しいというよりは、「ほな、次は当分先になるんだろうな……」とか構えてしまう。しかし、来年早々にも長編が一冊出るらしい。いったい何が起きてるんだ。

 それはともかく、『チェンジリング・シー』は590円+税、『ホアズブレスの龍追い人』は1100円+税。どちらも値段に見合った内容でした。
 こういう理由から異世界ファンタジーは苦手なんだが、『チェンジリング・シー』くらいのこじんまりとした小品なら、世界設定がなんたらとかはあんまり気にせずに済む。原著はジュヴナイルらしいな。暗い古城の一室で、古びたタペストリーに燭火を翳すと、豊かな色彩とともに物語が浮かび上がる――或いは荒野の岩陰に咲き乱れる小さな花々、といったマキリップ特有の地味だけど美しい世界が、ジュヴナイルなりに楽しめます。話もすっきりまとまってるしな。ただし、そういう「マキリップらしさ」にレセプターを持っていない人も楽しめるかどうかは知らん。

『チェンジリング・シー』くらいの長さとまとまり具合だと、鑑賞対象となるのは雰囲気とか情景描写で、物語はその外枠として機能してりゃいい、ってなもんだが、『影のオンブリア』や『オドの魔法学校』くらいの長さ、広がりになると、物語の展開に物足りなさを感じる……鑑賞対象が物語なのかイメージなのか、分かれ目はやっぱり長さということになるんだろうか。そしてあんまり長くなると、世界設定に対して「不信の停止」が必要になってくるしな。『イルスの竪琴』くらいの長さが、物語を楽しむにはちょうどいいのかな。でもあれは、「マキリップらしさ」すなわちイメージの多彩さでもってるところがあるからな。それがない作品だと、もっと早く飽きがくるかも。

 SFについては、求めてるのは物語ではなくてイメージやアイディアであり、だから短編のほうが好きなんだという自覚は前からあったんだが(自分は完全に長編型なのにな……)、どうやら異世界ファンタジーに対しても、求めているのは物語ではなかったらしい。この場合、アイディアは特に問題ではなくて、イメージ、特に「異世界の光景」なんだな。
 と気づくのが遅かったのは、異世界ファンタジーの短編ってあんまり読んだことなかったからだな。長編の外伝とか、或いは「異世界ファンタジー」とは特に認識せずに読んだりとか(山尾悠子とか佐藤哲也氏の『異国伝』とか)。

 というわけで15の短編が収録されている『ホアズブレスの龍追い人』もまた、値段に見合った買い物だったのでした。異世界ファンタジーじゃないのも何篇かあるけど。点描というか、大きな物語から切り出してきた一片というか、イマジネーションが喚起されて、断片じゃなくて全体像を知りたくなる物語ばかりだけど、いや、これで我慢しておくのがいいんだろうな……

 ところで『チェンジリング・シー』のキール王子の、人間界と海という二つの世界に引き裂かれた人物像、というのは『イルスの竪琴』のイロンの延長かな、とか思ったのでした。

『イルスの竪琴』感想

『バジリスクの魔法の歌』感想

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迷子の警察音楽隊

 イスラエル映画。一応ネタばれ注意。

 1990年代(と思われる)、エジプトの警察音楽隊が文化交流のためイスラエルに派遣される。空港に着いてみると、出迎えが来ていない。隊長のトゥフィーク以下、ヘブライ語は一言も話せない。トゥフィークは文化センターに英語で電話を掛けてみるのだが、あまりにも訛りが強すぎて英語だと判ってもらえず、切られてしまう。
 団員たちは大使館に連絡を取ることを提案するが、トゥフィークは自力で目的地の文化センターに行くことを決意。どうやら警察音楽隊は解散させられる瀬戸際にあり、トゥフィークとしては他人に極力頼りたくないらしい。

 トゥフィークは若いカーレドに命じて、文化センターのあるペタハ・ティクバまでの切符を買わせる。ところで、アラビア語はpの発音が無いから外国語のpはbに置き換えられる(例えばペテロは「ブトルス」になる)、とものの本には書いてあるが、少なくともエジプト方言ではpが無いというより、pとbの区別が無いみたいだな。音を聞き分けられないだけじゃなくて、発話でも区別してない。日本人が中国語の有気音と無気音を区別できないのと同じか。
 だからカーレドが「ペタハ・ティクバ」と言うのを、チケット売り場の職員は「ベイト・ティクバ?」と訊き返し、カーレドは「そう、ペタハ・ティクバ」。そして一行が到着したのは、荒野の町ベイト・ティクバだった。カーレドの責任だ、と激怒するトゥフィーク。

 楽器を担ぎ(もしくは引き摺り)、とぼとぼとバス停へ戻る水色の制服の警察音楽隊。しかし翌日までバスはなく、ホテルもない町で一晩過ごすことになる。食堂の女主人ディナは、親切にも彼らに宿を提供してくれる。総勢八人の隊員のうち、三人が食堂に、二人がディナのアパートに、三人が食堂の「客」イツィクの家に。

 ベイト・ティクバは町といっても荒野のど真ん中にぽつんと建つ団地群で、公園に樹木の一本も植えられていない、死んだような場所である。そこへ迷い込んできた「異人」たち……という発端から期待されるようなドラマは、何も起こらない。

 イツィクが妻の誕生日だというのに、ディナの要請を断れなかったのは、彼が一年も失業中で、毎日食堂に入り浸っているからである。押しかけてきた客に、家族は当然いい顔はしない。それでも双方、なんとか交流を試みるも、どこまでもぎこちない。男たちが皆で「サマータイム・ブルース」を口ずさんだり、隊員の一人が演奏を披露したりするのだが、そこから先がまったく盛り上がらない。単発なのである。まあ「冷戦中」のイスラエルとエジプトとで、そんなに都合よく「心温まる交流」が生まれるはずもないのだが。

 しかしディナは一人、ドラマチックな展開を期待していたのであった。同じ町に住む男と結婚して離婚し、前夫は別の女と結婚してまだ同じ町に住んでいる。それでも別の場所へ移り住むこともできない人生に、突如として異国の男たちが飛び込んでくる。しかもエジプト人である。彼女の娘時代、TVでは毎週エジプト映画の時間があったのだ。どうやらエジプト映画はやたらとドラマチックで異国情緒たっぷりであり(主演はオマー・シャリフ)、イスラエルで絶大な人気を博していたらしい。

 そんなドラマを期待して、彼女はトゥフィークにあからさまな誘いを掛ける。若くて二枚目のカーレドではなく、初老のトゥフィークを狙ったのは、美人だが中年の自分に自信がなかったからだろう。しかしトゥフィークはあくまで堅苦しく、礼儀正しい。
 それでも少しずつ二人は打ち解けるのだが、食事の後、トゥフィークはディナに、息子と妻の死に責任を感じていることを告白する。つまり、彼女の誘いには乗れない、と告げるのである。

 ドラマチックな展開は起こらない。「交流」らしい交流も生まれない。それでも、この「接触」によって、双方に変化は生じるである。食堂従業員の青年はカーレドのアドヴァイス(言葉によらない)によって女の子の扱い方を学び、反目していたトゥフィークとカーレドは共にチェット・ベイカーのファンであることを発見し、二十年間も協奏曲を完成できずにいるクラリネット奏者はイツィクのアドヴァイスでほんの少し作曲を進めることができる。

 難を言うなら、食堂に泊まった三人に、ほとんどスポットが当てられなかったので、多少バランスが悪い。一人ひとりの「人間ドラマ」は別にいらんけど、ただバランスの問題として。

 この警察音楽隊のレパートリーは、「伝統的なアラブ音楽」なのであった。しかし民族楽器はカーヌーンぽい弦楽器(しかし伝統的なカーヌーンよりかなり小さく、装飾もない)くらいで、ほかはヴァイオリンにクラリネットやトランペット、チェロなどまったくの西洋楽器である(打楽器はどうだったけな)。トルコの軍楽みたいな折衷っぽいアレンジをしているのかと思ったが、これが「伝統的なアラブ音楽」なのであった。なかなか興味深かったんだけど、演奏シーンはとても短くて、これもまた残念。

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大琳派展

 東京上野。なんじゃこりゃっていうくらい混んでいる。いや、観に来たくて観に来てる人ばっかりだから、いいんだけどね。開催期間が短いのも、仕方ないことだし。しかしあれだけ混んでると、やはり作品よりも人混みの印象ばかりが残ってしまうのであった。

 一番観たかった光琳の燕子花図屏風の公開が、知らぬうちに終わっていてものすごくがっかりする。酒井抱一の燕子花図もあったけど、うぬー、劣化コピーとまでは言わんけどさ……
 先代の作品を模倣しつつ独自のアレンジを加える、という作法をよく示したのが、宗達、光琳、抱一、鈴木其一の「風神雷神図」。光琳は忠実な模写なので、描線に勢いがない。抱一はコミカルにアレンジし、其一まで行くと洗練の域まで達してるわけだが、やっぱりオリジナルが一番いいのでありました。

 偶々小耳に挟んだ女性客二人組の「フェルメール展に比べたら、これでもまだ空いてる」という言葉に、暗澹とした気分になる。

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ブーリン家の姉妹

 ナタリー・ポートマンとスカーレット・ヨハンソンは、どっちもスタイルがあまり良くないから、こういうゴテっとした衣装のほうが似合うよな。

 夏以来、どうにも映画館まで映画を観に行く気力が沸かないのだが、先日、ヘンリー八世梅毒説を検証した本を読んだためか、なんとなく観に行って参りました。
 この『歴史を変えた病』という本、著者のフレデリック・フォックス・カートライトはイギリス人で日本語訳こそ96年刊行だけど、原著が出たのはその20年も前である。どうも当時のイギリスでは、ヘンリー八世梅毒説は否定される傾向にあったらしい(現在は知らん)。で、著者は「限りなく黒に近い灰色」として断定を避けた上で、6人の王妃たちの流産、死産、子供の早世の多さを挙げ、「彼が罹っていた病気(一つではなかった)がなんだったのかということより、健康な子供を儲けられなかったということが、その後の歴史に及ぼした影響は大きい」と結論している。

 ナタリー・ポートマンは、下手ではないと思うんだが、激情の表現がかなり単調だ。単純に叫んだり泣いたりするだけでもそうだから、表面的には平静だけどその下から押し殺した激情が透けて見える、なんてのは言わずもがな。つまり演技の幅が狭いんだよな。『V フォー・ヴェンデッタ』に比べれば、今回はまだましだったけど。

 ポートマンが演じたアン・ブーリンは、作中では男勝りで野心家の女として描かれる。頭がよくて美人だけど、他人の心理(特に男の)がよく解ってないので、「王にいいところを見せろ」という父親の言い付けに頑張って応えようとして、乗馬の技術で王を負かした上に怪我までさせてしまう。
 それじゃ駄目だ、ということを学んで、「女の手練手管」を身に着けるんだけど(頭はいいので、そういう技術もすぐ習得する)、結局表面的なものに過ぎず、根本的な部分は変わっていないので、せっかく勝ち取った王妃の座を維持できずに転落する。

 最初の失敗の後、王の関心を引くところまでと、王妃の座を手に入れた後の絵に描いたような転落振りはいいんだけどね。王妃との離婚まで漕ぎ着けさせたほど王を魅了し続けた、という点に説得力がない。そこまで魅力的に見えないのである。もっともこれはポートマン一人の問題じゃなくて、脚本や演出、エリック・バナの演技にも難があったのかもしらんけどさ。

 それにしても、『レオン』の奇跡的なまでの魅力は、ほんとにあれ限定だったんだなあ。12、3歳という年齢の極めて限定的な魅力に、リュック・ベッソンという極めて限定的な才能が出会ったからこそ最大限に引き出された、まさに奇跡的な魅力とゆーか。

 ヨハンソンは巧いとは思うんだが、なんかなんでもそつなくこなしちゃってる感じで、観ていてあまり興味が惹かれない。

 エリック・バナの出演作は『トロイ』と『ミュンヘン』と、後は印象に残っていない『ブラックホーク・ダウン』(あれは作品そのもののインパクトに比べて、どの俳優の印象も異様に薄いんだが)にあまりのひどさに最初の15分で挫折した『ハルク』しか観たことがない。
『トロイ』と『ミュンヘン』ではどっちも「真面目な苦労人」という役柄が嵌まっていたが、今回は絶対君主ヘンリー八世である。彼が登場する映画っていうと、『わが命つきるとも』しか観たことない。ロバート・ショウのヘンリー八世と比べたら、エリック・バナはどうしたって分が悪いよな。

 絶対君主や独裁者は、個人ではなく「気象現象」として描いたほうがいい、と思う。実際にそう見做されたか、というのは大して問題ではない。少なくとも、一個の人間と同じく気紛れだが、その影響力は一個の人間(普通の意味での)より遥かに甚大、という点では正しかろう。「現象」として余さず描けばいいのである。下手に「一個の人間として」描こうとすれば、ステレオタイプと同じくらい安っぽくなるだけだ。
 あの物凄い肩パッド入りの衣装をまともに着こなせる、という点に於いては、エリック・バナはミスキャストじゃなかったけどさ。

 キャサリン王妃役はアナ・トレントでした。『ミツバチのささやき』のアナ・トレントだよ。34年も経ってるんだけど、面影がちゃんと残ってる。特に目の辺り。作中でしばしば「善良な」と形容されるとおり近寄りがたさはないのに、気品に満ちた王妃を演じていた。2歳年下でしかないエリック・バナが完全に貫禄負けしてる。てゆうか、エリック・バナに重量感がなさすぎるのか。

 姉妹の母方の叔父役のデヴィッド・モリッシー。最初っから姪を王に差し出そうと目論んでたんだが、義兄が自分の意思で決定したと思い込ませるのである。酷薄そうな目が、ちょっとピーター・サースガードに似ている。

『ブラックスワン』感想

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デイウォッチ

 原作は『ナイトウォッチ』しか読んでないんだが、エピソードはそっちから主に採ってるようだな。
 やろうとしてること、言わんとしてることは解んねんけど、もう少し簡潔に表現できないものか。「すごくてかっこいい表現」をひたすら追求した結果、悪い意味でアホっぽくなってしまう、というのはワイヤーアクションとCGを多用した近年の中国映画に通じるものがある。もっとも『デイ・ウォッチ』の場合は、「いい意味でのアホっぽさ」へと向いている部分もある。ところどころ微妙だが。悪い意味でのアホっぽさへ完全に振り切れているのが中国映画。

 この差は、己を顧みることができるかどうか、に掛かっているだろう。『デイ・ウォッチ』のスタッフは、アホなことをやってるという自覚が、多少なりともある。
 それにしても何につけてもゴテゴテしく、そして全般に大味なのは、ソ連時代というよりロマノフ朝時代から変わってないんだなあ。そこにアジアン・テイストが加わっているのは、監督が中央アジアの人だからなのか。

 前作の成功のお蔭か、役者たちが全般に垢抜けていた。特にヒロイン役の女優がきれいになってたんで驚いた。イゴール役の少年は、前作と同じだね。2年しか経ってないのに、白人の子供って成長が早いなあ。
 それにしても雪が降ってるのに屋内ではタンクトップと短パンで過ごしたり、おねーさんたちがミニスカートにハイヒールで雪道を闊歩したりしてたんだが、モスクワではあれが普通なんだろうか。

 DVDの特典映像では、「中身が男になった」女を演じた女優のインタビューがおもしろかったけど、ほかに「城壁を突き破る騎兵」のシーンを撮るために、箱を積んだ壁を突き破る訓練をされた馬の話が、なんとなくツボでした。

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ジョットとその遺産展

 損保ジャパン東郷青児美術館。ジョット・ディ・ボンドーネ(1267頃‐1337)本人の作品はテンペラ画二点とフレスコ画、ステンドグラスが各一点の計四点だけだったっけな。後は弟子たちの作品や彼に影響を受けたルネサンス初期の画家まで。
 規模の小さい展覧会だったので、客数もそれなり。エレベーターの前で、年配の修道女二人と行き違いました。なるほど、そういう客層もありか。

 この時代の西洋絵画を観るのは初めて。作品ごとの保存状態の違いがかなり大きい。
 サン・フランチェスコ大聖堂やスクロヴェーニ礼拝堂の壁画は、持って来るわけにいかんので写真のパネルが展示されていたが、これらの写真はかなり鮮明で悪くなかった。スクロヴェーニ礼拝堂にはラピスラズリの青顔料が大量に使われている。当時のイタリアがそれだけ豊かだったということである。

 ジョットもその弟子たちも、作品は絵それ自体がメインではなく、あくまでほかの何かを飾る役割しか持っていない。ほかの何かというのは、もちろんキリスト教に関係した建築や小道具だ。祭壇画でいえば、祭壇の形状とか枠の装飾とかと一体になって、初めて一個の作品となっているわけだ。絵本体でも、金箔部分に微細な線刻がびっしり施されてたりして工芸的だ。
 建物や風景は画面に小さく押し込まれていて、なんとなく絵本っぽい。子供の頃読んだ絵本の挿絵って、今思い返してみると初期ルネサンス以前か20世紀絵画の影響を受けたものが多かった気がする。
 ジョットの「革新的な表現」も、人物の個性を表すところまでは行ってないんだが、イエス誕生の場面の父ヨセフだけは、憮然とした様子なのがおもしろい。
 タッデオ・ガッディをはじめとする弟子たちの作品では、表現がさらに多様になってくるんだが、1340年代のペスト禍以降は再び硬直した画風が支配的になってしまう。

 1380年代になるとジョットの画風が復権し、ルネサンスの開始ということになる。一番最後はマゾリーノ・ダ・パニカーレ(1383‐1447)。

 しばらくブログの更新がやや間遠になるかと思います。あんまり時間がなくなってきた、というとまるで今まで暇だったみたいだから、そういうことは言わない。

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ククーシュカ

 サブタイトルはスルー。フィンランドがナチス・ドイツと組んでソ連と戦っていたラップランド戦争(1944-45)の最中。夫を軍に連れて行かれ、一人で暮らしている先住民女性の許へ、フィンランド人とソ連人の兵士が転がり込む。彼らは互いにまったく言葉が通じない。

 兵士二人は、どちらも主人公足りうる資質を備えている。ソ連兵はメランコリックな性格の中年で、タクシー運転手の息子だが、詩を書いたりするインテリで、階級は大尉だが肺(たぶん)を病んでおり、離婚暦も含めて女にはふられてばかりで、若造の中尉がでっち上げた罪状により逮捕され、人生に絶望しきっている。連行される途中で車が自軍の飛行機に誤爆され、先住民女性アンニに救出される。悲劇的でロシア的な主人公の条件を満たしていると言える。

 一方、フィンランドの若い兵士は、ノルウェーの大学に在籍していた平和主義者で、徴兵されたものの非協力的なので、制裁として岩に鎖で繋がれ置き去りにされる。その際、御丁寧にもナチの軍服を着せられる。ソ連軍はフィンランド兵の投降は受け入れるが、ドイツ兵は問答無用で撃ち殺すらしい。
 ただし仲間たちは狙撃銃と銃弾数発、若干の水と食糧を置いていってくれたので、彼は絶望に沈むことなく、早速自力救済に取り掛かる。眼鏡のレンズを外して松脂で貼り合わせ、隙間に水を入れた即席の発火装置で植物を燃やし、鎖を繋ぐ鉄の杭を打ち込んだ岩を熱する。そこへ水を掛けると、岩が薄く板状に割れる。その作業を丸一昼夜、根気よく繰り返し、最後には銃弾の火薬も使って、杭を抜くのに成功する。
 鎖を足から外す道具を借りるため、偶々見つけたアンニの家に立ち寄り、件のソ連兵と鉢合わせになる。敵意を剥き出しにするソ連兵(軍服のせいでドイツ兵だと思っているので)にナイフで切り掛かられても遣り返したりせず、トルストイやドストエフスキーを引用して友好を説き、本で読んだだけの知識で(岩を割った遣り方もそうなのであろう)、立派にサウナをこしらえる。人徳と知性と実行力とを兼ね備えた、申し分ないヒーロー像である。

 どちらか一人だけがアンニと出会う物語だったら、「文明の男」と「野生の女」の正統的な上にも正統的なラブロマンスが成立しただろう。言葉が通じないというのは、この場合まったく問題にならない。それが言葉の通じない男がもう一人増えた途端、間抜けな上にも間抜けな状況が出現するのである。

 アンニは小柄な可愛らしい女性で、とにかくよく働く。フィンランド兵は、乏しいはずのアンニの蓄えを心配したりするものの、サウナを造るのに彼女の貴重なドラム缶を使ってしまい、怒られているのにも気づかず得意満面である。仕事を手伝おうとするのはいいが、彼女が苦労して運んだ丸太をどこかへ持っていってしまったりと、役に立たないこと甚だしい。
 ソ連兵はというと毒茸を大量に採ってきて(ロシア人は茸が大好物なのだそうだ)、アンニの制止を聞かずに、というか制止だと気づきもせずに食べてしまう。アンニが作ってくれた解毒剤が効いて腹を下し、自分が危ない目に遭ったことも気づかないまま、彼女が憎きナチ野郎といい仲になっていることと自らの人生を果てしなく嘆き悲しむ。これってロシア制作だから、セルフ・パロディだよな。

 男が二人に増えたことによって引き起こされた間抜けな事態もあるにはあるが、むしろ二人に増えたことで状況が相対化され、「文明の男」の無能振りが顕在したと言える。
 だからつまり、『ダンス・ウィズ・ウルブス』とか、未見だけと『ポカホンタス』(『ニュー・ワールド』も)とかも、よりリアルに表現すればこんな感じだったってことだろうね。

『収容所群島』によると、フィンランド帰りの兵士たちの多くが収容所送りにされたそうだから、フィクションとはいえソ連兵イヴァンのその後が気に掛かるところである。

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ジョン・エヴァレット・ミレイ展

 観たい映画はあるのに映画館まで行く気が一向に起きないのは、夏の暑さのせいだと思っていたんだが、涼しくなったというのに気が向かないままである。
 しかし展覧会には足を運ぶのであった。その理由が、「動くものより動かないものを観たい」というあたり、やはりいろいろと疲れているのだろうか。長時間歩き回る展覧会のほうが、少なくとも体力は遥かに要するはずなんだけどね。

 というわけで、「オフィーリア」のミレイ(1829~1896)。文化村ザ・ミュージアムにて。
 七部構成で、第一部はラファエル前派時代として17点。9歳頃に描いたデッサン1点も含まれるんだが、これがどうも、子供が描いたにしては異様に巧いが、妙にマンガっぽい。それも日本のマンガっぽいのである。タッチというか、特に顔のパーツの描き方に表れる描き手の癖が、マンガのいわゆる「絵柄」になっているのである。
 続いて、十代後半から二十代初め(1847~1852)の作品が展示される。うち何点かは線画であり、それらもやはりマンガっぽいタッチである。描線がすっきりしすぎているのも理由の一つだろうけれど、それだけではない。

「両親の家のキリスト」(1849)や「マリアナ」(1850)は、細部の描き込みが非常に精緻だが、写実的な精緻さとはやや違い、絵画というよりは工芸品的である。

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Millais_mariana011_2 ラファエル前派が理想としたのは、芸術と工芸の境界が曖昧な中世の芸術だから当然だが、それに加えて物語性の高さと上で言及した「マンガっぽさ」から、イラスト的でもある。まあ芸術と工芸の違いとか、さらにイラストとの違いとか言い出すと話がややこしくなるから、これ以上は突っ込まないでおくけど。

800pxsir_john_everett_millais_0031 「オフィーリア」(1851)は、上の2点に比べて工芸品的、イラスト的な要素が薄れつつある。その傾向は以後顕著になり、ミレイはラファエル前派から離脱することになる。ラファエル前派の一員としての最高傑作が離脱の先駆けとなったわけだ。

 第二部「物語と新しい風俗」は、1853~1864年までの19点。ある風刺画家と仲良くなり、非常に影響を受けたそうだが、残虐だからという理由で毛嫌いしていた狐狩りに熱中するようにまでなるってのは、影響受けすぎなんじゃあるまいか。それは線画に顕著に現れていて、(日本の)マンガ・イラスト的なすっきりしすぎた描線やプロポーションが、いかにも当時の風刺画っぽいものに変わっている。油彩は工芸品的な精緻さから、写実的な精緻さへと変わる。

 第三部以降は描かれた時期に関係なく、1850年代後半から晩年までの作品をテーマごとに。時代の趨勢で、精緻な描き込みは次第に薄れる。風俗画や肖像画は、子供は可愛く、女性は美しく描いているだけなんだが、ぱっと見、印象的ではある。長く立ち止まって眺めていたい気にさせられるのは、老いた国王衛士の肖像くらいだったけど。
 晩年の風景画は、「露に濡れたハリエニシダ」がなかなかよかった。

 ところで、ジャレト・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』の表紙に使われてる絵って、ミレイが17歳の時の「インカ国王を捕らえるピサロ」なのな。今回は出展されてないけど。

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ハウルの動く城

 姪(5歳)と一緒にTVで鑑賞。

 劇場で観た時は今ひとつだった。プロットの破綻にばかり気を取られていたためである。今回、宮崎アニメにとってプロットとは、絵と動きを見せるための方便でしかないことを改めて認識する。プロットではなく「絵・動き・音」に反応する5歳児と一緒に鑑賞したお蔭かもしれない。
 普段は夜8時半に就寝する子が、お泊りで興奮していたとはいえ、9時から2時間半、集中を途切れさすことなく観続けてたからなあ(CMの間は、私が貸したパンフレットを眺めていた)。もっとも、「『ポニョ』のほうがおもしろい」とのことだったが。
 ちなみに2、3ヶ月前に『ゲド』が放映された時は、始まって5分と経たないうちに「もういい」と言いましたよ(というわけで、私もそこから先は観ていない)。

 とにかく細部の作り込みが凄まじく素晴らしい。そこんとこが『ポニョ』では物足りなかったんだよな。行き当たりばったりの展開も、その場その場の「絵と動き」を見せるための役割は、充分に果たしている。いろいろなものがあっさりと片付いてしまう結末は、宮崎監督の「さあ、充分楽しんだからもう終わりにしよう」という声が聞こえてくるかのようだった。ほんと、充分堪能させてもらいました。一度目の鑑賞でそれができなかった私は、鑑賞者としてはまだまだ修養が足らん。

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対極――デーモンの幻想

「天山山脈」のキーワードで見つけた小説。著者は「青騎士」の一員で、版画家・素描家のアルフレート・クービン。彼の唯一の小説だそうである。挿絵も本人が手がけている。

 物語の舞台は、一人の富豪がヨーロッパから遠く離れた秘境に建設した、閉ざされた小国である。明らかに著者は、天山にも中央アジアにもまったく関心はなく、「アジアの秘境」ならどこでもよかったようだ。天山および中央アジアへの言及が非常に少ないにもかかわらず、いろいろ間違いだらけなのも、無知や怠慢以上に無関心が主たる原因だろう。天山を「ミュンヘンと同緯度」とするような間違い方からすると、確信犯的にやったとも思えない。

 どこでもよかったんだが取り合えず天山を選んだ理由は、これが発表された1908年(執筆と挿絵に掛けた期間は約4ヶ月)は、ちょうどドイツのトルファン探検隊派遣(1902~)の最中だったからだろう。報告書等は読んでなさそうだ。

 作品全体の印象は、山尾悠子を思わせた。閉鎖的な国/街を舞台にした幻想小説、というだけでなく、意外にグロテスク且つスラップスティックであることも。翻訳文をリライトするんだったら、『白い果実』よりこっちのほうが合ってると思う。

 日本語訳の初版は、1971年。訳文自体は問題があるわけではないが、前半のひたひたと迫ってくる異様さ、後半の狂騒を伝えるには少々物足りない(だから、山尾悠子の文体だったら、と思わずにはいられない)。それと、翻訳者に原著者以上の知識を常に求めるのは酷かもしれないが、だからといって原著者の無知と怠慢に翻訳者が倣っていいということはない。
 この訳者がそうだとは言わないが、とりあえず「ジョージア人」はないんじゃないの、と思うのであった。

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